壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

能なし

2009年08月16日 20時53分03秒 | Weblog
 湿度が低かったせいか、室温37度のわりには比較的過ごしやすい日曜日だった。日曜日といっても、盆休みといわれても、能なしのサンデー毎日の身にとっては、何ら変わりはない。
 変わりがあったのは、山形県庁から「朝日町ワイン」が届いたことだ。「JOINプレゼントキャンペーン」に応募したのが、当選したのだ。貧乏くじにはよく当たるが、こういうプレゼントに当たることは、非常に珍しい。
 山形県庁・地域政策課さん、「国産ワインコンクール」銀賞受賞のワインありがとう! 感謝します!!

        能なしのねぶたし我を行々子     芭 蕉

 行々子(ぎやうぎやうし)への呼びかけのようになっているが、実際は、ほとんどひとり呟(つぶや)く体である。
 「能なしの、ねぶたし。我を、行々子」という短く切れた調子には、もの憂く、うとうとした時の独語のような口調があって、実におもしろい句である。
 「能なしのねぶたし」から「我を」への微妙なうつりゆき、「我を」の「行々子」への急転する続きぐあいなど、技巧としても抜群である。

 「能なしの」は、連体修飾語ととるか、主語ととるか、人によって意見が分かれるところである。
 主語ととれば、芭蕉自らをさして言ったことになる。しかし、それでは割り切れすぎて味わいに乏しくなるように思われる。
 「能なしの」は、ただただ眠たくて仕方のないというところへ畳みかけるように流れ込まないと、この句の微妙な陰影は消えてしまうのではないか。だから、「能なしの(我が)」眠たいというのではなく、「能なしのその上に(おまけに)こうして眠たくて眠たくて仕方がない」という呟きととりたい。
 「能なし」にはもちろん、『幻住庵記』における「終に無能無才にしてこの一筋につながる」や、『笈の小文』における「無能無芸」などが思い出される。
 「我を」は上を受けて、「その我を」の気持で読みつぐと理解しやすい。「を」は「を相手にして」とか、「に対して」という意であろう。下に何かが省略された語法ではなく、「我に対して仰々しく行々子はわめきたてる」意ととりたい。

 「行々子」が季語で夏。
 「行々子」はヨシキリのことで、ギョシギョシと声が聞かれるところからこの異名がある。別に葭原(よしはら)雀ともいう。南方から渡来する夏季の鳥で、葦原にすみ、鶯に似てやや大きく、五、六月ごろの繁殖期には昼夜を分かたず、実にやかましく囀り続ける。その名に「仰々し」の意を重ねて生かした用い方になっている。

    「行々子よ、何の能もない上に、ただただ眠いだけのこの私だ。その私を
     相手としてそう仰々しく鳴きたてて、いったいどうしろというのだ。そっと
     しておいてくれよ」


      郭公の声の入り来るニュータウン     季 己

魂祭

2009年08月15日 20時23分50秒 | Weblog
 一年ぶりに、母を連れて母の実家(今の常総市)へ行ってきた。
 母の実家では、八月十三日の夕刻から十五日までが“お盆”で、十五日には、この家出身の者が、それぞれの家族を引き連れて集まる習わしになっている。
 こうして全員が集まるのは、盆の八月十五日しかないので、年に一度の大事な行事といえる。
 十八畳の座敷に盆棚を飾って祖霊を迎える。盆棚は、精霊棚(しょうりょうだな)・先祖棚ともいわれ、後世、仏壇を利用するようになった。
 その証拠ともいえるように、母の実家では、仏壇の中の物をすべて盆棚に飾り、仏壇の中は空っぽにする。
 盆棚には、位牌や仏具のほかに、初物の野菜や果物、庭に咲いた花などが供えてあった。
 “魂祭(たままつり)”というのは、この“お盆”のことである。

          尼寿貞が身まかりけると聞きて
        数ならぬ身とな思ひそ魂祭     芭 蕉

 故郷を遠く離れ、芭蕉庵に身を寄せて、芭蕉の留守中に果てていった、寿貞という不遇な女性をいたわって詠んだ哀悼の句である。しみじみと相向かう者に呼びかけるような、ほかの誰をもこの場に入れさせずに、ひそかに一人告げているようなひびきが籠もっている。
 「数ならぬ身とな思ひそ」は、黙っていると、相手が自ら退いて「数ならぬ身」と思ってしまいそうなところを、呼びとめ、力づけているようなひそかなひびきが感ぜられる。

 寿貞は、その死を旅中に知った芭蕉が、「寿貞 無仕合(ぶしあはせ)もの、まさ、おふう同じく不仕合、とかく申し尽くし難く候」とか、「何事も何事も夢まぼろしの世界、一言理くつハ之無く候」と、嘆いているような間柄の女性であった。
 解きがたい謎を秘めたまま芭蕉は世を去っているので、この謎を抱いたまま、この悼句に向かわねばならないが、寿貞を悼む切実なるひびきだけははっきり生きている。

