読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

アフターデジタル2 UXと自由

2022年12月21日 | 経営・組織・企業
アフターデジタル2 UXと自由
 
藤井保文
日経BP
 
 
 先日、UX検定基礎というのを受験してみた。
 
 ここんとこずっとDXが盛んである。DXであらずんば人にあらずとでも言わんばかりだ。こういう流行りマーケティング用語は要注意なのはわかってはいるが、しかしデジタルとサステビリティ以外はもう人間に求められる仕事はないよ、という指摘もあり、ぼくももう少し会社の中で居場所を確保して給料をもらわなければならない。齢50代という、会社組織においてお荷物になるかどうかの瀬戸際である。
 
 しかし、いまさら50代のおっさんがDXの勉強を始めても、本当に若い連中の「邪魔しない」程度にしかならないだろう。デジタルネイティブ世代が空気のような肌感覚でじゃんじゃんやっているのだ。その時流を受けながらもちょっとだけでも付加価値ついたポジションでうまいこと食いつなげられないだろうかなどと姑息なことを考えてたら、UX検定というのがあるけど受験するなら会社から経費使うの許すぜ、というお触れがまわってきた。なるほどこれがリスキリングというやつか。
 で、頬杖つきながら案内文を眺めていたら、課題図書に本書が挙げられていた
 
 もともと著者の「アフターデジタル」という本は読んでいた。この本の内容はわりと面白かった。その後「アフターデジタル2」という続編が出ていたのは書店通いで知っていたし、「2」も面白い、というのを小耳にはさんだりもした。
 しかしまあ、ビジネス書の「2」ものは基本的には蛇足なものがほとんだ。「1」が非常に売れたので編集者がまた書きませんかと著者をせっついて、著者がメインで書きそびれた話やその後に得た知見を追加するものがほとんどなのである。なので「2」の評判はあまり本気にしなかった。
 
 果たして、このUX検定なるものは、推薦テキストが「アフターデジタル2」なのである。なんでまた? と思ったものの、そういうことならばと半信半疑で読んでみることにした。
 
 そして納得した。
 なんと「アフターデジタル2」は「アフターデジタル」を否定しているのだ。(正確には、そういうわけではないのだが、ここはあえてセンセーショナルにこう言ってみよう)。つまり「アフターデジタル」を読んでわかって気でいるビジネスマンは要注意なのだ。
 「アフターデジタル」では中国の企業を例にデジタルを駆使したマーケティングの話がわんさかでてきて、それに比べての日本に絶望的な気分になるのだが、「アフターデジタル2」はそんな中国の事例をそのまんま教科書にしていてはいけない! と喝破してくる。DXだけが先行する社会はディストピアである! と断言する。ユートピアな社会になるためには、DXの前にUXが必要なのだ! というのがこの「アフターデジタル2」なのだ。そうくるか。
 
 DXがデジタルトランスフォーメーションなんだから、UXもなんちゃらトランスフォーメーションかと思ったらさにあらず。UXとはユーザー・エクスペリエンスである。ユーザー・エクスペリエンスとは何かと尋ねられたら、それこそ検定の試験問題になるが、ここはニールセン・ノーマン・グループなる企業の定義を語るのがそれっぽいらしい。日本語で思いっきり端折って書くと「利用者側からみた、その商品やサービスを利用する前から利用中から利用後までに感じたことのすべて」である。
 
 DX社会がディストピアみたいに感じるのは、それが国家や大企業(GAFAのような)の監視社会・管理社会を彷彿とし、利用者である我々を不自由と不寛容のもとに拘束する疑念をぬぐえないからだ。それに対し、UXは徹底的に利用者目線なのである。つまり「アフターデジタル2」の「UX無きにしてDXはありえない」というのは、DXは利用者視点のためにだけ使え、それが最終的には利用者はもちろん企業にとっても社会にとってもWIN-WIN-WINなのだ、ということをうたい上げた内容なのである(この精神をUXインテリジェンスと言うそうです)。
 
 ということは、UXを極めればDXやっている連中にひと泡ふかせるじゃん! ということでわたくしはUX検定を受けることにしたのだった。「アフターデジタル」を書いたDXの第一人者がそう言ってるんだからまんざらのはったりでもないだろう。
 
 ところで、UX検定の課題図書は「アフターデジタル2」だけではない。他にも3冊ほど挙げられている。もちろん、それらは少しずつ違う内容の本であって、検定そのもののまとまった公式テキストみたいなものはない。この検定ができてまだ歴史が浅いらしく、過去問とか想定問題集なんてものもない。手がかりになるのは4冊の課題図書と、「出題範囲」と記された1枚のシラバスだけである。なんとも攻略方針が見えない検定だったのだ。
 
 試験本番は、全部で100問の四択式選択問題を100分以内で解くという、過度に集中力と緊張を強いられるものだった。
 きれいごと半分、負け惜しみ半分で言えば、これらのテキストを通読することで得た知識・気づきは多いにあった。それだけでも十分に甲斐はあった。検定試験に受かるかどうかは、その「ついで」のようなものかもしれない。
 
 たとえば、課題図書の中にはこんな話があった。
 なぜ日本のアニメやコミックやフィギュアがあんなにアジアやUSAの大人たちを熱狂させるのか。彼らからみれば日本は天国だという。これ、UXと関係なさそうな話だが、この考察がたいへん興味深いものであった。連中からみて日本はリバティ(何をしてもいい自由)が保証された国なのだ。DXが進んだ中国や、ネットサービスがきめ細かいUSAのほうが、いまだに現金や書類が行き交う日本よりもフリーダム(不自由から解放された自由)なのかもしれないが、大のオトナが臆面もなく正々堂々とあのような趣味にお金と時間を使って周囲にはばからないことが許されるリバティこそが日本の成熟の証なのである。そうか。本当はみんな自国でもああいうのやりたいのだ。だけど、オトナとして期待される立ち振る舞いやプライドが邪魔をしてできないのである。であれば確かに日本はうらやましい、ということになるだろう。
 学校の授業なんかもそうだったが、こういう「脱線」のほうがよく記憶に残るものである。この話はどこかで使える、と僕の長期記憶に保存されたのであった。
 
 合否の結果が出るのは来年になってから、ということだが、ぼくのDXコンプレックスは果たせるだろうか。

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逆・タイムマシン経営論 近過去の歴史に学ぶ経営知

2022年05月13日 | 経営・組織・企業
逆・タイムマシン経営論 近過去の歴史に学ぶ経営知
 
楠木健 杉浦泰
日経BP
 
 
 痛快な本である。しかし、時代の変化についていけない現状維持バイアスに縛られたおじさんたちの逃げ口上を与える毒性の強い本かもしれないので用心しなければならない。
 
 共著者の片方である楠木健といえば「ストーリーとしての競争戦略」がベストセラーだけど、本書でも根底では同じことを言っている。とある企業が成功したとして、その成功の要因は、本質的にはその企業固有の文脈や背景に根差したものがうまく作用したものであって、同じことを他社や他業種がやってもうまくいかないことの方が多いのである。そりゃそうだよね。
 しかし、マーケティングとか経営戦略論というのは、「こうすれば事業や経営は成功する」というどこか方程式や法則を探すようなところがある。
 その方程式や法則を適用したところで、その事業が成功する確率はせいぜい2割だったものが3割くらいに上がるに過ぎない、なんてことを「ストーリーとしての競争戦略」では喝破している。なんといってもその企業そのものが固有に抱える文脈や背景による影響のほうがずっとずっと大きいからである。
 
 それなのに「これをやれば大成功間違いなし」という魔術を求めてしまうのは人間の性というか、この世のかたちというか大人の事情というか。
 
 本書「逆・タイムマシン経営論」では、人々がその陥穽にかかってしまう理由として
 
 ・飛び道具トラップ
 ・激動期トラップ
 ・遠近歪曲トラップ
 
 の3つを挙げている。いずれもいちいちごもっともな気がする。「DX」も「SDGs」も「Z世代」も飛び道具なのだと思う。たしかにこの半世紀つねに激動期と喧伝されていたように思う。いつだって日本は問題抱えていてGAFAや北欧は模範だった。
 
 この社会の在り方として、「飛び道具」や「激動期」や「遠近歪曲」を利用ないし原動力として経済がまわっている、というのも事実だろう。真底それを信じている人、信じてないけど同調圧力でしぶしぶ信じるふりしている人、信じさせることを商売にする人などがうごめいて経済は循環する。「時価総額」なんてものの正体はまさしくそうで、世の中は確かにファクトフルネスで見ることができるけれど、この人間社会そのものの運営は「そういうことにしておこう」という人々の「握り」で動いている、というのも一方の事実だ。哲学的には社会は認識でできている。
 なので、本当はそんなことないんだよ、という観点を持つことは自分の足元を常にしっかり保つ上では大事だけれど、それを喧伝していては社会の仕組みからつまはじきされるリスクもある。「DX」も「SDGs」も「Z世代」も「本当のことはわかっているうえでその話に乗る(つまりいつでも逃げ出せるようにしておく)」というのがうまい生き方なのかもしれない。
 
 なによりも楠木健が繰り返すことで大事な点は、多くの企業の成功例は「再現性」がないということだろう。再現性がないということは科学でとらえられない、ということだ。経営を成功させるという企みは、よく言えばアート、悪くいえばオカルト、身もふたもなくいえば博打の世界である。
 
 本書では、テンゼロ(WEB3.0とかソサエティ5.0とか)には気をつけろという指摘もある。僕がこれに加えるとすれば、ほとんど違いがないのに妙な理屈がついて「新たな言い方」になったものである。ベンチャー企業がスタートアップ企業に。レンタルがシェアに。エコがサステナブルに。ビジョンがパーパスに。実証実験がPOCに。まるでズボンがパンツになるのと同じ力学を感じる。

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森のような経営 社員が驚くほど自由で生き生きする。「心理的安全性」に溢れた組織づくり

