聴 閑
蓑虫の音を聞きに来よ草の庵 芭 蕉
前書が、発想の契機をよく物語っている。草の庵の生活も、秋風の立つ頃となるとずいぶん侘びしいものであったろう。閑に居て、そこに自分を見つづけながらも、その閑を共に味わう友が欲しかった。その心の動きを、眼前の蓑虫によって発想したものと思われる。
蓑虫は、実際は鳴くことはないのであるが、『枕草子』の、
「みの虫、いとあはれなり。鬼のうみたりければ……
八月(はづき)ばかりになれば、ちちよ、ちちよと、
はかなげに鳴く、いみじうあはれなり」
という文以来、鳴くものとされてきている。
閑に居て、閑寂そのものに耳を傾ける芭蕉としては、身辺に見出した蓑虫から、閑を聴くことができたのであろう。その思いをそのまま「蓑虫の音(ね)を聞きに来(こ)よ」と、呼びかける体にしたものである。
貞享四年(1687)秋、深川芭蕉庵で成り、素堂・嵐雪などに示し、さらに翌年、自画賛として用い、土芳に贈った句である。
「聴閑」は、閑寂さに耳を澄まして聞き入り、それを味わう意。
季語は「蓑虫」で秋。
「秋風の中で、あわれに鳴いている蓑虫の音を聞きに、ぜひ、わたしの草庵
をたずねてください。そして、共に閑寂な気分にひたりましょう」
蓑虫の寝つかれぬ夜のひとりごと 季 己
蓑虫の音を聞きに来よ草の庵 芭 蕉
前書が、発想の契機をよく物語っている。草の庵の生活も、秋風の立つ頃となるとずいぶん侘びしいものであったろう。閑に居て、そこに自分を見つづけながらも、その閑を共に味わう友が欲しかった。その心の動きを、眼前の蓑虫によって発想したものと思われる。
蓑虫は、実際は鳴くことはないのであるが、『枕草子』の、
「みの虫、いとあはれなり。鬼のうみたりければ……
八月(はづき)ばかりになれば、ちちよ、ちちよと、
はかなげに鳴く、いみじうあはれなり」
という文以来、鳴くものとされてきている。
閑に居て、閑寂そのものに耳を傾ける芭蕉としては、身辺に見出した蓑虫から、閑を聴くことができたのであろう。その思いをそのまま「蓑虫の音(ね)を聞きに来(こ)よ」と、呼びかける体にしたものである。
貞享四年(1687)秋、深川芭蕉庵で成り、素堂・嵐雪などに示し、さらに翌年、自画賛として用い、土芳に贈った句である。
「聴閑」は、閑寂さに耳を澄まして聞き入り、それを味わう意。
季語は「蓑虫」で秋。
「秋風の中で、あわれに鳴いている蓑虫の音を聞きに、ぜひ、わたしの草庵
をたずねてください。そして、共に閑寂な気分にひたりましょう」
蓑虫の寝つかれぬ夜のひとりごと 季 己