「社民党は月火水とフクシマで研修を行い、大熊町、浪江町、双葉町を視察してきました。本当はバスから降りて視察したかったのですが、放射線量が高く、大熊町ではバスの中でも10ミリシーベルトを超えていました。時々バスから降りて視察しましたが、町はほとんど動いていません。本当にあの三年前のままでした。この現実を安倍総理は見るべきです。改めて原発廃炉を心に刻みました。
川内原発では避難計画、防災計画に根本的問題があって、要介護の人は原則自宅待機、動かさないという、是は本当に問題です。それにマッチングを具体的にやっていない自治体がほとんどです。鹿児島もやっていない。愛媛もやっていない。障害のある人をどうするかという具体的な避難計画を、具体的にやっていない中で原発再稼働はあり得ません。昨日全国から来た人たちは激怒していました。避難計画は、30キロ圏内の自治体は義務づけられています。にもかかわらず再稼働に対して意見を言う権利がないのはおかしい。30キロ圏内はせめて同意があるべきだと主張しましたが、規制庁は明言しません。30キロ圏内には反対と言っている自治体があります。自治体として裁判に提訴しました。当然だと思います。大飯原発の判決が言った250キロ圏内の自治体に意見を言う権利があると思いますが、30キロ圏内はマストじゃないですか。30キロ圏内の自治体の同意は権利としてある。そのことを大きく主張していきたい。
一昨日、幌延の人たちと高レベル廃棄物の処理について行政の人と話し合いました。これもまた杜撰です。1000年建築が持つかどうかという議論になりました。でも、10万年間管理できなくてどうするのですか。日本ではまだ高レベル廃棄物の処分場は決めていません。決められないと思います。日本のどこにも地震があり、地下水とのたたかいで、幌延も瑞浪も沢山の地下水が出てそれの処理に困っています。だとしたら地層処分は無理だ、そしてもう核のゴミをつくるな、そういう闘いをみなさんとしっかりやっていきたい。
今、私たちは追い詰めていると思います。大飯原発の判決、差し止め、認められました。そしてもう一つ、この判決の影響が大きいと言われていますが、検察審査会が東電元会長勝俣さん、元副社長の武藤さん、武黒さんを起訴相当、責任を問うと言いました。その通りだと思います。何故か。東電はずっと議論していて高い津波が起きる、場合によっては十四、五メートルの高い津波が起きるという報告書を出していました。津波が起きる、それをどうするかという議論を東電はしっかりやっていたんです。でも、お金がかかる、あるいはこんなことをやっていたら原発は動かせないということで、先送りします。なんと、3月11日の事故の直前に保安院にも報告が入ります。だから福島瑞穂は言いたい。東電も保安院も想定外だなんて言えない。検察審査会は、東電には刑事上の責任があると判断したんです。検察審査会の議決は、被害の心に寄り添った者だと私は思います。
検察庁に私は言いたい。二回検察審査会で起訴相当となれば強制起訴になります。この場合弁護士が強制弁護人になります。でも、検察庁は一回起訴相当が出れば、検察庁として起訴すべきではないか。検察庁は強制捜査の中で沢山の資料を集めています。検察庁自ら起訴をすべきです。
避難計画、防災計画は絵に描いた餅。みんなを安全に避難などさせることはできない。だから原発再稼働反対。廃炉に向かってがんばりましょう。」福島瑞穂社民党議員。
■拡散歓迎■ (レイバーネットから)
京都の岡真理です。
ISM(国際連帯運動)のHPから、サラ・アル=ゲルバーウィーのフォト・エッセイ「
ガザのたくさんの物語」をご紹介します。
サラは、1991年生まれの23歳。ガザのイスラーム大学出身です。
イスラーム大学は6年前のキャストレッド作戦でも爆撃され破壊され、今回も、爆撃に遭
いました。テロリストの兵器開発センターだという理由で。
サラは、そのとおりだ、と言います「もっとも危険なテロリズムがここで行われていた―
―知を築くというテロが!」と。
