壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

天の川

2010年08月16日 21時51分35秒 | Weblog
        水学も乗物貸さん天の川     桃 青 
      
 『山之井』・『増山井』には「妻迎舟(つまむかえぶね)」という季語が見え、さらに後者には「妻こし舟」・「彦星のと渡る舟」とある。また『萬葉集』・『古今集』にも、天の川を渡る舟を想像した歌があって、古くから七夕の夜に舟を考えたことがわかる。

 この句は七夕の句で、「天の川」は、牽牛・織女二星の逢瀬を妨げるものといわれている。普通の人なら「貸小袖」といって小袖を貸すところだが、水学(すいがく)は、天の川を渡るための乗物を貸すことだろうと興じているのである。

 「水学」は、水学宗甫、船に施す特殊な細工や、水からくりに妙を得た人。長崎よりその術を伝えたといわれ、江戸の文学にしばしばその名が見える。

 季語は「天の川」で秋。

    「一年に一度の逢瀬である今宵を、もし天の川があふれて越えかねる
     ようなことがあったら、水学も同情して、その巧妙な細工を施した船
     を、乗物として貸すことであろう」


      生かされて六十余年 天の川     季 己

しのぶ

2010年08月15日 20時12分44秒 | Weblog
        御廟年経てしのぶは何をしのぶ草     芭 蕉

 『野ざらし紀行』に、
        「山を昇り坂を下るに、秋の日すでに斜めになれば、名有る所々
         見残して、先づ後醍醐帝御廟(ごだいごていごびょう)を拝む」
 とあって出ている。ただし上五、異本に「御廟年を経て」とか、「御廟千とせ」とかいう句形もある。貞享元年、旅中の作。

 激しい懐古の情に迫られた口調の厳しさが感じられる。古(いにしえ)を偲ぶ思いを、眼前にはいまつわる忍草の名の縁(ゆかり)で発想したもの。さらに言えば、『後撰集』の、
        百敷(ももしき)や ふるき軒端の しのぶにも
           なほあまりある 昔なりけり  (順徳院)
 などが、心にあったものであろう。
 しかし、「しのぶは何をしのぶ草」という、口調のおもしろさは独自のものとなっている。謡曲「夕顔」に、
        「古き軒端の忍草、しのぶかたがた多き宿を」
 とあり、こうした口調からの影響があるかもしれない。

 「御廟」は、「ミベウ=みびょう」とも読まれていて、御霊屋(おたまや)のこと。ここでは後醍醐天皇の御陵、吉野山の塔尾御廟をさす。
 「しのぶ」は、山中の樹皮や岩面あるいは古い軒端などに生える、裏星(うらぼし)科の常緑のシダ植物。忍草(しのぶぐさ)ともいう。釣忍(つりしのぶ)とは別種のものである。これが季語で秋。偲ぶ意をかけている。「しのぶ草」は、前述の「しのぶ」のことをいうが、「何を」を受けて慕い思うよすがの意で使っている。

    「後醍醐天皇の御陵に詣でてみると、御廟は長い年月を経て古び、忍草が
     はいまつわっている。忍草は、古を偲ぶということにゆかりのある草で
     あるが、いったい何を思い出として偲んでいることであろう」


 ――最近、「切れ」のない句が受けているようだが、これは困りものである。
 「書は余白の美」といわれるように、書においては「間(ま)」重要視する。極端に言えば、字そのものの美しさよりも、間の美しさを尊ぶのだ。俳句における「間」が、「切れ」なのである。

        手にうけて確かめて雨 夕ざくら     稚 魚
 中七の体言止めの心憎さ、お解りいただけるであろうか。この中七の後の「間」で、人物も夕ざくらも見えてくるのだ。(‘止め’も間を表すので、‘切れ’と同様に考えている)

        冬の日の露店のうしろ通るなり     稚 魚
 「日の」の「の」の使い方、並の人だと「日に」とやりやすい。「冬の日に」とすると説明になってしまう。

        落葉掻(か)く音の一人の加はりし     稚 魚
 「音の一人の」の「の」の使い方のうまさ、絶妙である。こういう使い方のできる人を名人というのであろう。ちなみに、『一太郎』では画面上に、「修飾語の連続」という‘おせっかい’が表示され、その都度「大きなお世話」と文句を言うのだが……。

        水中に魚の目無数寒ゆるぶ     稚 魚
 「水中に魚の目無数」という写生の的確さ、水中に息づいているものの生命を写している。俳句に限らず、〈ものの生命を写したもの〉に出合うと、ふるえるほどの感動を覚える。
 そうして「寒ゆるぶ」という揺るぎない季語!

