SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

暗い部屋1

2006年11月24日 | Weblog
「緊急。6×9サイズのカメラ用の金属製フィルムを2巻、できる限り早く送られたし。ガス室送りにされる囚人たちを写したビルケナウの写真を送付する。1枚には野外で死体を焼く火刑場のひとつが写っている。焼却棟だけでは全てを焼ききれないのだ。火刑場の前にはこれから投げ入れられる死体がある。もう1枚には、シャワーを浴びるためだと言われて林のなかで囚人たちが服を脱ぐ場所が写っている。その後で彼らはガス室に送り込まれるのだ。フィルムをできる限り早く送られたし。同封した写真はただちにテル(Tell)に送られたし。我々の考えでは拡大した写真はもっと遠くにまで届くはずだ」(1944年9月4日。ユゼフ・ツィランキェーヴィチとスタニスワフ・クゥオジンスキによるポーランド・レジスタンス宛てのメッセージ)

 緊急の課題は、アウシュビッツが想像可能なものであることを、できる限り早く伝えることにあった。フランスの哲学者・美術史家のジョルジュ・ディディ=ユベルマンはその著『イメージ、それでもなお』(平凡社)にて、これら「地獄からもぎ取られた4枚のフィルムの切れ端」は、想像不可能性に関するふたつの空間、ふたつの別の時代に宛てて送り出されていたと述べる。証人の差し迫った消滅と、証言の確実な表象不可能性というふたつの不可能性の折り目を縫って現れたこれらの「閃光」は、思考の動きが突然停止した地点で回帰された幾つかの「すべてに抗するイメージ」として、アウシュビッツの真実が「想像可能なものでしかない」ことを示すだろう。
 こちらとあちらを分かつのは「窓」ではなく「扉」である。この扉越しにガス室の内部から隠し撮りされた写真(のオリジナル)には、左隅に別の写真の一部が写りこんでいる。してみるとガス室の暗闇と現像室の暗闇を区別することはできない。つまりその出来事は、同時に編集台の上(モンタージュの場)に載せられている。この写真はそこで拡大トリミングされることでその現象学的な重さを失うが、しかしそうした操作はそもそも当事者たちが望んだことであり、そうすることで映像喚起的な要素を純化したイメージは、あるいはその「軽さ」により「もっと遠くにまで届く」ことになる。ユベルマンは、この拡大されたイメージを、もう一度「暗い部屋」の内部から見ることを求める(我々をガス室内に連れ込む)と同時に、そこで「モニュメントの単純さ」を背後で支えているであろう「モンタージュの複雑さ」について触れることを求める。そしてそのためには、あらゆる人文諸科学の体系を根本から考え直す必要があると説くのである。(続く)

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