読書の記録

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傲慢と善良 (ややネタバレ)

2024年07月01日 | 小説・文芸
傲慢と善良 (ややネタバレ)
 
辻村深月
朝日文庫
 
 
 どの本屋にいっても平積みされている。映画化も決定しているとのことで、そんなに面白いのかと思って手に取った。
 謎解きミステリー・昨今の婚活事情・いわゆる恋愛ストーリー・東日本大震災など、いろいろなものが盛り込まれているが、ここでは母娘の呪縛について考えてみる。
 
 
 「傲慢と善良」というのは、英文学として名高い「高慢と偏見(Pride & Prejudice)」のもじりであることは明確だ。
 「傲慢」とは私は何もわかっていて絶対に正しい、という肥大した自己愛であり、「善良」とは世間様に従順、すなわち誰かがなんとかしてくれる、という甘い考えに疑いを持たない態度だ。「傲慢と善良」。英語ならば「Egoism & Naive」といったところか。日本語でナイーブというと繊細さを意味することが多いが、本来は「世間知らず」「騙されやすい」といったネガティブな意味がまとっている。
 
 「毒親」という用語が使われるようになって久しい。とくに最近は母親と娘の関係の病的なこじれが注目されることが多いように思う。母親からすると、自分の体の一部をちぎって自分の体内から出てきた同性の存在は、どうしても自分の裁量が許されるもの、と本能的に思ってしまいがちなのだろう。娘を完全に独立した別個人としてみなす近代倫理を全うするにはそうとうな理性的配慮ができる脳味噌を所有していなければならない。
 この小説では、群馬は前橋から上京した32歳の真実と、その実母である陽子の関係性が物語の鍵のひとつとなる。傍から見れば陽子の暴走は歪みまくっているように見えるが、現実の世にも程度の差こそあれ、このような関係の母娘はかなり多そうである。そして、これは令和の今日に限る話ではなく、時代を問わずかなり普遍的な関係なのではないかとも思う。陽子もまた、この群馬の地で、その実母から似たような支配を受けてきたということは想像に難くない。
 
 この母娘問題のやっかいなところは、娘が、実母の異常になかなか気づかないことである。それどころか、真実の場合はなんだかんだでそれなりに居心地よく実家生活を送ってきたらしいことがわかる。大学の同級生や職場の同僚の存在から自分があちこちで不適応を起こしていることに気づいて自信を失っていくが、実家の居心地の良さのために自分自身を矯正しなければという切迫は感じない。こうして彼女の中のエゴとナイーブは肥大化していった。「自己肯定感は低いのに、自己愛は高い」真実はこうしてできあがっていった。
 
 その陽子も実は「自己肯定感は低いのに、自己愛は高い」ことを真実の婚約者である架に指摘されている。つまり、母娘の関係はこの「自己肯定感は低いのに、自己愛は高い」女性を再生産していく、という宿命が見て取れる
 
 
 もちろん、世の中の娘のみんながみんな、真実のようになるわけではない、この小説でも真実の姉である希美は、母親とは違う世界観の中で立派に生きている。
 
 真実と希美を分けた決定的な違いは「反抗期」だったのではないかと思う。
 
 この小説では、真実の実家である前橋を出た女性・出なかった女性という区別をする箇所があるが、要するに親に反抗して地元を飛び出た人と、従順に留まった人と見ることもできる。
 
 親というのは、どうしたって自分が生きてきた時代の価値観・狭い世界観・狭い常識をセオリーとして是非を判断しがちだ。認知バイアスと言ってよい。それを娘の人生に敷衍しようとする。どの時代の親も多かれ少なかれそういうところはあるだろう。しかし、時代は確実に前に進んで変容していくので、親の価値観と同時代を生き抜く知識意識は必ず齟齬を来す。これをしないためには親側に強力な自制心と分別、現代の情報収集能力と同時代解釈力が求められると言ってよいが、脳味噌の構造からしてもともと無茶な要求であるとむしろ思ったほうがよい。
 
 で、あるならば「親に反抗する」というのが、ある意味で子どもに必要とされる生き延びるための本能であろう。姉の希美はことごとく反抗したことで自立生存を勝ち取ったのだ。本格的反抗は、第2次反抗期から始まる。
 妹の真実は、この第2次反抗期がなかったのではないか。
 
 
 最近の子どもは反抗期がない、という話をときどき聞く。親も強圧というよりはフレンドリーに接するので子どもに反抗の気分が沸かないらしい。こと母娘はこの関係になりやすい。しかしこれはかえって事態をややこしくする。母親は一見フレンドリーに娘に接してくるが、その中身はやはり親の世界観と価値観であるから、実際には同時代を生き抜く上での齟齬が潜んでいる。反抗の機会がないぶん、それは娘の精神形成に無抵抗に入り込んでいく。そして真実のようになる。気づいたときはいろいろなものをこじらせてしまった後である。
 
 本当ならば、希美のようにア・プリオリに「なにかおかしい」「なにかちがう」「よくわからないけど従いたくない」という防衛意識が必要なのである。親がそうである以上、子どもは反抗しなくてはならない。母親は無意識・無自覚的に支配しようとするので、娘は明示的・自覚的に反抗していかなければならない、ということになる。
 
 
 この小説は他にも象徴的な女性たちが登場する。真実のアンチテーゼとして嘘と悪意を隠そうともしない架の派手な女友達。「勝ち組(この言い方そういや聞かなくなったな)」である架の元カノ三井亜優子や、真実の見合い相手だった金井の現妻。子どもを実母のところに残して社会活動に精を出すヨシノさん。台湾からの留学生ジャネット。
 おそらくは彼女らに共通するのは刺し違える覚悟で勝ち取ったものがある、という迫力だ。ときには肉を切らして骨を断つ覚悟で踏み込まなければ、不条理な支配に屈してしまうのが世の中の摂理。花束みたいな恋ばかりじゃないのだ。
 

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