 「尼寿貞」は、『小ばなし』に、「寿貞は翁の若き時の妾にて、とく尼になりしなり」と見える女性である。確実な資料はないので、推定の域を出ないが、若いとき、芭蕉と内縁関係にあった女性かと想像せられている。次郎兵衛・まさ・おふう三人の子があったが、芭蕉との間の子であるかどうかは明らかでない。
 元禄七年五月、芭蕉が上方へ出立後、芭蕉庵に移り住み、六月二日ごろ病没した。その訃報は六月八日には芭蕉に達し、その折の芭蕉書簡が、前に引用した猪兵衛宛のものである。

 「身まかりける」は、死去したの意。
 「数ならぬ」は、物の数にも数えられないこと。
 「な思ひそ」の「な……そ」は禁止のことばで、思うなよの意。
 「魂祭」が季語で秋季。「魂祭」というものの情感の中を、寿貞への呼びかけが呟(つぶや)くように貫いている発想といえる。

    「遠く故郷を離れた旅の空で果てたお前に、今、こうして故郷で初盆会を
     営んで香華を手向けておる。決して、数ならぬ身であるなどと卑下しな
     さんなよ。お前には、このわたしがいるではないか……」


      盆の母すぐに昔を語り出す     季 己   

八月十五日

2009年08月14日 19時41分13秒 | Weblog
 八月十五日は、ふたつの貌をもっている。終戦の日、そして月おくれの盆。さまざまなことを思い出す日でもある。

        終戦日妻子入れむと風呂洗ふ     不死男

 昭和二十年八月十四日、御前会議において、ポツダム宣言の受諾を決定し、翌十五日正午、戦争終結の詔書が、録音放送により全国民に伝えられた。ここに太平洋戦争は終了した。満州事変から十五年にもわたる戦争が終わった日である。
 敗戦の日として、俳人によって「敗戦日」、「敗戦忌」、「終戦日」といわれるようになった。戦争の過ちを繰り返さぬよう、その体験を後世に伝え、平和への誓いを新たにすべき日なのである。

        いつまでもいつも八月十五日     仁 喜

 各地で、戦没された方々に対する追悼と、わが国の再建を誓って各種の催しが行なわれる。八月十五日は、「世界の平和を祈念する日」と言ってもよかろう。

      戰城南(城南に戦う)     無名氏

    戰城南 死郭北    城南に戦いて 郭北に死す
    野死不葬烏可食    野死するも葬られず烏食らうに可(よ)し
    為我謂烏        我が為に烏に謂え
    且為客豪        且(しばら)く客の為に豪(ごう)せよ
    野死諒不葬       野死するも諒(まこと)に葬らざれば
    腐肉安能去子逃    腐肉安(いずく)んぞ能(よ)く子を去って逃れんやと
    水声激激        水声(すいせい)激激(げきげき)として
    蒲葦冥冥        蒲葦(ほい)冥冥(めいめい)たり
    梟騎戰闘死       梟騎(きょうき)は戦闘して死し
    鴑馬徘徊鳴       鴑馬(どば)は徘徊して鳴く

    城壁の南で戦い、城壁の北で死んだ。
    野に死骸をさらしても葬られないので、烏のほどよいエサとなっている。
    こころある者よ、わたしのために烏に告げてくれ、
    「しばらくの間、黄泉(よみ)の客となる者のために悲しみ泣いてくれ、
    野に死んで、もとよりちゃんと葬られることなどないのだから、
    エサとなる腐った肉が、どうしておまえから逃げていかれようか」と。
    ここ野戦の地は、川の流れる音が激しく、
    岸辺の蒲(がま)や葦(あし)が暗く生い茂っている。
    強い兵士もすでに戦闘して死に、
    乗り手を失った動きの鈍い馬が、たださまよい歩いて鳴いているばかりである。

 この詩は、戦争のために死んだ者の悲惨さをうたった歌である。別に厭戦(えんせん)詩ともいうが、それを死者の口を借りて語っているところを見ると、もともとは巫女(みこ)が伝えていたのかもしれない。
 含蓄を重んじ、余韻を味わうことを旨とする中国の詩は、烏たちによる“丁重な葬儀”まで描写することはない。
 その意味では、乗り手を失った馬の哀調おびた“いななき”に、死者の心をすべて読み取るべきなのであろう。


      終戦日けさも夜明けを迎へたり     季 己

極点を越す

2009年08月13日 17時43分27秒 | Weblog
        贈  別(ぞうべつ)     杜 牧(とぼく)

    多情却似総無情    多情は却(かえ)って似たり総(すべ)て無情なるに
    惟覚前笑不成    惟(た)だ覚ゆ前(そんぜん)笑いの成らざるを
    蠟燭有心還惜別    蠟燭(ろうそく)心有りて還(ま)た別れを惜しみ
    替人垂涙到天明    人に替わって涙を垂れて天明に到る

    物事にひどく感じやすい心というものは、つまるところ、何事にも感じない
   心と同じようなものだ。
    どうにか気づいたのは、別れの酒を前にして、自分の顔がこわばって、笑
   うことができないことだ。
    ろうそくにも、わたしの別れの悲しみがわかって、同情して別れを悲しみ、
    わたしのために、ろうの涙を流して、とうとう夜明けになってしまったことよ。

