「柳は緑、花は紅」という言葉がある。
「柳は緑色、花は紅色」ということである。「なんだ、そんなの当たり前じゃないか」という声が聞こえてきそうだ。その通り、当たり前ということなのだ。
ただそれだけの、ありのままの自然の姿こそが真実だという意味である。
オレオレ詐欺・振込め詐欺・定額給付金詐欺と、平気で人を騙す世の中、人々は、上から下から斜めから、疑って疑って確かめて、信じることを忘れた日々。
早く安心して、柳があるがままの緑色に、花はそのままの紅色に見える日がきてほしい。
真実をそのまま見るには、少しの勇気も必要だ。柳は緑でよし、花は紅でよし、それぞれが自分の色を持っていてよし、ということである。
対岸の人に日当る柳かな 稚 魚
柳といえば、ふつう中国原産の枝垂柳を指すことが多い。“銀座の柳”といわれるように、街路樹にも多く植えられ、公園や池畔に見る風になびく姿は、独特で風情がある。
青柳のまゆかくきしのひたひかな 守 武
『守武千句』第二の百韻の発句である。「青柳」が春の季語。
「青柳のまゆ」は、青柳の葉を女性の細くて美しい眉に見立てていう慣用語で、漢語にも柳眉(りゅうび)といい、また白楽天の詩句「昭君村の柳は眉よりも翠(みどり)なり」なども『和漢朗詠集』に採られて、日本人には古来なじみが深かった。
「まゆかく」は、眉墨で眉をかくこと。
「きしのひたひ」は、岸の突き出た部分を、人間の額(ひたい)に見立てていう語。「かな」は、この句の切字である。
一句は、岸辺の枝垂柳が、浅緑の葉をつけはじめたころの春景色を詠んだものである。しかし、作品の主意は、情景の美的表現などには置かれていない。それが、その当時の俳諧というもので、この句は、その春景色を擬人化することによっておかしみをねらっている。
(岸の)額に(青柳の)眉をかいている、という擬人化である。ただ「額に眉をかく」では当たり前すぎて、おかしくもなんともない。「岸の額の柳が青んだ」と言っても前と同様である。
その後者を、前者の上に重ね合わせて、二重写し的に擬人化し、人間の額ならぬ「岸の額」に、眉墨の眉とは似て非なる「青柳の眉」をかいている、というふうに、通常の観念を思いがけない方向にずらしてしまう。その意外性が、笑いを生む仕掛けになっている。
笑いの根底には意外性が、多かれ少なかれ常に働いているが、守武は心がけてそれを実践している。
なお、この句では、青柳と岸、眉と額が、それぞれ縁語関係をなしている。しかし、この二重の縁語仕立てによる言語遊戯だけをこの句のねらいと見る解釈も行なわれるが、それはむしろ手段であって、重点は擬人化の方にあったと見たい。
芽柳の土手 颯爽と松葉杖 季 己
「柳は緑色、花は紅色」ということである。「なんだ、そんなの当たり前じゃないか」という声が聞こえてきそうだ。その通り、当たり前ということなのだ。
ただそれだけの、ありのままの自然の姿こそが真実だという意味である。
オレオレ詐欺・振込め詐欺・定額給付金詐欺と、平気で人を騙す世の中、人々は、上から下から斜めから、疑って疑って確かめて、信じることを忘れた日々。
早く安心して、柳があるがままの緑色に、花はそのままの紅色に見える日がきてほしい。
真実をそのまま見るには、少しの勇気も必要だ。柳は緑でよし、花は紅でよし、それぞれが自分の色を持っていてよし、ということである。
対岸の人に日当る柳かな 稚 魚
柳といえば、ふつう中国原産の枝垂柳を指すことが多い。“銀座の柳”といわれるように、街路樹にも多く植えられ、公園や池畔に見る風になびく姿は、独特で風情がある。
青柳のまゆかくきしのひたひかな 守 武
『守武千句』第二の百韻の発句である。「青柳」が春の季語。
「青柳のまゆ」は、青柳の葉を女性の細くて美しい眉に見立てていう慣用語で、漢語にも柳眉(りゅうび)といい、また白楽天の詩句「昭君村の柳は眉よりも翠(みどり)なり」なども『和漢朗詠集』に採られて、日本人には古来なじみが深かった。
「まゆかく」は、眉墨で眉をかくこと。
「きしのひたひ」は、岸の突き出た部分を、人間の額(ひたい)に見立てていう語。「かな」は、この句の切字である。
一句は、岸辺の枝垂柳が、浅緑の葉をつけはじめたころの春景色を詠んだものである。しかし、作品の主意は、情景の美的表現などには置かれていない。それが、その当時の俳諧というもので、この句は、その春景色を擬人化することによっておかしみをねらっている。
(岸の)額に(青柳の)眉をかいている、という擬人化である。ただ「額に眉をかく」では当たり前すぎて、おかしくもなんともない。「岸の額の柳が青んだ」と言っても前と同様である。
その後者を、前者の上に重ね合わせて、二重写し的に擬人化し、人間の額ならぬ「岸の額」に、眉墨の眉とは似て非なる「青柳の眉」をかいている、というふうに、通常の観念を思いがけない方向にずらしてしまう。その意外性が、笑いを生む仕掛けになっている。
笑いの根底には意外性が、多かれ少なかれ常に働いているが、守武は心がけてそれを実践している。
なお、この句では、青柳と岸、眉と額が、それぞれ縁語関係をなしている。しかし、この二重の縁語仕立てによる言語遊戯だけをこの句のねらいと見る解釈も行なわれるが、それはむしろ手段であって、重点は擬人化の方にあったと見たい。
芽柳の土手 颯爽と松葉杖 季 己