読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

『百年の孤独』を代わりに読む

2024年07月12日 | 小説・文芸

「百年の孤独」を代わりに読む

友田とん
早川書房(ハヤカワNF文庫)


 ついに新潮社から、あのガルシア=マルケスの「百年の孤独」の文庫版が出た、というのは出版業界的に大きな話題だったようである。
 世界的な名文学でありながらこれまでいろいろな権利の関係で文庫化が為されなかったらしい。

 
 「百年の孤独」は、その難解な展開と、複雑極まる登場人物たちによって、ラテンアメリカ文学の代表作だけでなく、現代文学の象徴のひとつに数えられている。曰く「マジックリアリズム」。その影響はわが日本でも、阿部公房や筒井康隆や、さらには椎名誠、森見登美彦榎本俊二にまで及んでいる。

 だけど、御多分にもれず、僕も「百年の孤独」は学生時代に早々に挫折した。第3章までもいけなかったかもしれない。

 おそらく、そんな読者が多かったのだろう。文庫化された「百年の孤独」は、かつてのリベンジとばかりに多くの人が買ったようで、あっという間に品切れになってしまったそうである。

 最近の僕は難解本の読破に自信がなく、かつて玉砕した「百年の孤独」に、今また再び挑む気になれなかった。そんなときにひょいと見つけたのが本書である。


 「『百年の孤独』を代わりに読む」。妙なタイトルだ。阿刀田高の「●●を知ってますか」シリーズのようなものか、と思ったがそういうのとも違う。むしろ「代わりに読む」というところにこだわりと野心がある。本って「代わりに読む」ことなんてできるの? という哲学的問いで、パラパラめくると80年代のテレビドラマやバラエティ番組などの写真がじゃんじゃん出てきてなんじゃこりゃと思う。つまりあらすじを追いながらも著者である友田とん氏の脱線につぐ脱線なのである。
 だけど、このなんじゃこりゃ感こそが、「百年の孤独」を「代わりに読む」、つまり追体験そのものなのだろうと妙に納得して読んでみることにした。


 読んでみて、これでも「百年の孤独」は難解であったが、でも全体的にどんな雰囲気であるかはなんとなくわかった。著者の脱線に次ぐ脱線も、このはぐらかされたような感覚自体が「百年の孤独」そのものだといってさしつかえない。こういうのをなんというのだろう。パロディでもないし、パステューユでもない。もちろん読書ガイドでもない。本書でもその驚異的記憶術に著者が驚いたとされるタモリは、まだ売り出し中のときに有名人のモノマネをしていた。それは「形態模写」ではなく「思想模写」と言われた。「モノマネされた人が実際にそう言った事実は確認できないが、いかにも言いそうなことをやってみせる」という芸である。令和の芸人はみんなやるようになったが、タモリの当時のモノマネは芸術的とすら言われていた。この「『百年の孤独』を代わりに読む」もそれに近いものかもしれない。そのままでは難解すぎてついていけない「百年の孤独」を、なんじゃこりゃの読後感そのまんまに食いやすいもので再編集している。つまり「読後感模写」。

 そのような「読後感模写」を再現できていれば、それは「代わりに読む」と言えるのだろうか。
 著者によれば、「代わりに読むことは結局できない」という結論だ。読みながら頭の中で展開されるイメージや妄想や脱線を、完全なまでに第三者に移植することはできない。であれば「代わりに読む」はできない。当たり前と言えば当たり前である。

 だけど、本書の存在価値はそんな陳腐な結論ではないと思う。そもそもなぜ「百年の孤独」だったのか。「カラマーゾフの兄弟」でもなく「失われた時を求めて」でもなく、なぜ「百年の孤独」だったのか。


 著者は、「代わりに読む」=「『百年の孤独』を読む」という結論に至っている。百年の孤独を読むことは、主人公級のひとりであるアウリリャノに代わって物語の舞台であるマコンドの興亡の歴史を読むことだったのだ、としている。

 そうかもしれない。
 だけれど、僕は「百年の孤独」というタイトルそのものに着目したい。マコンドという都市の勃興と消滅を描いた百年間の物語。その中で次々と登場する似たような、あるいは同じ名前の登場人物たち。彼らは突然姿を消したりとつぜん登場したり、街を去ったり戻ってきたり、産まれたり殺されたり、殺されたのにまた何事もなく出てきたり、愛し合ったり憎しみ合ったりする。だけれど、けっきょく彼らはどこまでもすれちがっていて孤独だ。わかりあえない関係の中でマコンドの百年の歴史は過ぎていく。いや、こんな収束がはかれるような文学ではないことは百も承知だ。
 だけど、僕は群像劇のようでいながら、けっきょくどいつもこいつも誤解と無理解のなかで孤独なのだ、というのが本書を読んで痛感した。

 そうすると、本書著者の脱線に次ぐ脱線もまた、孤独の脱線である。彼が拾う脱線はどれも無理解やすれ違いや信じられなさからおこるエピソードばかりだ。そして、この脱線の真の面白みのツボさえも著者にしかわからない。本人が一番盛り上がっている。だけれど、それが世の中の真実なのだと思う。他人のことはどんなに近しい仲でも本質的にはわかりあえない。「わかりあえないことから」を書いたのは平田オリザだ。この講談社新書は名著のひとつだと思うが、人と人とはわかりあえない。人は本質的に孤独である。
 しかも、このマコンドという町は消滅する。人々の記憶から消える運命にある。

 メキシコらしきラテン世界を舞台にしたディズニー映画「リメンバー・ミー」では、人は二度死ぬ、という格言が何度も出てくる。一つは実際の死、もう一つはその人が忘れ去られる事を指す。

 世界中の大多数の人間は、忘れ去られる。百年より前に亡くなった人間でいまだに記憶されている人は、全世界人口のほんのわずかであろう。マコンドはそのような忘れ去られる宿命を描いてもいる。「百年の孤独」とは、群像劇内の各人の孤独でもあり、マコンドという都市自体の孤独であり、つまりは人も社会も忘れ去られる孤独の宿命にあるのだ。

 著者友田とん氏が、「百年の孤独」を代わりに読む、という難解にして困難なチャレンジを続けたのは、A子さんなる女性の「まだ読んでいるんですか?」という一言だという。そのA子さんはもう長いこと会っていない。著者はA子さんを忘却しないことに努める。A子さんをわすれたとき、著者にとってA子さんは死んだことになる。著者はまたひとつ孤独になる。「百年の孤独」を代わりに読むのは、孤独への抗いなのだった。



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国道沿いで、だいじょうぶ100回・流浪の月・わたしはあなたの涙になりたい・他

2024年07月08日 | 複数覚え書き
国道沿いで、だいじょうぶ100回・流浪の月・わたしはあなたの涙になりたい・他
 
 
ここのとこライトめの読書が続いている。このブログでなんどかボヤいているが、難易度の高い本がどうも頭に入りづらくなっており、ちょっとリハビリ気味といったところである。うまくオチなかったり話が展開できなかったものをこちらまとめて。
 
 
国道沿いで、だいじょうぶ100回
 
岸田奈美
小学館
 
どれを読んでも涙がとまらない岸田奈美のエッセイであるが、今回こそが神刊かもしれぬ。デビュー作からずっとこの調子で、いつかはネタが尽きるんじゃないかと思うのに、本書はいつになく深刻な内容と救済と笑い飛ばしの展開のジェットコースター感がすごい。もはや凡庸なラノベをひるませるに十分。100字で済むことを2000字で書くのはお昼のワイドショーと一緒だが、100字のファクトを2000字のナラティブにしたてあげるのは超絶技巧だ。根拠なき「大丈夫」の一言。でもそれは段取りの目途がついていなくても、なんとかどこかに着地するだろうと自分の腹を信じる大丈夫だし、まずは大丈夫と言ってみることから大丈夫の道は拓ける。作者が言うのだから間違いない、と思う。
 
 
史上最強の内閣
 
室積光
小学館文庫
 
麻生太郎が総理大臣をやっていて、金正日が存命だった頃をモデルにした話だから、ちょっと旧聞に属する内容になってきた。北朝鮮の核ミサイル発射の威嚇に翻弄される日本政府が政権を投げ出し、緊急時用の京都由来の内閣が臨時に組閣される、という話。三条実美や坂本龍馬や山本権兵衛といった歴史上の偉人名人が現代で内閣を構えたらどうなるかというのは、思考実験的にもパロディ的にも面白いが、どの大臣も浪花節をきかせて記者をうならせ、要人に詰め寄り、世論を湧き立てる。ナラティブに勝る説得力なしといったところか。外交とはピンポンのようなもの。こっちが繰り出した球をどう相手が返してくるか。こちらが奇手を放てば相手はどうでるかをしたまで、というのは案外に本質をついている。ついでに北朝鮮のプロパガンダを指して、恐怖を盾に正論を迫っても人はついていかないよ、も人心掌握の基本ではある。
 
 
流浪の月
 
凪良ゆう
東京創元社
 
2020年の本屋大賞受賞作。家庭内強制わいせつ・毒親・DV男など、ひどい連中がいっぱい出てくるのに、それらから逃れようとした文と更紗が、少女誘拐監禁のかどでデジタル・タトゥーを残し、世間から追い回される、というどこまでも悲惨な話。しょせん世の中こんなもんよという厭世的な空気も漂わせている。それでも似たようなプロットの「八日目の蝉」よりかは最後に希望があるのは、更紗と同僚のシングルマザー佳奈子の介入だろう。トリックスター的な立ち位置で、これが事態を混沌とさせながらも、結果的に全体を希望の方向にもっていくのが興味深い。これも奇手のひとつか。
 
 
武士道シックスティーン
 
誉田哲也
文春文庫
 
もう10年以上前の小説になるのか。勝負を決める短い時間のあいだに、様々な思考が入ってきてそこだけ時間の進行がぐぐっと停滞するのはスポーツ系やバトル系のアニメの演出の特徴だが、それを小説でやったような感じ。本質的にはあり得ない無感知の思考を言語化してドラマツルギーにする。でもこれはドフトエフスキーや夏目漱石も行った文芸的技術。いまやエンターテイメントのカタルシスとしてごく自然に受け入れられ、ついには瞬間の勝負である剣道にまで至った。ある意味でその後の「鬼滅の刃」を予見した作品だったのかも。
 
