壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

水草生ふ

2009年04月16日 20時28分38秒 | Weblog
        伊勢の海の魚介豊かにして穀雨     かな女

 穀雨は、二十四節気の一つで、陰暦三月の中で、陽暦四月二十日ごろに当る。
 「雨百穀を生ずる」、すなわち、「春雨が降って百穀を潤す」意で、しとしとと降り続くあたたかい雨が、やがて田んぼに満ちて、浮き草がただよい浮かぶようになる。苗代の早稲もようやく出揃って、日一日と草丈が伸びてくる。

        うきくさや池の真中に生ひ初むる     子 規

 若草に薫る風が、池の水面にさざなみの小じわを寄せて吹き渡り、小さなうきくさがゆらゆらと漂うようになると、もうそれは、たけなわの春というよりも、新鮮な初夏の感じに移っている。
 「うきくさ生ふ」は春の季語だが、単に「うきくさ」は夏の季語となる。
 「うきくさ」はまた、「根無草(ねなしぐさ)」ともいうが、「うきくさ」の葉の裏には、細い鬚根が垂れ下がっていて、根がないわけではない。

        芽を出すや心をたねに根無草     鬼 貫

 これは、皮肉な鬼貫(おにつら)が、貫之の『古今和歌集』仮名序「和歌(やまとうた)は人の心を種として万(よろづ)の言の葉とぞなれりける」を、もじって詠んだ句である。

        水草生ふ風土記の村をたもとほる     風 生

 「水草生(みくさお)ふ」は、水がぬるんできた三月ごろから、沼や池、川などに、いろいろな水草の生えてくることをいう。水草が生えはじめることで、水のぬるみはじめたことを、視覚的に受けとめることができる。
 『古今和歌集』の「我門の 板井の清水 里遠み 人しくまねば みくさおひにけり」以来、古歌にもたびたび詠まれている。
 その歌言葉としての古さが、「風土記(ふどき)の村」によくつりあっているのだ。「風土記の村」といえば、由緒の古い村であり、関東ではさしずめ常陸の水郷が思いうかぶ。
 「水草生ふ風土記の村」というのが、いかにも風生らしい気のきいた表現である。ことに「水草生ふ」は、なにか枕詞か序詞めいた感じで、なだらかに次の言葉を誘い出し、具象的にここが水郷らしいイメージを生み出してもくる。おそらく霞ヶ浦か北浦のほとりの村であろう。

        ふかきより水草の茜さして生ふ     爽 雨

 穀雨の季節には、「うきくさ」ばかりではない。金魚藻・石菖藻・菱・ジュンサイ・ひつじ草・河骨・蓮・慈姑(くわい)・水葵など、根のある水草も、どんどん新しい芽を吹いて、伸びてくる。
 池や沼や、川の淀みに、五月雨の頃とは違って、まだ底も濁らず、澄み透った水の中で、ゆらゆら絶えず揺れ動いている早緑の水草。
 照る日、輝く波。地上の若葉とは違った独特のすがすがしさを味わうことが出来る。

        ゆふぐれのしづかな雨や水草生ふ     草 城

 間もなく、この水草の林の中から、蜻蛉のヤゴや、蛙のおたまじゃくしが泳ぎだすことだろう。


      水草生ふ仙台堀の月日かな     季 己