壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

麦に慰む

2010年05月16日 21時19分03秒 | Weblog
          甲斐の山中に立ち寄りて
        行く駒の麦に慰むやどりかな     芭 蕉

 どこかへ行く途中の馬を眺めている、ととるより、甲斐の山家に立ち寄って、自分がつないだ馬を見ているさま、ととった方がずっと面白い。
 旅中属目(しょくもく)の句で、人を描かず馬を描いて、しかもおのずから人の旅情を表し得ている。馬が麦畑のあたりで、疲れた身を憩わせつつ麦を食いちぎるさまに、芭蕉の心も、おのずと和んできたのであろう。

 「行く駒」は、旅行く駒の意。
 「麦に慰む」は、飼葉(かいば)として麦を与えられたのだ、とも考えられるが、上記のように解した方が俳諧らしいと思う。
 前書からすると、「やどり」の主人のもてなしに対する挨拶の意をこめた句と思われる。おそらく木曾を経て甲州路に入ったのであろう。
 貞享二年四月、『野ざらし紀行』の旅の帰途の作。

 季語は「麦」で夏。

    「甲斐の山家に身を休めていると、自分の乗ってきた馬も、麦畑のあたりにつながれて、
     麦の穂を食いちぎっては、しばし慰んでいることよ」


 昨日に引き続き、今日も午前中、町会費を集めに廻る。
 あるお宅での出来事。息子の嫁さんが出てきて、五千円札を差し出した。町会費は年間3600円なので、釣り銭1400円の中、先ず千円札を一枚手渡し、残りの400円のため、百円玉を数え始めた。すると彼女、素早く千円札を財布にしまった。先に手渡した千円札は、そのまま手にしているのがふつうなので、イヤな感じがした。
 案の定、400円を渡したところ、「あと千円……」という。
 「はじめに千円札をお渡ししたでしょ」
 「いや、もらっていません。千円ください」
 「さっき、財布に入れましたよ」
 「入れていません。早く千円ください」
 こういう人と押し問答をしても、らちがあかないので、また千円札を一枚渡す、「ああ、やられてしまった」と思いながら。
 集金後、やはり千円不足していた。自分の責任なので、ポケットマネーから千円穴埋めしたのは、もちろんである。
 近所にこういう人がいるとは、と思うと気が滅入ってしまう。
 昼食後、厄払い?のため、三社祭へでかける。
 三社祭は、浅草神社(三社権現)の祭で、昔から、江戸三大祭の一つとして親しまれている。有名な〈一寸八分〉の浅草観音さまを、漁の網にかけたという檜前(ひのくま)浜成・竹成兄弟と、土師真中知(はじのまつち)という三人を祀る。
 キレイどころの手古舞・木遣り・びんざさら舞を名物とする、派手な江戸っ子好みのお祭りである。今は、五月の第三日曜日が‘宮入’であるが、昔は、真夏に行なった。

      三社祭 女人の肌のむんむんと     季 己

2010年05月15日 20時57分20秒 | Weblog
        さざれ蟹足はひのぼる清水かな     芭 蕉

 実に素直な句である。清水の中に立って、その足に来る感触を、じっと味わっている芭蕉が感じられる。こういう句では、肉体を通じてじかにひびく、素朴な共感を覚える。
 自然に、素直に身を寄せて何のたくらみもないところ、芭蕉の言う、他門は心を巧むが、わが門は「有る所を吟ず」(去来抄)とは、これであろう。

 「さざれ蟹」は小さな蟹(かに)。「さざれ」は「ささ」に同じく、細小の意。
 蟹は、俳画向きのユニークな姿態で、どこにも見られる。弁慶蟹・潮招(しおまねき)・米搗(こめつき)蟹など、海辺の愛嬌ものは数多いが、淡水にいるのは沢蟹だけである、という。

