SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

養老天命反転地3

2008年03月14日 | Weblog
>ローティやメルロ=ポンティは、前述のように、近代哲学は目の隠喩で主体を捉えてきたと考える。それは妥当な意見だが、他方でデリダが1967年の『声と現象』で提案したように、近代哲学をむしろ声(耳)の隠喩から整理することもできる。その場合、デカルトからフッサール、ハイデガーにいたる哲学者たちの主体(あるいは現存在)概念に共通する構造は、「見る」絶対性というよりも、むしろ「自分が話すのを聞く s’entender-parler」自己産出性として捉えられる。目の主体はイメージで世界を捉え、耳(言葉)の主体はシンボルで主体をまとめあげる。しかし「目と耳のあいだの空間」について語るデリダは、もはやそのどちらが正解かを問題にするのではない。イメージとシンボルのあいだを自由に往還するエクリチュールの存在は、主体のモデルとなる知覚的隠喩を攪乱し、そのあいだを往還する。とすれば私たちが行うべき作業は、「目」からまた別の知覚へと範例を移すのではなく、むしろ諸知覚の分散状態、ひとつのエクリチュールを「目」や「耳」、あるいは「手」(触覚的隠喩もまた思想史上は重要だ)などによりつねに複数的に捉える状態のうえに、新たな理論的言説の可能性を探ることにあるのかもしれない。(東浩紀「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」第六回『情報環境論集S』P296より抜粋)

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