        終戦日といふ一日を人はみな     稚 魚

 中七の「を」に込められた稚魚先生の想いの深さ。このように「てにをは」が使えたら、俳句は楽しくてしようがないだろう。
 俳句のうまさは、「切れ」と「てにをは」によって決まる、と言っても過言ではなかろう。

      立ち尽くし御舟の『炎舞』終戦日     季 己

花木槿

2010年08月14日 22時20分31秒 | Weblog
          裸子の木槿の花もちたる画の賛に
        花木槿裸わらはのかざしかな     桃 青

 『新古今集』の、
        ももしきの 大宮人は いとまあれや
          桜かざして けふもくらしつ  (山部赤人)
 などを念頭において、「昔の大宮人は桜をかざしとしたものだったが」の意を裏にこめた発想だと思われる。画賛の句なので、即興的に作ったものであろう。
 『句選年考』に
        「按ずるに延宝の作なれば、細かなる毛をムクゲといへば、
         裸身にて吟じけるか」
 とあるのはあたらない。

 「かざし」は昔、髪や冠にさし、飾りとした花の枝。

 「花木槿」が季語で秋。木槿(むくげ)は、芙蓉によく似た花で、うす紫で花底の濃い色のものが多く、白やピンクもある。中国・インドを原産とするアオイ科の落葉低木で、高さは三メートルほどになる。直径五センチから十センチほどの、五弁の葵(あおい)に似た美しい花を枝先につける。
 朝に咲き、夕方にはしぼんで落ちるので、人間の栄華のはかなさをたとえた「槿花一日(きんかいちじつ)の栄え」ということわざも生まれた。白居易の
        「松樹千年終に是れ朽ち、槿花一日自ら栄を成す」
 が原典であることは言うまでもない。また、「槿花一朝の夢」ともいう。

    「この裸童子が花木槿を持った図は、そのひなびた取り合わせがしっくり
     していて、古人が桜をかざしとしたのに対して、花木槿は、里童のかざし
     にまことにふさわしい感じだ」


      母留守の供花怠らず白木槿     季 己 

魂祭

2010年08月13日 20時50分05秒 | Weblog
          加賀の国を過ぐるとて
        熊坂がゆかりやいつの魂祭     芭 蕉

 地名をその契機とした即興の句である。おそらく、謡曲「熊坂」があったので、心惹(ひ)かれたものであろう。義経に心惹かれている芭蕉が、義経とは逆に、盗賊の名を負う熊坂長範のあわれを詠み生かしたもの。魂祭がそのあわれを呼びさましている。
 『曾良書留』には、
        熊坂が其の名やいつの玉祭
 とある。これが初案と思われる。また『翁草』には、「加賀の国にて」と前書し、
        熊坂をとふ人もなし玉祭り
 の形を伝える。
 魂祭の折と考えれば、元禄二年七月十五日、金沢での作か。熊坂あたりでの作とすれば、八月初旬ごろの作。

 「熊坂」は山中から8㎞、大聖寺(だいしょうじ)に近い加賀市三木町にあり、熊坂長範の故郷であると伝えられているところ。
 熊坂長範は、平安末期の伝説的大盗賊。謡曲「熊坂」、幸若舞「烏帽子折」などによれば、美濃赤坂の宿に金売吉次を襲い、牛若丸に討たれたといわれる。
 
 季語は「魂祭」で秋。魂祭は、七月十三日の夕刻から十五日(または十六日)まで行なわれる仏事で、現在の「盆」、「盂蘭盆」のことである。地方によっては、八月十三日からというところもある。正月と並んで、一年の前後を分かつ大事な折り目にあたり、家々では、座敷や庭先などに盆棚を飾って祖霊を迎える。
 魂祭には、誰も亡き魂を迎えられて、孫や子供に弔われる。だが熊坂は、荒々しい盗賊であるだけに、誰もその営みをすることもないであろう、ということをあわれんだもの。魂祭という季語でないと、これだけの効果はとうてい生まれないところである。

