宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

五百二十円もの大金の退職金収得

2017年01月04日 | 常識でこそ見えてくる












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  五百二十円もの大金の退職金収得
 ところで、昭和19年9月20日に東京女子大において行われた講演で谷川徹三は、
 賢治は大正十五年年三十一歳の時、それまで勤めていた花巻農學校教諭の職を辞し、町外れの下根子桜という地に自炊をしながら、附近を開墾して半農耕生活を始めたのでありますが、やがてその地方一帯の農家のために数箇所の肥料設計事務所を設け、無料で相談に応じ、手弁当で農村を廻っては、
稻作の実地指導をしていたのであります。昭和二年六月までに肥料設計書の枚数は二千枚に達していたそうで、その後もときに断続はありましたけれども、死ぬまで引続いてやつていたのであります。
 <『宮沢賢治の世界』(谷川徹三著、法政大学出版局)、16p>
と語ったという。
 では、この時の聴衆は谷川の語った「肥料設計事務所を設け……稻作の実地指導をしていた」という「賢治の農民に対するひたむきな献身」をどう受け止めたであろうか。おそらく、もうこの時期の日本は敗戦濃厚で国内外共に逼迫していたはずだから、聴衆は我が身をその献身に投影して共鳴し、戦時中の滅私奉公のあの標語、「欲しがりません。勝つまでは」を心の中で反芻していたであろうことは想像に難くない。そしてこの「無料の肥料相談」などの賢治のひたむきな献身については、この時の谷川の講演のみならず、その時以前もその時以降も多くの人々が伝えるところでもある。
 しかしながら現実には、肥料相談所を開設するにしても、肥料設計をしてやるにしてもなにがしかのお金はもちろん必要だ。手弁当で廻ったとしても同様であったであろう。ところが、花巻農学校を辞して自耕の生活を始めた賢治だから、当然定収はなかったし、さりとてその自耕による生産物によって収入を得たこともなかったということは周知のこと。しかも、先に話題にした千葉恭が、
 私が煮炊きをし約半年生活をともにした。一番困ったのは、毎日々々その日食うだけの米を町に買いにやらされたことだった。
<『イーハトーヴォ』復刊5(宮沢賢治の会)>
と回想しているように、下根子桜に移り住んだ賢治には米代も含めて幾ばくかのお金も必要だったわけで、それらをどのようにして購ったのだろうか。
 このこと一つ取っただけでも、賢治の「無料で相談に応じ、手弁当で農村を廻って」という「ひたむきな献身」が単純に褒めそやされるということがもしあったとすれば、それはどこかおかしいことだと理屈抜きで分かる。
 そこで、この時代の賢治の経済的基盤に関して菊池忠二氏も疑問に思ったからであろう、同氏は『私の賢治散歩 下巻』の「農耕生活の経済的基礎について」においてこのことを考察していて、例えば、
 藤原嘉藤治が記録した宮沢賢治の言葉の中に、「君! その煙草代があるとおれが一日食へるんだよ」という一節がみえる。藤原嘉藤治の教示によると、当時愛用していた煙草ゴールデンバットで、一個の値段は七銭だったというから、宮沢賢治の一日の食費は七銭であったということになる。
       <『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著)、64p>
と具体的に述べている。たしかに、賢治の日々の生活は質素なものだったであろう。ちなみに、菊池氏の前掲書65pによれば、当時の白米一升(1.5㎏)の値段は40銭前後であることがわかるから、仮に白米四合だと約16銭であり、「宮沢賢治の一日の食費は七銭」とほぼ同じオーダーであったであろうことが推定できる。
 そして実際に賢治が質素だったということは、先の千葉恭の、
 朝食も詩にあるとほり少々の玄米と野菜と味噌汁で簡単に濟ませ、それから近くの草原や小さい雑木のあつた處を開墾して、せつせつと切り拓き色々の草花や野菜等を栽培しました。私は寝食を共にしながらこの開墾に從事しましたが、実際貧乏百姓と同じやうな生活をしました。汗を流して働いた後裏の台所に行つて、杉葉を掻き集めては湯を沸かして呑む一杯の茶の味のおいしかつたこと、これこそ醍醐味といふのでせう!時には小麦粉でダンゴを拵へて焼いて食べたこともありました。毎日簡單な食事で土の香を一杯胸に吸ひながら働いたその氣分は何ともたとへやうのない愉快さでした。開墾した畑に植えたトマトが大きい赤い實になつた時は先生は本當に嬉しかつたのでせう。大きな聲で私を呼んで「どうですこのトマトおいしさうだね」「今日はこのトマトを腹一杯食べませう」と言はれ其晩二人はトマトを腹一杯食べました。