原文のサイトには、たくさんの写真が掲載されています。破壊される前の美しいイスラー
ム大学の写真もあります。ぜひ、それらの写真を見ながら、お読みください。
■■ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
http://palsolidarity.org/2014/08/more-stories-from-gaza/
ガザのたさくんの物語
サラ・ゲルバーウィー
ISM / 2014年8月9日
亡くなった者たちについて書こうとすると、どこから書き始めたらいいのか、途方に暮れ
てしまう。死者の数は今、1898人に達している。うち子どもが433人、女性が243人、
85人が老人。負傷者は、9837人。
彼らは、何千もの物語を遺して逝った、癒しがたい痛みとともに。
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ぼくは、イブラーヒーム・イスマーイル・アル=グール。左の写真がぼく。ぼくには、双
子の弟がいた。
ぼくたちはいっしょに生きてきた、ママのお腹のなかで9か月、それから外に出て10日間
だけ。
ぼくたちはずっと一緒に生きていくのだと思ってた。一緒に遊んで、一緒に幼稚園に行っ
て、それから一緒に学校に行って、大学に行って、友だちも一緒。ぼくたちは永遠に親友
だと思ってた。
ぼくの双子の弟は、殺されてしまった。もうちょっと成長して、外の世界の生活を見るこ
ともなく。
ぼくは、ぼくの分身、ムハンマドを亡くした。
ぼくが亡くしたのは双子の弟だけじゃない。ぼくはママも亡くした。パパも、お兄ちゃん
のワーエルも。ぼくにはもう、ママともパパとも、お兄ちゃんとも知り合うチャンスがな
いんだと思うと、ぼくはとっても悲しい。それから、ぼくの2人のすてきなお姉ちゃんた
ち、ハナディとアスマーも。二人も殺されてしまった。
ぼくのお兄ちゃんやお姉ちゃんたちは、アイスクリームの冷凍庫の中にいる。右側の写真
がそれ。病院はいっぱいで、もうそれ以上、死んだ人たちのための場所がなかったから。
それ以上の痛みの場所も。
--------------
8月3日、日曜、アル=グール家は10人の家族を失った。イブラーヒームの家族と、イブラ
ーヒームの叔父の5人の家族だ。
--------------
ぼくはラーミー・ラヤーン。ぼくには、ぼくのことをこの地上の誰よりも愛してくれる母
と父がいた。ぼくは1人息子だった。両親はぼくに何でも与えてくれた。ぼくは彼らの人
生そのものだった。
ぼくには愛する妻と4人の子どももいた。ぼくが殺されたとき、いちばん上の子はまだ8
歳だった。ぼくは仕事中に殺された。銃を持っていたわけじゃない。ぼくが手にしていた
のはカメラだ。
彼らはぼくの人生を盗んだだけじゃない。家族全員の人生を盗んだのだ。ぼくが死んだの
は一度きりだけれど、可哀そうな僕の家族は、毎日、いったい幾度、死ぬのだろう、ぼく
なしで生きなければならない今となっては。彼らは決して忘れないだろう。決して許さな
いだろう。
-------------
ぼくはモーメン・クライケ。パレスチナ人のフォトジャーナリスト。27歳。
2008年、ぼくは仕事中、イスラエルの空襲を受け、両脚を失った。
2014年、同じ敵によって、自宅を失った。
ほかに何を失うかなんて、誰も予想できない。
------------
私たちのみなが同じ痛みを分かち持っている。私たちのみなが知っている、感じている、
喪失とは何を意味するのかを。私たちの誰ひとり想像することはできない、私たちの残り
の人生が――もし、これを人生と呼ぶのが正しいとして――この瞬間ののち、いったいど
のようなものになるのか。
私たちは瞳を失った。私たちの無垢な、可哀そうな、純粋な赤ちゃんたちが殺された、何
の罪もないのに。この子たちだって人生を愛していただろうに、でも、生きる機会を与え
られなかった。でも、それは、――生きることは――この子たちのささやかな権利だった
!
