新世紀を迎えた頃の(というより9・11以降の)美術界に現れ始めたその奇妙にアレゴリカルな絵画表現の特徴は、その絵の背後に暗示される大きな世界がすでに物語的な統制を失っているにもかかわらず、ひたすらドラマチックな記憶の想起を試みているところにある。例えばこのダニエル・リヒターの絵を前にして、視線はその出来事を物語として解釈できずに、いつまでも絵の表面に留まり続けてしまう。それは何かの物語の一場面ではなく、絵それ自体が物語として現実化してゆく光景なのだろうか。絵の描写と物語の生起が同時におこなわれるとき、原因と結果を規定する因果律の原理法則は果たせるのだろうか。やはり原因が発生する以前に結果が示されることで、物語りは二度目の死を迎えるのだろう。