>彼(ハイデガー)によれば「すべての芸術は本質において詩作であ」り、また「私たちは泉に行き森を通り抜けるとき、つねにすでに『泉』という語、『森』という語を通過している」。そして動物には「世界がないweltlos」。(東浩紀著『存在論的、郵便的』254ページ)
「けるけないの森」というタイトルは、「わけるわけない」という言葉から「わ」だけを抜き、上記ハイデガー由来の「森」に繋げたものである。あずまんの『存在論的、郵便的』によれば、フーコーの「考古学的」記述(例えば「蛇」という語の分析)は、前期ハイデガーとまったく同じ論理展開で進められているという(254~257)。「近代的知は、メタ/オブジェクトのレヴェル分けそのものの産出構造について探求する」(257) ここでおそらく「わ」とは「環」であり、「わける‐わけない」のレヴェル分け自体を産出する環構造としての二重のリング=ダブルバインドの謂いである。そしてダブルバインドの基本が「目と耳のあいだの空間」の経験にあることから(20)、蝶と蜜蜂以外に、この「森」に目の見えない蜘蛛と、耳の聞こえない蛇の気配がするのは気のせいではない。蝶、蜜蜂、蜘蛛、蛇......こいつらは深い。