>そのとき、蜘蛛の身体と蠅の身体の境界は緩やかに浸透している。蜘蛛と蠅は、ばらばらな身体であると同時に、網状の「大地」を通して同じ振動を共有する、「ひとつの」身体を構成している。まるで例えば、馬と馬に乗る人が、振動の同期を通して、ひとつの「人馬」という個体性へと生成するように。もちろん、ジョロウグモと蠅との振動的・接触的関係は捕食的なものであり、蠅はジョロウグモにすぐさま食われてしまいます。しかし可能的には、ここには、蜘蛛と蠅が、触覚的な交渉を通して、それぞれの認識論的閉鎖性を超えて、ばらばらでありながら「ひとつ」になる場が示されているということもできるでしょう。(平倉圭プレゼンテーション『蜘蛛のスクリーン』より)
その名作ぶりがあらためて確認されたテレンス・マリックの『シン・レッド・ライン』だが、このクライマックスで主人公の兵士ウィットは、どう見ても「蜘蛛の網」に引っかかっている(その直前のシーンでは日本軍による威嚇砲撃が、おそらく蜘蛛と蠅との「振動的」な関係(ジャーキング)を示しており、しかもそこで通信兵がケーブルの「断線」を告げている)。「お前か、俺の戦友を殺したのは。俺はお前を殺したくない。降伏しろ」。兵士ウィットを取り囲んだ日本兵のうち、ひとりが横に走り抜けていくのが見える。放射状に開くヤシの葉、そして泡立つ海水面......。この映画の分析成果を持ち帰り、ふたたび「けるけないの森」の探索に出かけることにしよう。
その名作ぶりがあらためて確認されたテレンス・マリックの『シン・レッド・ライン』だが、このクライマックスで主人公の兵士ウィットは、どう見ても「蜘蛛の網」に引っかかっている(その直前のシーンでは日本軍による威嚇砲撃が、おそらく蜘蛛と蠅との「振動的」な関係(ジャーキング)を示しており、しかもそこで通信兵がケーブルの「断線」を告げている)。「お前か、俺の戦友を殺したのは。俺はお前を殺したくない。降伏しろ」。兵士ウィットを取り囲んだ日本兵のうち、ひとりが横に走り抜けていくのが見える。放射状に開くヤシの葉、そして泡立つ海水面......。この映画の分析成果を持ち帰り、ふたたび「けるけないの森」の探索に出かけることにしよう。