馬の耳すぼめて寒し梨の花 支 考
元禄五年(1692)二月「東路」での作。季語は「梨の花」で春。
梨の花は、バラ科の落葉果樹で、5~7メートルに成長するが、採果用に丈を低く育てられる。四月末ごろに、卵形の葉の間に白色の小さい五弁の花をつける。花期は短く、その美しさを堪能できるのは束の間であるが、春らしさを象徴する花といえる。
中国では、とくに賞玩して詩などにも詠み入れていて、『長恨歌』に「梨花一枝春雨帯」とあるように、そのさびしい風情を美人の涙を帯びた姿にたとえて用いている。
支考は「百花ノ譜」に、「本妻の傍らに侍る妾のごとし。よろづ物おもひにしづみ、常に人の下にたてるがごとし」と、その風情を描く。
梨の花は、さびしい感じの花であるが、また「底寒き心」といわれるような、寒々とした趣の花でもある。
農家の庭先などに、梨の白い花が咲いているほとりを、春もまだ浅い夕暮れ、仕事に疲れた馬が耳をすぼめて寒そうに通ってゆく、といった句である。
去来は『去来抄』に、「馬の耳すぼめて寒しとは我もいへり、梨の花とよせらるる事妙也」と評しており、疲れた馬の寒そうな風情に、梨の花をたくみに取り合わせた句である。
寒波の襲来で、二月ごろでも底冷えのうそ寒い日があるが、この句には、そうした日の寒さがおのずから伝わってくる趣がある。
支考は、花の風情を一句に生かすのがはなはだ巧妙であり、俳文「百花ノ譜」の作があるのも、もっともであると思わせる。
青天や白き五弁の梨の花 石 鼎
童心のような句である。ただごとと言えば、そうも言えそうだ。
「脂が脱けすぎて物足りなさを感ずる」という評もあるが、それにしても、この淡々たる叙法の中に一種、大家の風格ともいうべきものが、にじみ出ている。
日夜、病床に親しむ作者は、野心も俗情もなく、目に触れる風物と天真爛漫に戯れているのだ。それはやはり、一つの到り着いた境涯に違いない。
何度読み返しても、淡白な上にも淡白な句である。晴れた空の色を背景にして、そこに融け入るような梨の花を描き出したのだ。
「白き五弁の」とは、変哲もない梨の花の形容語に過ぎない。だが、作者はそれ以上の表現欲など持っていないのかもしれない。あまりにも無欲な形容だから、青天の梨の花をかえってくっきりと、五つの弁や蕊までもあらわに描き出してしまうのであろう。
梨の花にょにんの多きバスツアー 季 己
元禄五年(1692)二月「東路」での作。季語は「梨の花」で春。
梨の花は、バラ科の落葉果樹で、5~7メートルに成長するが、採果用に丈を低く育てられる。四月末ごろに、卵形の葉の間に白色の小さい五弁の花をつける。花期は短く、その美しさを堪能できるのは束の間であるが、春らしさを象徴する花といえる。
中国では、とくに賞玩して詩などにも詠み入れていて、『長恨歌』に「梨花一枝春雨帯」とあるように、そのさびしい風情を美人の涙を帯びた姿にたとえて用いている。
支考は「百花ノ譜」に、「本妻の傍らに侍る妾のごとし。よろづ物おもひにしづみ、常に人の下にたてるがごとし」と、その風情を描く。
梨の花は、さびしい感じの花であるが、また「底寒き心」といわれるような、寒々とした趣の花でもある。
農家の庭先などに、梨の白い花が咲いているほとりを、春もまだ浅い夕暮れ、仕事に疲れた馬が耳をすぼめて寒そうに通ってゆく、といった句である。
去来は『去来抄』に、「馬の耳すぼめて寒しとは我もいへり、梨の花とよせらるる事妙也」と評しており、疲れた馬の寒そうな風情に、梨の花をたくみに取り合わせた句である。
寒波の襲来で、二月ごろでも底冷えのうそ寒い日があるが、この句には、そうした日の寒さがおのずから伝わってくる趣がある。
支考は、花の風情を一句に生かすのがはなはだ巧妙であり、俳文「百花ノ譜」の作があるのも、もっともであると思わせる。
青天や白き五弁の梨の花 石 鼎
童心のような句である。ただごとと言えば、そうも言えそうだ。
「脂が脱けすぎて物足りなさを感ずる」という評もあるが、それにしても、この淡々たる叙法の中に一種、大家の風格ともいうべきものが、にじみ出ている。
日夜、病床に親しむ作者は、野心も俗情もなく、目に触れる風物と天真爛漫に戯れているのだ。それはやはり、一つの到り着いた境涯に違いない。
何度読み返しても、淡白な上にも淡白な句である。晴れた空の色を背景にして、そこに融け入るような梨の花を描き出したのだ。
「白き五弁の」とは、変哲もない梨の花の形容語に過ぎない。だが、作者はそれ以上の表現欲など持っていないのかもしれない。あまりにも無欲な形容だから、青天の梨の花をかえってくっきりと、五つの弁や蕊までもあらわに描き出してしまうのであろう。
梨の花にょにんの多きバスツアー 季 己