SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

“現代”以後に現れた難解さとは

2008年01月08日 | Weblog
>もうひとつは、“現代”の持つ難解さだ。“現代”がいきいきとしていた時代でさえも、現代音楽とか現代美術なんて言葉は、「難解」の代名詞のようだった。今では難解であったということさえも忘れられつつあるのだが、現代音楽や現代美術が好きな私から見ても、「行くところまで行ってしまった」感じが強く、「その先に何があるんだろう」と思わないではいられない。(保坂和志「いまや忘れられつつある“現代”」より抜粋)

 現代美術や現代音楽そして現代文学などの作品がいかに難解に見えたとしても、それらは人に「頑張ればもしかしたら理解できるかもしれない」と思わせるものがある。これまでの人文諸学の知見を総動員すれば、その難解な作品の背後にある意味を解読できるかもしれないと。しかし行くところまで行ってしまった“現代”のその先に現れた新たな難解さは、人間(人文学)を寄せ付けない。たとえば、その背後には何の意味も無い「暗号」を解読するのは人文学部ではなく工学部の仕事だ。アカデミズムからすれば観るに堪えないアートや、聞くに堪えないテクノ・ミュージックや、読むに堪えないライト・ノベルが、そして吐き気をもよおすようなアニメの絵柄が、もし「現代」の「理解できるかもしれない難解さ」とは異なる質の「絶対に理解できない難解さ」によってこそ「堪えない」のだとしたらどうなのか。おそらく“現代”以後に現れた新たな難解さを解読するのは、人文諸学とはまったく異なる場所にいるであろうニュータイプの集団である。そして彼らは神を知らない。

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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2008-01-09 20:57:49
あんたの考えが知りたいよ。
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