ここに、私たちの家があった。
私たちには生活があり、思い出があり、喜びがあり悲しみがあった……そのすべてが瓦礫
の下に完全に埋められてしまった。何もかもが一瞬でなくなってしまった。
家を建てるには、時間が必要、健康も、お金も必要。小さなディテールが生まれて、それ
が積み重なって、一つ一つのピースが「生」の鼓動を打つまでになるには、たいそう長い
時間が必要。
たくさんの物語が、今、この場の限界を超え、意味を失ってしまった。たくさんの感情が
、もう二度と感じられない。たくさんの匂いが失われてしまった。
残されたのは、ただ、破壊と、喪失の悲しみと、果てしない死の匂いだけ。
これが私の大学。
私はここで、自分の未来を築いた。人生でもっとも輝いていたときだった。世界への扉だ
った。この建物で、私は友人たちと、卒業式でたくさんの写真を撮った。友人たちを愛す
るのと同じくらい、この大学を愛していた。
私の大学は美しかった。そう思うでしょう? テロが行われるように場所に見える? 私
の答えはイエス。もっとも危険なテロリズムがここで行われていた――知を築くというテ
ロが!ここで、私たちは占領に対して、教育と知識でいかに対抗するかを、そして、世界
に、私たちが何者であるのかをいかに知らしめるかを学んだのだから。私のことばこそが
私の武器!
-----------------------------
サラ・アル=ゲルバーウィー パレスチナ人市民。1991年サウジアラビア生まれ、現在は
ガザ地区在住。ガザ・イスラーム大学で経営学を学ぶ。現在はメディア・プロジェクトの
コーディネーターとして働く。
-----------------------------
[翻訳:岡 真理]
2014年8月15日
敗戦69年にあたって(声明)
社会民主党
1.第二次世界大戦の終結から69年目の8月15日を迎えました。戦争の惨禍によるすべての犠牲者に哀悼の意を捧げます。かつて国策の誤りによる戦争への道が、国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大な損害と苦痛を与えました。この歴史の事実に「痛切な反省」と「心からなるお詫び」を表明した戦後50年にあたっての「村山談話」の意義が再認識されるなかで、私たちは、多くの犠牲の上に獲得した平和憲法の偉大な価値を改めて胸に刻み、二度と戦争をしない、させない国であり続けることを誓います。
2.戦後、日本は平和国家として歩み続け、他の国々との信頼を築く努力を積み重ねてきました。しかし安倍内閣は、国家安全保障会議(日本版NSC)設置法や特定秘密保護法の強行成立をはじめ、武器輸出三原則の撤廃や自衛隊の増強、平和・民主教育から国家主義教育への転換などを画策し、「戦争ができる国」づくりを進めています。そしてついに、歴代内閣がこれまで「憲法上許されない」としてきた「集団的自衛権の行使」を容認する閣議決定に踏み切りました。自衛隊が「専守防衛」から武力行使の「軍隊」に変貌し戦争に加担していくことは、世界からの信頼を失墜させるばかりでなく、国民に多大な犠牲を強いるものにほかなりません。「自衛」の名の下で、暮らし・命と平和が壊されていくことは断じて許すわけにいきません。
3.地上戦が行われた沖縄では、「普天間基地返還」「辺野古新基地建設反対」という県民総意が日米両政府によって公然と踏みにじられ、辺野古の埋立工事が強行されています。建設に反対する市民・県民への取締りも強化され、運動排除のために海上自衛隊の掃海母艦の派遣が検討されています。米軍基地建設を「護衛」するために自衛隊を派遣する構図は、日本国民に対しても武力を行使することをいとわない安倍政権と日米同盟の本質を示すものです。11月には県知事選挙が行われます。社民党は、沖縄を「戦争ができる国」の捨て石にすることを許さず、県民とともに真の「主権回復」をめざして闘います。
