壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

岩にしみ入る

2009年08月25日 20時08分15秒 | Weblog
        閑かさや岩にしみ入る蟬の声     芭 蕉

 『おくのほそ道』、立石寺のところに、
    「日いまだ暮れず。麓の坊に宿かり置きて、山上の堂に登る。岩に巌を重
     ねて山とし、松柏年ふり、土石老いて、苔なめらかに、岩上の院々扉を
     閉ぢて物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這ひて仏閣を拝し、佳景寂寞
     として、こゝろすみ行くのみ覚ゆ」
 とあり、この句を置いている。

 宝珠山立石寺、通称“山寺(やまでら)”は、清和天皇の貞観二年(860)、延暦寺座主円仁(慈覚大師)が、勅許を賜って創建した名刹である。芭蕉のころの寺領は、1420石といわれる。
 全山凝灰岩で、まさに「岩に巌(いはほ)を重ねて」切り立った山を成している。そこに「しみ入る蟬の声」である。句を読みおえて、もう一度「閑かさや」と初五に戻って「しづかさ」は更に深まる。この句をつらぬく摩擦音Sの効果はすばらしい。

 蟬の声が一つか多数かということで、句意も変わってくるのであるが、芭蕉が山寺を訪れた時候を考え合わせてみると、あまり蟬の多い時節ではなかったようである。また、蟬の種類についても異論が多いが、どの蟬でなければならないということはない。今は一応、“にいにい蟬”であろう、ということに落ちついているようである。
 さらに、
        山寺や石にしみつく蟬の声
             ↓
        さびしさの岩にしみ込む蟬の声
             ↓
        さびしさや岩にしみ込む蟬の声
             ↓
        閑かさや岩にしみ込む蟬の声
             ↓
        閑かさや岩にしみ入る蟬の声
 などの推敲過程から見ても、注意を要する作である。
 上五は、初案の「山寺や」では単なる説明にとどまる。「さびしさや」ではなお、自己を包み込んでいる大いなる自然の静謐感がたちあらわれてこない。
 全山寂たる岩山の中、一筋に澄み徹る蟬の声に耳を傾けることによって、更に幽閑なる境に入り立ったとき、「閑かさや」という大きく奥深い語感と、おおらかな響きを備えた発想の中に、自ずと落ちついたものと思われる。
 中七について言えば、「石にしみつく」は、表層的で流動感に乏しく、「岩にしみ込む」でも、形のない声の感じが死んで、水などのような形あるもののあらわな手ざわりが入りこんできて純一でない。やはり、「しみ入る」とあってはじめて一筋に澄み徹るその細みは生かされる。

 句形は、初五に切字「や」を置き、体言で止める典型的な二句一章。季語は「蟬」で夏。岩を媒(なかだち)として、蟬そのものに集中した発想。芭蕉作品の中でも、物そのものに想いを集中する発想をとった代表的な秀句である。

    「全山寂としてしずまりかえった中で、蟬が鳴いている。蟬の声は一筋に
     澄み透って、岩の中に滲み入るように感じられ、その岩に滲み入る蟬の
     声に耳を澄ませていると、いよいよ深い静謐の中に融け入る想いがする
     ことだ」


      ひぐらしの明日は思はず神の杉     季 己