    「熊坂長範の生地、熊坂をいま過ぎてゆくところだが、あの牛若丸に討たれた
     長範は、盗賊の名を負うこととて、ゆかりの者も世をはばかって、あからさま
     にはその魂祭を営むこともなく、打ち絶えていることであろう。いつの日その
     魂祭がなされることであろうか。思えば哀れなことである」


      耳とほき母が膝打つ盆供養     季 己

我を折る

2010年08月12日 22時13分41秒 | Weblog
        見るに我も折れるばかりぞ女郎花     伊賀上野 宗房(芭蕉)

 「女郎花(おみなえし)」という花の名前に、遊女を匂わせて発想したもの。このころ盛んに使った名辞による表現の一つである。『古今集』の
        名にめでて 折れるばかりぞ 女郎花
          われ落ちにきと 人に語るな (僧正遍昭)
 を踏まえたものであることは、いうまでもない。 
 貞門時代の発想は、後年のように、「対象をしっかりつかむ」というのではなく、古典の裁ち入れや、掛詞や比喩の巧みな使い方で、笑いを呼び起こすところが、中心になっているわけである。
 『続連珠』に、芭蕉ではなく、「伊賀上野 宗房」として出ているので、寛文末年の作と考える。

 「我を折る」は、現在、自分の意志を主張することをやめ、他人に従うとか、譲歩するとかの意だが、当時は、感心する、恐れ入る、または閉口するなどの意に用いられていた。

 季語は「女郎花」で秋。女郎花そのものは生かされないで、女郎という名称が契機となった発想。

    「女郎花のたおやかな風情には、美しい女の趣があって、見ていると
     ほとほと感心させられるほどで、つい手折ったまでのことである」


      人を待つことがならひに女郎花     季 己

四睡

2010年08月11日 22時46分43秒 | Weblog
        月か花か問へど四睡の鼾かな     芭 蕉

 師の井本農一先生によって紹介された、真蹟画賛にある句。これは天宥筆の「四睡の図」に賛したもの。機知にあふれた、禅味のある発想といえよう。

 「四睡(しすい)」は、画題にもとづいていったもので、禅の真理に結びついた題である。天宥筆のその図は、寒山・拾得(じっとく)・豊干(ぶかん)・虎の四者が熟睡している図柄である。
 寒山は、唐代後半ごろの詩人。禅味ゆたかな作が多く、その詩集は、芭蕉の愛読書の一つと考えられる。『虚栗(みなしぐり)』の芭蕉跋には「寒山が法粥(ほうしゅく)を啜(すす)る」ともある。拾得・豊干および虎は、寒山とかかわり深い人物および獣である。

 「月」は秋、「花」は春の季語であるが、「月花」と並記して用いられたものは、概念的な使い方であるから雑というべきであろう。

    「月か花かと、禅の真のこころを問いかけてみるが、豊干も寒山も拾得も虎と
     ともに、昏々(こんこん)と眠りこんでいて答は鼾だけである」


 ――「第8回 朱芯会」展(日本橋・高島屋6階美術画廊)へ行ってきた。相笠昌義・伊藤 彬・佐野ぬい・滝沢具幸・野村宣義・林 敬二・宮崎 進の各先生方の、熱い心を深く留めながらも清涼な作品が並んでいた。
 やはり、滝沢先生の作品がピカ一で、その場から離れられなくなってしまう。まるで金縛りにでもあったかのように。中でも、銀泥・プラチナを用いた「景ーⅠ」~「景ーⅢ」は、身体全体があたたかいものに包まれた感じになってしまう。そう、「身辺整理、身辺整理」と呪文を唱えなければならない作品なのだ。でも、大きい作品なので、金がナイ、飾る場所がナイのナイナイづくしの身には、その必要はなかった。
 プラチナを用いた「景ーⅢ」(20号)は、先生お得意の「沼」を描いたものであろうが、楽しんで描かれたようで、また新鮮味も感じられた。恐らくこれが「画廊宮坂」であったら、「三度の○○」になってしまったかも……。
 美術部のHさんに入れていただいたお茶を飲み終えたところで、声をかけられた。滝沢先生だった。もう一度、展覧会場に行き、先生とお話が出来たことは、今日、最高の喜びである。

      秋もはや沼わたる風しろがねに     季 己

秋の色

2010年08月10日 20時24分29秒 | Weblog
          庵にかけむとて句空が書かせける
          兼好の絵に
        秋の色糠味噌壺もなかりけり     芭 蕉

