>彼(デリダ)はまず、「私は考える」がひとつの「表現 expression,Ausdruck」であることに注目する。表現は必ずある支持材、つまり音や文字などに刻まれねばならない。しかし音や文字といった物質は「私」に対して外在的(ex-,aus-)であるはずだから、表現「私は考える」それ自体は定義上、発話者である「私」の生死とは無関係に存在しうる。つまり表現「私は考える」は必ずある物質性をもつのであり、そのことで「私は考える」はつねに、それを瞬時に回収し「私は存在する」へと連結するはずの「自分が話すのを聞く」装置から逸脱してしまう。デリダはこの物質性を「エクリチュール」と名付けた。(東浩紀『存在論的、郵便的』(新潮社)p156~p157を参照)
この文章の前後には「声の隠喩」という言葉が何度も繰り返されている。さすがにこれだけ「前提」の確認を求められれば、まさか「声」という隠喩を実体化し、それが刻まれる「支持材」を「空気」のことだと思い込んでしまうことなどあり得ないはずだ。そんなことはたとえ工学部の学生であろうと絶対にあり得ないはずなのだ。しかし古谷利裕は普通に平気で「声=空気」と理解してしまっている。おそらくは樫村晴香の「口腔運動」も同じように理解しているのだろう。ふだんから人の文章の引用ばかりして自分の頭で物事を基礎的に考えていないから、そういう馬鹿げた錯誤に陥るのだ。愛犬のチャーリィが笑い疲れてぐったりしている。誰だって疲れる。
この文章の前後には「声の隠喩」という言葉が何度も繰り返されている。さすがにこれだけ「前提」の確認を求められれば、まさか「声」という隠喩を実体化し、それが刻まれる「支持材」を「空気」のことだと思い込んでしまうことなどあり得ないはずだ。そんなことはたとえ工学部の学生であろうと絶対にあり得ないはずなのだ。しかし古谷利裕は普通に平気で「声=空気」と理解してしまっている。おそらくは樫村晴香の「口腔運動」も同じように理解しているのだろう。ふだんから人の文章の引用ばかりして自分の頭で物事を基礎的に考えていないから、そういう馬鹿げた錯誤に陥るのだ。愛犬のチャーリィが笑い疲れてぐったりしている。誰だって疲れる。