杉の子のひとりごと

私の交友録などを中心に,思いを綴っていきます。

ある出会い

2011年08月06日 | 日記
私の人生に於いて忘れられない家族がある。

40年前、私は松山を目指して車を走らせていた。
その当時付き合っていた女性が旅行から帰るので、
待ち合わせ場所の松山市大街道へ急いでいたのである。

現在のように高速道路のない時代、元の道を走行していた、
ところが一台の車が私の脇を猛スピ-ドで追い越した !

(何だ !) ふとその車に目をやると運転手側のドアが
半ドアになっている、このまま放置すると急カ-ブ辺りで、
ドアが全開になって、大事故に繋がる恐れがある !

私は、運転手に知らせようと考え、追跡に移った。
しかし、運転手は気が付かないままスピ-ドを緩めない、
そのまま追跡を継続したのである。

信号で止まれば追いついて教えてやろうとの親切心から
だった。
ところが・・・?
山間部の中山町のあるカ-ブを曲がった所で事故は起きた。
前方を見る私の目に、一台の車が見る間に迫ってきた、
道路工事現場でその車は停車していたのである。

あわててブレ-キを踏んだが遅かった、
「ドン!」 鈍い音を立てて私の車は前車に追突した !

「しまったぁ!」 私の口からうめき声が漏れた。
前車のドアが開いて一人の30才代の男性が首を押さえて
下りて来た。

私はあわてて駆け寄って頭を下げた、
まず、その町の診療所へ被害者Aさんとともに向かった。

それから、私は八幡浜から長浜へ見舞いに通う事になった。
Aさんの奥さんの兄さんは、ある士業のB先生 !

そして奥さんのお母さんは、観音様のようなお方だった。
恐縮する私に、優しい言葉、労わりの言葉を掛けて下さった。
地獄に仏、Aさん、奥さん、お母さん、B先生・・・
こうしてお目にかかった方々は皆さん素晴らしく慈愛に満ちた
方々だった。

見舞いに通う内に、お互い心の交流が通い合うようになった。
事故当時Aさんは、長女Yちゃんを出産された奥さんを見舞う
ため、松山の日赤病院へ向かっていたのである。

示談の日が訪れて、B先生立会いの元示談書が作成された。
私たちは、その後、本当のお付き合いが始まったのである。

先般、書士会の会合でB先生と久しぶりにお会いした。
「妹のHさんはお元気ですか ?」 と聞いてみると、
思いも依らぬ言葉が返って来た・・・?
「今年の4月に亡くなりましてね・・・」 突然の予期せぬ
話で私は言葉を失った。

妹Hさんは、それは出来たお人だった、
お母さんの性格を引き継がれたように、相手に対して、慈愛を
もたれた女性だった。

先日、多忙なご主人には会えなかったが ?
B先生の事務所へお悔みに出向かせていただいた。

今朝(5日)B先生の奥様から電話を頂戴した、
お悔みへのお礼であった、先刻ご承知の奥様である。
さすがに私は声を詰まらせてしまった、
H奥様との生前の思い出が蘇ってきたのである。

交通事故の当事者同士、加害者と被害者の珍しい心の交流。
私の人生で、教科書のない授業をさせて頂いた様なものである。
人の罪を許す、寛容の精神!これは誰でも出来ることではない。

私は、Aさんのご家族、B先生のご家族のご恩を終生忘れる
ことはできない。
子供へ引き継ぐ申し送りである。

Hさんの墓前に御参りしたいと思っています。
謹んでお悔み申し上げます。
それにしても人との別れは切なくて辛い。 ・・・。。。

                           合掌


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