      <『四次元7号』(宮沢賢治友の会)、15p>
という追想や、同じく、ある講演後の質疑応答での、
 賢治は当時菜食について研究しておられ、まことに粗食であつた。私が煮炊きをし約半年生活をともにした。一番困ったのは、毎日々々その日食うだけの米を町に買いにやらされたことだった。
 農民の指導は、その最低の生活をほんとうに知って初めて出来るのだと言われた。米のない時は”トマトでも食べましよう”と言つて、畑からとつて来たトマトを五つ六つ食べて腹のたしにしたこともあつた。
     <『イーハトーヴォ』復刊5(宮沢賢治の会)>
という恭の回答からも裏付けられるので、たしかに食生活等を始めとしては賢治の下根子桜での日々の生活は相当質素なものであっただろう。

 しかしながら、実はこれに引き続いて恭は、
 金がなくなり、賢治に言いつかつて蓄音器を十字屋(花巻)に売りに出かけたこともあつた。賢治は”百円か九十円位で売つてくればよい。それ以上に売つて来たら、それは君に上げよう”と言うのであつたが、十字屋では二百五十円に買つてくれ、私は金をそのまま賢治の前に出した。賢治はそれから九十円だけとり、あとは約束だからと言つて私に寄こした。それは先生が取られた額のあらかた倍もの金額だつたし、頂くわけには勿論ゆかず、そのまま十字屋に返して来た。
と答えていることを知った私はこれはおかしいぞと感じた。どうしてそんな高い蓄音器持っていたのか、と。当時サラリーマンの月給百円はあこがれの額だったというが、その二倍半の額で売れるような高級品である。
 そこでこのことを裏付けようとして調べていると今度は、同じく恭のこれと似ているが違うところもある次のような証言もあった。
 蓄音機で思ひ出しましたが、雪の降つた冬の生活が苦しくなつて私に「この蓄音機を賣つて來て呉れないか」と云はれました。その当時一寸その辺に見られない大きな機械で、花巻の岩田屋から買つた大切なものでありました。「これを賣らずに済む方法はないでせうか」と先生に申しましたら「いや金がない場合は農民もかくばかりでせう」と、言はれますので雪の降る寒い日、それを橇に積んで上町に出かけました。「三百五十円までなら賣つて差支ない。それ以上の場合はあなたに上げますから」と、言はれましたが、どこに賣れとも言はれないのですが、兎に角どこかで買つて呉れるでせうと、町のやがらを見ながらブラリブラリしてゐるとふと思い浮かんだのが、先生は岩田屋から購めたので、若しかしたら岩田屋で買つて呉れるかも知れない……といふことでした。「蓄音機買つて呉れませんか」私は思ひきつてかう言ひますと、岩田屋の主人はぢつとそれを見てゐましたが「先生のものですな―それは買ひませう」と言はれましたので蓄音機を橇から下ろして、店先に置いているうちに、主人は金を持つて出て來たのでした。「先に賣つた時は六百五十円だつたからこれだけあげませう」と、六百五十円を私の手にわたして呉れたのでした。
             <『四次元9号』(宮澤賢治友の会)、21p>
こちらの場合は六百五十円で売れたのだから、当時のサラリーマンのあこがれの「月給百円」のなんと六倍以上ものとてつもない高額だ。
 さて、はたしてこのようなことが二度もあったのだろうか。それとも、一方は恭のあやふやな記憶によるものだったのだろうか。がいずれにせよ、少なくとも一度はこのようなことがあったという蓋然性は高かろう。ひいては、仮に「下根子桜時代」に賢治が質素な食生活を送ったとしても、同時代の賢治が質素な生活をしていたとは到底言い切れない。

 それがある時、私はあることを知った。それは平成11年11月1日付『岩手日報』に載っていた、次のような思いもかけなかったニュース、
 宮沢賢治が大正十五年に三十歳で県立花巻農学校を退職する際、得能佳吉県知事(当時)に提出した「一時恩給請求書」一通と、添付した履歴書二通が見つかった。…(筆者略)…
 賢治の申請書は県総務学事の職員が学校職員の恩給関係の書類を整理中に確認した。知事あての申請書は毛筆で書かれた現物。履歴書は、当時一般的だったカーボン紙を使って複写した同じものが二通保管されている。
 文書提出の日付は大正十五年六月三日で、同年三月三十一日をもって稗貫郡花巻農学校教諭を退職したため一時恩給の支給を願い出ている内容。履歴書は大正七年四月十日稗貫郡の嘱託として無報酬で水田の土壌調査に従事したことから始まって花巻農学校教諭兼舎監を退職するまでの職歴、退職理由として「農民藝術研究ノ為メ」と記す。
