すとう信彦 & his band

社会起業家(チェンジメーカー)首藤信彦の日常活動とその仲間たち

セザンヌのアトリエ

2011-01-28 23:36:05 | Weblog
昨日、本会議場でアレシンスキーの壁画を思い出したのが刺激になったのか、宿舎帰宅前に丸の内へ出て、三菱一号館美術館へカンディンスキー展を見にいった。カンディンスキーというときわめて抽象化された絵画を思いうかべるが、今回の展示会では彼が具象から抽象へ向かうプロセスの絵が多く、ちょうどスーラの点描と同じように、いったい彼が何を求めて抽象の世界に入り込んだかよくわかる気がする。もともと小さい時から絵はすきだったのだが、それは絵のモチーフや表現が好きだったので、いったいどんな社会背景で、何を画家は描こうとしたのかなどは思いもよらなかった。それがなんとなく理解できるようになったのは、やはり年をとったせいなのかもしれない。これまで全く気付かなかった陰影や対象の配置に込められた画家の意思というものがわかるようになった気がする。
実は最近の体験から深く考えることがあった。それは今回のフランス議連の出張で、エクスアンプロバンスのセザンヌのアトリエを訪問した時のことだ。むろん衆議院の出張だから、それを見学に行ったわけではない。例の日仏共同プロジェクトでもあるカダラッシュの核融合実験炉ITERの視察の帰り道に立ち寄った。近代画家はモジリアニなどのように極貧の中から芸術を生み出していった天才もいれば、何不自由ない生活のなかで、純粋に美術理論を追及していった者もいる。セザンヌは後者の例だろう。広大な自然の中に、絵をかくためのアトリエを建て、晩年までここでイーゼル、パレットと筆だけの生活をおくった。当時としては技術的にも難しかったのだろうと推測される天井までひろがった窓など三方に開けられた窓から、人為的に採光をコントロールしながら絵を描いたことが理解できた。
正直言って、セザンヌの静物など、中学の教科書に載っている絵のようなもので、全然評価していなかったのだが、げんじつにアトリエに残された頭蓋骨やアムール石膏像、緑の水差し・生姜入れのツボなど、彼の絵の中で生き生きと描かれているものが、色あせたごく平凡な日常品なのに驚かされた。だから彼は色あせた現実の水差しを描写したのでなく、水差しに内包された美を抽出して、みずみずしい緑色の水差しを描いている。セザンヌの静物は写生や描写ではなく、それぞれの対象が架空の位置関係にあることは知識として知っていたが、それらの色も形状も現実のものとは異なっている..ということは、セザンヌはそれらを描いたのではなく、それらが内面に持っている否、持つかもしれない美を表現したのだろう。現実にアトリエを訪問して、初めてなっとくしたのは、彼の静物の影だ。セザンヌはアトリエの内部を灰色の一色で塗っていた、したがって対象の後ろにある複雑な影は、単なる自然の陰影でも壁の滲みではなく、アトリエの3か所の窓をそれぞれ別にあけて、多方面からの陰影を人工的に作り出していたことがわかった。私は絵画の専門家でもないから、真実はわからないが、私のセザンヌ分析はこうだ!彼は三方からの光で影を三つ作り組み合わせることによって、その対象の存在自体、存在全体を表現しようとしたのだと思う。
来年に日本で大規模なセザンヌ展が開催され、その際に、このアトリエからも静物に登場する水差しや壺などを貸し出すとのこと。その際に、色あせた雑品を目にした皆さんも、きっとセザンヌの絵にこれまでとは違うメッセージを感じ取ってもらえると思う。


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