 「蟹」も夏のものであるが、ここでは「清水」が中心である。「清水むすぶ」の心で夏季。清水の季趣が生かされた句である。

    「清水に足をひたしていると、足にこそばゆい感じが伝わってくる。見れば小さな沢蟹が、
     足をはいのぼってくるところだ」


      スカイツリー尋ぬる三社御輿かな     季 己

芥子の花

2010年05月14日 22時57分20秒 | Weblog
        海士の顔先づ見らるるや芥子の花     芭 蕉

 『笈の小文』に、
    「卯月中ごろの空も朧に残りて、はかなき短夜の月もいとど艶なるに、
     山は若葉に黒みかかりて、ほととぎす鳴き出づべきしののめも、海の
     方より白みそめたるに、上野とおぼしき所は、麦の穗浪あからみあひ
     て、漁人(あま)の軒近き芥子の花の、たえだえに見渡さる」
 とあって、この句を記す。

 この紀行本文により、句の生まれた環境が明らかなので、紀行本文につづけ、素直に実景を詠んだもの、として解すべきであろう。
 ただし、海士(あま)に惹(ひ)かれるその気持の中には、謡曲「松風」などに伝えられる行平(ゆきひら)の物語が意識されていたかも知れない。

 「海士の顔先づ見らるるや」の表現は、わかりやすいようで、かなり、とまどわせるものを持っている。古注では、『撰集抄(せんじゅうしょう)』の「西道法師の事」によるもので、殺生を事とする海士の生き方をあわれんだ「観想」の句とする説が主流を占めている。
 しかし、もっと須磨という制作場所に即した句として、味わう必要があろう。
 また、芥子にもたとうべき美しい面差し海女を、松風・村雨を偲びつつ見る、とする解もあるが、いささかうがち過ぎるように思う。文学の伝統を通して、海士に惹かれる心なのである。

 「見らるるや」は、おのずと目がとまるの意。「らるる」は自発ととりたい。
 季語は「芥子の花」で夏。芥子の花が鮮やかにこの場を支えている。貞享五年四月二十日ごろの作。

    「短夜が白み始めているこの須磨の地を見渡すと、今しも起き出してきた海士の顔が、
     おのずと惹きつけられる思いで、まず最初に眺めやられたことだ。あたりには芥子の
     花が咲いている……」


      地を忘れ天を忘れて芥子の花     季 己

早苗にも

2010年05月13日 21時18分51秒 | Weblog
          みちのくの名所名所心に思ひこめて、
          先づ関屋の跡懐かしきままに、古道に
          かかり、今の白河も越えぬ。
        早苗にも我が色黒き日数かな     芭 蕉

 眼前の現実である「早苗」によって、平安中期の歌人・能因の故事が、あらためて振り返られているのである。「早苗にも」の「も」は、そうした心を負って微妙な味わいをただよわせている。
 「我が色黒き」は、『古今著聞集』の能因の故事のことばをそのまま借り来たったものであろう。
 同書には、

    能因は、いたれるすきものにてありければ、
        都をば 霞とともに 立ちしかど
          秋風ぞ吹く 白河の関
    とよめるを、都にありながら、此の歌をいださむ事念なしと思ひて、
    人にも知られず久しく籠り居て、色黒く日に当たりなして後、
     「みちのくにのかたへ修行のついでによみたり」
    とぞ、披露し侍りける。

 とある。

 いよいよ、みちのくに第一歩を踏み入れようとして、偽りの旅ならぬ実の旅にやつれはてるであろう己が身を、つくづくと振り返っている芭蕉の目が感じられるが、なお『古今著聞集』からの知識にすがっている点が際立ちすぎている。そこを純化して、やがて、「西か東か先づ早苗にも風の音」の改案が生まれてくるのである。

 前書きの「今の白河」は、白河の両関のうち、新関。『曾良随行日記』によれば、芭蕉は新関を越え、古関を尋ねて籏(はた)宿へ廻っている。

 季語は「早苗」で夏。能因の「霞―秋風」に対して、「(花)―早苗」という心で、日数を具象化した発想に注目したい。

    「自分は、いま白河の関に到達した。まだ秋風には早い早苗のころであるが、すでに顔は
     すっかり日焼けして黒くなってしまった。それにつけても、江戸を出てからの日数が今は     
     はるかなものに思われることだ」


      みちのくの写経に似たる植田かな     季 己

牡丹蘂

2010年05月12日 23時12分47秒 | Weblog
          二たび桐葉子がもとにありて、
          今や東に下らんとするに
        牡丹蘂深く分け出づる蜂の名残かな     芭 蕉

