壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

賤(しず)の子

2010年08月25日 22時59分33秒 | Weblog
        賤の子や稲摺りかけて月を見る     芭 蕉

 『鹿島紀行』にある句だが、自筆短冊によるとして、上五「里の子や」の形で出す本もある。
 一体に、『鹿島紀行』の句は、こうした情趣化の傾向をおびている。貞享元年から二年にかけての『野ざらし紀行』の旅は、はげしい探求的な精神が、火花の如くほとばしったものであるが、帰府後の俳諧には、一つの峠を命がけで越えた後の、ほっとしたゆとりがただよっている。それが芭蕉の俳諧に、一脈の余裕を与えてきたのであろう。

 「賤の子や」とあるのと、「里の子や」とあるのとでは気分に相違が出てくる。「賤」は、いやしいこと、身分の低い、の意。したがって、「賤の子」といった場合は、かなり優雅にとりなされた見方であるが、「里の子」といった場合は、田舎の子供の素朴なままの姿が感じられる。
 「稲摺りかけて」は、籾(もみ)を摺(す)りかけて、の意。籾を臼に入れて、籾摺臼の取っ手を握ってごろごろ回しながら摺るのであるが、その手を止めて、の意。

 季語は「月見」で秋。貞享四年八月の作。

    「農家の子が、籾摺をしていたが、ふと籾摺の手を休めて、折からの月を
     眺めていることよ」


 ――『個の地平〈洋画〉』展(日本橋高島屋6階美術画廊)へ行ってきた。
 はっきりとした〈地平〉を持ったアーティストということで、以下の十二人の作家による作品、およそ50点ほどの展覧である。
            〈出品作家〉(敬称略・五十音順)
           安達博文   稲垣考二   井上 悟
           大沼映夫   佐々木豊   島田鮎子
           島田章三   城 康夫   田代甚一郎
           津地威汎   増地保男   宮下 実

 それぞれ〈個の地平〉を持った作家だけに、個性が強くなかなか面白い展覧会である。稲垣考二先生の作品を観たいがために、猛暑の中を出かけたのだ。(これも「天王原のたまご」のおかげ)
 やはり、期待は裏切られなかった。稲垣先生の作品がダントツ、ピカ一。先生の作品の前に立つとことばを失う。芭蕉の「松島やああ松島や松島や」の状態。
 稲垣作品だけで十二分に満足したが、ついでに隣のX展をのぞいてみた。こちらは、斎藤典彦先生の作品がよかった。また、竹内啓さんも進化が感じられ、何故かほっとした。

 三越へ行き、「杜窯会」展を見る。予想通り、手元に置きたいと思うような作品は一点もなし。
 「杜窯会」展は、東京芸大の学部4年生・大学院生・研究生および卒業生による作品展。一昨年は、金大容(キム・デヨン)さんを初め、数名の方の作品に心うたれたが、今年はゼロ。どっと疲れが出た。
 その金大容さんの「粉青面取壺」(大壺)と、コノキ・ミクオ先生のガンダ作品「あーっ」が、いま我が家の玄関に鎮座ましましている。

      月赤し眠りゐる人みな青し     季 己

   ※今日および昨日の句も、「岡本真枝 展」の作品からインスピレーションを得ています。