 
わたしはあなたの涙になりたい
 
四季大雅
ガガガ文庫
 
本屋大賞を特集した雑誌で紹介されていて興味を持ったので読んでみた。徹頭徹尾ラノベ。美少女・難病・ツンデレ・冴えない男子・お涙頂戴といったテンプレを臆面もなく動員しながら、最後までお約束に終始するのに、伏線にてラノベとは毒にも薬にもならぬものとしゃあしゃあと言いのけ、売れるための計算づくと指摘し、ドラマツルギーに毒されるなと登場人物に語らせるというメタな展開がされる。かといって最後はラノベの解体とか逸脱といった青臭い破壊行為に出るのかといえば、そうではなくてちゃんとラノベとして完全決着させ、しかもラノベの価値とは何かにまで行き着くという実に野心作。

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最後はなぜかうまくいくイタリア人

2024年07月04日 | エッセイ・随筆・コラム
最後はなぜかうまくいくイタリア人
 
宮崎勲
日経ビジネス文庫
 
 
 タイトルが秀逸。裏を返せば「過程は問題ないはずなのに最後はなぜかうまくいかない日本人」という見立てが張りついている。くそー、なんであやつらはあんなにいい加減なのになんだかんだでうまくいってんだ! と思う日本人は多そうである。
 
 底本が2015年だから7年前の本だけど、コロナを経ても彼らのメンタリティは変わらない。コロナウィルスによって世界中で外出禁止になったときに、日本では自粛警察と買い占めで寒々としていたのに、イタリアにおいては道を挟んだアパートのベランダ越しにカンツォーネを歌い合う光景がニュースで取り上げられていて、なるはどイタリアらしいと思ったし、連中にはかなわんなと感じた次第である。ソーシャルディスタンスさえ楽しむのだ。
 
 もちろん「イタリア人とは」とひとくくりにするのは乱暴な話なのであって、そういう意味では本書は「面白い読み物」という感覚で接するべきであろう。とはいえ、なんとなく我々の生きるヒントみたいなものも感じさせる。たとえば、イタリアは社会運営がなにかと雑なので、そこで生活する彼らは予定を綿密にたてたところで実際は何がおきるかなんてわからないことを経験的に知っている。したがって先の段取りのことは気にせず、出たとこ勝負で繰り広げて、そして最後はなんとか辻褄合わせてしまうスキルが非常に鍛えられているのが著者の観察だ。この話、多いに考えさせられるものがある。
 なんとなく今の日本は、段取り力とかバックキャストとかTODOとかPDCAとかコスパタイパに頭をフル回転させて、最短距離で最大の成果を得るように周到に動くのが賢い人の条件のように言われがちだ。そのようなビジネス本や自己啓発本はたくさんある。
 日本はイタリアに比べればはるかに予定通りにコトが進む社会文化ではあるものの、とは言え想定外なことに見舞われることは大なり小なりよくあることだ。
 むしろ、時々刻々と変わる変化を感じながらその場のものにあやかりながら目的を達成する能力は、この日本でだって必要な能力であろう。
 まあ、最後はうまくいくさ、の行き当たりばったりで着地させる身体感覚(運動神経に近いものかもしれん)を持つこと。これはバックキャスト思考に負けず劣らず大事なサバイバル能力であることは肝に銘じようと思う。その肝は本書にもあるように経験主義(プラグマティズム)ということなのだ。
 
 ところで、本書を読んで気がついた。タモリの芸風ってこうだよな。彼の好きな言葉は「適当」で、座右の銘は「やる気のあるものは去れ」。しかしアドリブに優れ、手先が器用で、料理は玄人はだし、寄り道が大好きで、さりげなく様々なことに造詣が深く、やんちゃに事欠かない。短所を正すよりもそれを個性ととらえて長所を引き出す彼の審美眼によって世に出た芸人はたくさんいる。そういえば「日本ラテン化計画名誉会長」はタモリであった。

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傲慢と善良 (ややネタバレ)

2024年07月01日 | 小説・文芸
傲慢と善良 (ややネタバレ)
 
辻村深月
朝日文庫
 
 
 どの本屋にいっても平積みされている。映画化も決定しているとのことで、そんなに面白いのかと思って手に取った。
 謎解きミステリー・昨今の婚活事情・いわゆる恋愛ストーリー・東日本大震災など、いろいろなものが盛り込まれているが、ここでは母娘の呪縛について考えてみる。
 
 
 「傲慢と善良」というのは、英文学として名高い「高慢と偏見(Pride & Prejudice)」のもじりであることは明確だ。
 「傲慢」とは私は何もわかっていて絶対に正しい、という肥大した自己愛であり、「善良」とは世間様に従順、すなわち誰かがなんとかしてくれる、という甘い考えに疑いを持たない態度だ。「傲慢と善良」。英語ならば「Egoism & Naive」といったところか。日本語でナイーブというと繊細さを意味することが多いが、本来は「世間知らず」「騙されやすい」といったネガティブな意味がまとっている。
 
 「毒親」という用語が使われるようになって久しい。とくに最近は母親と娘の関係の病的なこじれが注目されることが多いように思う。母親からすると、自分の体の一部をちぎって自分の体内から出てきた同性の存在は、どうしても自分の裁量が許されるもの、と本能的に思ってしまいがちなのだろう。娘を完全に独立した別個人としてみなす近代倫理を全うするにはそうとうな理性的配慮ができる脳味噌を所有していなければならない。
 この小説では、群馬は前橋から上京した32歳の真実と、その実母である陽子の関係性が物語の鍵のひとつとなる。傍から見れば陽子の暴走は歪みまくっているように見えるが、現実の世にも程度の差こそあれ、このような関係の母娘はかなり多そうである。そして、これは令和の今日に限る話ではなく、時代を問わずかなり普遍的な関係なのではないかとも思う。陽子もまた、この群馬の地で、その実母から似たような支配を受けてきたということは想像に難くない。
 
 この母娘問題のやっかいなところは、娘が、実母の異常になかなか気づかないことである。それどころか、真実の場合はなんだかんだでそれなりに居心地よく実家生活を送ってきたらしいことがわかる。大学の同級生や職場の同僚の存在から自分があちこちで不適応を起こしていることに気づいて自信を失っていくが、実家の居心地の良さのために自分自身を矯正しなければという切迫は感じない。こうして彼女の中のエゴとナイーブは肥大化していった。「自己肯定感は低いのに、自己愛は高い」真実はこうしてできあがっていった。
 
 その陽子も実は「自己肯定感は低いのに、自己愛は高い」ことを真実の婚約者である架に指摘されている。つまり、母娘の関係はこの「自己肯定感は低いのに、自己愛は高い」女性を再生産していく、という宿命が見て取れる
 
 
 もちろん、世の中の娘のみんながみんな、真実のようになるわけではない、この小説でも真実の姉である希美は、母親とは違う世界観の中で立派に生きている。
 
 真実と希美を分けた決定的な違いは「反抗期」だったのではないかと思う。
 
 この小説では、真実の実家である前橋を出た女性・出なかった女性という区別をする箇所があるが、要するに親に反抗して地元を飛び出た人と、従順に留まった人と見ることもできる。
 
 親というのは、どうしたって自分が生きてきた時代の価値観・狭い世界観・狭い常識をセオリーとして是非を判断しがちだ。認知バイアスと言ってよい。それを娘の人生に敷衍しようとする。どの時代の親も多かれ少なかれそういうところはあるだろう。しかし、時代は確実に前に進んで変容していくので、親の価値観と同時代を生き抜く知識意識は必ず齟齬を来す。これをしないためには親側に強力な自制心と分別、現代の情報収集能力と同時代解釈力が求められると言ってよいが、脳味噌の構造からしてもともと無茶な要求であるとむしろ思ったほうがよい。
 
 で、あるならば「親に反抗する」というのが、ある意味で子どもに必要とされる生き延びるための本能であろう。姉の希美はことごとく反抗したことで自立生存を勝ち取ったのだ。本格的反抗は、第2次反抗期から始まる。
 妹の真実は、この第2次反抗期がなかったのではないか。
 
 
 最近の子どもは反抗期がない、という話をときどき聞く。親も強圧というよりはフレンドリーに接するので子どもに反抗の気分が沸かないらしい。こと母娘はこの関係になりやすい。しかしこれはかえって事態をややこしくする。母親は一見フレンドリーに娘に接してくるが、その中身はやはり親の世界観と価値観であるから、実際には同時代を生き抜く上での齟齬が潜んでいる。反抗の機会がないぶん、それは娘の精神形成に無抵抗に入り込んでいく。そして真実のようになる。気づいたときはいろいろなものをこじらせてしまった後である。
 
 本当ならば、希美のようにア・プリオリに「なにかおかしい」「なにかちがう」「よくわからないけど従いたくない」という防衛意識が必要なのである。親がそうである以上、子どもは反抗しなくてはならない。母親は無意識・無自覚的に支配しようとするので、娘は明示的・自覚的に反抗していかなければならない、ということになる。
 
 
 この小説は他にも象徴的な女性たちが登場する。真実のアンチテーゼとして嘘と悪意を隠そうともしない架の派手な女友達。「勝ち組(この言い方そういや聞かなくなったな)」である架の元カノ三井亜優子や、真実の見合い相手だった金井の現妻。子どもを実母のところに残して社会活動に精を出すヨシノさん。台湾からの留学生ジャネット。
 おそらくは彼女らに共通するのは刺し違える覚悟で勝ち取ったものがある、という迫力だ。ときには肉を切らして骨を断つ覚悟で踏み込まなければ、不条理な支配に屈してしまうのが世の中の摂理。花束みたいな恋ばかりじゃないのだ。
 

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庭仕事の真髄 老い・病・トラウマ・孤独を癒す庭

2024年06月22日 | 生き方・育て方・教え方
庭仕事の真髄 老い・病・トラウマ・孤独を癒す庭
 
スー・スチュアート・スミス 訳:和田佐規子
築地書館
 
 
 けっこうなボリュームの内容だが、言っていることはほぼ一貫していて冒頭で大意をつかめば、あとの大半はその補強情報といったところである。つまり、園芸や家庭菜園は、心身のために非常によく、心の治療や、利他精神の発露、対人症の克服、筋肉や内臓の健康回復と維持などに役立つ。
 現代社会における生活に少しでも悩みやストレスがあれば、これはなにはなんとも庭仕事をするのがよいのだ。
 
