壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

世を旅に

2010年05月30日 22時23分11秒 | Weblog
          かけい方にて
        世を旅に代搔く小田の行き戻り     芭 蕉

 初案は、上五「世は旅に」のかたちであった。
 制作事情から見て、「かけい」への挨拶の意が含まれているはずであるが、それは目立たない。それにしても、「今度もまたこうしてご厄介になります」というくらいの気持は、「世を旅に」の底を流れていると見たい。
 「代搔(しろか)く」は単なる比喩ではなく、旅中眼前に見てきた代掻きに、同じ街道を行き戻りして旅に生きる、自分の境涯を思い合わせた実感である。
 旧交の人々に再会した喜びよりも、旅の中に流転する自分の姿をひとり観じているような、言いようのない寂しさが揺曳(ようえい)し、挨拶の句らしい弾みが影をひそめて、つぶやきに似てきている。
 初案の「世は旅に」を、「世を旅に」とすることによって、より自分に引きつけた発想となった。
 「世を旅に」は、生涯を旅に過ごして、というほどの意。
 「かけい」は山本氏(1648~1716)。医を業とした名古屋の蕉門。芭蕉七部集の『冬の日』・『曠野(あらの)』・『春の日』の編者。晩年、反蕉風的な動きを示し、連歌に転じた。

 季語は「代搔く」で夏。
 「代搔く」は、稲を植える前に鋤(す)きおこした田へ水を入れて、牛馬を使って行きつ戻りつ掻きならすのをいう。

    「自分は生涯を旅に迎え旅に送ってきた、それはちょうど今あの農夫が田を掻くのに、
     小田の中を行ったり来たりしているさまと同じような、流転して定まらぬものであった
     ようだ」


      東京の人来て田植はじまれり     季 己