2022年02月23日 | 経営・組織・企業
森のような経営 社員が驚くほど自由で生き生きする。「心理的安全性」に溢れた組織づくり
 
山藤賢 山田博
ワニ・プラス
 
 本書を読みつつ、まず真っ先に連想したのは最後の宮大工と言われた故・西岡常一の「木に学べ」だ。法隆寺や薬師寺の復元を手掛けたレジェンド級の名棟梁だが、弟子の育て方もまた含蓄に満ちていた。飛鳥時代に建立された名刹は千年を越す風雪に耐えた建築物である。釘も鉄骨もない時代にそれを実現させたのは一本一本違う個性を持つ木々の長所を生かしながら、無理強いをせずに組み立てていくことだった。東に陽があたっていた樹は、建立の際も東に陽が当たる向きに使用するなんてのはその代表例である。人間人間もまた一人ひとり異なる。一人ひとりの長所も特徴を見抜いて育てることで、強靭な組織は生まれる。この教えは西岡常一の弟子である小川光夫に受け継がれ、その後進の育成にも生かされた。
 
 そして、もう一つ連想したのは、鈴木秀夫の「森林の思考・砂漠の思考」である。日本人は「森林の思考」に秀でている。立ち止まりながら考え、いくつもの正解をもち、いろいろな意見をすりあわせながら、失敗したらやり直しつつコトを進めていく。なぜこれが「森林」なのかというと、森林というのはまわりの見通しが効かないものの、どっちに進んでもとりあえず何かある。北へ進めば泉があり、東へ進めば洞窟がある。森林というのはすぐに命をとられるハードな環境ではないのだからまずはじっくりあちこちを見て来し方を考えればよい。森林はすべてこれ輪廻転生の世界であり、多神教の母体である。(これに対するのが一瞬の迷いが死に直結する「砂漠の思考」なのだが、VUCAの世の中では「砂漠の思考」スタイルのほうがすっかり主流になったようである)
 
 森とか森林をメタファにすることの心地よさというのが我々日本人のメンタリティにあるのは確かだろう。森に包まれていることの感覚は子宮のような安心感がある。聞いた話だが、伝統的な欧米の思想では「森」というのは怖い場所という前提があるそうだ。彼らにとって森は人を拒絶する異界であり、だからこそヘンリ・ソローの「森の生活」や、ジョン・クラカワーの「荒野へ」(映画「イントゥ・ザ・ワイルド」の原作)はカウンターカルチャーとして注目を浴びたのだろう。もちろん、島国の里山と大陸の森ではその規模や植生が全く異なることは言うまでもないが。
 
 しかし、日本人にとっては「森に学ぶ」ことはなんらかの真理を見つけられるのではと期待しやすい気持ちがあるのではないだろうか。
 そこで本書である。森は、ゴール目標を決めてそこからバックキャストして何から始めるなんてプロジェクト管理はしない。あくまで生態学的な行き当たりばったりとフィードバックの中で、各々の木々が絶妙な均衡を保ったまま遷移していく。それが「自然」なのである。自然ではない行為はどこかで無理や破綻が生じる。自然さこそが持続可能かどうかのポイントであり、森にならうのであれば経営もかくあるべき。そのほうがずっと強靭で持続可能な経営になるはず。本書における「森のような経営」とはおよそそんな主旨である。もちろんこの森とは混合林や年月をかけた雑木林のことであって、単一樹種・単一年齢の植林によるものではないだろう。
 
 組織論の歴史というのはおおむね物理学や機械アルゴリズムの発想から発達してきたこともあって、このようなエコシステムの概念を援用するようになってきたのは最近である。僕もおおむね賛成というか、この手の考えにはシンパシーを感じていて、だからこそ本書も手にとったわけであるが、一方で、先ごろ読んだ行動経済学の本では、こういうひとつひとつを経営者や施政者の美意識と感覚でマネジメントしていくのは結果的には大量のノイズとバイアスにまみれてしまって実は確率論的にはハズレも多くなってよろしくないということである。「マネー・ボール」のように熟慮されたアルゴリズムを組み立てることができれば、あとはそこに載せたほうが結果的に「ぶれ」は少ないということだ。
 
 まあ、けっきょくこのあたりは、要は「何を大切にするか」ということなのだろう。本書では病院や学校を経営する山藤賢氏は、社員が楽しく前向きに取り組んでもらえることが一番で、売上とか顧客満足はそのあとについてくれればいいという潔い姿勢を貫いている。経営者と職員と顧客が全員しあわせで収支が償えているのならばうらやましい限りである。マネーボール的な世界は社員にとっては相当にしんどいことだろうし、「心理的安全性」も危うい。
 
 
 それにしても「心理的安全性」。ここにきて当世キーワードである。ビジネス界では流行語大賞もので、我が勤務先でもまことしやかに流通するようになった。風通しのよい職場空間が実現することが大事なことに異論はないけれど、だけどこういうのはスローガン化されるとどうも薄気味悪い。「いじめをなくそう」とあちこちで張り紙している学校のような感じか。そういう学校では絶対ウラでひねくれたいじめが行われているよな、なんてそんな感覚がある。「心理的安全性」のココロとは、その根っこには相手に対しての敬意と感謝、それこそ木が一本一本違うことを前提としてそれを育むような丁寧な関係性を続けることによって生まれ出るものであり、あたかもソーシャルディスタンスみたいな言語感覚で形だけとりいれても、早晩底が割れるように思う。まずは社員や部下を一本一本大切な樹木のように育んでいくという発想は大事にしたいものである。

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ザ・プロフィット 利益はどのようにして生まれるのか

2021年02月11日 | 経営・組織・企業
ザ・プロフィット 利益はどのようにして生まれるのか
 
エイドリアン・スライウォッツキー 訳:中川治子
ダイヤモンド社
 
 
 ビジネス書に明るくないぼくは全然知らなかったのだが、その筋では知られた名著だそうだ。「プロフィット=利益」というものについて知りたいなら読んだ方がよいとのことなので入手した。
 
 この本は、全23章で、ちょっとした小説仕立てになっている。小説といったってなにか血沸き肉躍るストーリーがあるわけではなく、単に23回分の講義になっているに過ぎない。登場人物も先生役と生徒役の2人だけである。
 前書きで著者が示唆しているように、ひとつの章に1週間かけるのが正しい読み方のようである。23週というとちょうど半年分ということになる。どんだけ膨大な量かと思いたくなるが、実は1章分そのものはそんなに長くない。むしろあっという間に終わるといってよい。それなのになんで1週間もかけるのかというと、各章ごとに課題図書と宿題が出るのだ。それを正直にこなしていくならばたしかにこれくらい時間かかるかもしれない。
 
 もちろん僕はそんな律儀な読み方はしない、課題図書も宿題もスルーしてちゃっちゃと通読したに過ぎない。それでもここに書いてあることをそれなりに咀嚼しながら読もうとすると1日に数章で頭がいっぱいになる。それよりスピードを上げようとすると記憶に残らなくなるのだ。いちおうこの本は「利益」の教科書みたいなものだから、それなりに頭にいれていかないと読む意味がない。
 
 
 そもそもなんでこんな本を僕が読もうと思ったか。
 
 勤務先で僕の属している部署は管理部門つまりコストセンターである。利益を稼ぐための部署ではない。僕はいまの会社に就職してからずっとコストセンターに属していて、つまり「プロフィット部門」に在籍してことがないのだ。ちなみに前の会社も営業支援部門だったのでプロフィット部門ではなかった。
 だから、いまいち利益経営の感触がないままサラリーマン生活を続け、もうこの歳になってしまったのである。これは僕にとって一種のコンプレックスだったりする。会社のほうも一時期、社員はみんなPL表くらい読めるようになれと号令をかけていた時期があり、僕も何冊か本を読んではみたが、実態の業務が営業支援や総務管理のほうだったりするのでどうしても肌身につかない。
 どこもそうだと思うが会社ってのは「カネを稼いでくる」ところがエラいわけで、幅を効かせている。コストセンター部門は、会社の金を使うのが仕事だ。研究開発部門ともなれば将来の稼ぎの種を育てる大事な大事な部署だから敬意もはらってもらえるが、そうでない部署はなかなか肩身が狭いことになる。
 じゃあ、自分は営業部門に行きたいのかというと、そんな野心はさらっさらないのである。ただ「利益」というものにまるで無頓着なままサラリーマン生活を送ってきたことの後ろめたさみたいなのがあって、ちょっと勉強しておこうかと思ったに過ぎない。
 
 
 ただ、本書を読んで「利益=プロフィット」とは何かを考えると、すわ金銭的利益だけではなく、ソーシャルキャピタルの形成や信頼や評価といった広い意味での「クレジット」として考えることもできるなと思った。つまり会社の利益をかせぐための書ではなく、自分自身のクレジットをつくるための本として読むのである。MBI的な知識を組織における己のサバイバル戦略に使うことを指南した「出世するための技術」というミもフタもない本があったが、それの応用である。
 ・ひとつのネタを手を変え品を変え、幾度も使いながらクレジットを稼ぐ。(マルチコンポーネント利益モデル・利益増殖モデル)
 ・希少性を心がける。そして、誰かも似たようなことをして陳腐化しそうになったらむしろこちらから大盤振る舞いしてしまう。(スペシャリスト利益モデル・新製品利益モデル・相対的市場シェアモデル)。
 ・実際は新規のものをゼロからつくるのではなくさまざまなリソースを組み合わせて提供することに情報価値がでる(スイッチボード利益モデル)。
 
 こういうのは利益を稼ぐというだけでなく、組織の中の生き残りをかけるための自分の立ち振る舞いとしても考えられそうである。ひとつの専門知識や社内外の人脈を極めることでクレジットとして稼ぐことができる。社会組織のサバイバルの基本だ。(そんな読み方する本ではないが・・)
 
