ほろほろと山吹散るか滝の音 芭 蕉
「滝の滾(たぎ)ち流れる音が、ごうごうとひびいている。その音の中で、
静かに山吹の花を見ていると、こぼれるように、ほろほろとその花が散って
いるよ」
実景に感じ入って初めて捉え得る、内容の重さがある句である。句全体が滝の音の中にこもっているようだ。その中で、眼前の山吹に目をやっていると、それがほろほろとこぼれつづくのである。
この滝の音は遠くてはだめで、滝の音があたりを占めていて初めて、「山吹散るか」が生きてくる。
「ほろほろと」も「散るか」も非常に微に入って、物静かで奥深い感じを出している。「ほろほろと山吹散るか」と「滝の音」との間に、深くくい入ってくる沈黙がある。
この句には、「岸の山吹と詠みけむ吉野の川上こそみな山吹なれ。しかも一重に咲きこぼれてあはれに見え侍るぞ、桜にもをさをさ劣るまじきや」と前文がある。
「岸の山吹と詠みけむ吉野の川上」というのは、『古今集』にある紀貫之の
吉野川 岸の山吹 吹く風に
底のかげさへ うつろひにけり
を、心にしたものと思われる。
「散るか」の「か」は、終助詞で、詠嘆の意を表す。と同時に、「誰かと思ったら、君か」の「か」のように、不意のことに出会った驚きをも表わしていよう。季語は「山吹」で春。
かげろふやほろほろ落つる岸の砂 土 芳
土芳(とほう)は、芭蕉の門人というより、伊賀蕉門の中心人物である。
伊賀上野は、盆地だけに冬の冷えが厳しい。しかし、確実に春はやって来る。
明るい光に、凍てついた土がゆるみ、水がしみ、かげろうがもえ、砂は乾いて、ほろりまたほろりとこぼれる。
かすかな動きがある。それから物皆いっせいに動き、新芽が萌え出す。ほんのかすかな動きが早春を象徴する。
師の芭蕉の、「ほろほろと山吹散るか滝の音」に似ていて、これはまた明るくやさしい。季語は「かげろふ」で春。
山あかりして山吹のものおもひ 季 己
「滝の滾(たぎ)ち流れる音が、ごうごうとひびいている。その音の中で、
静かに山吹の花を見ていると、こぼれるように、ほろほろとその花が散って
いるよ」
実景に感じ入って初めて捉え得る、内容の重さがある句である。句全体が滝の音の中にこもっているようだ。その中で、眼前の山吹に目をやっていると、それがほろほろとこぼれつづくのである。
この滝の音は遠くてはだめで、滝の音があたりを占めていて初めて、「山吹散るか」が生きてくる。
「ほろほろと」も「散るか」も非常に微に入って、物静かで奥深い感じを出している。「ほろほろと山吹散るか」と「滝の音」との間に、深くくい入ってくる沈黙がある。
この句には、「岸の山吹と詠みけむ吉野の川上こそみな山吹なれ。しかも一重に咲きこぼれてあはれに見え侍るぞ、桜にもをさをさ劣るまじきや」と前文がある。
「岸の山吹と詠みけむ吉野の川上」というのは、『古今集』にある紀貫之の
吉野川 岸の山吹 吹く風に
底のかげさへ うつろひにけり
を、心にしたものと思われる。
「散るか」の「か」は、終助詞で、詠嘆の意を表す。と同時に、「誰かと思ったら、君か」の「か」のように、不意のことに出会った驚きをも表わしていよう。季語は「山吹」で春。
かげろふやほろほろ落つる岸の砂 土 芳
土芳(とほう)は、芭蕉の門人というより、伊賀蕉門の中心人物である。
伊賀上野は、盆地だけに冬の冷えが厳しい。しかし、確実に春はやって来る。
明るい光に、凍てついた土がゆるみ、水がしみ、かげろうがもえ、砂は乾いて、ほろりまたほろりとこぼれる。
かすかな動きがある。それから物皆いっせいに動き、新芽が萌え出す。ほんのかすかな動きが早春を象徴する。
師の芭蕉の、「ほろほろと山吹散るか滝の音」に似ていて、これはまた明るくやさしい。季語は「かげろふ」で春。
山あかりして山吹のものおもひ 季 己