 賢治の請求を受けて県は大正十五年六月七日に一時恩給五百二十円を支給する手続きをとった。これを裏付ける県内部の決裁書類も合わせてとじ、保管している。
 県総務学事課の千葉英寛文書公開監は「恩給は今で言う退職金であろう。…」
  <『岩手日報』平成11年11月1日付岩手日報23面より>
をである。実は、大正15年6月7日に賢治へ五百二十円ものいわば退職金の支給手続がなされていたという記事だ。
 こうして賢治は、「羅須地人協会時代」の大正15年6月頃に驚くほどの高額のお金を収得したということになる。となれば、高級蓄音機の購入も、当時は珍しかったあの高額なリヤカーの購入もそれ程不思議なことではない。もちろん、「羅須地人協会時代」の賢治の生活が質素などとは言えず、当時の多くの農民からすればほぼそれとは真逆に写ったであろう。
 そして一方で思い出すのが、同年の〔十二月十五日〕付政次郎宛書簡(220)中に書いてある、
 今度の費用も非常でまことにお申し訳ございませんが、前にお目にかけた予算のやうな次第で殊にこちらへ来てから案外なかゝりもありました。申しあげればわたくしの弱点が見えすいて情けなくお怒りになるとも思ひますが第一に靴が来る途中から泥がはいってゐまして修繕にやるうちどうせあとで要るし廉いと思って新らしいのを買ってしまったりふだん着もまたその通りせなかゞあちこちほころびて新らしいのを買ひました。授業料も一流の先生たちを頼んだので殊に一人で習ふので決して廉くはありませんでしたし布団を借りるよりは得と思って毛布を二枚買ったり心理学や科学の廉い本を見ては飛びついて買ってしまひおまけに芝居もいくつか見ましたしたうたうろっぱり最初お願ひしたくらゐかゝるやうになりました。どうか今年だけでも小林様に二百円おあづけをねがひます。
  <『新校本宮澤賢治全集第十五巻 書簡 本文篇』(筑摩書房)>
という、「二百円」もの大金の父への無心であり、このことから導かれることは、賢治はこの年末頃には五百二十円もの高額の退職金をもはや使い果たしてしまっていたと推断できるということである。
 したがって、「羅須地人協会時代」の賢治は貧しい農民たちと同じような生活をしようと思ったがために粗食をあえて実践していたというわけではなく、生き方が不羈奔放だったのと同様にお金の使い方に関してもそうだったからだったという側面も否定できなかろう。
 そういえば、賢治の通夜の席で父政次郎は、
 その座に親戚縁者友人など、かなりのひとがいて、お膳に御馳走とお酒が出ていた。
一通り客に酒が供されると、父はゆっくり物静かに話しはじめた。賢治について、つねづね考えていたこと、自分の執ってきた行い、父としての賢治に対する態度についてである。…(筆者略)…
「あれにとっては、三円も三十円も三千円も、金というものはみなおなじで、自分の持っているだけ、人にやってしまうという性質でした」
<『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)、256p~>
と話していたと森荘已池は紹介してるが、これが賢治の金銭感覚であり、普通の人が持っているそれとはかなり乖離していたということを如実に物語っているということになろう。
 したがって、賢治の金銭感覚や経済観念は常識的にはとても褒められたものではなかったということがこれで言えるだろうし、社会人としては失格だったと咎められるかもしれない。ただしそれは悲しむべきことでも何でもなく、そこが天才の天才たる所以であり、賢治は普通の人とは乖離し過ぎたこのような金銭感覚を持つことに躊躇いがなかったからこそ、しかもそのような賢治を父政次郎が支え、庇護したからこそ、あのような素晴らしい多くの作品を生み出せたと言えないわけではないからでである。
 だから私は、
 賢治の性向である不羈奔放さと優れた作品の創作は表裏一体のものだった。
という、ある意味では至極当たりまえのことがそこにあったと理解している。
 もちろん、賢治のような立場におかれたからと言って誰でもがあのような素晴らしい作品を生み出せるという保証は一つもないが、賢治の場合でもそれが許されなかったならばその保証は危ういものであったのではなかろうか。
 ところで、吉見正信氏は《無料》であることの重みを次のように指摘している。
 賢治は、いよいよ協会からも一歩踏み出し、町に無料の肥料相談所を開設するに至った。その第一号と目されるのは、伊藤克己の「先生と私達」(筑摩版「宮沢賢治研究」)が伝えるそれであろう。