 門人の句空に頼まれて、兼好像の画賛として詠んだものである。兼好の境地への共感が発想を支えている。それが「秋の色」という季感と滲透しあって一句をなしている。句空に対する挨拶の心も一筋生きている。それがまた、芭蕉の心境にも通じていることになる。

 『草庵集』(元禄十三年自序・句空編)の句空の序には、
        秋の色ぬかみそつぼもなかりけり、といふ句は、兼好の賛とて
        書きたまへるを、常は庵の壁に掛けて対面の心地しはべり。先年
        義仲寺にて翁の枕もとに臥したるある夜、うちふけて我を起さる。
        何事にか、と答へたれば、あれ聞きたまへ、きりぎりすの鳴き弱り
        たる、と。かかる事まで思ひ出して、しきりに涙のこぼれ侍り。
 とある。
 元禄四年秋、句空宛の芭蕉書簡には、「像賛の儀、発句珍しからず、難儀仕り候。か様の事にても書き付け申す可く哉」とあって、「秋の色」・「しづかさや」の順で並記。「秋の色」の右肩に「庵の秋ヵ」と細書きし、初五に関して別案のあったことを示している。結局は「秋の色」に決定したものである。
 義仲寺草庵において、句空の請いにより、兼好像の賛として与えた句。元禄四年秋の作。

 「句空」は金沢の俳人。中年にして退隠剃髪(たいいんていはつ)。元禄二年『奥の細道』旅中の芭蕉に入門。前記のほか、『北の山』・『干網集』の編がある。
 「兼好」は吉田兼好、『徒然草』の著者。
 「秋の色」は、秋に入って、自然がすべて清澄なる色をおびること。いわゆる秋色(しゅうしょく)。
 「糠味噌壺もなかりけり」は、『徒然草』の、
        尊きひじりの云ひ置きける事を書き付けて、『一言芳談(いちごん    
        ほうだん)』とかや名づけたる草子を見侍りしに、心にあひて覚え
        し事ども……一、後世(ごせ)を思はん者は、じんだがめ一つも
        持つまじきことなり。……(九十八段)
 を心に置いた発想。「じんだがめ」は糠味噌瓶のこと。なお、「後世を思はん……」は、俊乗坊の語である。

 「秋の色」が季語。『新古今集』その他に用例を見ることが出来るが、もと、秋の木草の紅葉を意味したもののようである。
 この句では、澄明・清爽の気を強く意識した、新しい感覚のつかみ方が見られる。

    「天地ものみな清澄な秋気がみなぎっている。兼好法師は、感銘を受けた
     ものとして、『じんだがめ一つ持つまじきことなり』ということばを書き留め
     ているが、そのことば通り、糠味噌壺一つ持たないこの秋色のような、
     すがすがしい生涯を貫かれたことだった」


      秋のいろ石に彫られし倶会一処     季 己

胡蝶にもならで

2010年08月09日 21時16分20秒 | Weblog
        胡蝶にもならで秋ふる菜虫かな     芭 蕉

 『後の旅』(元禄八年刊・如行編)に、『奥の細道』の旅の際、大垣での作であるとし、如行の付けた脇句「種は淋しき茄子一本(なすびひともと)」とともに掲出。元禄二年九月はじめの作。

 『奥の細道』に、
        駒にたすけられて大垣の庄に入れば、曾良も伊勢より来たり合ひ、
        越人(えつじん)も馬をとばせて如行(じょこう)が家に入り集まる。
        前川子(ぜんせんし)・荊口(けいこう)父子、其の外親しき人々日夜
        とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且(か)つ悦び且ついたはる。
 と述べられているような状況の中で詠まれた句。秋闌けてなお、胡蝶ともなりえぬわびしい菜虫の姿を見て、これをあわれんだのである。
 もちろん、その中には、風雅に執して世人にならわず、わびしい生活を続けている感懐が、おのずから滲透してきている。如行が脇を付けているところからみて、如行への挨拶と考えられないでもないが、もともと長旅にやつれた自己を省みる気持が主になった独詠的発想であると思う。その点を読み取った上で、如行もそれに応ずる気持で、己の姿を脇句にえがき出したと見たい。
 『後の旅』に、「かくからびたる吟声ありて、我下の句を次ぐ」とあるのは、その辺の事情に触れた付記であると思う。風雅に執する相互の姿を共感の場として、うなずきあうような発想になっているのである。

