壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

現実の把握

2009年08月20日 20時11分51秒 | Weblog
        秋風や藪も畠も不破の関     芭 蕉

 この句は、貞享元年(1684)九月、芭蕉が、近江から美濃へ廻った時の作で、『野ざらし紀行』に「不破」と前書きされている。不破は、古代の不破の関で、その遺蹟は今の関ヶ原町にある。時の推移とともに荒廃してしまって、のちにはその荒廃ゆえに歌枕となった。
 「不破の関」は、伊勢の鈴鹿、越前の愛発(あらち)とともに、昔の三関の一つである。

 懐古的感懐の句としては、代表的なものの一つとなっている。
 発想の契機は、日本詩歌の伝統ともなっている不破の関の荒廃感である。『新古今和歌集』の、
        人住まぬ 不破の関屋の 板庇(いたびさし)
          荒れにし後は ただ秋の風   藤原良経
 の歌は、この句の本歌として働いてはいるが、「藪も畠も不破の関」という現実の確かな把握による感動の底に沈められ、完全にこの句に同化されている。
 「秋風」という季語も、関跡に立ってのしみじみとした感懐に滲透するものとして生かされ、不動の重みをもっている。「不破」という地名が「破れず」という意をもつにもかかわらず、現実には荒れ果ててしまっていることへの心の動きが、発想に働きかけていたことは否定できない。
 しかし、「藪も畠も」という眼前の現実に即した俳諧的な“発見”を高く評価すべきであろう。

 この句に類似するものに、
        豆植ゑる畑も木部屋も名所かな     凡 兆
 というのがある。これらの句の「も」を重ねてゆく用法を考えるに、それは「藪」とか「畠」、あるいは「畑」とか「木部屋」が、昔の遺蹟の跡だという間接的な認識ではなく、それらがそのまま「不破の関」であり、名所だと読み取るべき句法ではないかと思う。

 この句の本歌とされる良経の歌は、昔の不破の関屋に連続し、その荒廃を見ている趣向であるのに対し、これは、不破の関屋とのかかわりを断絶し、現実の「藪」や「畠」の中に、イメージとしてその面影を重ねている。
 『おくのほそ道』の白河の条の、「秋風を耳に残し、紅葉をおもかげにして、青葉の梢猶あはれ也」という現実肯定の姿勢に先立つ句として、これは意義が認められる。

      「いにしえに、厳しく人の出入りをとどめた不破の関は、その名も空
       しくすっかり荒れ果ててしまった。古人を嘆かせた板庇とて今はな
       く、ただ目に入るものは藪と畠ばかり。そこを秋風がさびしく吹き
       めぐっているのみである。この藪もこの畠もすべて不破の関の跡で
       あると思うと、うたた感慨に堪えないものがある」


      甲斐駒をみて秋風に背を押され     季 己