すとう信彦 & his band

社会起業家(チェンジメーカー)首藤信彦の日常活動とその仲間たち

スピルバーグの「リンカーン」とはどういう映画なのか?

2013-05-11 22:11:06 | Weblog
 ワシントンから戻って、すっかり体調を崩しというか崩し続けて、9日の議員会館でのTPP反対の国民会議の報告会でも、せっかく新しい視点を説明しようと意気込んで行ったのに、声が十分にでず、つめかけた会場の皆様にも失礼してしまった。そんなわけで、とてもブログ画面などにむきあう気力もなかったのだが、ニュースを見て、安倍首相が「映画リンカーン」を見て、「苦労している自分と同じだ」とその苦労がわかるとか、そのあと、南こうせつのステージに飛び入りで熱唱などという記事を見て体中の血液が沸騰するくらい怒りと憎しみが沸き起こってきた。南こうせつというのは中曽根さん愛唱歌の元フォーク歌手で、安倍総理が側近の手筈でデュエットするのも結構だが、それを「飛び入り」と書く新聞社のセンスというか、スタンスに嫌悪感すら感じる。
 スピルバーグの「リンカーン」はただのリンカーン伝記映画ではない。それだったらきっとこの作品はアカデミー賞を獲ったろう...主演男優賞は獲得するほどの名演技、映像の一コマ一コマに表現された時代と社会...それでもアカデミー賞がとれなかったのが、ひとえにスピルバーグがアメリカのタブーに挑戦したからだ。冒頭に南北両軍が弾を撃ちつくし、泥の中のすさまじい肉弾戦が描かれる。しかし、そこで戦っている復讐心に燃えた北軍兵士は黒人なのだ。北軍は虐げられまた戦場で無慈悲に虐殺された黒人兵士を最前線に投入したのだ。
指令所の建物の外で状況を見ているリンカーに次の戦場へむかう黒人兵士が声をかける。それに向き合うリンカーン、この映画の中でも最も美しいシーンだろう。そこで黒人兵士は白人と同じに戦っているのに、なぜ給料は3ドル安いのか、なぜ軍服代金を取られるのかと不満を言い、最後にこういうんだ「いつかは黒人(ニグロ)も曹長や兵長になれる...いつかは黒人(ニグロ)でも選挙権をもらえる...そして100年もたてば、きっといつかは黒人(ニグロ)の大統領も出現するんだ...」絶望的な19世紀の戦場で、今は黒人(ブラックマン)の大統領がいる社会が、実はこんな犠牲の蓄積のもとに創り上げられてきたんだと、その言葉は観客の胸に銃剣のように刺さるはずだ。映画始まってから10分でアカデミー賞はスピルバーグに背を向けたのだ。
 この映画で政治の世界に足を踏み入れた者の一人として共感するのは、リンカーン大統領が奴隷解放の内戦に勝利すると同じぐらい、家庭問題に苦しみ、そして泥沼のような議会工作にその生涯を費やしていったか...という政治の実態を、リンカーンの成し遂げた「理想の現実化」という偉業の裏側を、描こうとしていることだ。リンカーンに重くのしかかる家庭生活も、売官やポスト提示など買収、党内の政治駆け引き、選挙に弱い議員への脅迫、奴隷解放でなく憲法修正にすり替える妥協、そして、そしてすでに勝敗が決していた南北戦争の終焉を憲法修正議決まで引き伸ばして多くの兵士を死なせたことも、ある意味、リンカーンを理想とするアメリカ社会においてはタブー視されていたテーマなのだと思う。数十万の兵士が死亡し、4年間にわたって戦われた内戦というものが、奴隷解放という人類愛や人権の問題だけではなく、きわだって経済的問題であり、その結末も、黒人を奴隷から解放すればその対価を支払わなければならない(支払えない)ということから中途半端なものに終わらざるを得なかったことをこの映画は暗示している。
 いったい、この映画のどこに安倍総理は「自分と同じだ」と共感したのだろうか?こんな映画を見て、つぎには芸能人とのデュエットというのは、すさまじいまでの頭の切り替え能力なのか?彼は、おそらく「苦労して憲法改正に取り組む」というのは自分と同じだ...ということで勇気づけられたのかもしれない。専門教育を受けず、歴史や哲学に理解の乏しい彼がそう思いこむのは勝手だ、しかしそれをそのまま書くメディアやジャーナリストとは何者なのか?我々が乗っている日本車にはアクセルの隣にもうひとつアクセルがついているらしい。この道が平坦でまっすぐに続くことを祈りたい。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。