 庭というものを己の心身から離れた対象物ではなく、心身の一部あるいは心身が拡張された領域として扱えることができるという観点が、ガーデンニングの国イギリスでベストセラーになったポイントだろう。心理療法のひとつに、箱庭療法というのがある。庭と身体はボーダーレスなのだ。園芸という行為は、自分自身を整え育むことなのである。
 
 われわれ人類は、庭のような適度な広さで安全が保証されている自然空間に強い心の安寧をいだく。
 人類史20000年の中で、人間の身体は遺伝的に植物が放つさまざまな緑色や樹木が持つ非定型な輪郭、花の香り・土の匂いに好感と安寧を持つようになったのだ。人類にとってむき出しの大自然は脅威ではあるが、安全が確保されている庭ならばむしろ、自然とのほどよい相互作用の中に身を委ねることができる。園芸をしたことがある人ならば誰しも心当たりがあると思うが、農作物を育てるにも樹木草花を育てるにも、なかなか思うようにはいかない。かといってまったくコントロール不能かというとそうではない。自然の摂理の先を読み、雑草の駆除や新芽の間引きなど攻撃的なことをすることもあれば、風雪を避けたり水をあげたりと防御的な行為をする。継続的にケアをしていけば、大筋で当初想定していたような結果の庭になっていく。園芸とは、思い通り半分想定外半分のほどよい難易度の作業である。この適度な塩梅が心の平安を作り出すのだ。
 
 いちど庭仕事を開始するとやがて没頭して、日常の些事や悩みが頭から離れていく。手足を動かし、指先の感触に敏感になる。やがて少しずつ変化する自然のうつろいに気が向くようになり、現代生活をとりまく規則的・直線的・定形的な圧力を忘れていく。つまり、古来から人類が身体にもっていた感覚を取り戻す。人類史20000年を宿す身体のDNAにおいて、現代生活がもたらす刺激はどうしたってストレスを蓄積させるのである。園芸こそが現代社会を健康に渡り歩くための大事なエクセサイズなのだ。
 
 
 とはいうものの、本書は園芸大国イギリスの話だ。
 
 我が日本も、その自然観からすればここに書かれることは大いに共感するし、寺社の庭園なんかはそもそもが精神の一体化を前提としているところからすると、このような思想はむしろ先行していたのではないかとさえ思うが、実際のところ日本の住宅事情では必ずしもみんながみんな庭を持てるわけではない。本書のような日々を送ることは日本の都市部に住む人ではなかなか難しい。
 それでも、マンションのベランダにおけるプランター菜園とか玄関や路地裏の小路に置かれた鉢植え、宅内に飾られる季節の一輪、盆栽や観葉植物。なんとかして植物を置こうと希求する姿は、単に対象物を愛でたいというだけではなく、防衛本能とでも言いたくなるような突き動かされる何かがあるのだろうと思う。疲れたサラリーマンがやたら老後の自足自給生活を夢想するのも、そこに安らぎを求める何かを理屈抜きで本能的に感じ取っているからかもしれない。
 
 まずは室内に飾る鉢植えでも物色してみようか。

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花束みたいな恋をした

2024年06月17日 | 小説・文芸
花束みたいな恋をした
 
原作・脚本 坂元裕二 著 黒住光
リトルモア


 「なぜ働いていると本が読めないのか」。売れているようである。完全にタイトルの勝利であろう。
 その本の中で著者が何度も引き合いに出して感情移入を隠そうもしていない大絶賛映画がこれだった。そうか。そんなに面白いのか。映画館の予告編で観たときは、菅田将暉と有村架純という二大売れどころの恋愛ものという先入観が手伝ってとくに興味も期待もなかったのだが、ここまで推されてしまっては観ないわけにはいかない。
 たまたま我が家で入っていたU-NEXTのラインナップにあったので観てみた。映画だけでなく、ノベライズ版も読んでみた。
 
 なるほどー これは、アレだな。なんと70年代フォークソングの世界が、ちょっとのチューニングで、実は令和のZ世代にも十二分に通用できるということなのだ。
 
 たとえば定番「神田川」。たしかに、この映画の主人公である麦くんと絹さんは河川を見下ろすアパート(マンション?)の一室で同棲しているし、麦くんはイラスト描きをたしなむ。二十四色のクレパスでなくても絹さんの似顔絵を描くことはあっただろう。もちろん今どきのアパートは風呂付だから、横丁の風呂屋に出かけることはないが、このお二人が駅からの帰り道をカフェで買った飲み物を手に帰途につくシーンは、赤い手ぬぐいをマフラーにして歩く情景を彷彿とさせる。そして「若かったあの頃、何も怖くはなかった」と回顧するのである。
 「神田川」だけではない。この映画は「22才の別れ」の世界でもある。「風」という名のフォークソングデュオがうたった名曲だ。17才で出会ったカップルが5年の月日を経て長すぎた春だったと別れる内容の歌である。誕生日にローソクをたてていくシーンが聞きどころ。麦くんと絹さんの同棲もおよそ5年間。そして最後は泣きながら別れを決意し合う。この5年間が楽しかったと。
 ちなみに、麦くんはフリーターをやめる決心をして就職活動を行う。で、そのために髪型をあらためる。これは「いちご白書をもう一度」という曲にそういうフレーズがある。歌っていたのはバンバンというフォークバンドで、作詞作曲はなんとあの松任谷由実だ。
 
 こういうストーリーテーリングは、むしろ70年代の「政治の季節」が終わった頃の空気感を歌ったものだと思っていた。いつの時代でもヒット曲というのは時代の空気と呼応しているものである。だけど、真の名曲というのはやはり普遍性があるんだな。道具立てさえうまく時代の調整をすれば昭和も令和もいけるのである。「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」の内容も踏まえると、「政治の季節」が終わって幾星霜、ここにファスト教養の素地ができあがったのであろう。

 ということは、80年代のシティポップでもいけるのだろうか。あれこそは当時の同時代性空気をしてビンビンに反応したものだと思っていたのに、ここにきて再注目されているのはなにか令和の当世にも感じるものがあるのかもしれない。杉山清貴の「二人の夏物語」で出会い、大沢誉志幸の「そして僕は途方にくれる」で別れ、大瀧詠一の「君は天然色」でふっけれる、あたりのエッセンスで物語をつくって、令和風に味付けしたらそれなりにいけるんじゃないか、と思う。
 
 
 で、そういう御託はいいから、わざわざノベライズ版まで手にした「花束みたいな恋をした」はどうだったのさ?
 
 ここに20代の、そうだな、大学生の最中の僕がいたら、鑑賞後(ないし読後)、落ち込んで3日ほど寝込んでしまったかもしれないな。
 僕のまわりにも大学時代に彼女や彼氏とつきあっていたものの、卒業後に就職を経て最後までゴールインしたカップルは皆無ではなかったか。いや、ゴールインなどと言うまい。社会に出て1年以上もったカップルはいなかった。そんな彼らにこの映画はいたく刺さるだろう。
 だけど、僕は学生時代にそもそもそんな色めいた話はほとんどなく、就職活動後にようやく付き合い出した女性とは卒業までももたずに去られてしまった。よってこの映画のスタートラインにも立てなかったことになる。
 映画の淡い幻想と己のシビアな現実のギャップにもだえるのも、この手の映画や小説の一興だ。
 

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図書館の神様・幸福な食卓・強運の持ち主

2024年06月01日 | 小説・文芸

図書館の神様・幸福な食卓・強運の持ち主
瀬尾まいこ


 瀬尾まいこは、今まで2作品ほどここにとりあげているが、最近さらにまとめて3冊ほど読んだ。
 で、彼女の作風というかテーマというのがおぼろげながら見えてきたのでここに書いておく。いまさらここに書かなくても周知の事実なのだろうけど。

 この人は、お約束の役割分担規範というものに疑問を持っている。それがとくに顕著なのが各賞受賞の「幸福な食卓」であろうが、ここでは家族構成員の役割、「父親」という役割、「母親」という役割、「息子」という役割、「娘」という役割の解体が試されている。単なる解体ではない。解体しても「幸福」は維持できる、という挑戦がある。話題作だった「そして、バトンは渡された」も同様と言えるだろう。

 「強運の持ち主」では各連作において占い師を狂言まわしにしながら父親や母親というものをいじくっている(ついでに「占い師」のステレオタイプもいじくっている)し、「図書館の神様」や「あと少し、もう少し」では、学校の先生というもののステレオタイプを剥ごうとしている。他の作品も多くはそうなんじゃないかと予見している。

 ものの情報によると、瀬尾まいこは、長いこと学校の先生をやっていたという。学校とか先生というのはきわめて役割分担意識を強く醸成する環境なんだろうなとは想像に難くない。「先生」として期待される立ち振る舞い、「生徒」として要求される言動、さらには生徒の保護者である「母親」「父親」のカリカチュアされた姿に日々さらされることだろう。

 だけど、こういう規範はすぐに手段と目的が逆転する。父親らしく、母親の義務として、先生なのだから、学生として、としてあらねばならない規範に縛られるようになる。瀬尾まいこは教師生活の中でこの問題意識がどんどん大きくなっていったのではないか。要は幸福であれば、成長できれば、何かがわかれば、誰がどのように作用しようともいいのではないか。いや成長しなくっても、生きててよかったと思えればそれはそれでいいのではないか。
 
 しかし、それでは単なるアナーキーイズムである。アナーキーであることはこれはこれで手段と目的が逆転しやすい。
 瀬尾まいこの作品は、役割分担規範に縛られるのは閉塞感を生むが、それはそれなりに良いこともある、というバランス感覚はありそうだ。「父親」だからこそできること、「母親」だからこそ説得力があること、「先生」だからこそ動けること、「生徒」だからこそ許されること、というものは確かにあって、それはそれでうまく使えばよい。このあたりの上手な感覚をうまく使えばよい、というのが瀬尾まいこの作品の真骨頂なのではないかと思う。
 瀬尾まいこの全部を読んだわけではもちろんないけれど、全体的に、女性キャラにまじめだけど無感動の人が多く、男性キャラに変に超越しちゃった悟った人が多い印象を与えるが、これさえ「男性」「女性」という性別役割分担規範をあえて批評的に再構成させたものなのかもしれない。