 
 ところで、本書にジェームズ・W・ヤングの「アイデアの作り方」を参考図書にするシーンが出てくる。この本は古典的名著だがまさか利益をめぐるところに出てくるとは思わなかった。
 考えてみればアイデアもまた無形資産である。本書で引用されているのは、なにかコトにあたるとき、最初の48時間でとにかくその分野の知識を無理やり詰めこむ。そうすることで後々にまで影響する「知識の骨格ができる」というヤングの主張である。
 これは確かにその通りで、僕もよく実践する手法だ。何か新たなテーマがあってチームが召集されそうになったとき、僕はそのテーマについてとにかくにわか勉強で詰め込む。つまり、最初のチーム会議があったとき、そのテーマについて「一番知っている人」になるのだ。
 ヤング風に言えば最初の48時間を頑張ることでチームや顧客よりも一歩先に出た知識優位性が獲得できる。そうするとその後もその分だけずっとリードを保てる。そこらへんも本書の「景気循環利益モデル」なんかに通じるところあるななんて思った次第である。

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世界最高峰の経営教室

2020年11月29日 | 経営・組織・企業
世界最高峰の経営教室 17 Lesssons in Management from the World's Leading Business Professors
 
広野彩子(編・著)
日経BP
 
 インタビューや寄稿を再編集したものだが、顔ぶれがすごい。マイケル・ポーター、フィリップ・コトラー、デビッド・ティース・ヘンリー・ミンツバーグ、マイケル・オズボーン、コリン・メイヤーなどなど。マイケル・ポーターなんて、もはや神話時代の人のように錯覚してしまうが、まだご存命だったのね。
 編集方針的には最近の新書でよく見かける「有識者のインタビューを集めたもの」と同じではある。あいにく17人という人数の多さゆえか、ひとつひとつが概略のさらに概略みたいな限られたボリュームにとどまっており、彼らの論説の概略を垣間見る程度のものである。17人の経営学者のカタログ帳といってもよいかもしれない。
 ただ、コロナ後のこの世界について、彼ら17人から言質を預かっているのは意義として大きいとは思う。
 
 彼らの根幹にあるのは、VUCAなんて言葉自体が陳腐化するほど先が読めないこの時代においては「変化を察するに敏であれ」→「変化の対応にまずは取り組め」→「そしてそれを事業化しろ」というセオリーだ。デビッド・ティースの「ダイナミック・ケーパビリティ」も、チャールズ・オライリーの「両利きの経営」も、ヘンリー・チェスブロウの「オープンイノベーション」も、その精神はこれである。こうやってみると当たり前のセオリーのようだが、しかし、この当たり前のことがなかなかできない。
 これらに立ちふさがるのが「現状維持バイアス」だ。これこそが致死遺伝子の正体といってもよい。かくいう僕もとにかく腰が重い。なんかもういいよという気分になってしまう。
 個人がそうであるように「組織」にも現状維持バイアスがはたらく。社員の2割の人が改革派だとすると8割は保守派にまわろうとするだろう。(本書でもマイケル・ウェイドが「中間管理職が自分から変わることなどない」と断言している。僕も中間管理職である。)問題はこの8割の保守派をいかに動かすか、ということになる。保守派全員の首をきって入れ替えれば済むだろうが現実の世の中でそれをやるのはなかなか難しい。マネジメントの要諦とはむしろどうやって8割存在する腰の重たい人を動かすか、ということなんじゃないかとさえ思う。
 僕の勤務先でも、いちど超改革派の経営役員がヘリコプター式にやってきてすさまじい改革を断行したものの、ものの見事に誰もついてこれずに大混乱し、むしろ部門業績は悪化してしまい、故障者不調者が続出し、1年ちょっとで挫折した。くだんの役員はさっさと別のところにいってしまった(そしてそこでまた鉈をふるっている)。
 彼の描いた青図は必ずしも間違ってはいなかった。現状このままでは早晩よくないことになるという見立ても、デジタルトランスフォーメーションを予見していてその通りではあった。それこそポーターやコトラーの分析通りに描いた経営戦略だった。
 だけど問題は、そのゴールまでどうやってたどりつくかがまったく想定されておらず、完全に絵に書いた餅だったことである。現状の資源だけで掲げた戦略目標に到達しようとした。いわば、そこへの兵站も補給もいっさいないのだった。要は「目標」は掲げてあってもそこにたどり着くまでの「戦略」はなかったのである
 したがって、ゴールと示達予算だけ背負わされた各部門長は、部下に精神主義的な号令をかけ、ひたすら鞭を打つだけとなった。もはやインパール作戦と一緒である。
 
 もちろん、ゴール到達への手段がまったく画策されなかったわけではない。人事異動を頻繁に行うとか、情報共有をまめにするとか、独自のレポートラインをつくらせるとか、この役員はいろいろ環境整備をやろうとした。本人いわくそれらの試みはすべてに理論的根拠があった。
 だけれどうまくいかなかった。何度も異動をくりかえす社員は疲弊して何も蓄積されないし、取引先からも不信が募るし、情報共有は型どおりにフォーマットにもとづいたレポートが提出されるだけで実際のところ生きたナレッジシェアにはならなかった。そして何がおこったかというと、くだんの役員のとりまきはいい情報しか報告せず、顔色をうかがうだけになってしまった。
 頻繁な人事異動も情報共有も、本来的にはゴールに達するための「手段」なのだが、どうもそれ自体が「小目的」になっていたきらいがある。へんに理論派で頭のいい人が陥りがちの失敗としか言いようがない。
 この役員の視点に欠けていたのは「8割の人の動かし方」であった。人はコマンド&コントロール、つまり「命令」ではちゃんと動かないのである。
 
 8割の保守な人をどう動かすか。
 本書におけるそのヒントは、第3章「経営の目的はなにか」にあるように思う。ここでは「社会的インパクト投資」のジャズジッド・シン、「ステークホルダー理論」のロバート・ボーゼン、「パーパスデザイン」のコリン・メイヤーが出てくる。
 これらに共通するのは、現代社会では「金が儲かる」だけを経営目的にしても持続可能な体制は組めないという批判である。その企業のステークホルダー、つまり株主、消費者、取引先、調達先、社員、地域が、その企業のビジネスについて賛同し、共感し、協力し、率先して動くようになる経営をつきとめない限り、その企業は存続し得ない。社会に絶対善となる影響を与える「社会的インパクト投資」にしろ、環境と社会と健全な統治を掲げる「ESG」にしろ、社会全体からみてその企業があってよかったと思えるようなその企業の存在意義を探る「パーパスデザイン」にしろ、ここに共通するのは、カネが儲かる、株主が潤う、ためだけの経営目的では、それがたとえ法律は守ってのことだとしても、現代社会では人はついてこない。従業員も取引先も調達先も消費者も地域社会も支持しない。ステークホルダーが支持しなくなった企業は、一時的には利益や配当を確保できても、長期的には市場から退場させられるメカニズムが働くようになった。例のSDGsもこれと近隣の思想である。
 
 かつては企業とステークホルダーの関係は「契約」の関係だった。商品と代金の交換という契約、給料と勤労という契約、投資と還元という契約の世界だった。要は「カネ」が全てだった。経営とは本書でいうところの「契約の束」であった。カネの切れ目は縁の切れ目であった。
 しかし、それでは外部経済の負担や棄損がはなはだしくなる一方になるというのが20世紀の終わりごろから言われるようになった。実はこの指摘は1968年には芽生えていたのだが、環境問題などで顕著になったのは冷戦以後、無視できないほどになったのはリーマンショック以降だろう。ステークホルダーが賛同し、共感し、協力し、率先して動く経営になるには、「契約の束」ではなくて「信頼の束」が必要になったのである。
 つまり、ビジネスとはステークホルダーをめぐる「契約の獲得」から「信頼の獲得」のための競争になったといってよい。ポーターのファイブフォースも、コトラーの4Pも、「契約」すなわちカネをめぐるカテゴライズの枠だけで分析するのではなく、「信頼」をめぐるカテゴライズで分析しなければならない。信頼こそが「クレジット」の本性である
 
 あらためて考えるに、企業が経営において社会的インパクト投資やESGやパーパスデザインを取り入れる必要があるならば、企業内部の働きかけ方も同じように社会的インパクト投資やESGやパーパスデザインをとりいれなければならないのではないかと思う。これこそが「8割の人」を動かすカギなのではないか。分権化と自己組織化を進めることが変化に対応できる企業組織の在り方であるとすればなおのことそうだ。
 たとえば、ESG。環境(environment)と社会(society)とガバナンス(governance)。
 先のヘリコプター式役員の例でいえば、彼のやり方は従業員に対してのESGがまったくなかった。組織の存続をそもそも持続可能にするための「環境」整備がなかったし(むしろ破壊と創造に酔っていた節がある)、企業内という「社会」に格差と競争を生んでしまったし、従業員やその家族まで巻き込んで健康や希望をまったく蔑ろにした「統治」であった。要するに一斉の「信頼」がそこにはなかったのである。当然、各部門長は、部下にパーパスデザインを示すことはできず、コマンド&コントロールを繰り出すことしかできなかった。
 
 8割の人が動かないまま、破壊的なDX化が進み、8割どころかその企業ふくめて10割共倒れになるのが最悪のシナリオである。日本企業にはそのリスクが高い、とは本書の随所で指摘される。
 とまれ、コロナでますます不透明なこの時代、アジャイルな経営判断が重要なことはもちろんだが、そこに人をついてこさせる力、とくに8割の人をなんとかして動かさないことには話にならない。社会的インパクト投資型、ESG型、パーパスデザイン型のリーダーシップが求められるんじゃないかと思う次第である。

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ハーバードの個性学入門 平均思考は捨てなさい

2020年09月15日 | 経営・組織・企業
ハーバードの個性学入門 平均思考は捨てなさい
 
トッド・ローズ 訳:小坂恵理
ハヤカワ文庫
 
 
 ぼんやりと思っていたことがここに書いてあった感じである。もっと早く読めばよかった。
 
 たとえば、赤ちゃんが立ち上がって歩くまでのプロセスは、「寝返り」→「はいずり」→「はいはい」→「つかまりだち」→「二足歩行」というのが暗黙の了解になっている。
 
 また、母子手帳には、身長体重曲線のグラフというのがあって、成長にともなう身長や体重の増加はこの範囲内なら健康です、とする。生後何か月目ならこのあたりが妥当、というのがわかる。
 
