>しかし、あたりまえですが「良い」「悪い」の判断が最も必要なのは現場の作家です。正確にはその権限(権力)は美術批評家なり美術館学芸員なり画廊なりが握っていて、無力で盲目な作家がむやみに作った作品を一方的にジャッジするんですね。(...)そして、その判断の為には先行する、あるいは同時代の作品の分析が欠かせないし、それらの作品が作られ評価された文脈の検討も必要になる。(「美術と臨床をめぐる対話」から永瀬恭一の4月3日のメールより抜粋)
画家は、自分の作品の何が「悪い」のかは分かっても、何が「良い」のかなんて分からないはずだ。自分の絵の「良さ」に自覚的な画家など、そんなのはイラストレーターであって芸術家ではない。そういう意味で芸術家が「盲目」であるのは、それこそあたりまえの話だ。芸術として絵を描くために、「先行する、あるいは同時代の作品の分析」とか「それらの作品が作られ評価された文脈の検討」など必要ない。荒川修作は「すべてが亡くなる前に、俺は新しい種を生み出すよ」と言った。そして浅田彰は「ゼロの自分が無限に挑むくらいの野心を持て」と言った。それが芸術的にどういう意味なのか、永瀬恭一はこれからよく考えてみるべきだろう。「分析」だの「検討」だの、犬も食わない言葉だ。保坂和志に笑われるぜ。
画家は、自分の作品の何が「悪い」のかは分かっても、何が「良い」のかなんて分からないはずだ。自分の絵の「良さ」に自覚的な画家など、そんなのはイラストレーターであって芸術家ではない。そういう意味で芸術家が「盲目」であるのは、それこそあたりまえの話だ。芸術として絵を描くために、「先行する、あるいは同時代の作品の分析」とか「それらの作品が作られ評価された文脈の検討」など必要ない。荒川修作は「すべてが亡くなる前に、俺は新しい種を生み出すよ」と言った。そして浅田彰は「ゼロの自分が無限に挑むくらいの野心を持て」と言った。それが芸術的にどういう意味なのか、永瀬恭一はこれからよく考えてみるべきだろう。「分析」だの「検討」だの、犬も食わない言葉だ。保坂和志に笑われるぜ。