 句は美しいという点では、たしかに立派に仕上がっている。また、「牡丹蘂深く分け出づる蜂の」という句調のゆらめきも、別離の心をたゆたわせている。けれども、根底において支えているものがやや弱いように感じられる。貞享二年、旅中の作。

 「桐葉子」は林桐葉、通称七左衛門。「熱田三歌仙」の連衆の一人。[連衆(れんじゅ)とは「レンジュウ」ともいい、連歌・俳諧の解に作者として列席する人々のこと]
 芭蕉はこの前年にも、熱田の桐葉亭に草鞋を解いたので、「二(ふた)たび」と言ったのである。
 「牡丹蘂深く」は、牡丹の蘂に深くかこまれての意。牡丹は桐葉をたたえ、自分をもてなすその情誼の厚いのを「蘂深く」と言ったもので、挨拶の心がある。
 「分け出づる蜂の名残」は、自分を蜂に比していったもの。桐葉の厚い情誼に謝し、ひとり江戸へ出発するにあたって別れがたいという心を言ったものである。

 季語は「牡丹」で夏。留別の情を比喩的に詠んだもので、技巧的である。

    「今、桐葉子の手厚い庇護を離れて江戸へ帰ろうとするに際して、牡丹の蘂深くこもって
     いた蜂が、蘂を分け出でて飛び去ろうとするような、切なる名残惜しさを感ずる」


      白牡丹おのれを愛すこと忘れ     季 己

鹿の角

2010年05月11日 22時59分18秒 | Weblog
          旧友に奈良にて別る
        鹿の角先づ一節の別れかな     芭 蕉

 別れの心を、折から奈良のこととて、属目の鹿の角の岐(わか)るるさまに託したものである。鹿の角に思いを寄せたところに、技巧が目立つ句だと思う。
 この句の別案あるいは初案と考えられる句に、
          奈良にて古人に別る
        二股にわかれ初めけり鹿の角
 がある。
 「鹿の若角が二股にわかれはじめている。今、私どももこのわかれゆく鹿の角のように、二つの道にわかれてゆくことだ」の意であるが、「二股に」は、句としては理に落ちる。「先づ一節の」の方が、ずっと含みがあるように思う。

 前書の「旧友に奈良にて別る」は、貞享五年(1688)四月二五日付惣七宛書簡によると、奈良で相逢うた、伊賀上野の門人などとの離別を指し、書簡には「離別の恨み筆に尽くされず候」とある。

 鹿の角というものは、晩春から初夏にかけて抜け落ち、初夏から出始めて節々にわかれてゆく。
 「鹿の角先づ一節の別れ」は、本角(もとづの)からまず一節がわかれてゆくように、人が別れてゆくの意である。

 季語は「鹿の袋角」で、「鹿の若角」・「鹿茸(ろくじょう)」ともいい、夏季。この季語の袋角の二股になるところが、巧みに生かされている点で目立つ使い方である。

    「鹿の角が生い初めて、先ず一節が岐(わか)れてゆくのにも似て、初夏の今、われわれも
     別れてゆくことだ」


      袋角すこし伸びたり草に雨     季 己

南無仏

2010年05月10日 21時29分57秒 | Weblog
          文麟生(ぶんりんせい)、出山の御像(かたち)を送りけるを安置して
        南無仏草の台も涼しかれ     芭 蕉

 甲州流寓も終わり、新庵も成って、身の置きどころが出来たという安堵感が、句をきわめてさわやかにしている。
 『続深川集』には句のあとに、
    「くだれる世にもと云ひけむ、理(ことわり)なりや」
 という言葉が付いており、芭蕉自身の文と思われる。詞書(ことばがき)と相応じて生かすべきであろう。

 「文麟生」は鳥居氏。天和二年(1682)に芭蕉庵が焼失した際、その復興に協力し、「芭蕉庵再建勧化簿」によれば、金額では最高の銀一両を寄付した人である。天和三年冬、新庵が成って、出山の釈迦像を寄贈したものと思われ、貞享元年(1684)の作と推定される。
 「出山(しゅっさん)の御像(かたち)」とは、6年の苦行ののち、更に独自の道を求めて、雪山より下りたときの修行苦にやせた釈迦画像をさす。なお、この像は長く草庵の仏として安置され、逝去に際して支考に贈るよし遺言された。
 「南無仏(なもほとけ)」の「南無」は、仏への帰依敬礼(きえきょうらい)の意を表す語。
 「草の台(うてな)」は、元来立派な蓮の台に坐しているはずの仏を、今、草庵の草の台座に迎えるという気持。