 育児関連にはこういうものが多い。何歳くらいから喃語をしゃべりだし、何歳にくらいになるとママとかワンワンとか単純な言葉を口にだすようになり、何歳にくらいになると文章をしゃべるようになるとか。
 何歳くらいから丸や線を描くようになり、何歳にくらいなると顔に手足をくっつけたような人物像を書くようになり、何歳くらいになると五体のある人間の絵を書くようになるとか。
 
 これらは、実は「モデル」である。
 たくさんの子どもの成長記録をもとに平均値を割り出して、モデル化する。
 
 
 教育プログラムのベースにもなる。
 
 日本では小学生入学前後あたりでひらがなカタカナを習得し、小学2年生で九九を習う。すなわちこの速度で習熟していくのが普通とされる。
 これに限らず、学校の指導要綱は子供の平均的な学習速度や理解力をもとに組み立てられる。
 
 
 以上は発達心理学だが、社会科学と呼ばれるものはまだまだたくさんある。

 たとえばマズローの5段階欲求というのがある。
 人は(あるいは社会)は、その生活環境の充足具合によって、欲求レベルが5段階あるというものだ。
 
 「生理的欲求」→「安全の欲求」→「社会的欲求」→「承認欲求」→「自己実現の欲求」
 
 したがって、衣食住が満たされ、当面は健康を襲う不安材料もなくなると、人は何かの社会に属したくなる。要するに「ぼっち」でいたくなくなる。
 
 もっとスケールが大きいと、歴史観なんかでもあてはまる。狩猟社会から農業社会へ。農業社会から軽商業社会へ。そして重商業社会、資本主義社会なんてのがそうだ。共産主義に至るマルクス史観もこの例だろう。
 
 
 実社会への応用は、ビジネス分野などでよくみられる。
 たとえば、さいきんはネット通販などECコマースが盛んなわけだが、これ関係のセミナーや教科書を覗くとしばしばフロー図が出てくる。お客さんがサイトでその商品を見つけて買うまでのプロセスである。
 
 「その商品を知る」→「その商品のことを検索する」→「その商品のサイトに行きつく」→「その商品のことをいろいろ調べたり、他と比較したりする」→「その商品を買う」→「さらに関連商品を買う」
 
 みたいなものである。よって各局面に最適なマーケティングを行うことが勧められる。
 
 これらの「モデル」も、多くの人間の行動の平均をとって並べてみるとこんなプロセスになるといったところだ。
 
 
 ここからが本題。こういった社会科学やそれを応用したビジネスモデルは、一見もっともらしいし、むしろそれを常識のように世の中が扱っているからもはや疑いようの余地もないように見える。ところが「そもそもそれ違くね?」と投げかけているのが本書なのである。
 つまり、これら「モデル」は「多くの人が行う立ち振る舞いの平均値を出して、それを並べてモデルにしている」が、この出発点に致命的なミスがある、というのが本書の指摘だ。
 
 あらためて考えてみると、自分の身に置き換えるとあてはまらないことばかりだ。
 Amazonでモノを買うときに、自分そんなプロセスをたどったかなと思う。承認欲求は人並みにあると思うけど、社会的欲求や安全欲求が満たされているかと言われているとどうかなあと思う。コロナ感染の不安は尽きないけれど、自己実現欲求はあるぞ、と言いたくなる。うちの子供は、けっきょくはいはいしないまま立ち上がったし、小1の夏の時点でひらがながまったくおぼつかなかったが、結果的に今はなんの問題もなく生活している。
 
 つまり、「すべてが平均」な人など誰もいないのである。どれかが平均並みの立ち振る舞いでも、他のなにかが平均外であったりするから、トータルとしてモデルの枠内にはあてはまらないのだ。
 しかし、「モデル」というのはあたかも一人の人間がこのようなプロセスをたどるように見えてしまうから、ここに錯覚が生じるのである(これを本書では「エルゴード性の罠」と表現している)。まして組織や社会のプロセスにあてはめようとすると矛盾だらけになる。
 
 
 平均値をつかったモデルというのは「観念」でしかない。しかも本書曰く「プラトン的イデアの領域に属する」ものなのだ。現実にはそんなモデルにあてはまる実例はほぼ存在しないのである。
 
 じゃあ、なんでこんなにモデルやシミュレーションや基準がまかり通っているのか、というと、そのほうが社会が効率よくまわるからだ。医者も教育者も政治家も企業の人事担当もマーケティング担当者もそれで仕事になって、それなりに破綻なくこの経済社会がまわっているからである。
 これらのモデルは全部幻想です、本当はひとりひとり何もかも違うのです、その人その人にあわせた発達管理、教育指導、人物評価、商売動線管理をしていきましょう、では日本だけでも1億2000万人いるこの社会は機能しないだろう。めんどくさい以前に機能不全になるのがオチである。
 そもそもガバナンスとかマネジメントというのは平準化とワンセットである。近代社会というのは平準化された社会のことで、であるならばそこは「モデル」が横行する。その「モデル」から逸脱したものは異端として対応しないと社会がまわらない、ということになる。部分最適より全体最適なのだ。
 
 すべてが「モデル」の範囲に収まる人はいないわけだから、みんなどこかしらで「異常値」を出すことになる。成長曲線よりも子どもの身長が低い、言葉の覚えが遅い、3年生になっても九九が怪しい、という育成上の不安から始まり、SPIテストの成績が平均より低いとか、これまでつきあった異性の人間の数が平均よりも少ないとか、収入が同じ年代の人の平均より低いとか、結婚「できない」とか、そういうので自分の価値を見定めていくような感覚をどうするか、ということになる。ほかのみんなはAなのになぜ自分はBなのか」ということに苛まされたことのない人はいないだろう。
 
 かつての親はこれを「よそはよそ、うちはうち」と子どもに諭した。乱暴なまとめ方だと子ども心に思ったが、実はこれは真理なのであった。「よそもよそなりになにか異常値」なのである。
 
 少なくとも、自分の関わる人、組織、社会においては、平均主義に基づいたモデルの尺度でその価値を判断しないようにはしたいと心がけたいが、なにしろ「エルゴード性の罠」というがごとく、近代人たる我々はけっこう骨の髄までこれがしみ込んでいる。ついつい尺度を求めてしまう。それに、この観念をすべてとっぱらって生きていくのは、カルト的というかヒッピー的になりすぎ、社会不適応というもう一方の弊害を生むだろう。ではどうすればいいか。
 
 本書では、「個性」というものを活かすには、
 ①「ばらつき」があることをまず認め(「モデル」に頼らない)
 ②個性とは生来要因でも環境要因でもなくて「If Thenというコンテクストで違いが出る」ものであり、その人のコンテクストがなんであるかを理解し、
 ③「どんな経路をたどってもなんとかなる」ようにすることが大事である。
 
 この要素の詳細こそが本書の白眉なのでここでは省くが、これを教育なり組織なり社会の制度設計の中にいかにとりいれるかが肝要ということで、それがうまくいけば、部分最適と全体最適が一致する。本書ではGoogleやコストコの社員登用の例が出ている。
 以前、タスクベースではなくてヒューマンベースで、という話をとりあげたが、それとも通じる話だ。少なくとも「モデル」からその人なり組織なりを評価できる根拠はない、という前提に立つだけでモノの見方はだいぶかわるだろう。
 
 
 ところで、本書のタイトルは「ハーバードの個性学入門 平均思考は捨てなさい」だが、現題は「THE END OF AVERAGE」である。日本語版の単行本が出たときは「平均思考は捨てなさい 出る杭を伸ばす個の科学」だったが、文庫化の際に「ハーバードの・・」が冠されたタイトルになった。こうしたほうが売れると出版社は思ったのだろう。この「ハーバードの・・」をつけるのも昨今の流行であり、いわばマーケティングの一貫だが、本書のねらいからすると、その趣旨とは逆のことをしているようにも思える。著者はどう思うのだろうか。
 
 

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良い戦略、悪い戦略

2020年07月07日 | 経営・組織・企業
良い戦略、悪い戦略

リチャード・P・ルメルト 訳:村井章子
日本経済新聞出版


 企業が事業拡大を果たそうとするときに、ついついいままでやってきたことと矛盾、相殺するようなことに手を出してしまうことはたしかに多いと思う。

 事業拡大を考える段階というのらは、少なくともそこまではうまくいっている、ということである。うまくいってるから事業拡大を計ろうとするのだろう。つまり、その時点でその企業は競争優位性があったということである。
 うまくいっていたということは、うまくいくための土台がそこにできていたということを意味する。ビジネスモデルとか、調達の安定性とか、顧客の継続性とか。あるいは従業員の質とか。つまり、「競争優位性の資源」がそこにあったのである。

 ところが事業拡大をするときーーとくにこれまで手を出さなかったことに進出しようとするときは、「いままで手を出さなかった」だけあって、今までのビジネスモデルや調達ルートや顧客や従業員教育と異なるカルチャーを要することが多い。そして今まで割いていた会社のリソースをこの戦略拡大の分にふりわけようとするとそこに矛盾が生じる。
 まず、新たに事業拡大として進出したところは、さして「競争優位性」がないはずである。先行する競合企業がいるだろうし、ノウハウも調達も既存事業のそれとは異なってくる。
 あまつさえ、これまで既存事業では競争優位性の資源となっていたリソースが、相矛盾する戦略拡大によって弱体化したりする。


 M&Aなどで多角化経営・事業拡大をはかる企業の、その成功率は五分五分なのである。手を出さないほうがよかったのではないか、と思うような買収劇は国内外問わずさまざまだ。しかし、案外に経営者というものは、自分の競争優位性の資源がなんだったかというのに無自覚なのである。勘違いしていたり、読みが浅かったりする。

