宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

開けてしまったパンドラの箱

2017年01月04日 | 常識でこそ見えてくる




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*****************************なお、以下はテキスト形式版である。****************************
  開けてしまったパンドラの箱
 最初にこれは常識的に考えておかしいぞと私が感じたのは、「旧校本年譜」の「大正十五年七月二十五日」の項の次のような記述、
 盛岡啄木会の招きで講演のためにきた白鳥省吾・犬田卯が賢治訪問の希望を持っており、手紙で連絡があった。賢治賢治も承諾の返事を出していたが、この日断わりの使いを出す。使者は下根子桜の家に寝泊りしていた千葉恭で午後六時ごろ講演会会場の仏教会館で白鳥省吾にその旨を伝える。
だった。この「下根子桜の家に寝泊りしていた千葉恭」という記述に素直に従えば、常識的に考えて、「羅須地人協会時代」の賢治は「独居自炊」だったという「通説」が成り立たいのではなかろうかという単純な理屈からだ。
 そこで、まずは千葉恭なる人物のこと少し調べてみようと思ったのだが、いつ頃からいつ頃まで賢治のところに寝泊りしていたのかどころか、その出身地さえも含めて、どういうわけかあの膨大な『校本宮澤賢治全集』(筑摩書房)のどこをどう探しても、恭その人に関しては殆ど何も書かれていなかった。
 となればここは自分で調べるしかないということであちこち尋ね廻ったところ、出身地はもちろんのこと、恭に関しては、賢治と初めて出会った頃に勤めていた穀物検査所を辞めた日及び復職した日、賢治から肥料設計をしてもらっていたこと、楽団ではマンドリン担当だったことなどもなんとか明らかにできた。
 また、
〈仮説1〉千葉恭が賢治と一緒に暮らし始めたのは大正十五年六月二十三日頃からであり、その後少なくとも昭和二年三月八日までの八ヶ月間余を二人は下根子桜の別宅で一緒に暮らしていた。
を立ててみたところその検証もできたのだった。ちなみに、彼は「私が炊事を手傳ひました」(『四次元七号』、宮沢賢治友の会、15p)とか、あるいは、「私が煮たきして約半年生活をともにした」(『イーハトーヴォ 復刊No.5』、11p)とはっきり証言もしていた。したがって、〈仮説1〉は、これに対する反例が見つからない限りはという限定付きの「真実」となり、「羅須地人協会時代」の賢治は厳密には「独居自炊」であったとは言い切れないことになった。
 おのずから、恭のことが今まで意識的に無視されてきたのではなかろうかという疑念も正直拭いきれない。しかもよくよく調べてみたならば、この時代が「独居自炊」と譬えられるようになったのは実は『昭和文学全集十四宮澤賢治集』(昭和二十八年)以降であり、それ以前のどの著作等おいても「独居自炊」という四文字は一切見つからなかったし、奇しくもそれは、高村光太郎のそれこそ『獨居自炊』というタイトルの随筆集の発行年(昭和二十六年)を境にしていることも分かった。それ故、「羅須地人協会時代」を「独居自炊」で譬えるのは換骨奪胎の感が否めず、あまり後味のいいものではない。
 したがって、「羅須地人協会時代」は厳密には「独居自炊」であったとは言い切れないということを私はこれで実証できたと判断できたから、そうかこれが恩師が嘆いていたあの「いろいろなこと」の一つの具体事例だったのかと、その「嘆き」の意味を初めて覚ったような気がした。
 なおこの節に関しては、拙著『賢治と一緒に暮らした男―千葉恭を尋ねて―』において実証的に考察し、それを詳述してあるので参照されたい。

 どうやら、今までの私は賢治にまつわる「通説」等に囚われ過ぎていたようで、それらはいつでも真実であるとは限らず、中にはあやかしもいくつかありそうだということを、前掲拙著を著すことを通じて覚悟した。そして、私はパンドラの箱をどうやら開けてしまったようだとちょっと身震いがしたことを思い出す。
 そこでその後、約10年間をかけてパンドラの箱の中身を私なりに今まで調べてきた。もっと具体的に言えば、『現 賢治年譜』や賢治にまつわる「通説」を、特に「羅須地人協会時代」のそれらを中心として検証作業等を続けてきたのだが、常識的に考えておかしいと思ったところは、やはりほぼ皆おかしいかった。
 しかも、私が検証するまででもなく、それらは少なくとも一度は既に再検証がなされているもばかりだと思っていたが、私が調べてみた限りでは、何と再検証どころか、一度の検証さえも行われていなかったと思しきものものも少なからずあった。なぜ、今までこれらのことを名だたる賢治研究家たちは検証してこなかったのだろうか。このような実態は、私が理系人間のせいなのだろうか、普通はあり得ないと思えるし、極めて奇妙であり、限りなく不思議なことだ。

 ついては、時系列に沿って、そのようなものの中から主だったものについて以下に取り上げて論じてみたい。
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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
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 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』             ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)         ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』    ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』   ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』



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