壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

風雅の心

2010年05月01日 20時09分54秒 | Weblog
        子に飽くと申す人には花もなし     芭 蕉

 「子に飽(あ)くと申す人」を、門人の其角は、「子どもを育てることにいやけがさし、真の愛情を見失っている人」と解していたらしいふしがある。『芭蕉翁発句集蒙引』が、「仁慈の花なくんばなんぞ風雅の花あらんや」と注したのをはじめとして、諸説はほとんどそのような解釈に傾いている。
 しかし、それでは教戒の心があらわにすぎるとして、一方では、子どもを育てることにかまけて、生活にゆとりのない貧しい身の上、というふうな解が出されている。
 猶子桃印の死(元禄六年三月没)を看取り、寿貞(元禄七年六月二日没)とともに、まさ、おふう二人の娘をも引き取るに至ったらしい芭蕉晩年の述懐を、この句の背後に読み取ることも、あるいはできるのではないかとされる。
 しかし、「飽く」のもっとも基本的な意味は、「十分に体験して満足する。堪能する。満ち足りる」ということであるから、その語義に従って解釈するのがよいと思う。句としては、そう解することが、もっとも面白いように思う。

 季語は「花」で春。この「花」は風雅の象徴として使われている。

    「子どもへの愛に十分満ち足りてしまった、というような人には、花を友とする風雅の心は
     しょせん無縁ということだよ」


      かたことや菊の葉裏のてんと虫     季 己