 「涼し(かれ)」が季語で夏。「涼し」の効果はかなり句の内容に滲透して、心境のすがしさを感じさせるものと成っている。

    「この草庵は、もとより仏を安置する座もととのってはいないので、もったいないが
     草の台に安置申し上げる。貧しい草の台座ではありますが、どうかここを涼しいと
     お感じになって、いつまでも安らかにおしずまりください」


      親鸞の鏡の御影みて涼し     季 己

厳美の桜

2010年05月09日 22時55分38秒 | Weblog
 毎日、当ブログを注意深くお読みいただいている方はおわかりと思いますが、ゴールデンウイーク中の3日と4日の二日間、岩手県・一関に桜狩りに行って参りました。
 「画廊宮坂」さんを通じて意気投合した、一関の阿部さんから、
 「今年の桜は、20年に一度というくらい見事なので、よかったらお花見にきませんか」
 と、お誘いを受けたからです。
 ブログのupを休まないために、5月2日に2本のブログを書き、後の1本を日付の変わった3日に投稿してから床についたという次第。

 上野駅発8:22の東北新幹線「はやて5号」に乗車、一ノ関駅に10:55に到着。改札口には、阿部さんの笑顔のお迎え。阿部さん運転の車で、ご自宅のある厳美渓へ。
 途中、一関市博物館で、一関のあゆみ・玄沢と蘭学・文彦と言海・一関と和算・舞草刀と刀剣を見、ついで、史跡・骨寺村(ほねでらむら)荘園遺跡と一関本寺(ほんでら)の農村景観を案内していただきました。

 阿部さん宅でおいしい紅茶をいただきながら、応接室の大きな窓から見る、厳美渓の桜のボリュームと美しさは、筆舌には尽くせません。なるほど「20年に一度の見事な桜」と感嘆しました。
 大きな窓は額縁となり、一幅の生きた桜の名画を生み出す。N・C画伯の描く桜など問題にならないほどの美しさ。末期の桜と思い、じっくりと堪能させていただきました。
      窓越しの厳美のさくら末期とも     季 己
 このあと阿部さんのコレクションを拝見し、旦那様を交えて、しばしの芸術談義。
 夕食にごちそうになった、一関名物・ふじせいもち膳のおいしかったこと。まさに感動ものです。

 ベリーノホテル一関で目を覚ました翌4日は、朝食のバイキングいただき、地元紙を読んでいたところに、阿部さんが車で迎えに来てくださいました。
 知り合いの方がいらっしゃるという達谷窟毘沙門堂(たっこくのいわやびしゃもんどう)へ。ここは、俳人の加藤楸邨が、少年時代に好んでよく来たところだそうです。
 毘沙門堂・岩面大佛・弁天堂・不動堂・金堂と案内していただく。ここの案内書には、それぞれのお堂ご本尊の御真言が書き添えられているのが親切で、ご住職の熱意がひしひしと感じられました。
      萱葺きの萱音しだれざくらかな     季 己

 中尊寺の桜は満開でしたが、この日の暖かさとほどよい風に、着いて間もなく散り始めました。中尊寺境内の桜はどこもかしこも見事でしたが、高館跡の桜がもっとも印象的でした。
 西行法師が、
        聞きもせず 束稲山の 桜花
          吉野のほかに かかるべしとは
 と歌に詠んだ束稲山(たばしねやま)は、霞の中に横たわり、夢のような景観。
      西行のおもひ たばしね霞みをり     季 己
 花吹雪の中、野外能楽堂でしばらく能(「祝詞」・「若女」・「老女」)を拝観。毛越寺へ。

