朝な朝な手習すすむきりぎりす 芭 蕉
秋の清爽な朝の気分の中に、おのずと手習(てならい)の精が出て、目に見えて筆の進みが感ぜられて、さわやかにはずんだ気持を、季節にふさわしい蟋蟀(こおろぎ)と通わせて詠んだ句である。
この句、摩詰庵雲鈴著『入日記』に、元禄十三年(1700)佐渡行脚に際し、門人に与えた芭蕉真蹟の句として掲出されている。他に出ているのを見ない。出典・発想から見て、芭蕉晩年の作であろうと言われている。
「朝な朝な」は、朝ごとにの意。アサナアサナともアサナサナともいう。一朝ひとあさ進む感じであるから、ここは「アサナアサナ」の方が、語感の上で生きてくると思う。
「すすむ」を自動詞、他動詞いずれにとるかで句の趣が変わる。他動詞にとり、女には裁縫を、男には手習を奨めるようにきりぎりすが鳴く、という解は、句としてのおもしろさがない。
季語は「きりぎりす」で秋。
「きりぎりす」は、コオロギの古名。コオロギには「筆つ虫」の異名もある。ツヅレサセコオロギは、人家近くにもおり、明け方しげく鳴く。
「きりぎりす」の情感が素直に生かされた発想である。
「毎朝、毎朝いそしんでいる手習が、自分でも進む感じがし、心楽しいこ
のごろである。そのうえ季節もさわやかな秋に入り、こおろぎの鳴き声
もすがすがしく聞かれることだ」
やっとさわやかな秋になったな、と油断したのが間違いだった。歌舞伎座の前でドシャ降りに出くわしてしまった。夕立だ。しばらく歌舞伎座の軒先を借り、雨宿りと決め込んだ。
小降りになったので、「画廊 宮坂」へ向かう。
「画廊 宮坂」も夏休みが終わり、いよいよ“芸術の秋”到来である。その第一弾が、「スペイン風景―墨絵」と題する【伊藤清和個展】で、今日から30日(日)まで開催される。
昨年取材されたというスペイン風景を中心に、先生のライフワークともいうべき人物(女性)像もあり、非常に見応えのある個展である。
「スペインは光と影の国」と、わが俳句の師・岸田稚魚先生から聞かされていたが、伊藤先生は、その光の部分を金箔で、影の部分を墨で表現されている。光線の具合で、いろいろに楽しめるのも素晴らしい。
人物をライフワークとしている先生だが、裸婦は描かないという。ヌードは、人間という動物にしか見えないかららしい。
作品を堪能していたら、サプライズがあった。なんと画廊で、【津軽三味線演奏会】が始まったのだ。
演奏者は、先生の友人である、若き津軽三味線奏者・小野田雄互(おのだゆうご)さんだ。プロになって日が浅いらしく、民謡好きの変人も存じ上げなかった。
演奏を聴くかぎりでは、しっかりとした師匠について、とてもよく勉強されていると感じた。しかし、プロは技術があって当たり前。あとは“こころ”をいかに磨くかである。一冬でいいから津軽の冬を肌で感じ、その想いを演奏に生かしたら、より心打つ演奏になると思う。
「朝な朝な」津軽三味線を“敲く”だけでなく、“弾く”こともすれば、今の若い奏者の「見せる」津軽三味線を超え、「魅せる」津軽三味線奏者になれると確信する。
頑張らなくていい、力まなくていい、ひたすら津軽の風土を全身で感じて欲しい。
雨脚が見得切つてゐる夕立かな 季 己
秋の清爽な朝の気分の中に、おのずと手習(てならい)の精が出て、目に見えて筆の進みが感ぜられて、さわやかにはずんだ気持を、季節にふさわしい蟋蟀(こおろぎ)と通わせて詠んだ句である。
この句、摩詰庵雲鈴著『入日記』に、元禄十三年(1700)佐渡行脚に際し、門人に与えた芭蕉真蹟の句として掲出されている。他に出ているのを見ない。出典・発想から見て、芭蕉晩年の作であろうと言われている。
「朝な朝な」は、朝ごとにの意。アサナアサナともアサナサナともいう。一朝ひとあさ進む感じであるから、ここは「アサナアサナ」の方が、語感の上で生きてくると思う。
「すすむ」を自動詞、他動詞いずれにとるかで句の趣が変わる。他動詞にとり、女には裁縫を、男には手習を奨めるようにきりぎりすが鳴く、という解は、句としてのおもしろさがない。
季語は「きりぎりす」で秋。
「きりぎりす」は、コオロギの古名。コオロギには「筆つ虫」の異名もある。ツヅレサセコオロギは、人家近くにもおり、明け方しげく鳴く。
「きりぎりす」の情感が素直に生かされた発想である。
「毎朝、毎朝いそしんでいる手習が、自分でも進む感じがし、心楽しいこ
のごろである。そのうえ季節もさわやかな秋に入り、こおろぎの鳴き声
もすがすがしく聞かれることだ」
やっとさわやかな秋になったな、と油断したのが間違いだった。歌舞伎座の前でドシャ降りに出くわしてしまった。夕立だ。しばらく歌舞伎座の軒先を借り、雨宿りと決め込んだ。
小降りになったので、「画廊 宮坂」へ向かう。
「画廊 宮坂」も夏休みが終わり、いよいよ“芸術の秋”到来である。その第一弾が、「スペイン風景―墨絵」と題する【伊藤清和個展】で、今日から30日(日)まで開催される。
昨年取材されたというスペイン風景を中心に、先生のライフワークともいうべき人物(女性)像もあり、非常に見応えのある個展である。
「スペインは光と影の国」と、わが俳句の師・岸田稚魚先生から聞かされていたが、伊藤先生は、その光の部分を金箔で、影の部分を墨で表現されている。光線の具合で、いろいろに楽しめるのも素晴らしい。
人物をライフワークとしている先生だが、裸婦は描かないという。ヌードは、人間という動物にしか見えないかららしい。
作品を堪能していたら、サプライズがあった。なんと画廊で、【津軽三味線演奏会】が始まったのだ。
演奏者は、先生の友人である、若き津軽三味線奏者・小野田雄互(おのだゆうご)さんだ。プロになって日が浅いらしく、民謡好きの変人も存じ上げなかった。
演奏を聴くかぎりでは、しっかりとした師匠について、とてもよく勉強されていると感じた。しかし、プロは技術があって当たり前。あとは“こころ”をいかに磨くかである。一冬でいいから津軽の冬を肌で感じ、その想いを演奏に生かしたら、より心打つ演奏になると思う。
「朝な朝な」津軽三味線を“敲く”だけでなく、“弾く”こともすれば、今の若い奏者の「見せる」津軽三味線を超え、「魅せる」津軽三味線奏者になれると確信する。
頑張らなくていい、力まなくていい、ひたすら津軽の風土を全身で感じて欲しい。
雨脚が見得切つてゐる夕立かな 季 己