 「春になって先生は町の下町と云ふ處の今の額縁屋の間口二間に一間ばかりの所を借りて農事相談所を開いた。誰でも自由に入れて、無料で相談に応じてくれたのである。そして時に応じてその人々の田や畠や果樹を自分で見て歩いたのである。そしてさういふ日は多くなってずっと続けてきたが先生の體は過労に蝕まれてきたのである。」
 この文章にある、《無料》ということは、当時の語感としてどういう響きをもつのか、花巻の町では表通りである、下町という場所での店開きの光景に重ねて、貧しい暮らしにある農民の耳で、聞き直さねばならぬ一語である。そればかりか、肥料設計した農民のところへは、現地指導もして歩いた相談所の出現である。当初はいささか奇想天外な町の話題というものであった。しかも、指導の結果が失敗の場合は弁償するということも、看板に明記しようとした賢治である。それだけはと周囲の反対で思いとどまったものの、その一点にかかわる疑念は、きれいごとでは済まされない、賢治の指導における農民指導の第一の難関なのであった。その成否いかんは、農民にとっての死活問題である。現に肥料設計を受け取ったまま、指導されたことを何ひとつ実行しない農民もあった。その現場をみて、賢治は怒り、そして悲しんだという。しかし、その農民を学問や科学の名のみで、果たして賢治は責めることができたのであろうか。その責任はどちらにあることも問わず、実際に弁償した事例も存在する。今日ゆえにもはや解禁となったその事実談は、町のそこここにいくつか残されてはいるが、そうした苦さを通じてみない限り、《肥料設計》という賢治の農民指導の偉業を理解することはできない。 
   <『宮沢賢治の道程』(吉見正信著、八重岳書房)、224p~>
 そこで私は、吉見氏がこのような主張していることを知って胸のつかえが下りたものだった。一般に、《無料》で肥料相談を引き受けるということはなかなかしないしできないことであり、賢治のその無償の行為はとても素晴らしいものであるとこれまでの私は単純に評価してきた。しかしそれには当然少なくとも幾ばくかの費用を要するものであり、その費用が賢治自身が働いて得たものによっていたのであるならばまだしも、実際は彼の場合には殆どそうではなかったことはほぼ明らかだから、このような評価を単純に肯ってはいけないのだということに気付かされる。
 そこで吉見氏のこの記述に従えば、「現に肥料設計を受け取ったまま、指導されたことを何ひとつ実行しない農民もあった。その現場をみて、賢治は怒り、そして悲しんだという」ということだが、まさに同氏が「その成否いかんは、農民にとっての死活問題である」と言う通りであり、農民の側では諸手を挙げて受け容れることはできまい。まして、生活の知恵としての「ただより高いものはなし」という警句を彼らは肌で知っていて、その親切にはかえって躊躇いがあったということも容易に想像がつく。だから、「現に肥料設計を受け取ったまま、指導されたことを何ひとつ実行しない農民もあった」ということはある意味当然のことである。
 しかも、「実際に弁償した事例も存在する。……その事実談は、町のそこここにいくつか残されて」いるということだから、《無料》であったことは農民たちのためではなくて、実は賢治自身のためだったと言い募られても致し方なかろう。それは、「その現場をみて、賢治は怒り、そして悲しんだという」ことが雄弁に語っている。もしそうでなかったとしたならば、賢治は悲しむことはあっても怒りはしなかったはずだからだ。しかも「町のそこここにいくつか残されて」いるというからなおさらにである。
 以上、どうも賢治に対しては厳しい論調になってしまったが、賢治の金銭感覚は常識的にはとても褒められたものではないと言わざるを得ない。しかしそれ故にこそ、あのような数多の素晴らしい作品を残せたのだ、きっと。
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《鈴木 守著作案内》
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『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』    ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』   ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』



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