 ろうそくの垂れたろうを涙にたとえる「蠟涙(ろうるい)」という言葉は、すでに六朝時代にも用例がある。
 杜牧のねらいは、巧みな比喩が用いられている後半ではなく、むしろ前半の二句にあると思う。

 親しい人との別れに臨んでの悲しさを、どのように表現するか、これは、古くて新しい永遠のテーマである。
 「多情却って似たり総て無情なるに」の「多情」は、物事に感じやすいこと。「却って」は、驚いたことには、の意で、話し手の予想と、その結果としての現実とに“ずれ”があることを確認する気持ちを表す。「無情」は、物事に感じる心がまるでないこと。
 これまで、物事に感じる心が多いということは、限りなくどこまでも悲しみが深まるものだ、と信じて疑わなかった。しかし、今日この別れの宴に臨んで、はじめてさとった。
 悲しみがあまりにも深まって、ある極点を通り越してしまうと、それは一転して、まったくの無感動状態におちいってしまうのだ。
 だから、泣くことはおろか、笑うことさえできないで、無表情のままに、ただボーッと座って、酒を口に運んでいるにすぎない自分がいる。
 この悲しみの表現は、これまでに見られない、杜牧の新しい発見である。

 後半は、前半を巧みに受ける。
 この深い悲しみによって無感情状態にいる自分に替わって、ろうそくは泣いてくれているのだ。その証拠に、燃える芯から垂れるろうが、まるで涙のように、少しずつ少しずつこぼれて、したたり落ちているではないか。
 そんなろうそくの炎を眺めながら、ただおし黙って向かい合い、とうとう夜を明かしてしまったのだった。
 
 杜牧が別れを惜しんだ相手は、誰だったのだろう。
 杜牧の「贈別」の詩は二首残されており、もう一首の詩によると、揚州で知り合った、まだ幼い表情の残る、美しい少女の芸妓であったと考えられる。
 若く楽しかった揚州の思い出と、とうとう別れなければならなかった少女との恋の甘酸っぱい記憶が、交錯し合って、杜牧独特の美しい世界を作り出している。


      左肩ひら手でたたき盆に入る     季 己

身を養はむ

2009年08月12日 23時05分14秒 | Weblog
          落梧何某の招きに応じて、稲葉山の松の
          下涼みして、長途の愁を慰むほどに
        山陰や身を養はむ瓜畠     芭 蕉

 主の落梧に対する挨拶の意がこめられている。「身を養はむ」という語には、手厚い主人のもてなしに、安んじて身をあずけている気持がうかがえる。
 真蹟懐紙(写し)に、「岐阜」と前書きし、上五「山陰に」とあるが、初案であったかもしれない。

 「山陰」は、前書きによると、岐阜の稲葉山の山陰で、落梧の家を指す。
 稲葉山は、破鏡山・金華山などとも呼ばれ、斎藤氏の拠った所であるが、信長の手に落ち、信長は岐阜城と改めてここに拠った。のち織田信秀が、ここを追われてから岐阜山と呼ばれているという。

 「落梧(らくご)」は安川助右衛門で、芭蕉の門人。岐阜の商人で『瓜畠集』を編んだが、元禄四年(1691)に業半ばで没、同集は『笈日記』に編みこまれている。
 ところで、芭蕉が「おくのほそ道」の旅に、いつ、江戸を発ったたかが問題になっている。芭蕉は元禄二年三月二十三日に、この落梧宛の書簡をしたため、二十六日に奥羽行脚に出発すること、二月末に草庵を譲渡してしまったことを伝えている。この事実を決して見過ごしてはならない。
 稲葉山の付近に、真桑瓜で名高い真桑村がある。
 季語は「瓜」で夏。「瓜」から「身を養はむ」が引き出されて、自然に挨拶になってゆく。

    「この稲葉山の山陰、瓜畠のほとりに旅疲れの身を休めて、瓜を食らい、
     しずかに身を養うことにしよう」


      はじけとび線香花火の闇にとけ     季 己

地震・台風

2009年08月11日 20時33分44秒 | Weblog
 今朝の地震には跳び起きた、さすがの寝坊助も。
 階下へ行き、母の安全を確かめ、しばらく様子をうかがう。余震はなさそうだ。
 そういえば、台風はどうしたろうと、玄関の戸を開けがてら空を見る。台風は逸れそうだが、地震はまだ心配だ。つい先日も震度4の地震があったばかりだ。
 また、二階の自室に戻り、パソコンにかじりつく。震源は駿河湾とある。アブナイ!東海地震ではないのか?
 一時間ほど、パソコンとにらめっこをしていたが、大丈夫であろうと勝手に決め込み、再び寝てしまう。
 後で考えてみて恥ずかしくなった。非常持ち出し袋はおろか、パジャマさえも着替えていなかったのだ。
 実際に東海地震や、関東大震災クラスの地震が来たら、いったいどういう行動がとれるだろうか。おそらく茫然自失のまま、瓦礫の下敷きとなり、自分が死んだのもわからず、三途の川あたりでうずくまっているのではなかろうか。

