>現在、その世界への浸透力が注目されている日本のオタク文化における「萌え」の要素も、クオリアに対する感性の表れである。(茂木健一郎「クオリア立国マニフェスト」より抜粋)
嘘ばっか言ってんじゃねーよ(爆)。もしそうならクオリアの背後にあるのはデータベースだということになる。しかし東浩紀の説明によればデータベースというのは、すこぶる「乾いて」いる。それに対してクオリアの印象というのは、逆にかなり「湿って」いる。人間的にウェットな感覚としてのクオリアと、機械的にドライな反応としての萌えは、その原理において似て非なるものである。もちろん萌えもクオリアも、人間のいない社会環境において発症するという点ではよく似ているわけだが、どう考えても眼鏡とか猫耳とかフリルはクオリアの対象とはならないだろう。
嘘ばっか言ってんじゃねーよ(爆)。もしそうならクオリアの背後にあるのはデータベースだということになる。しかし東浩紀の説明によればデータベースというのは、すこぶる「乾いて」いる。それに対してクオリアの印象というのは、逆にかなり「湿って」いる。人間的にウェットな感覚としてのクオリアと、機械的にドライな反応としての萌えは、その原理において似て非なるものである。もちろん萌えもクオリアも、人間のいない社会環境において発症するという点ではよく似ているわけだが、どう考えても眼鏡とか猫耳とかフリルはクオリアの対象とはならないだろう。