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死の貝

2024年05月13日 | ノンフィクション
死の貝
 
小林照幸
文藝春秋 (新潮文庫)
 
 
 20世紀も終わりころ。20代の僕はニフティの読書好きフォーラムのひとつをよく覗いていた。まだモデムを使ってピーガシャガシャと接続していた頃である。SNSも掲示板もロクな検索エンジンもなかった時代だから、本の評判をそういうところで得ていたわけだ。
 
 フォーラムの誰かが、文藝春秋からものすごいノンフィクションが出た、と投稿した。その名も「死の貝」。かつて日本の農村部で猖獗を極めた寄生虫病を根絶させる話という。無名の作家と地味なテーマに騙されるな、ぐいぐい読ませる、とその投稿主は興奮していた。
 
 この手のノンフィクションは当時から好きだったので、直観で面白そうと思い、行きつけの本屋に探しにいったが見当たらず、カウンターで予約してもらった。数日後に本が届いた旨の電話がかかってきた。
 
 読んでみて、その中身に圧倒された。日本住血吸虫という寄生虫の存在も、それが山梨県や広島県で猛威を振るっていたことも、慢性的な栄養失調におとしめてやがて肝臓や脾臓を破壊する恐ろしい感染病であることもこの本で初めて知った。医療関係者や該当地域の人以外には関心を得にくそうな硬派なテーマなのに、圧倒的なドラマツルギーを放つ筆力に飲みこまれた。けっして大言壮語を操るような文体ではない。愚直に何処某の誰某が何をした、その結果何々の成果があった、あるいは何々の壁にぶつかった、といった事実ベースの積み重ねである。かなりの資料にあたったと見られ、固有名詞や数字が次々と出てくる。むしろ報告書みたいな時系列の記述なのに、その事実が小説より奇なりというか、事実の重みに語らせてるというか、とにかく1日で読み切ってしまった。周囲の読書好きに薦めまくった。
 
 ところがなぜか、この本はその後それほど話題にはならなかった。なにか賞をとることもなく、文庫化もされなかった。
 
 そこから幾星霜。四半世紀もたって突如に新潮文庫で復刻されたのだった。
 
 
 新潮文庫版の帯をみると、Wikipedia三大文学のひとつ、とあった。Wikipediaの記述が面白すぎて思わずよみふけってしまうものの一つらしくて、そのスジには広く知られていたらしい。ちなみに残りの二つは八甲田山雪中行軍遭難事件と三毛別羆事件とのこと。前者は新田次郎、後者は吉村昭の小説が有名でどちらもロングセラーだが、なぜか日本住血吸虫を扱った本書だけが出版業界から見落とされていたわけだ。これだけ小説ではなくてドキュメンタリーだったからかもしれない。単行本が文藝春秋なのに文庫本が新潮社で出た事情もなにか背景があるのかもしれない。
 
 というわけで文庫化によって話題になっているのを知った僕は、文藝春秋の「死の貝」を書棚から改めて取り出して読む。なにより感動するのは、昔の医者は偉かったんだなーと思うことだ。
 
 罹患してしまうと腹が太鼓のように膨れてぼろぼろの栄養失調になって死に至る恐ろしい病である。感染源も治療法もわからない。それなのに、田んぼの中に素足で歩いていると罹るらしい、という農民の伝聞だけを頼りに、自ら素足で田んぼの中に立って事実関係を確かめる医者(そして実際に感染した)、とにかく何かがおかしいと村人の糞便を採取しまくって寄生虫の卵を探す医者、治療費もとらずに絶望的な患者を次々診ていく医者。自己犠牲というか未知の病を克服するためのがむしゃらな精神に舌を巻く。よくこの手のものはベテランの医者が誤った見立てをしてしまって業界全体をミスリードしたりするエピソードに事欠かないのだが、今どきのEBPMを彷彿させるような、かなり統計学的な手法を用いて原因を特定しようとする医者も登場する。
 
 医者だけではない。患者も挑戦する。近代医療の黎明期である明治時代にあって、みずからが自らの身体を後世のために解剖することを願い出たり、臨床実験結果も出ていない試薬に協力する。先ごろのコロナワクチンの狂騒とは隔世の感がある。それくらい藁をもすがりたくなるひどい病気だったのさということなのだろうが、自治体も国も、戦時中の一時期を除いて病因の特定と予防に躍起になる。ひとつの目的のために官民一体となるこの姿は現代の日本ではなかなか考えにくいことである。
 
 最終的には、ミヤイリ貝という小さな淡水貝が、この寄生虫の中間宿主であることが突き止められ、この貝を日本から絶滅させるという気宇壮大というか誇大妄想的な事業が開始される。溝渠の底をシャベルですくうと砂利のようにたんまり出てくる貝を、である。日本全国で数億匹は下らないはずだ。村人総出で箸を使って一匹ずつつまんで捨てたり、大量の石灰を撒き続けたり、火炎で燃やしたり、水路をコンクリートで覆うなど、あらゆる手を使う。せっかく効果が出ても川が氾濫して元の木阿弥になってしまったり、ちょっと手を抜いただけでたちまち貝は増殖するなど、この貝はなかなかしぶとい。
 
 悪戦苦闘の結果、貝の駆逐を開始して40年、謎の病の調査からは100年経ってミヤイリ貝はついに日本から姿を消した。宿主を失った日本住血吸虫という寄生虫は少なくとも日本ではいなくなった。山梨で地方病、広島で片山病とよばれたこの寄生虫によるおそろしい病は事実上消滅したのだ。
 
 人間が根絶させたウィルスというと我々は天然痘を思い浮かべるが、貝を根絶させるなんてすさまじいことを我が日本はかつてやってのけたのである(正確にいうと日本住血吸虫に侵されていないミヤイリ貝は日本にまだわずかだが生息しているそうだ)。
 
 
 生物多様性とか生態系バランスの今日からみると、ある固有種の貝を力技で絶滅させるというのはなかなか暴挙なようにも思える。水路をコンクリートで覆う(全長数百キロに及ぶそうである)のも、農村景観の保護とか自然の保水力の低減の観点で異議ありと言ってくるエコロジストは出てきそうだ。
 
 しかしそういう話は、なんだかんだで余裕の産物なんだな、と本書を読めば思ってしまう。日本住血吸虫は日本の農業史とほぼ併走していた寄生虫であり、村人を全滅させて廃村に追い込み、記録にも残らなかった例も過去にはあったであろうことを、他国の例などから類推している。自ら素足を田んぼに突っ込んでまで病の原因を解明しようとした医者がかつていたことを思えば、人類のウェルビーイングのための希求は、自然との泥縄の戦いの歴史だったのだなと感じ入る。
 
 とはいうものの、ミヤイリ貝と日本住血吸虫のしぶとさも本書の見どころのひとつだ。安全宣言が出て30年以上経っているが、本当に根絶したのだろうか。「ないこと」を証明するのは非常に難しい。昨今の異常気象や川の氾濫から、どこかでひっそりとミヤイリ貝のコロニーが育っているんじゃないかと思うとうすら寒いものを感じる(現代では治療薬のほうも揃っているようなので安心されたし)。
 
 
 というわけで、本作品の新潮文庫での復刻はご同慶の至りだ。消えるには惜しいノンフィクション名著は他にもある。「青函連絡船ものがたり」や「大列車衝突の夏」なんかは著者の執念の探索が見もので、個人的には名作だと思っている労作ノンフィクションだ。ぜひとも復刻してほしい。

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水車小屋のネネ (ネタバレ)

2024年05月10日 | 小説・文芸
水車小屋のネネ (ネタバレ)
 
津村記久子
毎日新聞社出版
 
 
 ソーシャル・キャピタルという言葉がある。
 キャピタル(capital)とは「資産」にほかならないが、ソーシャルキャピタルは、社会的資産で、つまりは人脈のことである。
 普通は「資産」というと、「お金」を想像するが、お金でなくても生存を支える資産はありえる、という思想がここにはある。
 「お金」というものはクレジットの一種だが、クレジット(credit)とは「信用」と訳すがごとくで、「信用」がお金でなくても形成できるのであれば、物事のやりとりや交換の媒介になるものが「信用」できるものであれば必ずしもそれはお金でなくてもよい。クレジット(credit)は、お金(money)でなくても、技術(skill)でも、人脈(Social capital)によって築くことができる
 
 
 この小説はいろいろ人物が登場するが、主人公は誰かと言えば、律という女性になるだろう。初登場では8才であった。律の姉である理佐が、進学するはずだった短大の入学費を実母に使い込みされ、家出(理佐いわく独立)するところから物語ははじまる。実母の再婚相手は胡散臭い男で、律への虐待のおそれを感じた理佐は、律も実家から連れ出した。
 その後もこの実母と再婚相手は、姉妹を連れ戻そうと追いかけてくるがそれは全て相続をめぐる金目当てであり、金の目途ができると姿を現さなくなる。まさに「金の切れ目が縁の切れ目」である。
 
 その後、姉妹はとある山間の町で古いアパートを借りて新生活を開始する。理佐は賄いつきの蕎麦屋で働くが、お金には苦労する。新生活当初は、冷蔵庫も扇風機も暖房も買えなかった。高校を出て就職した律は、農作物をやりくりする地元の商社(農協のことか?)に就職するが高卒故に安い給料に直面する。しかし、大学に進学するだけの準備金はなかった。ヨウムのネネは思い出したように貧窮問答歌をうたう。姉妹だけではない。外国人実習生は低賃金待遇のために職場を脱走し、母子家庭の中学生である研二は役所でもらった給付金を不良にとりあげられそうになる。
 金がないのは首がないのと同じ、と言ったのは西原理恵子である。現代の日本社会においてこれはかなりの真実を突いた言葉であろう。
 
 しかし、律と理佐の姉妹は貧乏に窮した毎日というわけでもなかった。この地の善意という信用経済に支えられていく。アカデミズム風に言えば贈与経済社会、あるいはついでとダメもとで支え合っている社会と言えるかもしれない。姉妹も、この地に流れ込む人々に当然のように親切を施す。それがまたこの地域社会をまわす。主人公である律や、律の姉である理佐をはじめとして、この物語には様々な人物が去来する。多くは肉親への絶望や消耗などの過去を抱えていたが、彼らはさまざまな交換によって互いに支え合って生きていき、希望を見出していく。
 そうして40年間という長い時間が経過する。
 
 主人公である律は、実の母親との決別のシーンで「貧乏でもいいの?」と投げかけられたが、プライスレスな信用社会で40年生きて、幸福な人生を確認した。「自分はおそらく、これまでに出会ったあらゆる人々の良心でできあがっている」。

 幸福とは何か?