 毛越寺は、「モウツウジ」と読みます。ふつう、「越」という字を「ツウ」とは読みません。「越」は慣用音で「オツ」と読みます。したがって「モウオツジ」が「モウツジ」になり、更に「モウツウジ」に変化したものだそうです。
 毛越寺といえば、浄土庭園がなんといっても有名です。この浄土庭園は、四囲の借景と相まって、八百年を経た今日、変わらぬ美しさを見せ、平安時代の作庭様式を残す日本最古の庭園として知られています。
 毛越寺はまた、浄土の世界を現世に表現した、花の寺でもあります。梅・ツツジ・あやめ・蓮・おみなえし・萩・かえで・桔梗など、四季折々の風情が楽しめるそうです。
 そう言えば、一関・平泉は、このゴールデンウイークに、梅・水仙・桃・桜・チューリップ・芝桜・山吹などが、いっせいに花開いたそうです。こんなことは本当に珍しいそうです。

 厳美渓から車で一時間ほどの宮城県・花山にある、某蕎麦処でいただいた蕎麦のフルコースのおいしかったこと。生涯忘れられないほどの‘うまさ’でした。また、花山ダム湖の周囲の、桜の豪華さに圧倒されました。
 阿部さんご夫婦のお心づくし、どんなに感謝しても感謝しきれません。ありがとうございました。
 一関発20:22発の「やまびこ68号」に乗車、帰宅したのは23時30分過ぎ。即、パソコンに向かい、4日のブログをUP、滑り込みセーフとなった次第です。


      生涯の桜狩かな厳美渓     季 己

「XELIRI+ベバシズマブ」療法

2010年05月08日 19時44分31秒 | Weblog
 昨7日のブログを休んだこと、お詫び申し上げます。
 中には「癌が進行して入院したのでは……」と思われた方もいらっしゃると思います。ご心配をおかけし、誠に申し訳ありません。
 実は、これまで10回受けた抗ガン剤治療の一つ、「FOLFOX+ベバシズマブ」療法の効き目が薄れたので、日本ではまだ新しい治療法である「XELIRI(ゼリリ)+ベバシズマブ療法」に代えるため、6日から8日まで都立駒込病院に検査入院した次第です。
 「XELIRI+ベバシズマブ」療法は、カペシタビン、イリノテカン、ベバシズマブを併用する治療法で、わたしの癌に対してどのくらい効果があるか調べるために実施するという。これまでの療法の効果が薄くなった場合や、副作用などで治療の継続が難しくなった後、二次治療として、「XELIRI+ベバシズマブ療法」を併用する治療を行うとのこと。これを用いることにより、生存期間を延長できる可能性があることがあることも、アメリカ・ヨーロッパなどの海外から報告されているとのよし。 このように、海外の試験において安全性は確認されていますが、日本人における安全性は確認されておりません。
 つまり、日本での安全性を確認するための、試験台になって欲しいということなのです。駒込病院では33人の大腸癌患者が参加する予定という。わたしもその一人で、少しでも世間様に恩返しが出来れば、という気持で喜んで参加することにしました。この試験に参加することで、将来、大腸癌患者が治療を受けるときの貴重な情報となれば、こんなうれしいことはありません。

 わたしの受けた「XELIRI+ベバシズマブ」療法について説明しましょう。
 はじめにベバシズマブを、30分かけて点滴注射します。
 つぎに吐き気止めを、15分かけて点滴注射します。
 続いて、イリノテカンを90分かけて点滴注射します。その日の夕方から、カペシタビン(錠剤)を2週間(1日2回、朝・夕食後、各5錠)服用します。そうして薬のない日が6日間。
 3週を1つのコースとして繰り返します。
 以前の療法との違いは、大きく二つあります。
 「5FU+ロイコボリン」の点滴注射を着けたまま帰宅し、46時間後にそれをじぶんで抜いたのですが、これが2週間の錠剤服用になりました。
 もう一つは、薬が「オキサリプラチン」から「イリノテカン」に代わったことです。
 また通院が、2週間に1度が、3週間に1度となったことです。
 この変更で効果が現れてくれれば万々歳なのですが、はたしてどうでしょうか。


      寝返りを打てば厳美の花ふぶく     季 己

風薫る

2010年05月06日 00時17分26秒 | Weblog
          小倉ノ山院
        松杉をほめてや風の薫る音     芭 蕉

 浮わついたところがなく、あっさりとした感興であるが、擬人法による発想が、句を浅いものにした点は否定できない。

 「松杉」については、古くから藤原定家の、
        「頼むかな その名も知らぬ 深山木に
           知る人得たる 松と杉とを」(拾遺愚草)
 を引く。
 「ほめてや」は、風を擬人化した表現。「や」は疑問。
 「小倉ノ山院」は、京都・嵯峨野、小倉山の常寂光寺。藤原定家の小倉山荘の跡だと伝えられ、庭に定家の詠じたという老松もある。

