SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

美的判断とコミュニケーション

2007年04月30日 | Weblog
>美的判断はコミュニケーションとは関係がない。岡崎乾二郎が『経験の条件』のあとがきで、ウィトゲンシュタインの「自分の見ている青と他人の見ている青とが同じであるとは限らない」という懐疑を、そもそも「自分の見ている青と自分の見ている青とが、同じであるとは保証されない」と書き換える時、そこに重要な差異が生まれる。前者は結局、言語ゲーム(コミュニケーション)の問題でしかないが、後者は「美的判断(美的経験)」の問題となる。芸術によって与えられる「美的な経験」の質は、誰とも共有出来ないからこそ(そもそも自分自身に対してさえその同一性を保証出来ないからこそ)、他者に対し、世界に対し、徹底して開かれたものとなる権利が生まれる。(古谷利裕の偽日記07/04/26より抜粋)

 いや、むしろ後者は、孤独な美的判断(美的経験)のうちにコミュニケーションの経路がすでに入り込んでいる、とでも捉えるべきだ。自分と他人の間にあるコミュニケーションのギャップが、自分と「自分」の間にもあるわけだ。そしてその「同じであるとは限らない」もしくは「同じであるとは保証されない」という半透明なギャップの両義的反転なくしては、そもそも他者や世界に対して徹底的に開かれるという美的経験の透明性は生まれない。つまりコミュニケーション(交通空間)こそが孤独な美的経験という「錯誤」の隠された条件である。でないのかもしれないが(←マテ)。

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