4.唯一の戦争被爆国となった日本は、非核三原則を固く誓ったにもかかわらず、「平和利用」という詭弁による原発政策によって三たび核の脅威にさらされました。ヒロシマ・ナガサキ・フクシマの惨禍がいまなお多くの国民を苦しめ、これから生まれてくる子どもたちにも事故処理の多大な犠牲を強いるにもかかわらず、安倍首相は「事故を経験したから安全技術が高まった」という屁理屈で原発輸出に邁進し、「世界で最も厳しい安全基準」という新たな詭弁を塗り重ね再稼働を進めようとしています。「人類と核は共存できない」という国民の怒りの声を結集し、脱原発を実現していきます。
5.「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにする」との決意を表明した日本国憲法前文は、戦禍を生き延びた先人たちの「国民総意」であると同時に、戦後日本の平和と繁栄を築く指針となってきました。社民党は、安倍政権による「戦争ができる国」づくりを阻止するとともに、「恒久の平和」を願ったこの決意の尊さを次世代に引き継いでいくことを誓います。
以上
■拡散歓迎■
京都の岡真理です。
現在、古居みずえさん、土井敏邦さん、志葉玲さんなどのインディペンデントのジャーナ
リストの方々がガザに入られ、現地から報告を届けてくださっています。
個々の方々のブログ等でも読めますが、パレスチナ情報センターのアーカイブが随時、リ
ンクを貼ってくださっており、ここで、その他の情報とあわせて、最新の更新記事を読む
ことができます。
http://palestine-heiwa.org/#ac
これらインディペンデント・ジャーナリストのみなさんのご努力に心からの敬意を捧げ、
その安全をお祈りするとともに、アーカイブの更新作業という地道な作業を通して、パレ
スチナの貴重な情報を社会に届けてくださっているパレスチナ情報センターのみなさまに
も心から感謝いたします。
■---■---■
ガザで起きていること、それは、イスラエル国家によるパレスチナ人に対する、紛れもな
いジェノサイドです。70年近く前、パレスチナを不当に占領下者たちが、50年近くに
わたりガザを占領し、さらに、その住民たちを7年以上、封鎖下におき、そして今、その
住民たちを大量殺戮している――それが、今、ガザで起きていることです。
しかし、主流メディアの報道は、イスラエル側の主張に沿う形で、問題を、イスラエル対
ハマースという構図に切り縮め、そうすることで問題の本質、すなわち、これがガザに対
するジェノサイドであり、ガザの全住民たちがいま、イスラエルによる「漸進的ジェノサ
イド」と、その占領と封鎖と闘っているのだ、という事実を隠蔽していると思います。
マイケル・メリーマン=ロッツの「私はパレスチナ側の暴力を認識できていないのだろう
か」をご紹介いたします。問題の本質とは何であるか、暴力の「現象面」だけに捉われる
ことがいかに問題の本質から私たちの認識を逸脱させてしまうか、ということについて、
たいへん示唆に富むテクストです。
メリーマン=ロッツは、「アメリカの友人奉仕カウンシル」の中東担当として、長らくパ
レスチナ・イスラエル問題に深くコミットし、第二次インティファーダのもとで、双方の
暴力のありようを潰さに体験してきた人です。
第二次インティファーダで、双方の暴力が頂点に達していたとき、ホロコースト生還者を
両親にもつサラ・ロイさんが語った言葉が思い出されます――「パレスチナ人の自爆攻撃
という忌むべき犯罪が生起するのは、この「占領」という文脈においてなのです。占領が
なければ、自爆攻撃もないのです」(サラ・ロイ「ホロコーストとともに生きる――ホロ
コースト・サヴァイヴァーの子どもの旅路」より。『みすず』2005年3月号)
■■ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
http://mondoweiss.net/2014/08/acknowledge-palestinian-violence.html
私はパレスチナ側の暴力を認識できていないのだろうか?
