■有機体―人間は、建築的身体への途上の最初の第一歩である。あるいは、設定された建築的身体を装備して生まれた新生児である。建築的身体こそ、新生児の最初の運動を活性化させ、形態化を助けている。そこから伝説のアトラスの肩に乗った世界総体において、有機体―人間―環境があらたに生まれるのである。有機体―人間として最初の第一歩を歩むよちよち歩きの幼児は、その世界全体をおもちゃのように引きずっている。このおもちゃこそ、建築的身体である。(『建築する身体』42ページより抜粋)
■まず、最初に考えられることは、我々の、メモリーのアイディアですね。我々がこの世に生まれてきて一番最初に叫んだ言葉、叫んだ声。あれがなかったら我々はいまここに居ないわけです。あの言葉が発生する条件というか、場というのは、何であるか。あれがおそらく我々の道徳の原点です。僕はあれを何とかして構築しようとしたわけです。あれが構築できれば、我々はいま使っているであろう、この世界の道徳についてどこが悪いか、いいかをはっきりさせられるわけです。それがはっきりしたら、目にはみえないけど我々人間よりももっと素晴らしいものがあることが分かるのではないか。生きるとか、人生とか、そういう言葉はいらないんじゃないか。そういうことをはっきりさせるためには、あの一番最初の言葉が、情動的であれ理論的であれ,何であれ発生するあの場所が構築されない限り、何も解決できないはずだろうと僕は思います」(荒川修作『季刊思潮』1988年一号より抜粋)
■かくして、アラカワの世界において最終的に賭けられた、「ここ」という新生児の知覚=共身体空間は、その世界がもつ記述と遠近法への激しすぎる(分析哲学的)懐疑の結果、作品‐形象そのものの中に、それとして書き込まれることはけっしてない。つまり、表象・形象内部における、遠近法の否定としての症候‐作品(さまざまな線と言葉が奏でる接合と混乱、対立物を並置する奇妙な命題)が、完全な障子仕立ての紙細工として、最後まで分析判断の水準で抽象的に走行するのと並行に、この幼児の身体(=主語ないしコプラ)、つまり一般の作品が幻想的に隠喩する快楽の該当物は、表象自体には明示的には書き込まれず、表象との連関、つまり帰属先の分化‐所有権を拒否された、制作者=鑑賞者の身体支出としてのみ到来する。この身体支出は、表象の水準での分節から切り離された、「ここ」という主語‐意識であり、それは分節されることなく、無際限の差異をはらんだ白色の意識であり、とはいえそれは、新生児のように現実に叫び、世界‐他者へと叫びかける、具体的力動をもった<身体支出>としての原初的意識である。(樫村晴香「アトリエの毛沢東」より抜粋)
■まず、最初に考えられることは、我々の、メモリーのアイディアですね。我々がこの世に生まれてきて一番最初に叫んだ言葉、叫んだ声。あれがなかったら我々はいまここに居ないわけです。あの言葉が発生する条件というか、場というのは、何であるか。あれがおそらく我々の道徳の原点です。僕はあれを何とかして構築しようとしたわけです。あれが構築できれば、我々はいま使っているであろう、この世界の道徳についてどこが悪いか、いいかをはっきりさせられるわけです。それがはっきりしたら、目にはみえないけど我々人間よりももっと素晴らしいものがあることが分かるのではないか。生きるとか、人生とか、そういう言葉はいらないんじゃないか。そういうことをはっきりさせるためには、あの一番最初の言葉が、情動的であれ理論的であれ,何であれ発生するあの場所が構築されない限り、何も解決できないはずだろうと僕は思います」(荒川修作『季刊思潮』1988年一号より抜粋)
■かくして、アラカワの世界において最終的に賭けられた、「ここ」という新生児の知覚=共身体空間は、その世界がもつ記述と遠近法への激しすぎる(分析哲学的)懐疑の結果、作品‐形象そのものの中に、それとして書き込まれることはけっしてない。つまり、表象・形象内部における、遠近法の否定としての症候‐作品(さまざまな線と言葉が奏でる接合と混乱、対立物を並置する奇妙な命題)が、完全な障子仕立ての紙細工として、最後まで分析判断の水準で抽象的に走行するのと並行に、この幼児の身体(=主語ないしコプラ)、つまり一般の作品が幻想的に隠喩する快楽の該当物は、表象自体には明示的には書き込まれず、表象との連関、つまり帰属先の分化‐所有権を拒否された、制作者=鑑賞者の身体支出としてのみ到来する。この身体支出は、表象の水準での分節から切り離された、「ここ」という主語‐意識であり、それは分節されることなく、無際限の差異をはらんだ白色の意識であり、とはいえそれは、新生児のように現実に叫び、世界‐他者へと叫びかける、具体的力動をもった<身体支出>としての原初的意識である。(樫村晴香「アトリエの毛沢東」より抜粋)