SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

別の次元

2010年09月05日 | Weblog
 ニコニコ動画でピーター・ハイアムズの『カプリコン1』(1977年)を観る。この映画の名作ぶりは、有人火星着陸のシーンで流される大統領のメッセージに尽きている。「諸君は、遥か彼方だ。光でさえ20分も要する距離だ。距離だけでない、時間も超越している。別の次元だ。諸君は未来という時間にいるのだ。......諸君は我々の真実であり現実だ」 2010年の今日、確かに私たちは1977年にハイアムズの予告した未来、その「別の次元」を生きている。それは人間の秘める「偉大な可能性」により開かれた別世界である。大統領は続ける。「我々は小さな種族だ。しかし可能性を秘めている。カプリコンの諸君は、その偉大な可能性を、今ここに示してくれたのだ」 そういえば初音ミクのコンサートも大成功なのだった。

ボイスとウォーホル

2010年09月05日 | Weblog


>ド・デューヴは、ウォーホルとボイスの中に奇妙な一致点を見出している。それは、一見相反する二人のロジックがいずれもひとつの政治経済学、一種の経済主義とでも呼ぶべき論理の中で機能しているという点である。それは、資本によって前衛が包摂された時代のコインの両面だったのかもしれない。現在においてボイスを考えなおすとしたら、それはその神話をいまいちど解体し、現代的な文脈に位置づけることにほかならない。(毛利嘉孝著「神話と創造性」より、『ヨーゼフ・ボイス よみがえる革命』(フィルムアート社)127ページ)

 ヨーゼフ・ボイスとアンディ・ウォーホル。このドイツの前衛芸術家とアメリカのポップ・アーティストが、80年代のメディア社会の中では、同じく神話的なポップ・アイコンとして機能していたという事実は興味深いものである。ボイスはウォーホルが肖像作品化した数少ない現代美術家の一人だが、このウォーホルの直感は鋭いものだったと言わざるを得ない。自分とは正反対のボイスに、しかし同じ記号性を見取っていたのだから。

>その意味では、ボイスは、アンディ・ウォーホルのいわばヨーロッパ的な対応物として捉えるべきだろう。ボイスとウォーホルは、戦後美術を語る時にしばしば対比的に語られる。〔...〕けれども、現代美術のメディア・セレブリティという点において、二人の社会的な位置は奇妙にも一致している。(同124ページ)

(続く)