        猪もともに吹かるる野分かな     芭 蕉

 野分(のわき)のはげしさが感じられる句である。
 野分とは、秋の暴風で、草木を吹き分けるという意味に、俳人は感じている。主として「風台風」と思えばよい。
 芭蕉自身が『幻住庵記』の中に、「猪の稲食ひ荒し、兎の豆畑に通ふなど……」と書いているように、幻住庵のあった国分山のあたりには猪がいたようだ。
 「猪もともに」は、「自分とともに猪も」というようにもとれるが、「野分の中のすべてのものとともに猪も」ととりたい。
 これは、猪の実景を詠んだのではなく、草木をすさまじく吹きなびかす野分の中に身を置いて、話に聞いた猪が吹きすくめられるさまが、おのずと想像されたものと考えるからである。

 『徒然草』に、
    「和歌こそ、なほをかしきものなれ、あやしの賤、山がつのしわざも、言
     ひ出でつればおもしろく、おそろしき猪(ゐ)のししも、『ふす猪の床
     (とこ)』と言へばやさしくなりぬ」
 とあるが、この猪を俳諧に生かすという意図もあったのかもしれない。
 あらあらしいが、どこか孤独な感じのする猪が野分の中で、草木とともに吹かれているというイメージは、一脈の寂寥をただよわせ、すてがたい味わいを生んでいる。
 季語は「野分」で秋。季語である野分の勢いが生かされて使われている。

    「すさまじい野分で、野一面が吹きまくられている。さだめし、あのたけ
     だけしい猪も野の草木とともに、野分に吹きさらされていることであろ
     うよ」


      台風の雨のしじまに大地震     季 己

現実をそのまま

2009年08月10日 20時17分37秒 | Weblog
 台風9号の影響か、今朝方、東京にも猛烈な雨が降った。
 Tクリニックで今日、内視鏡によるポリープ切除をすることになっている。絶食状態で、こんな豪雨の中を行くなんて、と夢うつつに思う。
 幸い、出かける頃には小降りになった。
 内視鏡検査は、何度か経験しているので、不安は全くない。
 前回(1年半前)の検査の時に、まだ小さかったポリープが立派に成長していた。もちろん、これは根元からすっぱりと切除したとのこと。切除といっても、電流で焼き切るらしく、帰宅してからの便に、真っ黒な焼けカスがかなり混じっていた。
 ポリープの成長がこんなに早いとは、まだまだ若いのかな、と善意に解釈する。

        蚤虱馬の尿する枕もと     芭 蕉

 発想の契機は、旅の憂苦の思いであろう。この思いを引き起こす現実をそのまま投げ出して、これを旅の哀れとして味わっているところがいい。
 「蚤虱(のみしらみ)」と切ったところに、それらに弱り切った感じが読みとれる。俳句も“切れ”が大切、としみじみ思う。
 また、「馬の尿(しと)する枕もと」と続けた口調に、おまけにこんなふうだと閉口しながらも、その現実をしずかに眺める心の余裕、俳諧的な興じぶりが感じとれる。
 単なる描写に終わらず、憂苦におぼれず、自分の置かれた境を踏みしめてゆるがない感じがある。

 『おくのほそ道』に、
    「鳴子(なるご)の湯より尿前(しとまへ)の関にかかりて、出羽の国に
     越えんとす。此の路旅人稀(まれ)なる所なれば、関守にあやしめられ
     て、やうやうとして関を越す。大山を登つて日既に暮れければ、封人の
     家を見かけてやどりを求む。三日風雨荒れて、よしなき山中に逗留す」
 とあって、「蚤虱」の句が、掲出されている。

 「尿」は小便のこと。『節用集』では、シトの訓を一般にとる。なお、『日葡辞書』には、「ばりをつく」と見え、『東海道中膝栗毛』には、「ばりをこいてゐた」の用例がある。
 紀行本文中の「封人」は、関所の番人のこと。
 季語は「蚤」で夏。「蚤」は、季感としてよりは「虱」・「馬の尿」などと共に、封人の家の生活を象徴するものとして使われている。

    「雨に降りこめられて、山中の封人の家に泊まったところが、むさくるし
     い家のこととて、蚤や虱に責められて容易に寝つかれない。そればかり
     か、枕元のほうの暗がりの中では、馬のゆばりする音まで聞こえる」


      ポリープをとり豆飯をよろこびぬ     季 己  

初秋

2009年08月09日 14時22分16秒 | Weblog
          鳴海眺望
        初秋や海も青田の一みどり     芭 蕉

 属目の初秋の景をもって挨拶としたものであろう。
 一読、爽快な初秋の眺望である。何の巧みもなく、初秋の鳴海潟の大景に感合したものであって、その流動的、直線的な声調に、初秋の景に惹かれた感動の明るさがあふれている。
 対象に身を寄せて、そのものになり入ってゆく芭蕉の態度が、よく生かされている句だと思う。
 「や」・「も」・「の」の助詞もきわめて的確な生かし方である。
 季語は「初秋」で秋。「青田」も夏の季語であるが、この句が詠まれたのは、貞享五年七月十日なので、秋がふさわしい。

