隅の老人のミステリー読書雑感

ミステリーの読後感や、関連のドラマ・映画など。

1848.美しい乞食

2018年04月19日 | リーガル
美しい乞食
The Case of The Beautiful Beggar
読了日 2018/04/19
著 者 E・S・ガードナー
E.S.Gardner
訳 者 宇野利泰
出版社 早川書房
形 態 ポケミス1121
ページ数 241
発行日 1979/10/15 3版
BSIN 4-15-001121-4K

 

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在は“乞食”という言葉が差別用語となっているかと思ったら、僕の思い込みに過ぎなかったようだ。路上で物乞いをする人を指す言葉“乞食”は、もともとは仏教の言葉で、托鉢をすることを指して、こつじきともいうようなことを、ネットで知った。
このストーリーの中では、単に人から恵んでもらう意味で使われているのだが、僕が子供の頃の時代には、路上生活者を乞食と呼んでいたこともあり、何人かそういう人を見かけたが、時を経るにしたがって、見なくなったのは亡くなったか、あるいは他の土地に越したのか?
子供は目に見えないものに対しては、関心が向かない。70年以上も前のことだから、僕だってはっきり覚えているわけではないのだが、そうした人の中に初老の女性がいて、※※さんと名前で呼ばれていたことを思い出した。普通の暮らしをしていたら、顔立ちだって整っており、きれいなおばさんだったろう、と今になって思い起こす。そんな昔が渦を巻いて、頭と心の中を駆け巡るのは何だろう。

 

 

タイトルから思わぬ方向に記憶が蘇った。あの頃はどこも貧乏で暮らし向きも貧しかったから、そうした人に思いを寄せる余裕もなかった。いや、それは今だって大した違いはない。僕など自分のことで精いっぱいだから、人を思いやる気持ちなどないはずなのに、そんなどうしようもない昔に、思いを馳せるなど訳が分からない。
そんな時に、人間の脳の不思議さを感じさせるのだ。まだまだ脳の働きについて、科学的にも医学的にも、解明されていない部分が多いのだというから、僕などが逆立ちして考えたって、分かるはずもない。
しかし、分からないから良いこともあるのだろう。昔から知らぬが仏などともいうから。

というようなことはさておき、僕は時々、ペリイ・メイスンの依頼を受けて活動する、ポール・ドレイクの涙ぐましいまでの協力姿勢に、おもわず今流にいえば“ウルウル”することもある。
そうしたドレイク探偵の仕事ももちろん、ペリイ・メイスン一家の一員として、デラ・ストリートと共に評価されるべきだ。ペリイ・メイスンのように自ら外に出て、事件を捜査する弁護士はそうそうはいないだろうと思うが、そこはフィクションとしての面白さだ。
しかし、弁護士と言ったっていろいろなタイプがあるだろうから、メイスンのような弁護士に依頼したら、その手法に信頼を抱く人もそうはいないのではないか?現にこのシリーズをたくさん読んできたが、なぜ弁護士に依頼しながら、弁護士を信頼せずに自分勝手な行動をとるのだろうと、僕が物語の登場人物にフラストレーションを抱いたりっしても、どうなるものでもないのだが・・・・。
しかしそんな弁護士を窮地に追い込むような、依頼人の物分かりの悪さも含めて、一転真実を明らかにするメイスンの法廷での活躍が、それまでのモヤモヤを吹き飛ばす。

 

 

イトルの“美しい乞食”は、楽しかるべき外国旅行から帰国した途端、一文無しで家を追い出された、若い娘ダフネ・シェルビーが、メイスンの好意に対して「・・・わたし乞食にはなりたくありませんわ・・・」というセリフからきている。
旅行中に受け取った伯父からの手紙には、ダフネを思う伯父の緊急事態を思わせて、ペリイ・メイスンを訪ねて、彼と同行して同封の12万5千ドルの小切手を、現金化して保管してええもらう旨が、記されてあった。
だが、伯父の銀行口座には1セントもなかったのだ。彼は禁治産者の認定がされて、預金は別の口座に移されていた。
一体、ダフネの留守の間に何が起こったのだろうか?
途方に暮れるダフネの力になろうと、、メイスンはとりあえず彼女が生活に必要な金を渡そうとするのだが・・・・。

 

 

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