 季語は「風薫る」(薫風)で夏。実際、松や杉の匂い出るような使い方であるが、擬人法が句を弱めている。

    「常寂光寺の定家卿ゆかりの松や杉の蒼々(あおあお)とした色をほめてであろうか、
     薫風が松杉にあたって涼しげな音を立てているよ」


      住職にひそみたる稚気 風薫る     季 己

青ざし

2010年05月05日 23時04分18秒 | Weblog
        青ざしや草餅の穂に出でつらん     芭 蕉

 見立てによる句である。「青ざし」は夏のもの、「草餅」は春のものなので、春の草餅が夏の今、穂に出たものであろう、と見立てた句。古い興じ方の発想が主となっていて、詩的感動は薄い。
 出典の『虚栗(みなしぐり)』から見て、天和三年以前の作であろう。
 芭蕉の号が初めて用いられたのは、天和二年三月刊の『武蔵曲』であるので、掲句は〈桃青〉時代の作かも知れない。

 「青ざし」は、菓子の一種で、青いままの麦を煎り臼でひいて細く糸のようにねじれさせたもの。『枕草子』に、「青ざしといふ物をもて来るを……」とあるほか、『徒然草』にも出てくる。
 「草餅の穂に出でつらん」は、青ざしのねじれて臼から出てくるところが、あたかも草餅が穂を出して来るような感じであるのを言ったもの。

 季語は「青ざし」で夏。理に陥った使い方で、古いものの残滓といえよう。

    「細く青く伸びた青ざし。これはきっと、あの春の草餅が、青い穂になって出たものであろう」


      入院の話すずしく柏餅     季 己      

夏草

2010年05月04日 23時52分48秒 | Weblog
        夏草や兵どもが夢の跡     芭 蕉

 眼前の夏草を通して歴史の跡を懐古している。こうした心象の構成は、芭蕉の代表的な発想法である。芭蕉は、一事一物をそのまま描く人ではなく、その一事一物を通して、あらわれているものの背後にうがち入り、その奥のものを探り求めてゆく傾向が強かった。
 これは「造化」の思想を基底としたその芸術観に立って、かくれたところに確かな存在を見、あらわれたものは、その生々化々する相であると観ずるところからくる。
 この句も「夏草」の茫々たる眼前の景は、「兵(つわもの)どもが夢の跡」として心打つのである。
 杜甫の「国破れて山河あり、城春にして草木深し」が、心中を去来し、それが眼前の景と感合して「夏草や」となり、「兵どもが夢の跡」となる。

 『おくのほそ道』に、
        「三代の栄耀一睡の中(うち)にして、大門(だいもん)の跡は一里こなたに有り。
         秀衡が跡は田野になりて、金鶏山のみ形を残す。先づ高館(たかだち)にのぼれば、
         北上川、南部より流るる大河なり。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に
         落ち入る。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし堅め、蝦夷(えぞ)を防ぐ
         と見えたり。さても義臣すぐつて此の城にこもり、功名一時の叢(くさむら)となる。
         『国破れて山河あり、城春にして草青みたり』と、笠打ち敷きて時の移るまで泪を落
          とし侍りぬ」とあって掲出。

 「兵どもが夢の跡」は、昔の兵たちの栄枯盛衰の夢の跡である、との意。義経主従の悲劇並びに藤原氏三代の文化が空しく廃墟と化していることを含めているのである。
 「高」は、北上川に臨む小高い丘で、平泉駅の北方650メートルほどの所。義経の居城跡で、衣川の(たて)とも判官(ほうがんだち)とも呼ぶ。
 頼朝と不和になった義経は、藤原秀衡を頼ってここに拠(よ)ったが、秀衡の子泰衡は頼朝に強いられて、ここに義経を攻めた。義経は、弁慶や兼房以下の臣とともに防戦を尽くしたが、ついに自刃して果てた(1189年)。今は、丘の上に義経堂(ぎけいどう)がある。