    「稲ののびそろった青田が、一望のうちに見渡せる。その彼方に、色濃い
     海も青田のみどりと、ひとつづきに見渡されて、まことに清爽な初秋の
     景であるなあ」

 鳴海は、今の名古屋市にある、東海道五十三次の宿場町である。芭蕉は、上記の句を詠んだ二日前に、次の句を詠んでいる。

          新宅を賀す
        よき家や雀よろこぶ背戸の粟     芭 蕉

 新宅を祝う意をこめた句であるから、その新宅のよいところを見出して句に仕立てている。
 まず、「よき家や」とほめて、そのよさの中心を「雀よろこぶ背戸の粟」と具象化したのである。また、「雀よろこぶ」という暖かみのある表現が、豊かに満ち足りた家を思わせている。まさに「俳句は具象」・「俳句は愛情」である。
 「背戸」は、家の裏口をいう。

 『知足斎日々記』によれば、貞享五年七月八日の作。また、この新宅は、知足の弟知之のものであったという。
 知足は、下里金右衛門といい、蝸廬(かろ)亭と号した。尾張鳴海の醸酒家で、屋号は千代倉。芭蕉の門人で、後に剃髪して寂照という。『知足斎日々記』・『千鳥掛』・『たびまくら』などの編著がある。
 季語は「粟」で秋。粟(あわ)には、大粟すなわち「梁」と、小粟すなわち「粟」とがあり、両者にはそれぞれ糯(もち)と粳(うるち)との区別がある。粒状の実は黄色で、味が淡い。収穫は、九月の下旬から十月。

    「ほんとうによいお宅ですなあ。裏口には豊かな粟が実っており、そこに
     集まる雀が、いかにも喜びあっているように見えます」


     鬼灯の熟るる夕べを検査食     季 己

鬼灯

2009年08月08日 20時18分43秒 | Weblog
 立秋ともなれば鬼灯(ほおずき)が目につくようになる。昔から、鬼灯の実が熟して赤く色づく時を、秋のはじめとしていた。
 東京の浅草では、七月九日・十日の四万六千日に、“ほおずき市”が開かれるが、太陽暦の七月上旬では、“ほおずき”もまだ小さくて青いものしか見かけられない。八月の上旬、立秋の頃になってこそ、そこここの夏祭りの縁日にも、赤い鬼灯を売る店が立ち並んで、子供たちの足を引き留めるものである。

        鬼灯は実も葉もからも紅葉かな     芭 蕉

 「実も葉もからも」同時に紅葉するという発見が眼目で、その発見に興じたさまが、「実も葉もからも」と、たたみかけた口調によく出ている。
 「鬼灯」が秋の季語。「紅葉」も秋であるが、この句の中心にはたらくのは「鬼灯」である。
 「鬼灯」は、夏秋の交、青い実をつけ、やがて赤くなる。同時に葉も、丸い実をおおう殻(から)も紅葉する。丸い実は、女の子のもてあそびものとして、口に入れて鳴らす。
 「から(殻)」は、実を包んでいる袋のことで、萼(がく)の変化したもの。
 鬼灯そのもののおもしろさを契機とした発想である。

    「鬼灯というものは、こうしてつくづく眺めてみると、その実も殻も葉も
     同時にすっかり赤くなって、何ともおもしろいものだ」

 芭蕉の句に、「実も葉もからも」と詠まれた、あの赤い六角の袋状の萼が、真っ赤に透き通るように熟した球を包んで、鈴生りになっている様を見ると、鬼灯とは、よく名付けたものと感心させられる。

 京都の「なぞなぞ」の歌には、
    「六角堂に小僧が一人、お参りがなければ扉(と)が開かぬものナアニ」
 というと、
    「ほほづき、ほほづき、紅ほほづき、お灯(ひ)をともさぬと扉は開かぬ」
 と答えるのが決まりであったといわれる。
 小坊主に見立てられた中の丸い実が、赤くならぬうちは、六角堂の扉(萼)が開かないという理屈なのであろう。

 鬼灯の実を柔らかく揉みほぐして、中の種子を抜き出し、空(から)になった袋を唇にはさんで吹き鳴らす遊びがある。
 この遊びも、『栄華物語』に、一条天皇の后、中宮彰子(しょうし)の美しさを讃えて、
    「御色白くうるはしう、ほほづきなどを吹きふくらめて据ゑたらむやうに
     ぞ見えさせ給ふ」
 と記しているところを見ると、ほほづき(鬼灯)をふくらませて吹く遊びは、平安朝いや、それ以前からあったものかも知れない。


      鬼灯を揉むや少女の寂聴尼     季 己

秋立つ

2009年08月07日 20時32分40秒 | Weblog
 八月にはいってちょうど一週間。きょう八月七日は立秋である。
 暑極まって涼兆す、――という時候なので、気温はまだ絶頂にある。しかし、身のほとりにはすでに「秋立つ」を感じさせるものが、ひたひたと寄せてきているのだろうが……。

