宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

21 (10)岩手山(その1)

2008年10月07日 | Weblog
  『宮沢賢治その旅』(宮城 一男著、津軽書房)には、
 宮沢 賢治が初めて岩手山に登ったのは明治43年(1910年)6月18~19日にかけてであり、これですっかり岩手山の魅力にとりつかれた賢治は中学・高等農林時代だけでも、岩手山には三十数回ほど登っている。
という内容のことが書いてある。賢治が盛岡中学2年生、14歳のときに初めて岩手山に登ったことになる。同著からは賢治は一回目、二回目のいずれも柳沢口から登っていることも知れるが、今回は賢治の「熔岩流」の詩碑を見てから焼走りコースを登ることにしたい。なお、柳沢口や網張りコースについては後ほど報告したい。

 八幡平市に”岩手山焼走り 国際交流村”という所があり、ここが焼け走りコースの登山口となる。この交流村の駐車場脇に全長約1kmの”焼走り熔岩流自然観察路”があり、焼走り熔岩流の中を実際歩くことができる。
《1 焼走り熔岩流》(平成20年6月27日撮影)

《2 〃 》(平成20年6月27日撮影)

ここは10月半ばなら次のような
《3 晩秋の焼走り》(平成15年10月14日撮影)

を観ることが出来る。
 この観察路の終点には
《4 「鎔岩流」の賢治詩碑》(平成20年6月27日撮影)

がある。碑文は
    『鎔岩流』
  喪神のしろいかがみが
  薬師火口のいただきにかかり
  日かげになつた火山礫堆の中腹から
  畏るべくかなしむべき砕塊熔岩の黒
  わたくしはさつきの柏や松の野原をよぎるときから
  なにかあかるい曠原風の情調を
  ばらばらにするやうなひどいけしきが
  展かれるとはおもつてゐた
  けれどもここは空氣も深い淵になつてゐて
  ごく強力な鬼神たちの棲みかだ
  一ぴきの鳥さへも見えない
  わたくしがあぶなくその一一の岩塊をふみ
  すこしの小高いところにのぼり
  さらにつくづくとこの焼石のひろがりをみわたせば
  雪を越えてきたつめたい風はみねから吹き
  雲はあらはれてつぎからつぎと消え
  いちいちの火山塊の黒いかげ
  貞享四年のちいさな噴火から
  およそ二百三十五年のあひだに
  空氣のなかの酸素や炭酸瓦斯
  これら清洌な試薬によつて
  どれくらゐの風化が行はれ
  どんな植物が生えたかを
  見やうとして私の来たのに対し
  それは恐ろしい二種の苔で答へた
  その白つぽい厚いすぎごけの
  表面がかさかさに乾いてゐるので
  わたくしはまた麺麭ともかんがへ
  ちやうどひるの食事をもたないとこから
  ひじやうな饗應ともかんずるのだが
   (なぜならたべものといふものは
   それをみてよろこぶもので
   それからあとはたべるものだから)
  ここらでそんなかんがへは
  あんまり僭越かもしれない
  とにかくわたくしは荷物をおろし
  灰いろの苔に靴やからだを埋め
  一つの赤い苹果をたべる
  うるうるしながら苹果に噛みつけば
  雪を越えてきたつめたい風はみねから吹き
  野はらの白樺の葉は紅や金やせはしくゆすれ
  北上山地はほのかな幾層の青い縞をつくる
   (あれがぼくのしやつだ
   青いリンネルの農民シヤツだ)

そして、この詩碑の前に
《5 熔岩流展望台》(平成20年6月27日撮影)

がある。以前はこの展望台の上から熔岩流を目の当たりに見渡せたのだが、残念ながらいまは展望台に上がることは出来ない。使用禁止の札が懸けてあった。

 さて、6月下旬の朝5時、梅雨の時期ではあったのだがこの時点では快晴の
《6 岩手山》(平成20年6月28日撮影)

 それでは参りましょう。これが
《7 焼走り登山口》(平成20年6月28日撮影)

である。登山者カードは写真の左のボックスに入れる。
 しばらくは、ほぼ平坦な林の中を行くことになる。路の脇には
《8 ニガナ》(平成20年6月28日撮影)

《9 コバノイチヤクソウ》(平成20年6月28日撮影)

《10 ここからも熔岩流が見られますよの案内》(平成20年6月28日撮影)

 当然寄ってみると、
《11 朝焼けの熔岩流と岩手山》(平成20年6月28日撮影)

《12 熔岩流の端の方はかなりコケに覆われている》(平成20年6月28日撮影)

 再びコースに戻ると
《13 ギンリョウソウの団体さん》(平成20年6月28日撮影)

《14 ギンラン》(平成20年6月28日撮影)

《15 コケイラン》(平成20年6月28日撮影)

《16 コースは相変わらず林の中》(平成20年6月28日撮影)