 いやそんなことはない。事業戦略を立てる際に、自分の会社の強みは何かを徹底的に掘り下げた。そういう経営者は多いだろう。コンサルティング会社が用いるようなフレームワークとか、専門用語とかを駆使して自社の強みを見極めようとするだろう。

 しかしそこで見落としがちなのは、その「強み」は、いろいろな制約条件下でようやく機能することが多いのである。その制約条件は案外にも感知されにくい。

 たとえば「規模」というのがある。その既存事業のビジネスモデルや調達の安定性や従業員教育は、同一市内、10店舗程度、100人くらいの従業員ならば「強さ」を発揮する。しかし、その「強さ」は、他の地域、もっと多い店舗数、もっと多い従業員数でも通用するかというとそんなことはない。10店舗を経営するのと100店舗を経営するのでは、抜本的に異なるオペレーションを必要としたりする。
 まして、違う業態とか違う市場に出ようとするときは、かなり仕組みが違うのである。

 ほかにも「その時代特有の背景」というのが条件になっているとか、ある種の規制保護が条件になっているとか、「企業の強み」というのは案外に制約下でのみ発揮することが多い。

 事業拡大は難しい。かといって、既存事業戦略のまま維持・安泰を狙って行けばよいのかというのもまた問題がある。世の中のほうが変化してくるからだ。期待されるサービス、導入される新技術、新たな法制度、そして新たな競合企業。そのような環境下で、自社の強み、競争優位性の資源が本当になんであるか、それが有効資源足りえる条件はなんなのかを真に見極めて上で、持続可能な経営をしていかなければならない。これは本当に大変なことである。大企業から個人経営までほとんどの企業はこれがうまくいかないものなのである。

 ただ、うまくいかないからといって即倒産とか即廃業かというとそうはならない。そこには「慣性の法則」が働く。この「慣性」がまたバカにならない。法律上の規制保護が続いているとか、お得意様がなんとなくまだついてきているとか、従業員の暗黙知的なテクニックがかなり発達していて時代遅れになった生産設備を埋め合わせしていて、見た目の生産高に違いがないとか。場合によってはこの慣性の法則は10年くらい続いたりもする。大企業だともっと続くかもしれない。
 ただこういうのは、今回のコロナ禍のように、有無を言わせない圧力がかかると、一気に軋みが露呈する。


 したがって、競争優位性の資源を見極め、その強さを堅守しながらも、時代の変化に機敏に対応しなければならないとする。言うはやすく行うは難し。これはけっこうな離れ技だ。

 本書では、その企業が持つ競争優位性の資源と、そこからもたらされる目標(流行りのコトバでいうとビジョンとかパーパスデザインというやつか)のこの一連の鎖を「カーネル」と表現する。この「カーネル」をぶれさせない戦略が「良い戦略」である。「競争優位性の資源と、そこからもたらされる目標」の因果関係は逆でもよい。ある目標があって、それを実現させるために試練と試行錯誤を繰り返し、強固になったものが競争優位性の資源になった、ともいえるだろう。
 で、この「カーネル」をぶれさせないことを死守しようとすると、それは必然的に「一点豪華主義」になってくる。あれやこれやと総花に手を出さない。各方面の妥協よりも一点集中になり、万人のための一般解は選ばず、一部の人の最適解を志向するようになる。
 なぜかというと、そのようにロジックをシンプル化しないと、実際に戦略目標を達成するための算段がたてられないはずだからである。本書の主張はこれで、目的や目標だけ箇条書きしてどうやってそのプロセスを達成するかの算段が一斉なかったり、精神論でごまかしたりする「悪い戦略」が幅を効かせていることに警告する。なぜ、そんな「悪い戦略」が横行するかというと、そもそも経営資源と相矛盾するような、相殺するような戦略拡大をねらったものがあまりにも多く、目標達成のための「算段」が詰められないからにほかならない。複数の目標を同時に実現するためのマジックのような綱渡りのような戦略もたまに見かけるが、どこか間違うとすべて破綻する。そしてたいていの物事は予定通りに進まないものである。

 本書は指摘する。「戦略の要諦はフォーカスにあるが、多くの大企業はリソースをフォーカスできない。彼らはいくつもの目標を同時に追いかけるので、結局はどれも達成できない。」
 

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国家経営の本質 大転換期の知略とリーダーシップ

2020年04月12日 | 経営・組織・企業

国家経営の本質 大転換期の知略とリーダーシップ

野中郁次郎 戸高良一 寺本義也
日本経済新聞社


 「失敗の本質」シリーズのなかのひとつである。文庫化されていないからか、シリーズの中では存在感が薄い。僕もつい最近までこの本の存在を知らなかったのである。

 しかし、コロナウィルス禍によって時代は今まさに「国家経営」の本質が問われている。第2次世界大戦以来最悪の状況とまで言われる経済危機と国境封鎖のなかで、各国のリーダーがいかに舵をとるかで、それぞれの自国も国際社会の行方も大きく左右する。トランプ大統領、ジョンソン首相、メルメル首相、マクロン大統領、プーチン大統領、習近平国家主席、安倍首相は、いまこの国家の危機に際して舵をどう切るか。

 実際にそれぞれのリーダーの決断が成功だったか失敗だったかは、もっと先にならないとわからないだろう。いまの日本政府の対応ぶり、稚拙にみえる施策の数々はもはやトンデモではないかとさえ感じられるが、30年先になって振り返ると意外にもあれがいちばん最適な決断だった、なんてこともないとは言えない。というか、せめてそうであってほしい。

 

 本書で挙げられた人物は、みな80年代のリーダーたちだ。サッチャー首相、レーガン大統領、ゴルバチョフ総書記、コール首相、鄧小平国家主席、そして中曽根首相。すなわち冷戦終結前後の国際情勢を担った連中である。彼らの歴史的評価は今なお定まっているとはいいがたい。本書では基本的に肯定的な評価となっているが、光も影もあると言えるだろう。中曽根康弘なんかは、ぼくが小学生のときの首相だが、そんな名首相だったかなあなんて思う。レーガンとの蜜月関係、流行語となった「不沈空母」、防衛費の1%超えあたりをぼんやりと覚えているが、それよりも地価の上昇とか国鉄民営化とかリクルート事件とかそっちのほうの印象が強い。本書によると、安保のただ乗りに甘えるのではなく、西側陣営の一員として米欧と目線のそろった国としてのポジションをとりにいったとのことである。内政の印象と外交上の成果はだいぶ違う。ふうん。

 国内の評価と国外の評価がまったく異なるといえばゴルバチョフだが、いま思うに、この時代にゴルバチョフがいたことは僥倖だったとは「西側陣営」の人としては思う。ゴルバチョフという才覚と大局観を持つ人間の出現は、ソ連にとって致死遺伝子となる突然変異の誕生とさえ言える。僕はこの人をみると徳川慶喜を思い出す。どちらも旧体制の抜本的改革に乗り出し、最後は体制の幕引きを英断したトップである。太平洋戦争で大日本帝国が破綻したのは、ゴルバチョフや徳川慶喜にあたるような人が出てこなかったからではないか。
 最高権力が持つ麻薬性に溺れず、抑制された良識と大局観を大事にした。良識的すぎてソ連内の生き馬の目を抜く修羅場をくぐれず、保守派のクーデターを許してソ連崩壊を免れなかった、というのが本書によるゴルバチョフ評だが、ぼくが思うには、冷戦を終結させたあの才覚と、ロシアの内ゲバを統治する能力はオルタナティブではなかったのかと感じる。

 鄧小平も見事すぎるとしか言いようがない。天安門事件という歴史上の大汚点があることは未来永劫否定できないが、文化大革命で30年は後退したあの国を、まさかの世界2位、アフターデジタル最先端の超強国へと渡りをつけたのは奇蹟であろう。共産主義体制を残したままの経済開放政策という荒療治をやってのけたつけとして、今回の武漢発のウィルスもあるというストーリーもつくれそうな気もするが、鄧小平という人物が現れなかったら中国という国はとっくに崩壊していたのではないかと思う(香港インフルエンザやSARSの段階でダメだっただろう)。鄧小平の人生は3回失脚しながらもいずれ世界の強国になるためにじっくり体制を整えて歩む壮絶なもので、こんな人間に勝てるわけがない。本当の強さとはそういうことなのだと思うと同時に不気味でさえある。改革開放路線を掲げたのは1978年。南巡講和が1992年とぶれていない。
 鄧小平もそうだし、毛沢東も孫文もそうだし、習近平なんかにも思うのは、やつらはものすごく長い時間軸で物事を考えるということだ。南京条約における「100年先に香港返還」なんてのもそうだ。西洋的価値観からすれば100年先というのは未来永劫のような茫洋さを感じるが、中国にあっては「100年」は計算の範囲内なのである。どうもこれは中国のお家芸とさえ感じる。そう考えると習近平の一対一路構想も30年くらい先には本当にそうなってるんじゃないかと。元を通貨軸とした大中華経済圏が完成しているんじゃないかと不気味である。

 本書では、80年代の冷戦終結前後における各国のリーダーのありかたに「理想主義的なプラグマティズム」と「歴史構想力」を持っていたことを挙げている。どちらも難しい言い方だが、前者は自分自身がこれまで歩んできた人生、経験でつちかった理想像を持っていたことであり、書物や理論で導きだされた理想像ではないということ。そして歴史構想力というのは、今おかれた状況を、むこう100年または数百年の歴史上のダイナミズムと未来への展望から逆算して定義する視野の広さだ。これは時間軸だけでなく地政学的な空間軸も含む。また、そういう構想力を持つことで、国をどうしたいかどうすべきかという説得力のあるストーリーが生まれる。