          秋立つ日
        旅にあきてけふ幾日やら秋の風     芭 蕉

 「旅にあきて」とあるが、「ほんまかいな」と疑いたくなる。しかし、旅中に秋を迎えたという、かすかなおどろきが、呟(つぶや)くような口調で詠みとられている。ここがいい、俳句は呟きなのだから。
 「けふ幾日(いくか)やら」という口語的な発想が、そのことに深い関心を持っているわけではないが、ふと心にかかったという感じを生かしていておもしろい。

 「幾日」は古く、『萬葉集』や『古今和歌集』に用例が見える。また『曠野』に「舟かけていくかふれども海の雪―(芳川)」や「火とぼして幾日になりぬ冬椿―(一笑)」などの表記例がある。

 「秋の風」が季語。旅のさなかにふと季節の移りを感じとったところが、感触として生きている。ただし、前書きの「秋立つ日」には感心できない。
 『古今和歌集』の、
        秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども
          風の音にぞ おどろかれぬる  (藤原敏行)
 以来の型どおりな感じ方をでていないので。前書きは、蛇足だと思う。

    「旅を続けているうちに、旅にもあきてしまった。こんな物憂い心を抱く
     ようになって、すでに幾日になるだろう。いつか季は秋立つ日を迎えて
     風も身に冷ややかに感じられることだ」


      言の葉の端を忘れて秋に入る     季 己

戦争

2009年08月06日 20時12分44秒 | Weblog
          涼 州 詞     王 翰

    葡萄美酒夜光杯   葡萄の美酒夜光の杯
    欲飲琵琶馬上催   飲まんと欲すれば琵琶馬上に催す
    醉臥沙場君莫笑   醉うて沙場に臥すとも君笑うこと莫(な)かれ
    古來征戰幾人回   古来征戰幾人か回(かえ)る

      血のように真っ赤な葡萄のうま酒を、夜星の光でもひかるという
     美しい杯で飲む。
      飲もうとすると、琵琶を馬上で誰やらベンベケベンベケ速いテン
     ポでかき鳴らしている。
      したたか飲んで酔いつぶれ、そのままへべれけになって砂漠の上
     に倒れ臥してしまった私を、諸君どうか笑わないでくれたまえ。
      昔から、こんな辺地に出征して、無事生還できた人がどれだけい
     るだろうか。

 書道学校に通っていた昔、この詩をどれほど書いただろうか。楷書・行書・草書の三様で書いてみたが、行書が最も作品らしくなった記憶がある。

 涼州詞(りょうしゅうし)は、楽府(がふ)の題名で、辺地の風景や征役の苦しさを主題にするものが多い。
 葡萄酒を夜光の杯で飲む、というのが起句。葡萄酒は今日では普通の飲み物であるが、当時は西方から伝わってきた珍しいものであった。
 だから、葡萄の美酒といった時すでに、中国ではない西の方なのだ、という雰囲気が出てくる。しかも、夜光の杯は、白玉にしても硝子のコップにしても西方のものであるから、まず、異国情緒たっぷりの宴会の様子になる。

 ところが、承句で、馬の上で琵琶を弾いているいう。しかも、せきたてるようにというのであるから、なにやらあわただしい雰囲気。花むしろにどっかりと腰を据えて悠然と酒を飲む宴会ではない。
 寝ころがって酒を飲んでいる者もあれば、馬に乗って琵琶をかき鳴らしている者もいる。殺伐とした何かに追い立てられるような寸暇の気晴らし。

 転句で、“沙場”という語が出て、ここが砂漠の戦場であることが明らかになる。そこへ、へべれけに酔っぱらった兵士の姿、人に向かって、どうかこの酔態を笑わないでください、と言う。なぜか。

 「昔から、戦争へ出て、いったい何人が無事に帰れましたか」と、最後の句で、読者は冷や水を浴びせられたような厳粛さにうたれるのである。
 明日をも知れぬ命、その過酷な運命を紛らそうと、束の間の歓楽。笑ってくださるな、といって誰が笑えるものだろうか。笑うどころの話ではない。「笑」の一字、千鈞の重みがある。
 戦場のやりきれないような気分が、これほどうまく表現されている詩はそう多くないだろう。辺塞詩の最高傑作の一つと言われている。

 ところで、昭和二十年八月六日、晩夏の広島の空に炸裂した閃光は、十余万の老若男女を焼いた。その四分の三は、瞬死・当日死または翌日死であったといい、現在も、いたましい被爆者が無数におられる。

        糸杉の影の糸杉原爆忌     照 敏

 日本民族の怨念、あるいは昇華である悲願や祈りをこめて、幾多の秀句生んだ新しい季語が、「原爆忌」である。
 “忌”といえば、俳句の世界では、俳人の忌日をさすものであったので、「原爆忌」という語に疑問を持つ人もあり、立項されていない『歳時記』もある。
 しかし、前例としては「震災忌」がある。


      しわしわとただしわしわと原爆忌     季 己

風の音

2009年08月05日 23時07分56秒 | Weblog
          白河の関を越ゆるとて、古道をたどるままに
        西か東か先づ早苗にも風の音     芭 蕉