《17 頂上まで4.5㎞の道標》(平成20年6月28日撮影)

 登山路脇の花々
《18 ヤマブキショウマ》(平成20年6月28日撮影)

《19 フデリンドウ》(平成20年6月28日撮影)

《20 ナルコユリ》(平成20年6月28日撮影)

《21 ミヤマカラマツ》(平成20年6月28日撮影)

《22 エゾノヨツバムグラ》(平成20年6月28日撮影)

《23 〃の花》(平成20年6月28日撮影)

《24 タニウツギ》(平成20年6月28日撮影)

《25 ハクサンシャクナゲ》(平成20年6月28日撮影)

《26 チゴユリ》(平成20年6月28日撮影)

《27 ハクサンチドリ》(平成20年6月28日撮影)

《28 マイヅルソウ》(平成20年6月28日撮影)

《29 ミヤマハンショウヅル》(平成20年6月28日撮影)

 そうこうしているうちに、
《30 第2噴出口跡》(平成20年6月28日撮影)

に到着した。そこに寄って
《31 焼走り熔岩流》(平成20年6月28日撮影)

を見下ろしてみる。そして
《32 岩手山頂上》(平成20年6月28日撮影)

を仰いで見る。ところで
《33 早池峰山》(平成20年6月28日撮影)

は雲の中、中腹だけが見えている。では、ライバルはどうか?
《34 姫神山》(平成20年6月28日撮影)

はこの通り。たしかに三山伝説はあり得るかも知れない。早池峰山は雲の中、姫神山はちゃんと見えているからである。
 再び登山路に戻ると
《35 マムシグサ》(平成20年6月28日撮影)

《36 ベニバナイチヤクソウとハクサンチドリ》(平成20年6月28日撮影)

《37 ベニバナイチヤクソウ》(平成20年6月28日撮影)

《38 大分白っぽいハクサンチドリ》(平成20年6月28日撮影)

《39 マイヅルソウ》(平成20年6月28日撮影)

などが咲いている。
 そして、今度は
《40 第1噴出口跡》(平成20年6月28日撮影)

到着。岩手山の影の向こうに焼走り熔岩流が黒く広がって見える。
 第1噴出口跡付近の
《41 ミヤマヤナギ》(平成20年6月28日撮影)

《42 マルバシモツケ》(平成20年6月28日撮影)

お気づきのようにこの写真にも、その前の写真にもピンクの花が後の方に見えると思う。コマクサである。
 ご存じのように、2004年、6年ぶりに岩手山の入山規制は解除された。
《43 立ち入り規制の案内》(平成20年6月28日撮影)

それ以前は、火山災害の危険性があったのでこのような看板などで登山者への呼びかけが行われていた。それが、撤去されずにいまも残っている。

 さて、第1噴出口跡を後にして登り始めると、林の中に
《44 ハクサンチドリが結構咲いている》(平成20年6月28日撮影)

し、
《45 オオタチツボスミレ》(平成20年6月28日撮影)

も咲いている。タチツボスミレとの違いは距が白いことだ。
《46 ミヤマカラマツ》(平成20年6月28日撮影)

《47 マイヅルソウ》(平成20年6月28日撮影)

《48 タカネスミレ》(平成20年6月28日撮影)

なども咲いている。
 やがて林は切れ、視界が開けて
《49 ハクサンチドリの周りにコマクサ》(平成20年6月28日撮影)

が見え始める。

 ところで、宮沢賢治は岩手山にどんな登り方をしているのだろうか。
 例えば、初めての岩手山登山(明治43年6月18~19日、盛岡中学2年生)の仕方については『今日の賢治先生』(佐藤司著 永大印刷)によれば、6月18日
 午後は登山、二年植物採集岩手登山隊八〇名が一四時に出発。引率山形頼咸教諭(舎監長)、一七時半岩手山神社社務所(柳沢)に到着、分宿した。
 「文語詩篇」ノートにメモ、「岩手山、山形頼咸、橋爪、関」「岩手山噴火口内にて橋爪の寂しき顔」「黒き夜や野路行く人のたいまつ余燼を赤く散らす風」。

 そして、6月19日
 岩手山に登山。午前一時に起床、山頂登破、一六時に帰着した。
とある。
 なお、”午前一時に起床、山頂登破”とあるが、何故これほど早い時間から登ったのかというと、岩手山登山の習わしにもよると思う。
 因みに、『岩手山の四季』(高橋喜平著、岩手日報社)によれば
 頂上参拝は山伏によって山開きがあってから、一般の男子のみ参拝登山が許されたのである。その登山のことを「オヤマガケ」(お山掛け)と呼んでいて、白衣を着て金剛杖をつき、六根清浄を唱える敬虔な巡礼作法が守られ、夜間に登り山頂の日の出を礼拝するのが習わしであった。
とある。

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