マイケル・メリーマン=ロッツ
Mondoweiss / 2014年8月12日
先月ずっと、ガザで起きていることについて書いたり、語ったりする中で、私は多くの
人々から、私がイスラエルとパレスチナの問題で一方の側に偏った立場をとっていると、
そして、私がパレスチナ側の暴力を認識しそこなっていると言って批判されている。同じ
ような批判がほかの多くの者たちにも向けられているのを目にし、この問題についてとり
あげてみたいと思った。
この問題に関して一定期間、アクティヴィズムに関わってきた者ならだれでも、彼あるい
は彼女をして長期にわたるアクティヴィズムに関わらせる契機となった特別の瞬間という
ものがある。私の場合、その瞬間とは、2人のイスラエル人兵士が2000年10月、ラ
ーマッラーで殺されたときだ。
私がエルサレムに行くタクシーを拾おうとしていると、二人の兵士がラーマッラーの警察
署に連れて行かれるところだった(警察署はタクシー乗り場の隣にある)。警察署の外で
30分はゆうに立っていると、群衆が集まってきた。彼らは、その日、あとで予定されて
いる葬儀のときに誰かを暗殺することになっていたイスラエル兵士のスパイ2名が捕まっ
たという噂を聞きつけて、やって来たのだ。男たちはスパイではなかったことが分かるの
だが、状況や歴史を考えると、故なき噂ではなかった。
警官たちが警察署の周りの壁を輪になって取り囲んだので、私はタクシーでエルサレムに
行こうとタクシー乗り場に歩いて行った。私の乗ったタクシーが出発すると、誰かがタク
シーを止め、兵士が殺されたと叫んだ。私はラーマッラーの野菜市場の前でタクシーを飛
び下り、アル=マナーラ広場(ラーマッラーの中央広場)を横切り、私を自宅に届けてく
れるビールゼートタクシーに向かった。アル=マナーラ広場を横切ったところで、青年た
ちの一団が二人の兵士の遺体を引きずって、広場に入ってきた。それらの男たちの一人が
、私ののど元をつかみ、私を脅した。ほかの者たちは、兵士の遺体を蹴ったり、残忍な扱
いをしていた。私は、襲ってきた男をなんとか説得して解放してもらうと自宅に戻った。
数時間後、イスラエルのアパッチヘリコプターがラーマッラーの警察署を爆撃するのを見
た。
これは、私にとって、人生の転換点となる瞬間だった。残忍な暴力と怒りを経験したのは
それが初めてだった。特権的で庇護された環境で育って、私は、このような極端な暴力が
こんなにもすぐに現れるということが理解できなかった。その前にも、人が撃たれるのを
遠くから目撃したことはあったが、自分の知らない誰かが撃たれるのを遠くから眺めるの
は、驚くほど、心に響かない経験だった。だが、兵士の殺害という、生々しい出来事が私
を揺さぶり、居心地のよい現実の外へと私を押し出した。それによって私は、自分が目撃
したことについて、人間の本性について、そして、私が今なお答えを出そうと闘っている
暴力というものについて、数多くの問いを自問し始めた。
それはまた、私にとって、ここにとどまり人権問題に関わってこのまま働き続けるか、そ
れとも立ち去るかという決断を下さねばならない瞬間だった。私はとどまることを選んだ
。とどまるという決断によって私は、さらなる暴力にさらされることとなった。パレスチ
ナ側、イスラエル側双方の暴力に。
2001年5月、西エルサレムで何台かの車が爆破された。一台は、私が教会に行くとき
にいつも通る道で爆発した。私は爆発の音を、現場から2ブロックほど離れたところで聞
いた。2002年3月初旬、1人のパレスチナ人がイスラエルの協力者であるとの容疑で
アル=マナーラ広場に逆さ吊りにされ、喉を掻き切られた。イスラエル侵攻のさなかのこ
とだった。私の職場の同僚と私は、カメラをつかむと、銃をもったパレスチナ人の男たち
に占拠された通りを抜けて殺害現場へと向かった。私たちが到着する前に、遺体は下され
ていたが、地面はなお血で染まっていた。それから一週間もたたず、私が教会から戻る途
中、パレスチナ人の自爆者が、エルサレムのフレンチヒルの交差点でバスの傍らで自分を
吹き飛ばしたのだった。私を乗せたタクシーが交差点を通るほんの30秒前のことだ。ま
た、銃を持ったパレスチナ人の男が、私が昼ご飯を食べていたレストランの前で、イスラ
エルに協力したという容疑で二人の男性を撃ったこともあった。これらすべての出来事に