 『私は人生をあるがままに受け入れる。人生とは多くの、より多くの幸福を内蔵しているものだ。たいがいの人は幸福の条件をまず考えるが、幸福とは人間が何の条件を設置しないとき、はじめて感じることができるものだ』

 これは20世紀の大ピアニストであったアルトゥール・ルービンシュタインの名言だ。律は幸福を定義せず、信じることをただやっていた。
 
 
 本屋大賞第2位ということだ。第1位の「成瀬は天下をとりにいく」が快活な成瀬あかりという個人への憧憬だとすれば、「水車小屋のネネ」は、静かな社会的つながりへの憧憬だろう。
 推定するにこの物語の舞台は木曽地方の小さな町だ。ここに憧れの桃源郷をみたのは僕だけではあるまい。比較的に長い小説で、そのわりにとくにドラマティックな起伏に富むわけでもないが、ずーっと読んで浸っていたい、そんな小説だった。


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「科学的」は武器になる 世界を生き抜くための思考法

2024年05月01日 | 生き方・育て方・教え方

「科学的」は武器になる 世界を生き抜くための思考法

早野龍五
新潮社

 浅学にして著者の名前を知らなかったが、科学者としていろいろ知られた人のようである。福島原発事故のときはTwitterで中立的なデータ情報を発表し続けてたというから、僕も目にはしていたのかもしれない。

 「科学的」とは何かーーいろいろな人がいろいろなことを言ってきたように思う。数字で証明できれば「科学的」なのか、再現性を担保することが「科学的」なのか。
 本書では「科学的」という言葉を、役に立つことを前提に結果から逆算して取り組むのではなく、どうなるかわからない、何に役に立つかわからないけれど、ただ仕組みや仕掛けの解明に追求したいという気持ちでの取り組みを「科学的」としている。科学的態度といったほうがいいのかもしれない。過去の偉大なる科学的発明発見の多くは、当初の目的から外れたところでなかば偶然に見つかったものだったり、とにかく無暗矢鱈にトライ&エラーを繰り返すその行き当たりばったりの中でなぜかよくわからないけど一つだけ成功したものだったりすることが多い。
 であるから、目標定めて最短距離で最大成果に到達させるようなコスパタイパ思考の持ち主は「科学的」とは言えないわけである。どうなるかわからないし、何の役に立つのかわからないけど、なんか面白そうだからとにかくあれこれやってみる。このモチベーションが実はイノベーションのとっかかりになる。このあたりの考えは「役に立たない研究の未来」も別の角度から同様の主張が為されていた。

 実は、このような概念はよく言われてはいるのである。セレンディビティピティやブリコラージュといった思考にも通じるし、スティーブ・ジョブズの名言のひとつ「stay foolish」はこれに通じるように思う。寺田寅彦は「科学者とあたま」というエッセイで、あまり先が読めてしまう賢い人は無駄撃ちや遠回りを避けるから偉大な科学者にむかないということも言っている。
 これを計画的に経営に取り入れるとチャールズ・オライリーの「両利きの経営」になる。

 これだけ言説があるのに、現実の世の中はなかなかどうして「科学的態度」を許してくれない。目論見と勝算を尋ねられ、結果のコミットを求められる。我々だって自分の税金が国のなにかの研究や開発に使われるとき、どうなるかわからないけれど面白そうなのでいろいろやらせてください、では納得できないだろう。

 つまり、「どうなるかよくわからないけれどなにかおもしろそうだからとにかくいろいろやってみよう」という科学的態度は、誰もが思うものすごく魅力的なユートピアでありながら、でも、誰だって自分の負担で他人にそれをやらせるには抵抗がある、という極めて難しい理想なのである。

 思うに、「科学的態度」を貫くには庇護者が必要ということではないか。サントリーの創業者である鳥井信治郎の矜持は「やってみなはれ」であったことは有名で、これは今でもサントリーの社訓になっているという。(これに対し「見ておくんなはれ」と返すことでワンセットになるのだと、同社の人が言っていた)。
 科学的態度が必要なのは、科学者ではなくてマネージャーやスポンサーの立場の人なんだよなー。昔の芸術家のパトロンは偉かったんだなーと思う。


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推し、燃ゆ (ネタバレ)

2024年04月30日 | 小説・文芸
推し、燃ゆ (ネタバレ)
 
宇佐美りん
河出書房新社
 
 
 本屋大賞系の本を何冊か読んでいて、微温系のいい話は心いやされるのだけれど、もうすこしざらついたものも読もうかなと思って、芥川賞受賞の本作をよむ。ちょうど文庫化されたのだ。
 そしたら、想像以上にざらついていた。「コンビニ人間」の上をゆく虚無があった。
 
 主人公は女子高生、山下あかりによる一人称小説である。したがって語り手のあやつれる言語と知覚できる世界によって描かれるわけだが、彼女はなんらかの発達障害をかかえていることがその書きぶりからわかる。
 
 実は、さきごろ本屋大賞をとった「成瀬は天下をとりにいく」の主人公の成瀬あかりにも、発達障害の気配がある(同じ「あかり」なのは偶然か)。「コンビニ人間」の主人公である古倉恵子も同様だ。発達障害の人物を通して現代社会に見え隠れする異様や閉塞、あるいは希望の兆しをクローズアップさせる手法は和洋を問わず見かける。映画なんかでもよくある。
 これらを見ると実に人生の分岐点とは紙一重なものだと思う。うまく出会いや理解者があれば、その人が持つ特徴は良い方に作用するが、ちょっとタイミングや関与する人物がずれると社会の圧力の中で居場所を失う。(さかなクンを題材にした映画「さかなのこ」では、のん演じる「さかなクン」が最終的にはうまく人生が軌道に乗ったが、もう一人対照的にさかなクン自身が演じる「社会からはじかれた魚オタクのおじさん」というのが登場し、その紙一重が強調されていた)。
 本主人公のあかりは残念ながら社会と齟齬をきたしてしまっている。
 
 あかりの父母は目をそらす。父親はエリート系ビジネスマンでしかも海外赴任中、モラルを盾に本気で彼女のエンパシーを汲み取る気がない。母親は毒親に育てられた経緯があり、情緒不安定である。大人になってなお理想と現実の違いに打ちのめされ、うまくいかない毎日の、うまくいかないもののひとつに彼女を数える。あかりには姉がいて家族の中では理解者ではあるものの、母に気を使い、妹に気を使い、見ていていたたまれない。
 唯一の救いは、この家庭が経済面ではおそらく裕福なほうに属しているっぽいということだろうか。
 
 あかりの病症については、ご本人も認識しているようで、以下のような文章がある。
 
 ・肉体の重さについた名前はあたしを一度は楽にしたけど、さらにそこにもたれ、ぶら下がるようになった自分も感じていた。
 ・あたしには、みんなが難なくこなせる何気ない生活もままならなくて、その皺寄せにぐちゃぐちゃ苦しんでばかりいる。
 ・働け、働けって。できないんだよ。病院で言われたの知らないの。あたし普通じゃないんだよ。
 
 病名がつくことは呪縛でもある。だから私はできないのだ、できなくてもいいのだ、というスパイラルに入っていく。どうしても脳味噌が言うことをきかない。体が動いてくれない。ただ、知識だけがどうやら自分のこれは異常らしい、ということを教える。感知し得ないことを知識としてだけ「あなたは実はそうなんだ」と植え付けられることが、本人にどのくらいの苦しみと絶望を与えるかは、本人以外はわかり得ないだろう。僕もわからない。
 
 「コンビニ人間」では、発達障害の弱点を無効にできる社会の場としてコンビニ勤務があてられた。一方、本小説ではそこにアイドルの推し活動が充てられる。
 現代の推し活動がいかなるものかは、本作にて密度濃く描かれていてひとつの目玉だが、ポイントはあかりをここまで推し活動に駆り立てるものはなにか、ということになるだろう。ここからさらにネタバレになる。
 
 
 彼女はアイドルグループに属する一人の男性、上野真幸の推し活にのめり込む。
 アイドル推し活にもいろいろあるようだが、あかりのそれは、対象者の解釈にある。そのためにひたすら真幸の世界に没入し、そこで感知するものをその表象から解釈する。真幸の取材コメントはぜんぶ把握し、真幸の映像情報はあらゆる角度で分析される。そして真幸の行為そのもののポジネガは評価しない。ファンを殴って炎上しようが、ふてぶてしい態度でインタビューに受け答えしようが受容する。もちろん、いい笑顔を見せたり、心にひびく歌声をきけば多いに嬉しい。が、微妙な表情や声の調子の変化にむしろ注目し、理解しようとする。つまり無限抱擁として真幸を推すことこそがあかりの最優先であり、そのあまりの極端な優先順位のため、ADHDの彼女は日常のことごとくを取りこぼす。終盤にむかえばむかうほど、この落差が破壊的になっていく。 
 にもかかわらず、最後は真幸の結婚と芸能界引退という残酷な現実をつきつけられる。
 だが、彼女を真に絶望に追いやったのは引退ではなかった。引退後は、これまで蓄積された記録を再解釈していく道が残されていた。物故したアーティストや著名人を生涯をかけて研究する行為そのものは珍しいものではない。おそらく彼女はそうするはずだった。
 
 あかりは、真幸が住むマンションの場所を突き止め、現地に向かった。マンションを外から眺めたとき、結婚相手の女性がベランダにTシャツを干すところを見た。
 あかりが目にしたのは、アイドルとしては終わったけれど、人としてはこれからも続く上野真幸の現実であった。そして、これからも続く「上野真幸」をそばでじっと見ることができる人物がいる、という事実であった。
 人に戻った真幸の進行形を推す活動はあかりにはもうできない。上野真幸はこれからも続くのに、その現在進行を推す術がないことにあかりは絶望するのだった。
 うまくいかない人生で支えだった背骨を失ったのだ。残されたののはうまくいかない人生だけだった。
 