 『菜虫』はモンシロチョウの幼虫。
 如行は近藤氏、大垣藩士。貞享四年に蕉門に入り、後、僧となって諸国を歩いた。『後の旅』・『如行子』の編者。

 「秋」の句。「胡蝶」は春の季語であるが、ここでは季語としてはたらいていない。「菜虫」は「胡蝶」との関係の面ではたらいており、菜虫そのものが生かされた使い方ではない。

    「多くの菜虫は、美しい胡蝶となって舞い遊んでいるのに、この菜虫は、
     胡蝶となることもなく、わびしいそのままの姿で、秋の日々を過ごして
     いることだ」


      白雲のととのふ秋のスカイツリー     季 己

まづしくもなし

2010年08月08日 21時41分16秒 | Weblog
          杉の竹葉軒といふ草庵をたづねて        
        粟稗にまづしくもなし草の庵     芭 蕉

 挨拶の句である。
 「まづしくもなし」は、含みのある用語である。事実としては、決して有り余るほど豊かではないのであろうが、その粟稗(あわひえ)が、身を養うものとしては事足りるだけあって、それあるがために、清閑を楽しんでいることが出来る、そういう感じを言い表したものである。
 我が身にたとえれば、身を養うものとしては少々足りない年金ではあるが、それあるがために、ボランティアを楽しんでいられる、ということだ。
 また、そうした生活の仕方に肯定の眼を向けていることも、この口ぶりからおのずから察知しうるように思われる。貞享五年七月二十日の作。

 「杉」は、今の名古屋市北区。
 「竹葉軒といふ草庵」は、解脱寺の中にあった長虹の草庵。長虹は、竹夭(ちくよう)といった僧だといわれる。
 
 季語は「粟」・「稗」で、ともに秋季。

    「この草庵を訪れてみると、あたりに熟れている若干の粟や稗によって、
     事足りた悠々たる清閑の生活を営んでいることが感じられて、ゆかしい
     思いがする」


      木槿咲く家通るたび人の声     季 己

        ※ 木槿=むくげ 

秋来にけり

2010年08月07日 20時53分43秒 | Weblog
        秋来にけり耳をたづねて枕の風     桃 青(芭蕉)

 『古今集』・秋上、藤原敏行の
        秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども
          風の音にぞ おどろかれぬる
 を踏まえ、「耳をたづねて」と擬人的に翻案したところが、談林的な発想。『発句合(ほっくあわせ)』の判詞にも「秋風枕をおどろかす体、耳を尋ぬる詞づかひをかし」とある。
 『六百番俳諧発句合』に「立秋」と題し、『江戸広小路』にもある。延宝五年ごろの作。

 「枕の風」は、枕元にしのび寄る秋風で、それが聴覚にうったえる点を、「枕を欹(そばだて)てて聴く」(白居易)を心に置いて、「耳をたづねて」といったものである。

 季語は「秋来る」で秋。

    「秋がやってきた。目にはそれとは見えないが、さっそく、秋風が耳を尋ねて、
     枕元にしのび寄ってきた」


      塔恍とあり立秋の百花園     季 己

七夕

2010年08月06日 21時03分08秒 | Weblog
        七夕や秋を定むる夜のはじめ     芭 蕉

 『赤冊子草稿』に、
        「是『笈日記』の句なり。野童亭にての吟なり。『浪化集』に
         〈はじめの夜〉と有り。後、〈夜のはじめ〉に定まる」
 と付記がある。

 野童亭での作とすれば、この家にあって、七夕の夜の秋の気分を、十分に味わい得たという挨拶がこめられていることになろう。
 この句は、七夕についての古来の情趣から一歩出て、七夕の季節の感じに直接ふみこんで行き、昼はまだ残暑がきびしいが、夜に入ると一段とはっきり定まってくる秋意を、確かに把握した発想である。
 芭蕉は、「はじめの夜」「夜のはじめ」の二案について迷っているが、『三冊子』によれば、「折々吟じ調べて、数日の後に」「究(きわま)り侍る」ということであった。この態度は、物の微に穿(うが)ち入る芭蕉らしさを見てとるべき好資料である。

 「秋を定むる」は、本格的な秋の気分をはっきり感じさせるの意。
 「野童」は、京都在住の蕉門作家。仙洞御所に出仕。姓氏未詳。元禄十四年、御所宿直中 落雷により死去。