よって私は、パレスチナの暴力とイスラエル人が感じている恐怖のいくばくかを明瞭に理
解した。
しかし、それと同じ時期、私は、イスラエル人によって犯される信じがたい暴力も見た。
デモに参加している人々が撃たれるのを私は見た。ベイト・リマ、ベニ・ナイームその他
の西岸の街で起きた処刑を調査したこともある。ある処刑現場にやって来たとき、頭蓋骨
の欠片や髪の毛や血が地面や処刑現場の壁にまだ残っていた。私は、「防衛の楯」作戦[
第二次インティファーダさなかの2002年3月から5月にかけて西岸の諸都市に対して
行われた侵攻作戦]のあいだずっとラーマッラーにいた。首の後ろに銃口を突きつけられ
ながら、自宅の周りを歩かされたり、装甲兵員輸送車が隣の家を撃ちまくっているあいだ
、バスルームの床の上に縮こまっていたこともある。ある女性から、糖尿病の母親が薬も
なく、道路が封鎖されて病院へ行くこともできないために死にかけているという電話を一
晩中、受けていたこともある。イスラエル兵たちが私たちのオフィスを襲撃し、そのとき
から行方不明になった同僚を探したこともある。検問所でパレスチナ人たちの顔にブーツ
の跡がありありと残っているのを見たこともある。イスラエル兵らが彼らの頭の上に立っ
ていた証拠だ。兵士らが子どもの前で彼らの親を辱めたり、同じ兵士たちが子どもたちを
攻撃したり恐がらせたりするのも目撃した。
もっとも重要なことは、ほぼ3年間、私が職場で朝、最初にしたことは、殺害と負傷に関
して、前日、届いた現場報告とレポートに目を通すことだった。私は、第二次インティフ
ァーダにおいて殺されたパレスチナ人ほぼすべての死の状況の詳細を綴った報告を、ほか
何名が負傷したのかと合わせて、注意深く読んだ。それら殺された者たちの家族を訪ね、
殺害の現場検証にも加わった。私はまた、パレスチナ人側の暴力行為についても、他のパ
レスチナ人に対するものであれ、イスラエル人に対するものであれ、ほぼすべての報告を
読んだ。
やがて暴力は溶け合い始めた。個人的な暴力行為は意味を失った。暴力によって影響を受
けるパレスチナ人やイスラエル人にとって些末なことだという意味ではない。そうではな
くて、私にとって、暴力行為は紛争を規定することを止めたということだ。しだいに、現
在の物理的暴力行為は紛争の歴史から切り離して考えることはできないということ、そし
て、その歴史とは、植民地主義とパレスチナ人の追放の歴史である、ということが明らか
になっていった。同様に明らかになったことは、私が目撃した物理的暴力行為は、イスラ
エルの占領とその民族的排外主義、そして差別的政策を規定する[物理的暴力よりも]は
るかに悪質な法的暴力や構造的暴力とも切り離すことができない、ということだ。
端的に言えば、私の意見では、イスラエルの暴力とは、新植民地主義の軍事的占領とアパ
ルトヘイトのような不平等を維持するために行使されなければならない暴力であるという
ことだ。パレスチナの暴力は、この占領とアパルトヘイトのような不平等に対する不可避
の反応なのだ。暴力とはそれゆえ、占領とイスラエルのアパルトヘイトが終わったときに
初めて、終わるだろう。
このことは、暴力が暴力に対してバランスをとりうるといったような状況ではないことを
意味してもいる。紛争の力のダイナミクスがこのようなものであるなら、バランスなど存
在しない。両者が互いに傷つけ合い、しかし、パレスチナとイスラエルの圧倒的な力はイ
スラエルにあり、イスラエルがパレスチナ人の権利を否認していることが、紛争の核心で
ある。
非暴力を固く信じる者として、私は、全当事者による暴力を終らせるために、そして、公
正な平和へと至る長期にわたる変化のために積極的に活動を続けるつもりだ。しかし、こ
の変化は、紛争における実際の力のダイナミクスと歴史的不正が認識されず、理解されず
、取り組みもされなければ、実現することはできないだろう。
真実は、紛争を引き起こしているのは、イスラエル人に対するパレスチナ人の行動の歴史
ではなく、いまだ解決しない植民地主義によるパレスチナ人の追放と継続する彼らの権利
の否認こそが、紛争を引き起こしているのである。
パレスチナ人の追放の歴史、占領の現実、そして法的、構造的不平等という現実が、私が
これからも引き続き、それについて語り、それを終わらせるために取り組むつもりのもの