 『おくのほそ道』の白河の条には、
    「中にも此の関は三関の一にして、風騒(ふうさう)の人、心をとどむ。
     秋風を耳に残し、紅葉を俤(おもかげ)にして、青葉の梢なほあはれな
     り」
 とあるが、その「秋風を耳に残」す心が、眼前の早苗に結集して一句となったものである。
 初案の「早苗にも我が色黒き日数かな」が、能因の故事にすがった表現であるのに対し、この句では、純粋に能因の歌の世界そのものに深まろうとする発想になっている。

 「西か東か」は、西風か東風かの意。西風は秋風、東風は春風、夏ならば南風である。ここでは、いつの季節の風にもせよ、の心でいったものであろう。
 「先づ早苗にも風の音」は、白河の関へ来て、まず早苗にも風の音を聞きえたことよ、という意で、能因の
        「都をば 霞とともに 立ちしかど
           秋風ぞふく 白河の関」(『後拾遺集』)
 を心に置いて、「風の音」をまず聞きえたよろこびを投げ出したものと思う。
 「先づ」は、「風の音」にかかる気持で読み取りたい。秋風の時節のものでない早苗にも、なお秋風の趣を聞き取れたという心の弾みが、「先づ」および「早苗にも」の「も」に生かされている。
 季語は「早苗」で夏。「早苗」に吹く風音を中心とした発想。

    「いま、自分は古の白河の関を越えつつある。折しも白河は早苗の頃で、
     その早苗にも吹き渡る風の音が聞かれる。その風は、西風か東風かは知
     らないけれど、まず風の音を聞きえたことをよろこびとし、ひとしお能因の
     秋風の歌の世界を、なつかしく思いやることだ」


      濡れいろの岩に近づく夏の風     季 己

天王台ニュータウン

2009年08月04日 17時35分11秒 | Weblog
 「ただより高い物はない」と言われるが、福島県泉崎村が主催する『無料招待会』に参加してきた。先月25日(土)のことである。
 東京から新白河までの新幹線代が往復タダ。十割そば昼食がタダ。さつき温泉の入浴がタダ。新白河から泉崎村までの送迎と村の案内も、もちろんタダ。そうして帰りには、13品目の野菜と果物のお土産までもいただいて……。

 この様子は、昨日の夕方、TBSテレビで放映されたので、ご覧になった方がおられるかも知れない。どアップで、見るに堪えない顔が映ったが、あれが変人である。
 もちろん、台本無しのヤラセ無し。事前に、顔を撮してもよいか尋ねられ、承諾したのは変人ただ一人。中には後ろ姿もダメという方も。そんな次第で、さつき温泉での入浴シーンまでも撮られてしまった。
 それにしてもテレビの仕事は、なんと大変なのだろうと、つくづく思う。今回の放映はほんの5~6分。撮影時間はというと、新白河駅に到着した午前10時頃から午後4時頃までの密着取材。カメラは回しっぱなしではないので、実際の撮影時間は2時間ぐらいだろうか。
 これはまさに、変人の「20倍主義」に一致する。たとえば、こうだ。
 観光ボランティアガイドの依頼を受けた場合、2時間のコースならその20倍の40時間をかけて、下準備をするということだ。

 さて、本題に戻ろう。
 福島県泉崎村は、JR泉崎駅から徒歩7分の村営分譲住宅地、「天王台ニュータウン」をあの手この手で売り込んでいるのだが、まだ50区画ほどが売れ残っているという。
 村は、毎年1億2千万円を造成業者に返済しなくてはならない。売れ残れば村の一般会計から補填するしかない。ならば全部売り切るよりしようがない。
 といことで、「天王台ニュータウン無料招待会」が催されたのだった。

 では、なぜ参加したのか。無料だからか、それとも冷やかしか?
 目下の悩みは、若い頃から集めてきた絵画・彫刻・陶磁器など、美術品の保存・保管である。数年以内に起こる確率が高いといわれる大地震。これが来たら、我が家もろとも作品は全滅すること必定。それでは作品・作者に対してたいへん申し訳ない。
 聞けば、泉崎村は、地震をはじめ自然災害が非常に少ないところとのこと。こちらに移住して、保管庫とちょっとしたギャラリーを持つ家を建てれば、問題は解決する。そうして、月替わりで展示替えをすれば、村の方々の目の保養にもなるのではないか。
 また、希望があれば、俳句も教えよう。古典の講読会もやろう。子供たちには国語・算数・数学・ソロバンを教えてあげよう。もちろん無料で、だ。
 山好きで伏見稲荷の講員としては、烏峠稲荷神社のある烏峠がよく見えるところがいい。
 ――ということで、非常に真面目な気持で参加したのだ。
 気に入った区画が一つあったが、あと2~3回訪れることにしよう。なにせ「三度のTさん」と言われた身なので……。
 田舎暮らしを希望され、車をお持ちなら、この「天王台ニュータウン」を強くおすすめしたい。
 

