壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

藤波

2009年04月29日 20時51分48秒 | Weblog
        藤波の 花は盛りに なりにけり
          奈良の都を 思ほすや君   (『萬葉集』巻三)

     「藤波の花は、盛りになりましたなあ。それにつけても、奈良の都の
     ことを、お思いなされますか、君よ」

  これは昔、九州に派遣されていた防人(さきもり)の次官が、藤の花の咲くのを見て、直接、大伴旅人に呼びかけたものであることが、次の旅人の作によって知れる。

           帥大伴卿歌五首
        吾が盛り またをちめやも ほとほとに
          奈良の都を 見ずかなりなむ   (『萬葉集』巻三)

     「吾が年の盛りは、再びかえるであろうか。かえりはすまい。
     ほとんど、奈良の都をも見ないことになろうか」

 藤の花は、その作歌当時にあたかも咲き合わせたものであろうが、それが旅人にも作者にも、共通の思い出のまつわるものであったのかも知れない。
 率直に心を表わして、贈答の歌としては嫌味のない作である。

 一方、旅人は当時、おそらく64歳ほどであろうから、「吾が盛りまたをちめやも」も、腹の底からの声と聞きたい。
 「ほとほとに奈良の都を見ずかなりなむ」にしても、中央政府を遠く離れた老官僚としては、偽りや見せかけではあるまい。中央では、藤原氏一族のみが、多く時めいた時代であることも忘れてはならない。

 今も、奈良の春日大社や猿沢の池のあたり、藤の花が盛りに咲いているが、藤の花は、藤原氏の権力の象徴であったのである。

        春日野の 藤は散りにて 何をかも
          み狩の人の 折りてかざさむ   (『萬葉集』巻十)

     「春日野の藤は散ってしまって、何をまあ、み狩の人は、折って
     かざしとすることだろうか」

 初夏に行なう「み狩」すなわち薬狩は、実用よりは遊覧化されていたので、狩人たる大宮人は、美々しく装って出で立ったと見える。
 その人たちに呼びかける趣で、せっかく春日野の狩をされても、藤はもう散ってしまいました。何か美しいよいかざしの花がありますか、というほどの心であろう。

 今も、東南アジアの女性たちは、通りすがりの花を手折って、さりげなく髪に挿して飾りとする風習があると聞く。
 昔の日本では男女を問わず、花を髪挿しにすることがあった。生花であっても造花であっても、それは、金銀の細工物で作った櫛・簪にまさる魅力に富んだものであった。
 ことに、平安時代には、藤原文化を象徴して、藤の花の髪挿しが最も尊ばれたものである。

 ところで、昔の和歌に、「住の江の岸の藤波」とか、「田子の浦の底さへ匂ふ藤波」「春日山谷の藤波」などと詠まれた「藤波」とは、幾重にも垂れた藤の花房が、風になびいて、美しい紫の花の水面に映る影を、波の立つままに揺るがせている眺めを取り上げたものと言われている。
 『伊勢物語』には、在原行平が人々を招いて、美酒を振舞ったとき、瓶に活けてあった藤の花は、その房の長さが三尺六寸ばかりもあったと書かれているが、今日では、花房の長い品種を「九尺藤」と名付けて、長さ二メートルにも及ぶものがあるという。
 そういえば、あしかがフラワーパークの大藤は、いったいどのくらいの長さにまで垂れ下がるのだろうか。興味のある方は、ぜひ同パークのHPをご覧下さい。大藤の素晴らしい写真も見られますよ!


      藤波のトンネルのなか異国の子     季 己