 たしかにそういう視点からいけば、他国のトップのことはわからないが、いまの安倍首相はやはり物足りない面がある。政治家家系のボンボンでこれといったプラグマティズムの背景があるとも思えないし、正直いって大局的な歴史構想力を築くだけの教養があるのかも不明である。後者については記者会見やインタビューの語りでみるボキャブラリーの貧しさや文化政策についてまるっきり語れないところに基礎的な教養不足を感じ取れるのである。(一方で、本当に国のかじ取りをしているのは不眠不休の官僚の人たちであり、したがって神輿は軽いほうが良いと言う意見もあるのだが)

 


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LEAP(リープ) ディスラプションを味方につける絶対王者の5原則

2020年02月19日 | 経営・組織・企業

LEAP(リープ) ディスラプションを味方につける絶対王者の5原則

ハワード・ユー 訳:東方雅美
プレジデント社


 先行優位のままでい続ける企業はいない、という話。必ずや大量生産やオートメーションを施した後続企業に抜かれる。

 先行企業が先行であり続けるためには、「リープ」すなわちヨソに飛ばなければならない。つまり先行しているうちにみずから土俵を他所に移すのである。P&G(もともとは石鹸メーカー)もリクルート(もともとは求人情報雑誌)もノバルティス(もともとは染料メーカー)そうやって先行でい続けた。AppleやAmazonでさえそうなのである。

 しかし、リープ先はどうやって見つけなければならないか。
 そこは「創発的戦略」というのが必要である。これの対義語は「意図的戦略」だ。
 「意図的戦略」というのはいわばある種の計画をもって行う戦略である。それは段取りみたいなものだ。
 ただこれは、言わばゴールが明確で、そこに至るまでのプロセスをどうすればいいかわかっている場合の戦略である。それにもとづいた人事であり、予算配分である。
 これに対し、「創発的戦略」というのはゴールが見えない、しかし何か生まれるはず、何かよさげな化学反応が起きるはずという目論みのもとの段取りや人事や予算配分をする。有名なのはGoogleの20%ルールである。

 また、現代において有力なリープ先は「デザイン思考」的なものだという。人の心理の奥とか行動経済学的な癖を利用応用したものに突破口が得られやすい。こういったデザイン思考なものは創発的戦略の末に生まれやすいのだろう。ゲーミフィケーションとかゼロフリクションとかサブスクリプションとかそういうことなのだろう。

 また、こういった創発的戦略によるデザイン思考でリープ先を探すときは、既存のビジネスとカニバることがよくある。ここで既存のビジネスがかわいいあまりに、投資や人事を渋ったりすると後で泣くことになる。地上波テレビ局が地上波を守るためにネット配信への投資や人事を小出しにしてしまうようなものである。

 いずれにせよリープ先が定着するまでは七転び八起きを覚悟しなければならない。当初の予定や思惑とは違うかたちで拡大発展していくことはかなりよくある。その意味では「意図的戦略」はほとんど意図通りにならないということでもある。

 とまあ、そんなことがいろいろな事例とともに書いてある本だ。ポイントはやはり「リープ」であろう。

 ぼくは経営者でも事業主でもないが、会社組織の中でのひとつの人材ということで考えるとぼちぼちリープしないとまずいなあとも思う。
 ここで僕が思い出すのは「風姿花伝」だ。「風姿花伝」の第1章、「年来稽古条々」だ。これは能役者というものの子ども時代から老いる時代までのことを文章だけれど、まんま人生のことというか、とにかく深い含蓄がある。それによれば、いかに全盛期に花形になろうとも、やはり中年域に入るともう後進に譲るのがよろしい、ということである。それは周囲の期待や時の勢い、肉体上の充実と衰えなども加味されての進言なのである。そうして後進にゆずり、自分は前座や引き立て役として退きながらもそれでも何かその人ならではのものが残り、それを人が尊重してくれれば、それこそがその人の「誠の花」なのである。
 このように、自分の「誠の花」を信じて歩むのが美しい人生だが、しかしやはり会社ではお給料はもらわなければならないし、なんだかんだで一日の多くの時間をそこで過ごすのだから少しでも心が穏やかなところにいたい。老害のように思われるのはたいへんよろしくないわけである。
 なので、今のポジションが「誠の花」なのではなくて、「誠の花」と信じているものにじつは自分のリープ先のヒントがあるのではないか、などとも思う。

 本書「LEAP」では、P&Gやリクルートやノバルティスの例で、リープ先というのは必ずしもこれまでのポジションと全く無関係ということなのではなく、やはりなんらかの因果がそこに見られる。それこそがその企業のDNAみたいなものだろう。P&Gの場合はもともと心理マーケティングとでもいいたくなるような「誠の花」があり、リクルートの場合は「人の欲望(勝ちたい・儲けたい・もてたい・気持ちよくなりたいなど)のマッチング」みたいなものがある。ノバルティスの場合は見えにくいがどうも「ケミカルとバイオの力で打ち勝ってみせるスピリッツ」みたいなものを感じる。企業憲章とか見ていないけれど、たぶんそんなところなのではないか。

 というわけで、僕の中では「LEAP」と「風姿花伝」がくっついた。これはもちろん半分以上でまかせである。ゆめゆめ本気にされぬよう。 


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知略の本質 戦史に学ぶ逆転と勝利

2019年11月20日 | 経営・組織・企業
知略の本質 戦史に学ぶ逆転と勝利
 
野中郁次郎・戸部良一・他
日本経済新聞社
 
 
 今月は注目の新刊が目白押しである。ジャレド・ダイアモンドの「危機と人類」上下巻、ユヴァル・ノア・ハラリ「21Lessons」、そしてこの「知略の本質」である。
 
 「知略の本質」は、「失敗の本質」シリーズの完結編とのことである。
 
 名高い「失敗の本質」は1984年にダイヤモンド社から刊行された。現在は中公文庫が有名だ。その後に続編や姉妹編が続いた。「正典」としての系譜は「失敗の本質」→「戦略の本質」→「国家経営の本質」→「知略の本質」ということらしい。浅はかながらぼくは「国家経営の本質」という本の存在を知らなかった。細かい事情はよくわからないのだが、「戦略の本質」以降はなぜか出版社が日本経済新聞社である。
 これ以外にも「失敗の本質 戦場のリーダーシップ篇(ダイヤモンド社)」というのが野中郁次郎ほかお馴染みのメンバーの執筆陣であるのだが、なぜかこれは正典の系譜に入っていないようだ。さらに野中郁次郎共著には「史上最大の作戦(ダイヤモンド社)」というノルマンディー上陸作戦に焦点を絞った大作がある。性格的には「失敗の本質 戦場のリーダーシップ篇」と同方向性といってよい。
 野中郁次郎には単書として「アメリカ海兵隊(中央公論新社)」がある。タイトルからすると「本質ファミリー」とは異質に見えるが、著者によれば「失敗の本質」において日本軍の組織の在り方を研究した際に、その対偶としてアメリカ海兵隊が浮かび上がったとのことである。いわば海兵隊組織にみる「成功の本質」であり、「本質ファミリー」直系とは言わないまでも姉妹編として位置付けてもいいように思う。このアメリカ海兵隊には続編があってそれが「知的機動力の本質 - アメリカ海兵隊の組織論的研究(中央公論新社)」。こうなってくると完全に「本質ファミリー」である。  
 ダイヤモンド社と中央公論新社と日本経済新聞社のあいだで正統性を争ってるんじゃないかと勘繰りたくもなるが、個人的にはこれらはみんな「本質ファミリー」としてくくっている。
 なお、「撤退の本質」というのが日経ビジネス文庫にあって、これは執筆陣の中のひとり、杉之尾宣生が参加している。もともとは「撤退の研究」というタイトルの本で、文庫化した際にタイトルを変更したものだ。そう考えるとせこい気もするが、内容的には「本質ファミリー」と同路線である。
 
 さて。こんな状況下で正典の完結編を名乗って出たのがこの「知略の本質」である。4つの戦争ーー独ソ戦(とくにスターリングラード攻防戦)と英独戦(バトルオブブリテンとUボート戦)、インドシナ戦(仏越戦争とベトナム戦争)、そして米イラク戦が扱われている。特にフォーカスされているのは当初は劣勢だったのが逆転して最後は勝利を収めたこのプロセスだ。ここに「知略の本質」をみるのである。
 
 「知略」というのはもってまわった言い方だが、”良く考え抜かれた戦略”といったところか。本書によれば、知略の本質は“対立した二項の弁証論”にある。「機動戦と消耗戦」であったり、「ゲリラ戦と正規軍戦」であったり、「侵攻と平定」であったり、「政治と戦争」だったり、「攻めと守り」であったり。逆に言えば、失敗の本質とは二項の対立を昇華できないところにあるといってもよい。
 この二項を対立する概念ととらえず、相互に影響しあうものすなわち「二項動態」ととらえ、その中で最適なコントロールをしつつ事態を進めていくのが本書言うところの「知略」である。なぜなら二項は硬直したものでなく、必ず流動的だからだ。いつまでも機動戦をやっていても埒はあかず、どこかで消耗戦に挑まないと勝利のステイタスには至らない。しかしいたずらに消耗戦だけやっても勝てないのである。独ソ戦や英独戦はそれを示唆する。また、侵攻できても平定がうまくいかなくて泥縄になったのが9.11後にアメリカが仕掛けたお馴染みのイラク戦だ。フセイン政権を崩壊させるまでは早かったがその後の混迷は世界中が知るところとなった。そもそも80年代の湾岸戦争のときに多国籍軍(という名の米軍)があまりにもあっさり勝利してしまって詰めの甘さを残してしまったのがその後のフセインの暴走やひいては今なお混乱に至るイラク情勢の遠因になったことを本書は指摘している。
 二項動態をしなやかにあやつりながらミッションコンプリートさせたのがベトナムである。ついにはアメリカの野望をくじいたこの戦争、ベトナムは「防衛戦」→「ゲリラ戦」→「正規戦」と変容させながらフランスやアメリカを追い落とし、ベトナム独立を勝ち取った。多大な犠牲者数を出した上での勝利であることは言うまでもないが、その執念もふくめて知略の範疇である。
 