 季語は「七夕」で秋。「七夕」というものの季節感をよく見定めている発想。

    「七夕の夜は、天の川も一段と冴えて、秋になったことをはっきり感じさせる
     その第一夜である」


 ――昭和二十年八月六日、晩夏の広島の空に炸けた閃光は、十数万の老若男女を焼いた。その四分の三は、瞬死・当日死または翌日死であったという。
 八月九日には、長崎にも原子爆弾が投下された。この両日を、日本民族の怨念、あるいはその昇華である悲願や祈りをこめて「原爆忌」というが、八月六日を「広島忌」、九日を「長崎忌」ともいう。
 ところで、八月七日か八日ごろに立秋がある。暦の上ではこの日から秋だ。したがって厳密にいうと、「広島忌」は夏で、「長崎忌」は秋ということになる。
 では、「原爆忌」の季は、夏なのか秋なのか。夏とする歳時記が多いように思うが、秋とする歳時記もある。個人的には、夏として詠んでいる。

 平成二十二年八月六日。
 広島では、平和記念公園で平和祈念式典が行なわれた。また仙台では、仙台七夕祭が始まり、東京では、好中球が750しかなく、抗ガン剤治療を再来週の金曜日に延ばされた男が一人いた。

      原爆忌オレンジ色にゴーヤ熟れ     季 己

初秋

2010年08月05日 22時45分10秒 | Weblog
        初秋や畳みながらの蚊屋の夜着     芭 蕉

 庶民の生活の一コマをうたって、それが境涯的なものをおのずとただよわせ、季節の微妙な動きを人間の生活を通して探りとっている作である。滲透型ともいうべき芭蕉の発想の特色をうかがう、好い例ということができる。

 「畳みながら」は、畳んだままの意。
 「蚊屋(かや)」は「蚊帳」に同じ。

 「初秋」が季語。「蚊屋」(夏)、「夜着(よぎ)」(冬)は、ここでは季語として働かない。「初秋」は、人の生活に寒さを及ぼす面で使われている。

    「もう初秋のこととて、用がなくなってきた蚊帳を畳んだままにしておいたが、
     夜が更けてくると、初秋の涼気が身に迫ってくる。そこで、畳んだままの蚊帳
     を夜着の代わりとしてかけて寝たことだ」


 ――「夜の秋」という季語がある。「土用に入りて北風吹き気候涼しき」ことであるというが、立秋直前のある夜、ふっと水のような涼気を感ずる。このような情趣を「夜の秋」といい、秋の夜のことではない。つまり、どことなく秋めいて感じることをいう。

     仏壇へ数珠もどす音 夜の秋     季 己

鮎鱠

2010年08月04日 22時53分25秒 | Weblog
          美濃の国にて、辰の年
        またたぐひ長良の川の鮎鱠     芭 蕉

 「またたぐひ長良の」は、「類(たぐ)ひなからむ」を「長良(ながら)」に言い掛けたもので、この言いかけは即興的にはずんだ言い方である。
 『玉葉集』の、
        またたぐひ あらしの山の ふもと寺
          杉のいほりに 有明の月  (藤原俊成)
 などの調子が思い寄せられている、と言われている。

 「鮎鱠(あゆなます)」は、鮎を細かく切り、酢であえたもので、風味がよいと言われるが、変人は食べたことはない。「鱠」は膾に同じ。

 季語は「鮎」で夏。鮎鱠への賞賛が地名と結びついて、一種、さわやかな三段の音調をなしている。

    「鵜飼で名高い長良川の鮎鱠は、またとくらべるものがないほどの
     よい風味である」


 ――熱中症(脱水)で入院した母が、今日、無事に退院することが出来た。
 入院したら“寝たきり”になってしまうと、かたくなに信じていた母。入院の際には、4人の看護師さんによって3階の病室まで運び込まれた母(この病院にはエレベーターがない)。それが、手すりにつかまり‘ながら’ではあるが、三階の病室から一階の玄関まで自力で下りてきて、めでたく退院。(歩行困難のため、ふだんは二階にも上がれなかった)
 病院でタクシーを呼んでもらい、そのまま妹夫婦宅へ。

 妹夫婦は、拙宅から徒歩20分ほどの所にあるマンション暮らし。「暑い間だけでも……」という妹夫婦の言葉に甘え、しばらく母の面倒をみてもらうことにした。
 「ボケさせないために、せいぜい親娘げんかをするから」と、うれしいことを言ってくれた。

