江 南 春 杜 牧
千里鶯啼緑映紅 せんりうぐいすないてみどりくれないにえいず
水村山郭酒旗風 すいそんさんかくしゅきのかぜ
南朝四百八十寺 なんちょうしひゃくはっしんじ
多少楼台煙雨中 たしょうのろうだいえんうのうち
見渡す限り広々と連なる平野の、あちらこちらから鶯の声が聞こえ、
柳の緑が桃の花の紅と映じ合っている。
水辺の村や山沿いの村の酒屋の目印の旗が、春風の中になびいている。
一方、古都の金陵には、南朝以来の寺院がおよそ四百八十あり、
その多くの寺院の楼台が、もやのような春雨の中に煙っている。
江南地方の春をうたった作品である。前半は晴天の農村風景。後半は春雨の古都のたたずまい。
第一句は、まず、「千里鶯啼いて」と、大きな景色をとらえる。
見渡す限りの枝垂れ柳の緑と桃の花の紅の世界。その広がりの中で、春告げ鳥といわれるコウライウグイスが、高らかに啼く。
視覚と聴覚の両面から、江南地方特有の明るい春をうたいこむ。
第二句は、近景である。そこかしこにはためく酒屋ののぼり――酒旗。この酒旗こそ、この詩のポイントであろう。
村々のさまざまな春景色の中で、作者が着目したのが、この“はたはた”と春風にひるがえる青いのぼり。何気ないようでいて、鋭い着眼である。
後半は一転して、春雨にけぶる古都の風景である。
唐代の人々にとって、「南朝」ということばには、古きよき時代というイメージがある。風流な貴族たちが、華やかな文化を誇った時代、とくに、梁代には絢爛たる仏教文化が栄えた。それから三百年の歳月がたち、かつての繁栄がうたかたのごとく消え、ただ、今も残る多くの堂塔や伽藍に、そのおもかげをしのぶばかり。その楼台が、春雨の中にぼうっとかすんでいる。
この詩は、前半と後半では、天候も背景も大きく異なっているが、これは矛盾ではない。
あらためて「江南の春」という題に注目したい。杜牧は、この二十八字の詩の世界に、「江南の春」ということばによって思い浮かべられる、すべてのイメージをうたいこんだのである。
前半と後半は、“ばらばら”なのではない。明るい農村の風景と、懐古のムードとが渾然一体となって、江南地方の春の情景を描き出して余すところがない。
はぜつるや水村山郭酒旗風 嵐 雪
芭蕉の高弟、嵐雪の初期の句である。季語は「はぜ釣る」で秋。
一見して、杜牧の「江南の春」をふまえた句とわかる。「江南の春」の第二句目をそのまま引用したものであるが、原詩の春景を「はぜつるや」の季語で、巧みに秋興に転じていくところに、独特の俳諧化がなされている。
しかも、語調の上からも、表現の上からも、不自然な感じはなく、はぜ釣りの情趣をよく生かしている点が、軽妙で面白い。漢詩をふまえながら詰屈におちいらず、平明でのどかな響きをかもし出しているのがよい。
「あたりを見わたすと、水辺の村にも山里の村にも、居酒屋の看板の旗が、風に
吹かれている。そんなのどか風景の中で、はぜを釣って楽しんでいることだ」
八重桜みてみちのくの浄土みて 季 己
千里鶯啼緑映紅 せんりうぐいすないてみどりくれないにえいず
水村山郭酒旗風 すいそんさんかくしゅきのかぜ
南朝四百八十寺 なんちょうしひゃくはっしんじ
多少楼台煙雨中 たしょうのろうだいえんうのうち
見渡す限り広々と連なる平野の、あちらこちらから鶯の声が聞こえ、
柳の緑が桃の花の紅と映じ合っている。
水辺の村や山沿いの村の酒屋の目印の旗が、春風の中になびいている。
一方、古都の金陵には、南朝以来の寺院がおよそ四百八十あり、
その多くの寺院の楼台が、もやのような春雨の中に煙っている。
江南地方の春をうたった作品である。前半は晴天の農村風景。後半は春雨の古都のたたずまい。
第一句は、まず、「千里鶯啼いて」と、大きな景色をとらえる。
見渡す限りの枝垂れ柳の緑と桃の花の紅の世界。その広がりの中で、春告げ鳥といわれるコウライウグイスが、高らかに啼く。
視覚と聴覚の両面から、江南地方特有の明るい春をうたいこむ。
第二句は、近景である。そこかしこにはためく酒屋ののぼり――酒旗。この酒旗こそ、この詩のポイントであろう。
村々のさまざまな春景色の中で、作者が着目したのが、この“はたはた”と春風にひるがえる青いのぼり。何気ないようでいて、鋭い着眼である。
後半は一転して、春雨にけぶる古都の風景である。
唐代の人々にとって、「南朝」ということばには、古きよき時代というイメージがある。風流な貴族たちが、華やかな文化を誇った時代、とくに、梁代には絢爛たる仏教文化が栄えた。それから三百年の歳月がたち、かつての繁栄がうたかたのごとく消え、ただ、今も残る多くの堂塔や伽藍に、そのおもかげをしのぶばかり。その楼台が、春雨の中にぼうっとかすんでいる。
この詩は、前半と後半では、天候も背景も大きく異なっているが、これは矛盾ではない。
あらためて「江南の春」という題に注目したい。杜牧は、この二十八字の詩の世界に、「江南の春」ということばによって思い浮かべられる、すべてのイメージをうたいこんだのである。
前半と後半は、“ばらばら”なのではない。明るい農村の風景と、懐古のムードとが渾然一体となって、江南地方の春の情景を描き出して余すところがない。
はぜつるや水村山郭酒旗風 嵐 雪
芭蕉の高弟、嵐雪の初期の句である。季語は「はぜ釣る」で秋。
一見して、杜牧の「江南の春」をふまえた句とわかる。「江南の春」の第二句目をそのまま引用したものであるが、原詩の春景を「はぜつるや」の季語で、巧みに秋興に転じていくところに、独特の俳諧化がなされている。
しかも、語調の上からも、表現の上からも、不自然な感じはなく、はぜ釣りの情趣をよく生かしている点が、軽妙で面白い。漢詩をふまえながら詰屈におちいらず、平明でのどかな響きをかもし出しているのがよい。
「あたりを見わたすと、水辺の村にも山里の村にも、居酒屋の看板の旗が、風に
吹かれている。そんなのどか風景の中で、はぜを釣って楽しんでいることだ」
八重桜みてみちのくの浄土みて 季 己