 なぜあたしは普通に、生活できないのだろう。人間の最低限度の生活が、ままならないのだろう。初めから壊してやろうと、散らかしてやろうとしたんじゃない。生きていたら、老廃物のように溜まっていった。生きていたら、あたしの家が壊れていった。
 
 
 この物語には、もうひとつ注目点、なぜ上野真幸はファンを殴ったのか、というのがある。事件そのものは物語の冒頭で提示されているのに、その理由は最後まではっきりしない。真幸の解釈に全身全霊をそそいだあかりだが、この殴打のインサイトだけはシンパシーもエンパシーもできなかった。
 
 ここから僕の深読みを披露してみる。
 
 あかりが推していたのは、どこまでもアイドルの上野真幸だった。どれだけ膨大に記録を追跡しても、あかりが入手できたデータはアイドル稼業のそれだった。彼女の推し活というものが、アイドル稼業としての彼の清濁を併せのむ無限抱擁でいけばいくほど、彼がファンを殴打したときのその気持ちはつかめなくなる。殴打はアイドル稼業の輪郭の外にある行為だからだ。
 
 真幸が引退して、あかりは殴打の理由にすこし思い当たったようではある。殴打事件の真相を知ることは、上野真幸はどこまでも愛し通せるアイドルではなく、不器用な一人の人間だったという真実を知る地獄の入り口だった。しかも、よりによって殴打とは、上野真幸がアイドル稼業を滅茶苦茶にしてしまおうという行為に他ならなかった。
 ここにきてようやく殴打のときの真幸のインサイトがあかりに追いついた。上野真幸は、あかりが推していたアイドル稼業が苦だった。アイドルをもうやめたかったのだ。
 
 全てが虚無に帰され、あかりは空っぽになる。
 
 あたしはあたしを壊そうと思った。滅茶苦茶になってしまったと思いたくないから、自分から、滅茶苦茶にしてしまいたかった。
 
 人生の背骨を失った彼女は、最後に部屋で綿棒の箱を思いっきりぶちまける。
 
 
 この物語は、最後に少しだけ救いを見せる。それはぶちまけたのが、出しっぱなしのコップでも、汁が入ったままのどんぶりでも、リモコンでもなく、綿棒だったことだ。
 彼女は意図して「後始末が楽な」綿棒のケースを選んだのだ。
 綿棒のぶちまけは、自暴自棄ではなくて儀式だった。
 
 最後に、あかりはぶちまけた白い綿棒をひとつひとつ拾う。砕けた自らの背骨の骨拾いである。それは推し活をしていた私の骨拾いである。そしてその先にまだ拾うものがある。もともと放置されていた黴の生えたおにぎり、空のコーラのペットボトル。体は重くても四つん這いでゆっくり拾う彼女には、生きていく意思があった。

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なぜ働いていると本が読めなくなるのか

2024年04月27日 | 社会学・現代文化
なぜ働いていると本が読めなくなるのか
 
三宅香帆
集英社新書
 
 
 すごいタイトルの本だ。
 
 内容は、日本の「読書史」と「労働史」を俯瞰することで、「忙しくて本が読めない」という現代社会の問題意識からなにが導き出されるかを考察するという極めてユニークに富むもの。日本最初のベストセラー自己啓発書は明治時代に刊行された中村正直の「西国立志編」であったとか、70年代のサラリーマンはみんな司馬遼太郎の文庫本を通勤電車で読んでいたとか、さくらももこのエッセイは初めて老若男女全員が楽しめる女流エッセイだったとか、村上龍の「13才のハローワーク」が与えた功罪はなにか、とかいちいち愉快だ。
 
 本書によると昔から日本は長時間労働だったそうだ。では、なぜ現代は読書時間がないのか。そりゃスマホが登場したらからさ、と言いたいところだけど、それでは考察は先に進まない。真のミステリーは「スマホなら読めるのに、なぜ本を読むのはこんなに億劫になってしまったのか」である。本書は菅田将暉と有村架純のW主演映画「花束みたいな恋をした」を引き合いに、主人公の麦くんが、大学生時代は小説が大好きだったのに、就職して働きだすとパズドラくらいしかやる気がなくなってしまったり、たまに本屋に行くと前田雄二の「人生の勝算」なんて自己啓発本を広げちゃうこの心変わりはなぜなのか、に迫る。
 
 本書によれば、明治から昭和にかけては「教養」の有無がステイタスの向上や会社の出世に影響すると信じられた時代があったということである。「教養」とは「自分の知らないこと、思いもよらなかっとことに出くわす」ことで得られるものであり、それには読書が王道であった。
 ところが、平成から令和になるにしたがって、教養を得るという行為はいまの自分を強くするにはあまりにも余計な情報が多い、もっとダイレクトに「これだけやっておけ」と端的に示してくれる「情報」が求められるようになった(そういや「ハウツー本」という言い方がありましたな)。「ファスト教養」や「倍速で動画をみる」時代において、役に立つのか立たないのかわからない高邁な話をだらだらと摂取する行為は極めて能率が悪いのである。だいたい昭和と令和では、人が朝起きてから夜寝るまでに耳目を通じて脳内に入ってくる情報量が桁違いの差なのであって、昭和のようなパフォーマンスで情報をいれている暇はない、とも言えるだろう。しかもスマホは「自分の知りたい情報だけ」を手短に示してくれるのだ。いちどこのノーストレスな情報摂取の快感を脳が覚えてしまうと、冗長性の高い読書は脳にとって苦痛になる。
 ちなみに先日飲んだ出版社の人によると、今の若い人はもう司馬遼太郎のあの何巻もある歴史小説は読めないそうだ。いったん読みはじめてしまえば面白くて没入する若者も一定数は出るだろう、それくらいの筆力はある小説だが、そもそも同年代で周囲の評判もなく共通の会話にもならない全8巻の小説をよむモチベーションを今の若者に期待するのは無理である、と諦めたような顔で言っていた。
 
 よって最近の自己啓発書は、余計なこと(ノイズ)がいっさいなく、端的な内容にスリム化され、ずばりこれをやれと「行動」を指針することで支持を得ていると著者も指摘する。教養を期待する昔の小説や思想本のように行間を読んだり考察を強いたり前提となる知識を求めず、これをやりなさい、はい行ってらっしゃい! と言い切るそのスピード感と脳への軽負担が、現代の自己啓発書なのだ。街角の占い師みたいである。
 
 
 余計な情報だらけの教養本より、ずばっとやるべきことを言ってくれる自己啓発本のほうがタイムパフォーマンスがよく、脳の負担が少なく、そちらにいってしまうというのは理解できる。
 でも、これでは、なぜ「パズドラ」はできるのに「読書」はできないのか、の回答としてはまだ半分だ。パズドラにはそもそも「速攻で役に立つ情報」さえ皆無のコンテンツである。
 
 
 ここからは書物の内容ではなく、そもそも読書という行為が、という話になっていく。なぜ「パズドラ」しかできないのか。
 
 著者はそれは「働き過ぎて脳が疲れちゃっているからだ」と言う。
 昔の日本も長時間労働だったが、今日の労働は、新自由主義時代の働き方として自己責任の負担が大きすぎて、多大な消耗を心身に与え、本を読む気力も残さない、現代は新しい情報を吸収する余力もおきないほどに疲れちゃう社会構造なのだ、と看破している。裏を返すと、昔も長時間労働だったが、もう少し全体的にみんないいかげんで、未来への希望もあり、そこまで脳味噌を酷使しなくて済んだということになる。新自由主義は、外からの圧力ではなく、内側から自分自身を追い込むからくりを持つとは著者の指摘である。
 なるほど、自分探しも自己実現も、直接他人が指示しているのではなく、自分の中で勝手にふくれあがったプレッシャーだ、と言われてしまえばそれはそうだ。
 というわけで実際に手足は動かしてなくても、頭の中から仕事やこれからの人生のことが離れない。とてもそこで脳味噌の別の回路を動かして本なんぞ読む気力はない。
 一方でパズドラは脳味噌を空っぽにして瞳孔を開きっぱなしにしてもできる。むしろ過労な身体に接種することでドーパミンが出て脳味噌に快感を与えるという意味で、ストロング系チューハイと同じポジションなのかもしれない。
 
 現代社会は「本も読めない社会」なのである。なんというディストピアだろうか。
 
 著者としては、そういう社会に座して屈してはならない。全身全霊を仕事(というかひとつの文脈)に預けるのは、健康によくない(読書もできないような心身に追い込む行為が健康によいわけない)ということで、本書は終章で「仕事は半身でとりくめ」という仕事論・人生論を説く。残りの半身で読書や趣味に身を投ぜよと。
 すなわち、この本「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」は、労働と読書の日本近現代史をたどりながら、最後は「半身のススメ」で終わるのだ。意外なところにつれていかれた感じでいささか面食らった。
 
 面白いことに、前半部分がまさに昭和の読書がそうであったかのように読者に知らなかったであろう事実を様々な文献にあたりながら伝える「知識」ベースの教養的な内容になっているのに対し、後半が令和の読書すなわち余計なノイズ無しにまっしぐらに著者の見立て・感想をぶちあげて「行動」を提言した自己啓発書そのもので、著者は1994年生まれでまだ30才になったばかりというのになかなか手練れている。
 
 
 閑話休題。
 僕は、こんなブログをだらだらと10年以上続けているくらいだから「働いていても本を読めている」わけだが、本書の内容は、自分の肌感として確かにわかる。
 長期的な変化としては、読書をしていても以前のようなピュアな読書ではなくなりつつある、という自覚がある。それこそこのブログで扱った本のジャンルの変遷をみると、最初のころはビジネス本や自己啓発本がほとんど登場しない。経済学や地政学を扱ったような本はたまにあっても、仕事のやりかたとか心の持ちようを指南する本を、僕は意識的に避けてきていた。
 それがいつごろからか「Think CIVITY「礼儀正しさ」こそ最強の生存戦略である」とか「1440分の使い方 成功者たちの時間管理15の秘訣」といった自己啓発本をとりあげるようになったりして、反比例するように芸術や歴史を扱う本の割合が減っていっている。
 それに、本を選ぶ動機が単に面白そうというだけでなく、何かの役に立ちそうという邪念が入ってきていることを否定しない。また、読書に集中できる時間が減ってきている自覚もある。時間を忘れて没頭するということは滅多になくなって、15分も読んでいると一息つきたくなる。
 