      泉鳴る稲荷は山の頂に     季 己

 ※ 泉崎村の小林日出夫村長のブログ(7月27日)に、「希望を感じ!」と題して、この日のことが書かれています。
 当日、村長さんより「ホタル舞うあぜ道歩く癒しかな」という句を詠んだ、というお話を伺いました。
 また、そのブログに、Tさんならどう詠むだろうか、とありましたので……。
      魂をぬかれ畦ゆく蛍狩り     季 己

白河の関

2009年08月03日 20時25分13秒 | Weblog
          みちのくの名所名所心に思ひこめて、先づ関屋の跡
          懐しきままに、古道にかかり、今の白河も越えぬ。

        早苗にも我が色黒き日数かな     芭 蕉

 曾良の『随行日記』によれば、元禄二年四月二十日の作と思われる。
 眼前の現実である「早苗」によって、能因の故事が、改めて振り返られているのである。「早苗にも」の「も」は、そうした心を負って微妙な味わいをただよわせている。
 「我が色黒き」は、『古今著聞集』の能因のことばをそのまま借り来たったものであろう。同書には、
    「能因は、いたれるすきものにてありければ、
         都をば 霞とともに 立ちしかど
           秋風ぞ吹く 白河の関
     とよめるを、都にありながら、此の歌をいださむ事念なしと思ひて、
     人にも知られず久しく籠り居て、色黒く日に当たりなして後、
     『みちのくにのかたへ修行のついでによみたり』とぞ披露し侍りける」
 とある。

 いよいよ、“みちのく”に第一歩を踏み入れようとしている芭蕉。偽りならぬ実の旅にやつれはてるであろう己が身を、つくづくと振り返っている芭蕉の、そんな目が感じられる。
 けれども、『古今著聞集』からの知識にすがっている点が際立ちすぎている。そこを純化して、やがて改案が生まれてくるのであるが、それはまた後日。

 前書きの「今の白河」は、白河の新・古両関のうちの新関。『随行日記』によれば、芭蕉は新関を越え、古関を尋ねて籏(はた)宿へ廻っている。
 「早苗」が夏の季語。
 能因の「霞―秋風」に対して、「(花)―早苗」という心で、日数を具象化した発想に注目し、学びたい。

    「いま、ようやく白河の関に達した。まだ秋風には早い早苗の頃であるが、
     すでに顔はすっかり日焼けして黒くなってしまった。それにつけても、江戸
     を出てからの日数が、今ははるかなものに思われることだ」


      炎天のきつねとたぬき週刊誌     季 己   

石の香

2009年08月02日 19時53分29秒 | Weblog
 宇宙飛行士の若田光一さんは、草の香に地球を実感し、俳聖芭蕉さんは、石の香に……。

          殺生石
        石の香や夏草赤く露暑し     芭 蕉

 一見、実際の景色をそのまま強烈に描写したもので、芭蕉の作風としては珍しい方に属する。この句はそれだけでなく、青いはずの夏草が赤く、涼しいはずの露が暑いというところに、「石の香」の妖しさが強調されている。
 ただし、この句は自分でも満足できなかったらしく、『おくのほそ道』本文には採られなかった。
 発想としては、謡曲『殺生石』の、
    「那須野の原の、露と消えて猶執心はこの野に残って、殺生石となって
     人をとること多年……」
 が、心の底にあったものであろう。
 なお、殺生石のほとりにある句碑の、
        『飛ぶものは雲ばかりなり石の上』
は、俗に芭蕉の句と伝えられてきたが、これは『名所小鏡』によれば、麦林派の麻父という人の作であるとのこと。

 この句は、『曾良随行日記』の四月十九日の条にあるが、『おくのほそ道』にはない。本文に、
    「殺生石は温泉(いでゆ)の出づる山陰にあり、石の毒気いまだほろびず
     蜂・蝶のたぐひ、真砂(まさご)の色の見えぬほどかさなり死す」
 とあるところに該当する。

 「殺生石」は那須湯本、温泉神社裏手にある輝石安山岩の大石。石の周辺から硫化水素・炭酸ガスなどの有毒ガスを発生し、生物を害する。
 鳥羽天皇の寵姫玉藻の前は、もと天竺の金毛九尾の妖孤であったが、安倍泰成に調伏されて那須野に逃げ、三浦介義明に射殺されたが、その霊は石と化し、生類を害したので殺生石と呼ばれた。後、宝治年間(1247~49)に、源翁禅師の引導を受け成仏したと伝えられている。
 すでに謡曲『殺生石』があり、この伝説の前半は、『国華万葉記』にも見えている。芭蕉は、これらの伝説を心に置いて、紀行本文で、「石の毒気いまだほろびず」といったもの。
 「暑し」も夏の感じだが、「夏草」の方が重く働くので、こちらが季語。「露」だけだと秋季。
 情趣的でなく、「露」「夏草」「石の香」など、素材がみな物として生かされている発想は、注目すべき点である。

    「石のあたりは臭気がただよい、夏草も赤く枯れ、露さえも暑苦しく感じ
     られる。さすが殺生石の名に背かない凄さであるなあ」


      川に戻すキャンプの果ての余り水     季 己