 もっとも、二項対立をうまくコントロールすることが勝利のポイントであること自体は、孫子やクラウゼヴィッツも指摘していることではある。つまり、必ずしも慧眼な視点というわけではない。
 問題は「どうやってコントロールするか」だろう。
 本書の最終章では、4つの戦争からみられる普遍的な定理を導きだしている。
 特に注目しているのはその戦争を指揮するリーダーだ。独ソ戦のスターリン、英独戦のチャーチル、ベトナム戦争のホー・チ・ミン、イラク戦のラムズフェルド国防長官などトップの言動の良し悪しにも注目しているが、より焦点をあてているのは各作戦の指揮官ようするにミドルクラスである。独ソ戦ならばチェイコフ中将、英独戦ならば独デーニッツ司令長官と英ノーブル提督、ベトナム戦争ならばヴォー・グエン・ザップ将軍、イラク戦ならばマクマスター大佐らだろう。組織とは畢竟リーダーシップによる連鎖と波及である。
 最終章執筆を担当している野中はコントロールを可能にするリーダーシップの資質を4つあげている。「①共通善ー何のために戦うか」「②共感(相互主観性)」「③本質直観」「④自律分散系ー実践知の組織化」。
 この中の「②共感(相互主観性)」はかなりの核心ではないかと思う。フッサールの相互主観性をも引用した他者への共感力、敵への共感、配下への共感、侵攻先の住民への共感、ここから逆算して戦略をつくりあげ、状況をウォッチしながら調整していくことが知略の本質というのは本書の白眉なのではないか。この共感能力が欠如するか、あるいは共感で得たインサイトを軽視したプロジェクトは、どこかでこれが失敗の要因に転じ、やがて泥沼化や崩壊へと至るのである。ベトナム戦争やイラク戦でアメリカに欠けていたのはこれなのである。
 
 一方でこの最終章、必ずしも本書の中からだけで出てきた結論でもないのだろうと思う。いわば「失敗の本質」から始まる一連の系譜や姉妹本をすべてふくめた「本質シリーズ」の総括といっても言いような位置づけだ。
 つまり、「失敗の本質」における日本軍の組織論的研究からずっと外堀を埋めていきながら核心に迫ってきたのがこの「本質」プロジェクトだったのだなというのがおぼろげに見えてくる。
 二項対立の存在さえ気づかなかったのはなぜか。二項対立の止揚を阻害するものは何か、二項対立の止揚を成し遂げたのは誰か、彼は何をして成し遂げたのか、その同じ人間が前回はうまく止揚させて成功したのに今回は失敗したのはなぜかという観点で、この「本質ファミリー」を俯瞰することが可能である。(まあなんだかんだで一番面白いのは「失敗の本質」ではある。執筆陣たちがまだ若くて破れかぶれのエネルギーをぶつけているのと日本人あるある的な共感性が「勝利」の要因だろう)。
 

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サバイバル組織術

2019年10月09日 | 経営・組織・企業

サバイバル組織術

佐藤優
文芸春秋

 これは僕が以前の会社に勤めていたときに先輩から聞いた強烈な話である。先輩は「原石人材」と「研磨人材」というコトバを使った。原石はみがくと宝石になる。しかしそのためには研磨石がいる。なんだかんだで組織の評価というのは相対的であるから「できる人」の横には「できない人」が必要となる。つまり、「できる人」を作り出すには「できない人」がいなければならない。

 いちど「原石人材」と「研磨人材」としてレールにのると、その後ますますこれは助長されるというのが先輩の解説であった。たとえばある仕事があってまずAにその仕事をまかせるがうまくいかない。で、次にBにさせるとうまくいく。ところがBが成功したのはAによってどうすればうまくいかないかとか、どこまでは掘り進めたのか、とか先行情報があったからでもある。

 しかし結果からするとAは仕事ができない、Bは仕事ができるという評価になる。そしてAが「研磨人材」、Bが「原石人材」となる。Bにはますます大事な仕事が来る。Aには誰でもできるような仕事しかこない。査定などの人物評価はバイアスがかかりやすいから、いちどこういう評価がつくとそれを後々覆すのはなかなかエネルギーがいる。

 

 その先輩が「原石人材」と「研磨人材」のどちらだったのかはともかく、当時新人の僕にとってかなりインパクトのある話だった。その後、会社組織というものを眺めていて確かにそう思えるような人事や査定評価をみることは確かにあった。

 この話の恐ろしいところは、実はBは本人の意識無意識にかかわらず、Aのような自分を引き立てる存在をいつのまにか引き寄せるのである。また、Aは知らず知らずにBのお膳立てになってしまうような仕事を引き出してしまうのである。

 組織ってそういうところなのである。上層部がこの仕事を最初からBにはさせなかったり、あるいはBが最初はAに担当させるように立ち回ったりするのだ。

 つまり、抜け目ない人は、自分が「原石人材」になるように周到に「研磨人材」を用意して利用すると思ってよい。あなたは、誰かの研磨人材になっていないかはかなり注意したほうがよい。また、サバイバルという観点からすれば、あなたは誰かを研磨人材にしなければならないのである。


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「作戦」とは何か 戦略・戦術を活かす技術

2019年07月20日 | 経営・組織・企業

「作戦」とは何か 戦略・戦術を活かす技術

 

中村好寿

中央公論新社

 

「作戦」が好きである。

なんかこう、アドレナリンが出るような、アゲアゲな気分になる。

めんどくさい仕事とか、腰の重たい用事がふってくると、僕は「新世界攻略作戦」とか「四月の嵐作戦」とか名前をつけて片付けてしまったりする。多少は心理的効果がある。

 

 本書によれば「作戦」とは、「戦略」と「戦術」の間に位置するものだという。

 「戦略(strategy)」-「作戦(operation)」-「戦術(tactics)」

 これらの用語、ものの本によっては、すなわち時と場合によっては、あてはまるコトバが異なることもあるが、要は物事を成し遂げるにはレイヤー(階層)で考えたほうがよいということだ。

 このレイヤー構造という“ものの見方”は、生きていく上で広く役に立つと思う。日常ではなんとなく無意識的にこなしていることでも、自覚することでいろいろな物事への対処力がついてくる。

 たとえば、外出中の家族から急に連絡があり、予定を早めてあと15分で帰ってくるとする。あなたは今晩の家族の夕食をあと15分で用意しなければならなくなった。

 このとき「ミッション」は、「15分後に食卓の上に夕食がある」ようにすることである。どうすればいいか。

①15分でちゃっちゃとつくれるものをつくる。(1)あなたに15分で家族分の食事をつくる技量があるのならば可能である。
②今からすぐに出前をしてくれる定食屋に電話する。(2)あなたにそういう店に心当たりがあるのならば可能である。
③お惣菜をささっと買ってくる。これも(3)近所に手ごろな店の心当たりがあるのならばこれだって可能である。

 要は15分後に食卓に家族分の食事が並べばいいのである。

 このとき、①②③は「戦略」である。そして(1)(2)(3)は、その「戦略」を達成できるための術(すべ)をあなたが持っているということだから、これは「戦術」である。(1)は料理の腕であり、(2)は店への連絡手段、(3)は店への移動手段を持っているということである。

 では「作戦」とは何か?

 ①の場合、でも「ちゃっちゃとつくれる算段はあるの?」というのが課題になる。それに対して「たまたま炊飯器にご飯が炊飯器が残っていて、冷蔵庫には鶏肉と玉ねぎと卵がある」とする。これは親子丼の材料だ。つまり買い物に行く時間や小皿料理をつくる時間を省き、「冷蔵庫のあるもので一気に丼物をつくることで時短をはかる」。これが「作戦」ということになる。さしづめ「冷蔵庫にあるもので親子丼作戦」だ。

 ②の場合は、「15分で家まで届ける定食屋なんてあるの?」というのが課題だ。それに対して「通りの向こうの中華屋は、チャーハンをつくるのが異常に速い」という前情報をあなたは持っていたとする。したがって「特盛チャーハンを出前してもらって、家で家族分に皿にわけてしまう」ことで15分で決着をつけさせる。つまり「すぐ出てくるものを大皿で頼んでしまう」、これが「作戦」なのである。いわば「メガ盛チャーハン調達作戦」だ。

 ③の場合は、”セブンイレブンのお惣菜が充実している”というのを最近CMで観たとする。なので近所のセブンイレブンにいってお惣菜をこまごま買い込み、家のレンジでチンして家の皿に盛り付ければ15分で間に合う。「コンビニお惣菜作戦」である。

 こうしてみると「作戦」というのは、「情報」と「兵站」と「補給」で成り立つということがよくわかる。冷蔵庫の中になにがあるのかもわからずに、また近所にどういう店があるのかもわからずに、あてずっぽうで家で料理するのを決めたり、お総菜をもとめて街に繰り出したら、とても15分で用意はできないだろう。

 つまり、「作戦」というのは「勝算」を算段するものなのだ。

 

 ところでこのミッションは、「15分後に料理ができている」ということだ。しかし、これはあくまで「軍事的ミッション」に過ぎない。実はこのレイヤーの上に「大戦略」あるいは「政治的ミッション」というのがある。この「大戦略」によって、今回の選択肢①②③のどれを選ぶのが最適かというのがまた変わってくる。

 たとえば帰ってくる家族というのはお父さんと息子2人、スポーツ大会の帰りでとにかく空腹でがっつり食べたいということがわかっているとする(この場合、あなたはお母さんであるとしよう)。腹ペコに違いないその家族を満足させる、というのが「政治的ミッション」だとすると、ちまちま小皿を並べる③はあまり満足度の高い結果に結びつかなそうである。②も悪くはないが、子供のひとりがグリンピースが嫌いだとする。チャーハンにはグリーンピースが入っている。お父さんともう一人の息子は問題ないが、ただ一人の息子のためにグリーンピースをよけるのはかったるい。したがって、「家族を満足させる」という政治的ミッションに最も近い戦略は、がっつりした親子丼が出る①ということになる。

 

ところが、帰ってくる家族というのは、実はすごく機嫌の悪い妻だったとする。(この場合、あなたは旦那さんだとしよう)。

どんぶり飯や大盛チャーハンを食べるような妻ではないし、コンビニの総菜なんかは見抜かれそうな勢いである。

ではどうするか?