 「夏草」が季語。眼前の廃墟の示す古(いにしえ)への通路として、「夏草」が一句に現実感をもたらす発想となっている。

    「今、こうして高館(たかだち)に上ってみると、あたりは茫乎とした夏草が茂っている
     ばかりである。このあたりはかつて、義経主従が籠もったところであり、藤原氏三代の
     栄耀の跡であるが、それも一場の夢とついえて、今はそのおもかげさえも見られず、目
     にあるのはただ夏草のみ……」


      花吹雪 義経堂より人の声     季 己      

衣更え

2010年05月03日 00時06分29秒 | Weblog
          衣 更
        一つ脱いで後に負ひぬ衣がへ     芭 蕉

 旅に身をまかせきった芭蕉の姿がある。軽い句のように見えて、その底を支えているものは実に根強い。口ずさんでいるうちに言葉が消え、その境地のみ心に残って、旅の芭蕉が生きて動く。内に充実したものが表現になりきって、言葉を消してしまっているからであろう。
 『笈の小文』の本文に「踵(きびす)はやぶれて西行に等しく……」と、旅ゆく心をつづった文がこの句の前にあって、それを読むと、ひとしおこの句の味わいが深くなる。
 同じ境地を詠んだ、杜国の「吉野出でて布子売りたし衣がへ」という、芸が表にあらわれた表現と比較してみると、なおそのことがはっきりすると思う。芸とか技は、これみよがしに表に出すものではないのだ。

 季語は「衣がへ」で夏。四月一日。「衣更」というものが、境地を生かすところに達している。

    「衣更えの季節になった。旅の途中のこととて、重ねていた一枚を脱いで包み、それを背に
     負うと、それでもう衣更えもすんでしまう。そしてまた自分は、そのまま歩きつづけてゆく
     だけである」


      旅の荷のかろき八十八夜かな     季 己

先づ二つ

2010年05月02日 21時31分27秒 | Weblog
        やまざくら瓦ふくもの先づ二つ     芭 蕉

 木下長嘨子の『挙白集』の、「山家記」の中に、「常に住む所は瓦葺けるもの二つ……」とある。
 おそらく、長嘨子の『挙白集』が心にあり、その「山家記」の口調が出ていて、「先づ二つ」につづいて次を期待する心のはずみがうかがわれる。
 蕪村の「まづ二つ瓦ふくもの野分かな」は、この句が心にあったものにちがいない。

 「瓦ふくもの」は、「瓦葺く物」で、瓦を葺いた屋根のある家の意。
 季語は「やまざくら」で春。

    「いま訪ねてゆこうとする山路に、山桜が白く咲いていて、その花の間に、瓦を葺いた
     閑人の住まいらしい家が、二棟先ず目にはいってきたことだ」


      緞帳の下りる歌舞伎座 春惜しむ     季 己

風雅の心

2010年05月01日 20時09分54秒 | Weblog
        子に飽くと申す人には花もなし     芭 蕉

 「子に飽(あ)くと申す人」を、門人の其角は、「子どもを育てることにいやけがさし、真の愛情を見失っている人」と解していたらしいふしがある。『芭蕉翁発句集蒙引』が、「仁慈の花なくんばなんぞ風雅の花あらんや」と注したのをはじめとして、諸説はほとんどそのような解釈に傾いている。
 しかし、それでは教戒の心があらわにすぎるとして、一方では、子どもを育てることにかまけて、生活にゆとりのない貧しい身の上、というふうな解が出されている。
 猶子桃印の死(元禄六年三月没)を看取り、寿貞(元禄七年六月二日没)とともに、まさ、おふう二人の娘をも引き取るに至ったらしい芭蕉晩年の述懐を、この句の背後に読み取ることも、あるいはできるのではないかとされる。
 しかし、「飽く」のもっとも基本的な意味は、「十分に体験して満足する。堪能する。満ち足りる」ということであるから、その語義に従って解釈するのがよいと思う。句としては、そう解することが、もっとも面白いように思う。

 季語は「花」で春。この「花」は風雅の象徴として使われている。

    「子どもへの愛に十分満ち足りてしまった、というような人には、花を友とする風雅の心は
     しょせん無縁ということだよ」


      かたことや菊の葉裏のてんと虫     季 己