 つまり、本書で挙げられている指摘は、たしかに僕自身の変化して実感があるのだ。本は確かに読めているが、では読みたくて読んでいるのか、読まなければならないから読んでいるのかが、読めなくなるのが怖いから読んでいるのかよくわからなくなる一瞬が確かにある。
 
 それだけ心になにか他のものが侵食したのだ、ということだろう。
 ひとつ心当たりあるとすれば、いまの職場で部下付き管理職になったというのは契機だったかもとは思う。
 現場時代のぼくは、そんなに仕事というものが面白いとか大好きとか思ったことはなく、淡々にこなしていった。そして読書に精を出した。
 しかし、人情に弱い性格だったためか、部下持ち管理職になると顧客とか会社とかの前に、部下のことはひどく気にするようになってしまった。出来の悪い部下が他所からやってきて自分のところで再生して成果が出れば嬉しかったし、部下の業績を決める会議では、他の管理職の人との議論に柄にもなくヒートアップする。管理職という仕事はぼくにとって何か火をつけるものだったのだ。

 だけど、本書が指摘するように、それはどこまで頑張れば良いか、を誰も教えてくれない。いつのまにか全身全霊でやってしまい、仕事外の時間でも休日でもどこかで部下のことをあいつは次どうすればいいだろう、などとついつい考えてしまっている。新自由主義の罠にはまっていたのだ。
 ちょっと力を緩めてやらないとこのままバーンアウトの道に進むよ、と本書は警告を出してくれたわけで、うまく「自己啓発」されてしまった次第である。ありがたいというべきか。
 

 それにしてもこの著者、映画「花束みたいな恋をした」がよっぽど心をえぐったようだ。どんだけほだされてんねんと思わず関西弁でツッコみたくなるが、菅田将暉と有村架純の二大きれいどころW主演のいかにもというタイトルにあっさーい内容を想像していた僕もがぜん興味を持ってしまった。こんど観てみよう。

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我が心のジェニファー

2024年04月25日 | 小説・文芸
我が心のジェニファー
 
浅田次郎
小学館
 
 
 だいぶ以前のことだが、飛行機の車内に備え付けの機内誌を読んでいたら浅田次郎のエッセーが載っていた。
 浅田次郎は自他ともにみとめる「スパーマン」だそうだ。スーパーマンではない。スパーマンである。
 
 スパとは温泉のこと。氏は大の温泉好き、温泉の求道者なのだった。
 
 スパーマン足る者、1泊2日の宿泊で7回温泉に入るという! どうやったら7回も入ることができるのか。
 まずチェックイン早々に入る。温泉旅館のチェックインは15時頃が多い。早めの時間に投宿し、部屋に通されたらお茶菓子など目もくれず、まずは風呂に行くわけだ。露天風呂などは明るいうちに様子をみないと、暗くなってからでは景色がわからない。何種類も湯船がある宿なら全部試して、自分の好みを見つける。そして風呂から上がったら、部屋でごろごろするなり近所を散歩するなりして時間をつぶす。
 そして夕飯前にもう一度入ってあったまっておく。夕飯は18時とか19時であることが多いので、風呂から上がったらすぐに食事だ。風呂上がりだからビールや冷酒が飲みたくなる。
 旅館の食事は量が多い。腹がくちくなったところで食後にまた入る。満腹時の入浴は気持ちいいものである。旅館ならば部屋にあがるとだいたい布団が敷いてあるが、まだまだ夜は長いので、部屋で飲んだりあるいはテレビなど見たりして過ごす。で、寝る前にもう一度入る。この時間は空いていることが多い。男女入れ替えになっていることもある。
 そして気持ちよく寝るわけだが、普段と違う場所、普段と違う枕、普段と違う気配であるから、寝つきはそんなに深くなくてだいたい夜中に目が覚める。お酒を飲んだ後でもあるし、乾燥していて喉が渇いて目が覚めることもある。で、この夜中にまた風呂にいく。深夜の風呂はだいたい貸し切りである。露天風呂も独り占めできる。
 翌朝、目が覚めたら朝食の前にもう一度行く。朝風呂は気持ちよいものである。露天風呂などは朝日が斜めに入り込んでくるから眩しい。これで目も覚めてくる。
 朝食を済ませるとチェックアウトまでもう1時間あるかないかであることが多い。部屋の片づけなどはじめるが、最後にもう一度さっと温泉に入る。このときに浴衣から普段着に戻ったりする。そしていよいよチェックアウトだ。
 
 これで都合7回である。
 
 浅田次郎のエッセイにこんなくどくど7回の内訳内容が書いてあるわけではない。ではなぜ僕がここまで克明に描写できるかというと、なにを隠そう僕(と妻)も温泉宿に行ったら7回入るからである。なんと! 我々はスパーマンだったのだ! と、このエッセイを読んだときは隣席にいた妻と盛り上がったのだった。
 
 しかし、これをして「スパーマン」という用語を編み出すとはさすが手練れの作家である。このあまりにも出来過ぎなネーミングに、機内誌のエッセーなんかに一度出すだけはもったいなさすぎると思って「浅田次郎 スパーマン」で検索をかけたら、この小説がヒットした。やはり当人も「スパーマン」は気に入っているのだろう。
 
 
 この小説は、日本軍と戦った軍人の祖父を持つアメリカ人男性が、日本通のフィアンセの薦めで日本を一人旅し、日本のあれこれに驚き関心し感銘を受ける、という内容だ。刊行されたのが2015年というから、ちょうど中国人インバウンドの爆買いとかが話題になったころである。
 
 作者は外国人が日本旅行で驚き喜ぶポイントをよく調べている。あまりにも狭すぎるビジネスホテルがやがて母の胎内に回帰するかのような安寧の錯覚を与えるとか、繊細ではあるけれどボリュームに欠ける日本食に物足りなさを覚えていたところにお好み焼きと串揚げで大満足するとか、我々日本人には何も感じるところがない東京の大地下街の迷宮に大興奮するとか、どうみても雑魚にしか見えなかったホッケの開きを焼いたのを食べて開眼するとか、超高頻度に発着する新幹線の正確性に驚愕するとか、今日外国人旅行者が喜々としてSNSにとりあげているネタをしっかり先取りしている。アメリカ人になりたい女性が登場するのもなかなか皮肉が効いている。
 
 日本のインバウンド隆盛が本格化したのは2010年代中頃だったが、当初において外国人観光客を受け入れる日本側は、外国人にウケるのはどうせ富士山に桜に寺社仏閣、思慮深い西洋人にはヒロシマナガサキ、と定番をおさえて、刺身、天ぷら、寿司、すき焼きを定食のようなつもりで出せばよいと考えていたように思う。東京(TDL付)ー富士山ー京都ー大阪のルートなんかはゴールデンルートなんて称していた。
 
 しかし。蓋を開けてみれば、意外にもインバウンド客はかなりニッチな地域やサブカルなコンテンツまで分け入っていく。京都の大混雑は社会問題化しつつあるが、洛内だけでなくけっこう奥京都のマイナーな寺でも外国人の姿を見かける。内陸の地方都市に行くと季節を問わず外国語を話す小グループに出会う。観光施設でもなんでもない商店街や小路、なんてことない山里や川べりに一人たたずむ外国人旅行者を見かけることも珍しくはなくなってきた。
 2003年にソフィア・コッポラ監督の映画「ロスト・イン・トランスレーション」が公開されたときは、日本のあまりの異文化具合と日本語のちんぷんかんぷんに途方にくれる主人公ボブ・ハリスがとにかく印象的だったのだが、そこから20年もたてば、日本は攻略しがいのあるめくるめくワンダーランドとして世界の人気観光国になってしまったのだった。さすがにここまで定番旅行先になるとは我が心のジェニファーも想像できなかったに違いない。
 
 で、肝心のスパーマンだが、この小説では別府温泉にて登場する。街全体が湯煙っぽいこの地はたしかに外国人にとって魔境みたいなところであろう。グリーンミシュランでも三つ星をとっている。この地で、主人公は一人のオーストラリア人に出会う。彼こそが20年日本の温泉をさまようスパーマンだ。坊主頭で作務衣姿の彼はこの小説に登場する人物の中でもっとも浮世離れしているが、彼の口から語られる温泉の美学と哲学は、まんま作者浅田次郎の持論なのだろう。温泉を愛するメンタリティの秘訣が、西洋倫理に苛まされる主人公に解脱のヒントを与える。物見遊山のSeeingでも、異文化のExperienceでもなく、裸で老若男女と自然の恵みの中で一体化して感知するそのMindfulnessこそが、極東の地日本で得られる醍醐味なのであった。
 よく、インドを旅すると人生観変わるというが、連中からすれば日本旅行はけっこう人生観を揺るがす可能性を秘めているのかもしれない。日本政府観光局もそこらへん意識してディスティネーション開発をしてみてはいかがだろうか。温泉は7回入って初めて目の前に新たな地平が開けるのである!

