壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

かはづ

2009年04月28日 20時24分26秒 | Weblog
        昼蛙どの畦のどこ曲らうか     桂 郎

 「蛙」は、一般的には「かえる」であるが、俳句では「かはづ」、現代仮名遣いで書けば「かわず」である。
 古典俳句で「かえる」と読む代表句は、一茶の「瘦蛙まけるな一茶是にあり」であろう。また、赤蛙・土蛙・殿様蛙などは、「かはづ」ではなく「かえる」、正確には、「赤がえる」のように「~がえる」と読む。

        夜の雲にひびきて小田の蛙かな     蛇 笏

 千葉県の北柏で、ソロバンを教えていたことがある。
 教室の窓を開け放すと、夜風が涼しく肌に心地よく感じられる頃、遠くの田圃から風に乗ってくる蛙の声が、さわやかな初夏の気分をそそり立てる。

 ケロケロケロケロ、コロコロコロコロ、八つ手の葉などにとまった雨蛙や、緑濃い谷間に聞く河鹿の歌声もよいものだが、晩春から初夏にかけて、田園交響曲を奏でる蛙の声もまた、楽しく心和むものである。

        夕蛙いもうと兄を門に呼ぶ     敦

 夕方、なかなか帰ってこない兄を呼びに、妹が、サンダルを突っかけて玄関を出る。門のところで、「おにいちゃーん、ご飯だよー!」と大声で叫ぶ。それでも戻らぬ兄を待ちながら、蛙の合唱に聞きほれて、ぼんやりと門前にたたずんでいる。昔は、誰しもが経験したことであるのだが……。
 オスがメスを誘う情感をこめて歌っている蛙の声が、またそれだけに、遠く聞く人間の耳をもひきつける、はなやいだ楽しさを持っているのかもしれない。

        人の恋きき手にまはる遠蛙     真砂女

 蛙の声に迎えられ、蛙の声に送られてゆく、田圃道のそぞろ歩き。あの姿形からは思いもよらぬ、ロマンティックな情緒をかもし出す。
 そういう意味でなら、古池に跳びこむ水の音に、寂びの境地を聞きつけた芭蕉さんは、とんでもない野暮天だといわねばなるまい。
 そういえば、跳ね上がった鯉でも、落ちた木の実でも、極端にいえば、思わず蹴飛ばした石ころでも、芭蕉の句の世界には、天地の静寂を破るかすかな水音がありさえすれば、よかったのだから。
 それにひきかえ、真砂女の句の「きき手にまはる」が、なんと粋で、「遠蛙」とよく響きあっていることか。

 
      朝かはづ般若心経くりかへし     季 己