壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

夏草

2010年05月04日 23時52分48秒 | Weblog
        夏草や兵どもが夢の跡     芭 蕉

 眼前の夏草を通して歴史の跡を懐古している。こうした心象の構成は、芭蕉の代表的な発想法である。芭蕉は、一事一物をそのまま描く人ではなく、その一事一物を通して、あらわれているものの背後にうがち入り、その奥のものを探り求めてゆく傾向が強かった。
 これは「造化」の思想を基底としたその芸術観に立って、かくれたところに確かな存在を見、あらわれたものは、その生々化々する相であると観ずるところからくる。
 この句も「夏草」の茫々たる眼前の景は、「兵(つわもの)どもが夢の跡」として心打つのである。
 杜甫の「国破れて山河あり、城春にして草木深し」が、心中を去来し、それが眼前の景と感合して「夏草や」となり、「兵どもが夢の跡」となる。

 『おくのほそ道』に、
        「三代の栄耀一睡の中(うち)にして、大門(だいもん)の跡は一里こなたに有り。
         秀衡が跡は田野になりて、金鶏山のみ形を残す。先づ高館(たかだち)にのぼれば、
         北上川、南部より流るる大河なり。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に
         落ち入る。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし堅め、蝦夷(えぞ)を防ぐ
         と見えたり。さても義臣すぐつて此の城にこもり、功名一時の叢(くさむら)となる。
         『国破れて山河あり、城春にして草青みたり』と、笠打ち敷きて時の移るまで泪を落
          とし侍りぬ」とあって掲出。

 「兵どもが夢の跡」は、昔の兵たちの栄枯盛衰の夢の跡である、との意。義経主従の悲劇並びに藤原氏三代の文化が空しく廃墟と化していることを含めているのである。
 「高」は、北上川に臨む小高い丘で、平泉駅の北方650メートルほどの所。義経の居城跡で、衣川の(たて)とも判官(ほうがんだち)とも呼ぶ。
 頼朝と不和になった義経は、藤原秀衡を頼ってここに拠(よ)ったが、秀衡の子泰衡は頼朝に強いられて、ここに義経を攻めた。義経は、弁慶や兼房以下の臣とともに防戦を尽くしたが、ついに自刃して果てた(1189年)。今は、丘の上に義経堂(ぎけいどう)がある。

 「夏草」が季語。眼前の廃墟の示す古(いにしえ)への通路として、「夏草」が一句に現実感をもたらす発想となっている。

    「今、こうして高館(たかだち)に上ってみると、あたりは茫乎とした夏草が茂っている
     ばかりである。このあたりはかつて、義経主従が籠もったところであり、藤原氏三代の
     栄耀の跡であるが、それも一場の夢とついえて、今はそのおもかげさえも見られず、目
     にあるのはただ夏草のみ……」


      花吹雪 義経堂より人の声     季 己