であって、個人的な暴力行為についてではない。個人的な暴力行為は、より大きな変化が
実現して初めて終わるということを認識しているからだ。多くの者にとってこのような意
見は、バランスを欠いたものに映るかもしれないが、パレスチナとイスラエルでは、バラ
ンスなどという現実は存在しないのだ。
--------------------------------
マイケル・メリーマン=ロッツは、フィラデルフィアのアメリカの友人奉仕委員会のパレ
スチナ・イスラエルのプログラム責任者。1996年からパレスチナのアクティヴィズム
に関わる。
--------------------------------
[翻訳:岡 真理]
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
以上
基地建設強行・無法のきわみ~緊急ビデオレポート『速報・辺野古の闘い』
沖縄県知事選前に遮二無二工事着工を、既成事実化しようという政府・県の横暴を極める動きで、辺野古が緊迫しています。深夜の資材搬入、県警をつかった排除、無法のきわみです。沖縄・辺野古を取り続けている藤本幸久・影山あさ子の共同監督コンビが、この7月1日から30日までの現場の攻防を現地撮影して、『この映像をひろげてください』と呼びかけています。マブイシネコープでも取り扱っておりますので、ご希望の方下記までメールで。郵便振替用紙同封でおとどけします。DVD26分・1000円。(マブイシネコープ・木村修)
大阪市の水道民営化阻止へ
■全水道第68回定期大会
全水道(全日本水道労働組合・永井雅師委員長、約2・5万人)は7月24、25の両日、都内で第68回定期大会を開き、2014年度運動方針を決定した。
運動方針は柱の一つとして、大阪市が4月に打ち出した水道事業民営化阻止の課題を強調。安倍政権が6月に決定した改訂成長戦略の中で、(公共サービス提供に民間の資金やノウハウを活用する)PPP・PFI事業導入の前倒しとその数値目標を掲げ、同市と同じくコンセッション契約(上下分離方式)による公共インフラ運営権民間開放の動きを加速させていることに警戒感を示し、「大阪市水道事業民営化を突破口にして水道・下水道事業民営化の全体化をねらっている」と分析。「大阪水労の民営化反対の闘いは、その意味で全体の闘いであり、全水道は全力でこの闘いの勝利を目指す」と宣言した。あいさつの中で永井委員長も「水道水は国民生活に不可欠な命の水。水は高い所から低い所に流れる。決しておカネのある所だけに流してはいけない」と訴えた。
初日の来賓あいさつの中で社民党の吉田忠智党首は、集団的自衛権関連法制整備について、年末の日米ガイドライン(防衛協力指針)改定により「アメリカとの話で既成事実がつくられるのではないか」と懸念を示しつつ、反戦・平和を闘う方針を強調する全水道に対する期待感を表明した。
(社会新報2014年8月6日号)
シュワブ砂浜で整地作業を確認 浮桟橋設置準備か
2014年8月10日
(写真:琉球新報社)
【名護】米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設計画で9日、米軍キャンプ・シュワブ内の浮桟橋設置場所近くの砂浜で整地作業が行われた。7月29日に浮桟橋を撤去して以降、砂浜で重機を使った作業は見られなかった。週明けにも行われる海上作業に向け、浮桟橋を設置するための準備とみられる。
午前9時半ごろ、作業員約10人とクレーン車1台が桟橋付近で作業を始めた。クレーン車でトラックから発電機3台を降ろした後、ショベルカー1台が整地作業を行った。
第1ゲート前での集会はお盆のため開かれなかったが、自主的に市民10人が集まった。宜野湾市から初めて参加した福仲新(あらた)さん(42)=自営業=は「先輩たちの頑張る姿を見て、勇気づけられた。自分の息子と娘にも平和への思いを背中で見せたい」と話した。
辺野古新基地:浮桟橋再設置 14日にもブイ
【名護】米軍普天間飛行場返還に伴う名護市辺野古の新基地建設で、沖縄防衛局は11日までに、天候や警備体制などの条件が整えば、14日に施工区域を明示するブイ(浮標)やフロート(浮具)を海上に設置する方針を固めた。その後に海底ボーリング調査に移行する。11日にはキャンプ・シュワブの沿岸部に浮桟橋を再び設置。台風の影響で遅れていた海上作業を約2週間ぶりに本格化させた。反対する住民はカヌーやボートで、阻止行動を展開した。