      退院の母の単衣の身にそひぬ     季 己

破風

2010年08月03日 22時52分45秒 | Weblog
        破風口に日影や弱る夕涼み     芭 蕉

 この句、諸本により次のような句形がある。
        唐破風の入日や薄き夕涼み
        破風口や日影かげろふ夕涼み
        唐破風や日影かげろふ夕涼み

 暑さから解放されて、一日が終わってゆく移りゆきに、静かに目を注いでいるさまが、「日影や弱る」という言い方や、全体の低く静かな音調に表現されている。
 「唐破風(からはふ)の入日や」の句形は、未定稿としてしりぞけてしまうわけにはいかないが、日常吟としてみれば、「唐破風の」より「破風口に」の方がおだやかであるし、「薄き」よりは「弱る」の方が、時間的変化をより微妙につかんでいるといえよう。「唐破風」の句形は、むしろ挨拶吟としてみると、適切さが感じられるような句柄である。

 「破風(はふ)」は、屋根の切妻(きりづま)についている合掌形の板をいう。普通は直線形だが、唐門(からもん)などに見られる波状のものを唐破風という。
 「日影や弱る」は、「日影かげろふ」の形もあるところから考えれば属目の情景で、「や」は感動の意であろう。
 「かげろふ」は、光がかげる意。

 季語は「夕涼み」で夏。属目の実感と思われる。

    「夕涼みをしていると、にわかに涼気が感じられてくる。
     眺めやると、あの高い破風口に残っていた西日も、いま
     刻々に衰えてゆくようだ」


      夕涼み一茶を語るいごつそう     季 己

浮身宿

2010年08月02日 20時58分37秒 | Weblog
          北国にて
        海に降る雨や恋しき浮身宿     芭 蕉

 『曾良随行日記』によれば、七月二日に新潟へ着く前日は雨で、特に夜は「甚強雨ス」というような天候であり、着いたその日は、「一宿ト云(いう)、追込宿之外は不借(かさず)。大工源七母、有情(なさけあり)、借(かす)。甚持賞ス」という状況であった。
 海の面に降りそそぐ雨は、身も心も滅入るようにわびしく、旅の辛さが身に沁みたにちがいない。
 大工源七の母からその夜、浮身宿(うきみやど)の話を聞いたのでもあろうか。旅中、女性のやさしさに接することもなく来て、いつしか兆しはじめていた一種の飢餓感に、越(こし)にあると聞いている浮身宿のさまが偲ばれたのであろう。
 旅商人と遊女との一月(ひとつき)ほどの語らい、そういう仮の語らいが短ければ短いだけあわれ深く、芭蕉には感じられたにちがいない。『奥の細道』では、芭蕉のこのような心の傾きは、やがて市振の章で一つのかたちを与えられるのである。

 「浮身宿」については、この句の出典の『藻塩袋』(寛保三年刊)に、
        「越前・越後の海辺にて、布綿等の旅商人、逗留の中女をまうけ、
         衣の洗ひ濯ぎなどさせて、ただ夫婦のごとし。一月妻といふ類ひ
         なり。此の家を浮身宿といふなり」
 と注記がある。新潟では、遊女の第一を傾城(けいせい)と言い、次なる者を浮身(うきみ)と言ったらしい。

 この句は、季語がなくて「雑(ぞう)」の句である。「恋・旅・名所・離別等、無季の句ありたきものなり」(『去来抄』・故実)ということばからすれば、恋の句ということになろう。ただよう情感は、秋を感じさせるような、しみじみとした趣がある。

    「海の面に降りそそぐ雨。この雨のわびしさを見ていると、伝え聞く浮身宿での
     女の生きようが、いまさら悲しく、何か心惹かれる気持で、しきりに思い出さ
     れてくる」


 ――つくば市でのご公務を終えられた天皇皇后両陛下が、16時36分、TXの南千住駅で下車された。すぐさま御料車に乗り換えられ、汐入地区のドナウ通りとけやき通りを通過された。
 人並みに日の丸の小旗を持った変人の眼前を、御料車はゆっくりと通過された。窓を開け、身を乗り出さんばかりに皇后さまは御手を振って下さる。その隣で陛下が、ニコニコと小さく御手を振っていらっしゃる。時間にして数秒、この光景はしっかりと脳にインプットした。

      日の丸を振り御料車を涼しくす     季 己