SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

蜘蛛の網

2010年09月18日 | Weblog
>そのとき、蜘蛛の身体と蠅の身体の境界は緩やかに浸透している。蜘蛛と蠅は、ばらばらな身体であると同時に、網状の「大地」を通して同じ振動を共有する、「ひとつの」身体を構成している。まるで例えば、馬と馬に乗る人が、振動の同期を通して、ひとつの「人馬」という個体性へと生成するように。もちろん、ジョロウグモと蠅との振動的・接触的関係は捕食的なものであり、蠅はジョロウグモにすぐさま食われてしまいます。しかし可能的には、ここには、蜘蛛と蠅が、触覚的な交渉を通して、それぞれの認識論的閉鎖性を超えて、ばらばらでありながら「ひとつ」になる場が示されているということもできるでしょう。(平倉圭プレゼンテーション『蜘蛛のスクリーン』より)

 その名作ぶりがあらためて確認されたテレンス・マリックの『シン・レッド・ライン』だが、このクライマックスで主人公の兵士ウィットは、どう見ても「蜘蛛の網」に引っかかっている(その直前のシーンでは日本軍による威嚇砲撃が、おそらく蜘蛛と蠅との「振動的」な関係(ジャーキング)を示しており、しかもそこで通信兵がケーブルの「断線」を告げている)。「お前か、俺の戦友を殺したのは。俺はお前を殺したくない。降伏しろ」。兵士ウィットを取り囲んだ日本兵のうち、ひとりが横に走り抜けていくのが見える。放射状に開くヤシの葉、そして泡立つ海水面......。この映画の分析成果を持ち帰り、ふたたび「けるけないの森」の探索に出かけることにしよう。

痩せたもの

2010年09月18日 | Weblog
RT @hazuma_bot:アウシュヴィッツでガリガリに痩せてしまった極限状態の囚人たちを、彼(アガンベン)は「ムーゼルマン」(イスラム教徒)と呼ぶのですが、彼にとって、人間性が剥奪され、動物的な「生」そのものが突出してくる局面の範例は、この収容所的な極限状態にほかならない。これは確かに大事な問題なのですが、そういう「動物化」というのは、思想的に理解しやすいというか、高尚な感じがするので問題にしやすいと思うのです。(東浩紀談『自由を考える』38ページ)

 ときに書店におもむき、柄でもなく文芸雑誌なんぞを手に取った時いつも思うのは、どうしてこんなに「痩せて」いるのかということである。文芸や思想の雑誌は、そのデザインやレイアウトが、とにかく貧しくて痩せている。挿絵の線も細く、枯れて干からびた趣向だ。それはあたかも、ガリガリに痩せたフォーマットでなければ、ものを書いたり考えたりしたことの価値がそこで測れなくなるかのようである。もしここで人文学における「本」というものを「収容所」との類比から考えたみた場合、文芸や思想の雑誌は、だから貧しく痩せたスタイルを好むのではないだろうか。昨今、極めて色とりどりの雑誌が並ぶ書店の棚で、純文学や思想の雑誌はいまだ高尚であろうとするがゆえ、その20世紀的なスタイルの「絶滅収容所」から脱出できずにいるのかもしれない。しかしそんなものに未来などあるだろうか?(写真はアンゼルム・キーファー)