政府は、不測の事態に備え、現場周辺海域の警戒を目的に、沖縄近海を担当する第11管区海上保安本部以外の巡視船も応援で派遣する。
シュワブ沿岸部では約1・8メートル四方の青色の資材30個を、陸上からクレーン車で沖に向かって並べた。作業員が一つ一つを連結し、約60メートルの浮桟橋を完成させた。作業船のほか、阻止行動を警戒する海保のゴムボートが利用している。
浮桟橋は7月27日に設置したが、沖縄地方に台風が接近したことから29日に撤去していた。
反対住民らは1人用のカヌー11艇に分乗し、互いのカヌーをロープで結びつけ固定。船でけん引し、辺野古漁港を出発した。約50分で現場海域に到着したものの、海保に航行を規制され、浮桟橋には近づけず、大きな混乱はなかった。
キャンプ・シュワブのゲート前では、反対住民や団体メンバーらが抗議行動を再開した。夏休みとあって家族連れなどが続々と訪れ、これまで約1カ月間の抗議行動で最多の約150人が一度に集まった。沖縄平和運動センターの山城博治議長は「いよいよ海域での工事が再び始まった。ゲート前でも海と連携し抗議を強めていこう」と呼び掛けた。
作業日程について、防衛局と県警、海保、業者の担当者らはシュワブ内の事務所で調整を重ねている。防衛省幹部は「ブイやフロートの設置、海底ボーリング調査も準備次第で始める。最終的には現場の判断だ」と語った。
防衛局は実施設計、埋め立て本体工事の前提となるボーリング調査の実施を急いでいる。 (沖縄タイムス)
【社説】慰安婦報道撤回 本質は強制連行にない
2014.08.10 10:30:00
朝日新聞が従軍慰安婦の報道の一部が虚報だったと認め、記事を取り消した。それをもって、慰安婦が強制連行されたとの主張の根幹が崩れたと唱える論が横行している。
「木を見て森を見ず」のような、稚拙な言説である。
朝日が誤りだったとしたのは「強制連行をした」という吉田清治氏の証言だ。韓国・済州島で朝鮮人女性を無理やりトラックに押し込め、慰安所へ連れて行ったとしていた。
30年余り前の吉田証言は研究者の間でも信ぴょう性に疑問符が付けられていた。旧日本軍による強制連行を示す証拠は他にある。日本の占領下のインドネシアで起きたスマラン事件の公判記録などがそれだ。だまされて連れて行かれたという元慰安婦の証言も数多い。
研究者による公文書の発掘は続いており、新たな史料に虚心に向き合わなければ、歴史を論じる資格を手にすることはできないだろう。
強制連行を否定する主張はさらに、誤った記事により日本がいわれなき非難を受け、不当におとしめられてきたと続く。
しかし、国際社会から非難されているのは強制連行があったからではない。厳しい視線が向けられているのは、人集めの際の強制性のいかんに焦点を置くことで問題の本質から目を背け、歴史の責任を矮小(わいしょう)化しようとする態度にである。
問題の本質は、女性たちが戦地で日本軍将兵に性的行為を強要されたことにある。慰安をしたのではなく性暴力を受けた。兵士の性病まん延防止と性欲処理の道具にされた。その制度づくりから管理運営に軍が関与していた。それは日本の植民地支配、侵略戦争という大きな枠組みの中で行われたものであった。
歴史認識の問題が突き付けるのは、この国が過去と向き合ってこなかった69年という歳月の重みだ。国家として真(しん)摯(し)な謝罪と反省の機会をついぞ持たず、歴史修正主義を唱える政治家が主流になるに至った。
朝日が撤回した記事について、自民党の石破茂幹事長は「国民も非常に苦しみ、国際問題にもなった」と、その責任に言及し、国会での検証さえ示唆した。過去の国家犯罪の実態を明らかにし、被害国と向き合う政治の責任を放棄し続ける自らを省みることなく、である。国際社会の非難と軽蔑を招く倒錯は二重になされようとしている。
【神奈川新聞】
集団的自衛権に抗議し座り込み 米沢9条の会
米沢9条の会は同センターや教員組合、労働団体などで組織。この日は会員60人ほどが参加し「集団的自衛権行使ゆるすな」「戦争への道ストップ」などと書かれた横断幕や看板などを掲げ、安倍政権の閣議決定撤回を訴えた。
毎月9日が休日の場合、統一行動日として活動を行っている。
(山形新聞の記事です)