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RITUAL 人類を幸福に導く「最古の科学」

2024年04月18日 | 民俗学・文化人類学
RITUAL 人類を幸福に導く「最古の科学」
 
著:ディミトリス・クシガラタス 訳:田中恵理香
晶文社
 
 
 儀式や行事というものを軽視している人にとって実に蒙を開かれる内容だった。つまり僕のこと。
 
 文化人類学や民俗学でよく事例としてあげられる異文化の民が行う風習や儀式の中には、身体に苦痛を強いたり、多大な苦労を要求されたり、ありえない経済負担を背負うものもある。本書でも素足で炭火の上を歩く火渡りの儀式とか、四つん這いで山を登る行事などが紹介されている。異文化理解をしようとは思うけれど、何をまあ好き好んで・・と思ってしまう自分もいることは否めない。よそさまの民族や宗教だけではない。寒い中の大行列をものともしない初詣、一度しか着ない高価な振袖に気合をいれる成人式、減ったとはいえ家庭の年間郵便使用費の6割を占める年賀状、価格根拠不明な戒名なんてのは、なんでそこまでして・・という不思議な日本の風習とも言えるだろう。
 それぞれの会社や学校にだって独特の儀式や行事がある。オリジナルの乾杯の形式があるとか、毎年何月何日は創業者をしのんで何かするとか、ユニークな社訓や標語を全員で暗唱するとか。
 
 本書は、このような儀式や行事というものが組織や個人に与える効能を科学的に追及したものである。火渡りの儀式の参加者を心電図やサーモグラフィで追跡するのはなかなか痛快だ。
 
 科学的に追求すると、その儀式が要求するストレスが高ければ高いほど、団結力や浄化作用はむしろ強化されるという興味深い結果を本書は述べている。あえて体を傷つけたり、莫大なお布施を支払ったり、朝から晩までみっちり拘束されたり、ひたすら同じことの繰り返しを要求するような儀式が、結果的に彼らの団結力や心の浄化をより強めるのだ。むしろ、ゆるやかで出入り自由で快適でなにやってもやらなくてもいいような「儀式」なんてものは、もはや「儀式」とは言えないのだ。困難な「型」をやり通してこそ儀式であり、この「型の遂行」に、団結力の強化や心の浄化の鍵がある、ということらしい。
 

 では、なぜ儀式とは「型」の遂行なのか。なぜ「型」を遂行すると精神は浄化するのか。団結力が増すのか。本書の白眉はそこである。
 
 本書の仮説はこうだ。20000年の人類の歴史において明日はどこでどんなことが起こるかはわからない、明日は誰が何を言うかわからない、というのが、人類に染みついたDNAの感受性なのである。
 そして、予測不能・先行き不明な中を過ごすということはひどくストレスを呼び起こす。疑心暗鬼になる。予測不能な動きをする相手は信用しにくい。予測不能な天気は著しく行動を制限する。いつ果てるとも知れぬそんな予測不能な環境で生きることは心身を消耗する。
 そこで、そんな無秩序な日々歳月に、人間はあえての秩序を人工的につくりだし、安寧を得ようとする。生まれて生後何日の危なっかしい赤ん坊は、初七日、お食い初め、お宮参りと区切ってその都度確かめることで順調な生育にあることに安心する。子どもになればひな祭りやこどもの日で区切り、七五三で区切って日々の成長が予定通りであることを見出して安心する。入園式卒園式入学式始業式終業式卒業式と区切りをつくって、いまの位置の安定を確かめる。足元の踏み石がぐらついていないか確認するかのように。そしてここからここまでを子ども、ここから先を大人、と定義してその境目に「成人式」なる儀式を設ける。
 儀式というきわめて予定調和な行為に身を委ねることは、予測不能によって消耗するこの心身を回復させ、不安を防御し、決意を新たにするのである。同じ予定調和のプロセスに参加した仲間はより団結心が強くなる。
 そして、儀式というのはそれが身体の苦役、精神的重圧、経済的負担を強いれば強いるほど、結果的に仲間の団結力を高め、そしてその人の「幸福度」を上げてしまうという効果がある。
 過酷な地ほど儀式のしばりが強く、その儀式の敢行がその地で生きる活力を強くするという本書の指摘はなんとも説得力がある。砂漠や熱帯の地域に戒律に厳しいイスラム教が多いのは一種の必然なのだろう。北朝鮮が型にはまった派手な大規模行事をくりかえさせるのも、それくらいしないと先行き覚束なすぎて人心を統一できないからだろう。
 
 僕は、入社式も社長の訓辞もへんな乾杯の音頭もキライで、型通りのことをトレースして悦になってる儀式や行事なんて最低限の最小限でいいと思っている乾燥人間だったのだが、自分がそうだからと言って他人が同じとは限らない。家族や同僚をして、僕のことを物足りない、あるいは離反のリスクがあるのかもしれない、などと本書を読んでちょっと思った次第である。
 

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空想の補助線 幾何学、折り紙、ときどき宇宙

2024年02月20日 | サイエンス
空想の補助線 幾何学、折り紙、ときどき宇宙
 
前川淳
みすず書房
 
 
 知的興奮を刺激される面白い本だった。書店でたまたま目に留まり、目次を眺めてから中身をぱらぱらしてえいやと買ってみたものだが正解だった。ネット書店だとこうはいかない。決して大型ではない書店だったが、よくぞこのような本を仕入れたものだ。なにしろ購買層をかなり選ぶみすず書房である。
 
 著者は、本書の奥付によると1958年生まれのソフトウェアエンジニアとのことだ。天文観測や電波解析を主に行っていたそうだが、「折り紙」の研究者としてそのスジでは知られているらしい。不明ながら僕は本書で初めて知った次第である。
 
 本書は理系色の強いエッセイではあるが、単に数学的な見解を披露するだけでなく、人文や自然科学の現象にまで思いをつなげていて、その芸風は寺田寅彦を思い出させる。このような理系の方法論と文系の感受性を橋渡しするような読み物は、このブログでもいくつかとりあげているが(これとかこれとか)、個人的にはこういう話は好きである。
 
 本書の特徴としてはやはり著者の専門領域である折り紙の話を随所に紛れ込ませているところだろう。僕自身は折り紙はまったく苦手で、鶴を折ってみても尻尾が変に太かったり、裏と表の縁をぴったり合わせられなくて羽の隙間から裏の白地がどうしてもはみ出てしまう不器用な指先なのだが、こうやって語られてみるとなるほど、折り紙という二次元の紙に張り巡らされる折り線や交点は、確かに幾何学的な世界へ誘う入り口なのであった。「解けないことが証明されている」ギリシャ三大作図問題を、折り紙を駆使することで解決していく様は手品をみるようだ(なお、ギリシャ三大作図問題は、折り紙や目盛り付き定規を使って解いてはいけないことになっているので、これをもって三大作図問題そのものが解決されたというわけではない)。
 
 
 本書で僕がもっとも興味をひいたのは「あやとり」の話だ。折り紙の専門家なのにあやとりに注目されるのは著者として本意ではないのかもしれないが、折り紙の専門家ならではのあやとりの固有的価値をうまく言い当てていて関心した。いや感動したくらいである。折り紙もあやとりも子どもの遊戯ではないかと思うなかれ、この2つの相違をしっかり考察するとこの人の世のすべてはこの二分に相当するのではないかというほど対照的な真理を持ち合わせているのだ。
 
 あやとりと折り紙を著者の目線で掘り下げていくと、「構造」と「手順」の相違に行き着く。これは著者が折り紙の名人だからこその指摘である。
 折り紙というのは、鶴でも紙飛行機でも、完成形をあらためて開いて広げてみれば、そこにはいく筋もの山折り線谷折り線が刻まれた正方形の紙が出現する。言ってしまえばこれは設計図だ。折り紙の名人ともなれば、その設計図を眺めれば、どこをどう組み立てればいいかは即時に脳裏に浮かぶという。これはその折り紙の組み立てを「手順」で覚えているわけではないということになる。したがって実際に組み立てる際の手順もその時々によって違ったりもするそうだ。
 繰り返すが、これは折り紙の名人だからこその視座である。僕なんか折り紙は手順でしか掌握できない。広げられた正方形の紙についた折れ線の具合から何ができるのかを想起するなんて神業はまったく想像の外である。
 
 つまり折り紙は設計図として記録することができる。この折り紙への認識は、著者の言葉でいうと「構造」ということになる。構造さえわかっていればなんとかなる。そもそも折り紙というのは二次元にプールされた情報を三次元に配置させるという極めて位相幾何学的な行為なのかもしれない。
 折り紙は「構造」として記録させることができるから、これを未来に継承したり、他の地域に普及させることはそんなに難しいことではない。折り紙は日本のものが有名で国際的にもorigamiで通用するが、かのような造形物と行為自体は世界各地にあるとのことで、折り紙文化が持つ普遍性や耐久性の証左と言える。
 
 一方であやとりだが、こちらは「構造」がなくて「手順」が全てであり、「記録」ができなくて「記憶」の世界に立ち現れるもの、というのが本書の指摘である。
 これはつまり、あやとりは他地域や次世代に継承されにくいということでもある。したがって文化人類学的な目線で観察すると、各地各コミュニティに形の異なったあやとりがある。また、言い方はあれだが先進国ではあやとりが盛んな国は少ないそうである。日本は例外ということだ。あやとりの文化が認められているコミュニティは、ネイティブアメリカンとか東南アジアの先住民あたりに顕著らしい。なんとこれは「文字を持たない文化」とも重なるそうだ。
 
 そして、あやとりというのは、折り紙とちがって形が残らない。どんなに複雑精緻な芸術的あやとりであっても、指が離れた瞬間にもとの輪っかの紐に戻ってしまう。この刹那的なところがあやとりの芸術的側面の極致とも言えよう(本書によるとあやとりは岡本太郎の琴線に触れていたということである。)
 形が残らないから、あやとりのやり方は「手順」の「伝承」ということになる。五指を模した5本の突起を左右に一対つくってそこに糸をはりめぐらせて保存したり移動させたりすることは不可能ではないがちょっと非現実的だろう。また、そうやってできたあやとりの完成形を見て、これはこれをこうやってこうすればつくれるな、ということを見抜けて再現できる名人というのが存在し得るのかも僕はわからないが、直観的には折り紙の比ではない難度な気がする。折り紙に比べるとあやとりは保存と継承の点でずっと困難な文化なのだ。
 
 あやとりの手順は、現代ならば動画に録ったりしてなんとか記録に残すこともできようが、本質的にあやとりとは手順の記憶による遊びなのである。したがって文字を持たなかった先住民族の言語がそうであるように、あやとりのバリエーションはすたれていく運命にあるというのが著者の指摘である。日本でももう誰も作り方がわからなくて過去の霧のむこうに消えてなくなったあやとり作品がたくさんあるに違いない。この章ははからずもあやとりの挽歌になっていた。
 
 
 上記の他にも、「大器晩成」は伝言ゲームのミスで本来は「大器免成」、つまりその意味は「大きな器の人間は形にこだわらない(弘法筆を選ばずのような意味)」であって、大物は遅れて花咲くなんて意味の格言は本来なかった可能性があるとか、国歌「君が代」の歌詞に出てくる「さざれ~石の~」は、原典の万葉集にさかのぼればこれは「さざれしの」と詠むのが正しいので、いまの国歌の歌詞の区切りは一単語を途中でぶった斬った不自然なのであるとか、気になる小ネタをもちだしながらさりげなく折り紙を用いた幾何問題に話がすりかわっていくところは落語のようだ。ぜひ続編も待ちたい。

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