壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

朝な朝な

2009年08月24日 20時43分09秒 | Weblog
        朝な朝な手習すすむきりぎりす     芭 蕉

 秋の清爽な朝の気分の中に、おのずと手習(てならい)の精が出て、目に見えて筆の進みが感ぜられて、さわやかにはずんだ気持を、季節にふさわしい蟋蟀(こおろぎ)と通わせて詠んだ句である。

 この句、摩詰庵雲鈴著『入日記』に、元禄十三年(1700)佐渡行脚に際し、門人に与えた芭蕉真蹟の句として掲出されている。他に出ているのを見ない。出典・発想から見て、芭蕉晩年の作であろうと言われている。

 「朝な朝な」は、朝ごとにの意。アサナアサナともアサナサナともいう。一朝ひとあさ進む感じであるから、ここは「アサナアサナ」の方が、語感の上で生きてくると思う。
 「すすむ」を自動詞、他動詞いずれにとるかで句の趣が変わる。他動詞にとり、女には裁縫を、男には手習を奨めるようにきりぎりすが鳴く、という解は、句としてのおもしろさがない。

 季語は「きりぎりす」で秋。
 「きりぎりす」は、コオロギの古名。コオロギには「筆つ虫」の異名もある。ツヅレサセコオロギは、人家近くにもおり、明け方しげく鳴く。
 「きりぎりす」の情感が素直に生かされた発想である。

    「毎朝、毎朝いそしんでいる手習が、自分でも進む感じがし、心楽しいこ
     のごろである。そのうえ季節もさわやかな秋に入り、こおろぎの鳴き声
     もすがすがしく聞かれることだ」

 やっとさわやかな秋になったな、と油断したのが間違いだった。歌舞伎座の前でドシャ降りに出くわしてしまった。夕立だ。しばらく歌舞伎座の軒先を借り、雨宿りと決め込んだ。
 小降りになったので、「画廊 宮坂」へ向かう。
 「画廊 宮坂」も夏休みが終わり、いよいよ“芸術の秋”到来である。その第一弾が、「スペイン風景―墨絵」と題する【伊藤清和個展】で、今日から30日(日)まで開催される。
 昨年取材されたというスペイン風景を中心に、先生のライフワークともいうべき人物(女性)像もあり、非常に見応えのある個展である。
 「スペインは光と影の国」と、わが俳句の師・岸田稚魚先生から聞かされていたが、伊藤先生は、その光の部分を金箔で、影の部分を墨で表現されている。光線の具合で、いろいろに楽しめるのも素晴らしい。
 人物をライフワークとしている先生だが、裸婦は描かないという。ヌードは、人間という動物にしか見えないかららしい。

 作品を堪能していたら、サプライズがあった。なんと画廊で、【津軽三味線演奏会】が始まったのだ。
 演奏者は、先生の友人である、若き津軽三味線奏者・小野田雄互(おのだゆうご)さんだ。プロになって日が浅いらしく、民謡好きの変人も存じ上げなかった。
 演奏を聴くかぎりでは、しっかりとした師匠について、とてもよく勉強されていると感じた。しかし、プロは技術があって当たり前。あとは“こころ”をいかに磨くかである。一冬でいいから津軽の冬を肌で感じ、その想いを演奏に生かしたら、より心打つ演奏になると思う。
 「朝な朝な」津軽三味線を“敲く”だけでなく、“弾く”こともすれば、今の若い奏者の「見せる」津軽三味線を超え、「魅せる」津軽三味線奏者になれると確信する。
 頑張らなくていい、力まなくていい、ひたすら津軽の風土を全身で感じて欲しい。


      雨脚が見得切つてゐる夕立かな     季 己