 家に帰ってきた妻に対し、その旦那さんは、車のキーを手にして「ごちそうするから着替えて街に食事にいこう」とやるのだ。

これは「15分後に食事ができている」という「軍事的ミッション」そのものを変えさせる、という「作戦」なのである。

これが成功するには、家に車がある、旦那さんの財布に余裕がある、妻はそういうのに弱い、といういくつかの諸条件をクリアしていなければならない。

が、よくよくみればこれも「情報」と「兵站」と「補給」であることがわかるだろう。

 

そして、そもそも今回の「政治的ミッション」は「家族の満足度が高くなる」ということを思い出してほしい。

仮に、上記の①②③のいずれかを行って15分で食事ができたとしても、妻の機嫌は悪いままの可能性がある。それは、ベトナム戦争のアメリカ軍と同様に「戦闘には勝っているが戦争には負けている」のと同じなのである。

 

それどころか、車のキーを用意して妻の帰りを待つのは、「15分で夕食を用意する」という軍事ミッション、すなわち戦争を回避して勝利を手に入れる、という「戦わずして勝つ」孫子の兵法ばりの作戦である。

「作戦」は、「軍事的ミッション」だけでなく、「政治的ミッション」を達成するためにひもづくということがわかるだろう。

 

 なお、ミッションを遂げるにあたってはこの事態を構成するものが何かを見極める必要がある。今回のミッションでいうと、料理を用意するあなた、帰ってくる家族、冷蔵庫の中の食材、家の近所の中華屋やコンビニ、自家用車、用意できるおカネ、などがある。これらひとつひとつのアイテムを「ノード」という。

これら「ノード」は「連結線」で相互につながっている。たとえば、「あなた」というノードと、「冷蔵庫の中の食材」というノードは、「あなたの料理のスキル」という連結線でつながっている。あなたの料理スキルが高ければ高いほど、この連結線は堅固であり、あなたが料理はからきしダメということになればこの連結線は脆くなる。

つまり、事態は「ノードと連結線」で構成されているのである。そうすると、「情報」「兵站」「補給」はすべて、「ノードと連結線」でいうところの「連結線」であるというのが重要な点だ。「家族の心理状況がわかっている」「あの材料とこの材料で何が作れるか知っている」「お店の事情を知っている」「家とお店の位置関係がわかる」というのはすべてそれぞれのノードとの関係性の中で浮上してくる話なのだ。

物事を成し遂げるとき、登場人物や道具立てを「ノード」、それらの関係性を「連結線」ととらえることで、作戦が見えてくる。

 

したがって、「作戦」というのは「連結線」をどれだけ把握しているかということなのである。

しかも、この「連結線」は常に確保できるかといえばそうではない。その日はお店が休みかもしれないし、冷蔵庫のたまねぎが切れていたかもしれないし、旧に大雨が降ってきてとても出掛けられないかもしれない。すなわち、つねに最新の情報を把握していなければならないのだ。

 したがって、「戦略」と「戦術」はどれだけ手数を持っているかということが大事になるが、「作戦」に関してはどれだけ柔軟に対応できるか、ということが重要になることも留意したい。

 


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OODA LOOP (ウーダループ)

2019年03月17日 | 経営・組織・企業

OODA LOOP (ウーダループ)

 

チェット・リチャーズ 訳:原田勉

東洋経済新報社

 

 

PDCAではなくてOODAである。

PDCAというのもビジネス業界にはびこり始めてずいぶん経つように思うが、そのうちOODAも普及するようになるのだろうか。とはいうものの、PDCAとOODAの関係は簡単ではない。PDCAの概念の中にOODAも含まれているという見方もできようし、PDCAのアンチテーゼとしてのOODAという見立ても可能だ。両立可能という見解も可能である。本書の表現では、PDCAは演繹的発想であり、OODAは帰納的・仮説的発想と比較している。

 

OODAというのは、Observe(状況観察)・Orient(状況判断)・Decide(決断)・Action(実行)というプロセスなのだが、PDCAから発想すると単線的なループプロセスを想像してしまう。つまり、O→O→D→Aという理解である。しかしそれは重大な誤解である。しかしたとえばOODAをGoogleで画像検索するとなんだか複雑な遷移図が登場してしまい、これはこれでわかりにくい。

つまり、OODAというのは図解的概念で解釈しようとすると実はけっこう厄介であり、PDCAからのミスリードを誘発しやすいところだ。ここ、大事なところであろう。

 

OODAというのは要は「戦いに常勝するには」とでもいうべきものであり、そのポイントは以下の3つである。

①戦いに勝つには、相手よりも素早く動き、相手に冷静な判断をさせるスキを作らないこと

②相手より素早く動くには、状況をスピーディに判断してすぐに実行に移せるような訓練と体制を日ごろから用意しておくことである

③その日ごろからの訓練と体制というのは、「ゴールの状態(ビジョン)を示し、やり方は任せる(権限移譲)」という意思決定方針と、日頃からの上官と部下、あるいはメンバー同士の相互信頼ができている

ということである。

上記のことができている=自然にOODAができている、と言ってよい。

つまり、日頃からチームの間の相互信頼ができていて、目標さえ共有できればそのプロセスは誰もうるさく言わないようなチームは、実際の戦闘や不確実性の高い状況でも各自でちゃっちゃと最終目標にむかって自己判断して次にすべき行動をとっていく。そんなスピード力のあるチームに敵はひるんで立ち向かえずにパニックをおこしてしまい、そのチームは勝利する、ということである。

これをあえてユニット構造のようにとらえたのがOODAである。

 

本書はなかなか分厚い本だが、OODAの要諦は以上である。

じゃあ、なんでこんなに分厚いのかというと、③での「ではチームの相互信頼というのはどうやったらできるのか」と「目標の共有とはどうやるのか」というところに大幅な紙面を割いているからである。(あと、②のスピーディな戦略展開論として「正・奇論」に一章を割いているが)。

 

僕なりに整理すると

(1)「戦略≠計画」ということと

(2)「戦友」をつくること

(3)ねらうべきは「形勢」づくりであること

 

だろうか。

(1)は本書でもつまびらかに解説してある。たしかに世にはびこる「戦略」(経営戦略とか販売戦略とか)のほとんどは「計画」だ。「戦略」とは、不確実性の高いこの世の中で、外部環境がいかように変化しても目標に最終的には到達するような「体制」をいかにつくるか、ということである。つまりどのような計画変更になろうとも目標に到達するにはどうすればいいかが「戦略」だ。

(2)はチームの相互信頼のつくり方。「戦友」というコトバは本書には出てこないが要はそういうことだなと思われる。海兵隊のブートキャンプは戦場に赴く前に戦友をつくるという意味合いもあるのだろう。

(3)は本書の最後にちょろっと指摘されているが、実はけっこう大事なことと思われる。孫子をはじめとする東洋思想に見いだされる戦い方の精神。たしかに毛沢東の戦術論なんかでもこれに近い記述があるし、宮本武蔵の五輪書なんかもろにこれだ。

 

でこうやって書くと、やっぱりPDCAとOODAはぜんっぜん違う世界のものだなあ。

OODAをPDCAのようにフレーム論で語らせようとするあたりが、案外誰かの「奇」の仕業なのではないかと思ったりもする。

 


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ティール組織 マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現

2018年03月19日 | 経営・組織・企業

ティール組織 マネジメントの常識を覆す次

世代型組織の出現
著:フレデリック・ラルー 訳:鈴木立哉 英知出版

 

 期せずしてほぼ時期を同じくして似たような主張の本を読んでしまった。ねらっていたのではなくて偶然である。

 偶然だけれど、やはり今日の「複雑系」的な世の中に適応する組織体としてこれはひとつの答えなんだろうと思う。軍隊でさえそうならばビジネス組織だってそうである。

 

 理想的な組織の行き着く先とは、要するに「自律分散」なのだよな。生命学的あるいは生態学的アプローチから組織を研究するとこれに行き着く。ただし、インターネット論ではわりとはやくからこのことは言われていた。そもそもマーケティングというのが戦争のロジックから敷衍されたことであるのに対し(したがって「ストラテジー」とか「ターゲット」とか、戦争用語が出てくる)、インタ―ネット社会は生態学にアナロジーされやすい。したがって「バズ」とか「エコシステム」とか「オーガニック」とか生態学っぽい引用が好まれる。ホストマシンを持たない「自立分散型」こそインターネットの最大特徴だから、生態学的切り口で組織論を語ると「自立分散」という答えが出てくるのは自然ではある。

 本書でいうところの「進化型組織」というのは自律分散にほかならないのだけれど、本書の面白いところは確信犯的に組織論を進化論風にあてはめてみたところだ。「衝動型組織(徒弟型の世界)」→「順応型組織(官僚的な世界)」→「達成型組織(「マネー・ボール」的な世界)」→「多元型組織(「企業の社会的責任」的な組織)」そして「進化型組織」である。なお、カッコ書きは僕の勝手な主観である。

 とはいってもマルクス論のようにひとつの組織がこのような変遷を遂げるわけではなく、ダーヴィニズムのように、次の組織体によって以前の組織体が淘汰されるわけでもない。この世の中には「衝撃型組織」も「順応型組織」もいまだ存在する。また、著者も認めているように「多元型組織」だった企業が「達成型」に戻ることだってある。

 したがって「進化型」というのはやや誤解が生じるのだが、しかし時代状況、技術背景、環境、人間を支配する価値観その他によって最適とされる組織体が変遷していくというのはその通りだろう。ぶっちゃけ、昭和の価値観で企業を成長させた日本のたたき上げ経営者が、そのままでいまのグローバルビジネス環境や雇用される若者の価値観を斟酌せずに組織経営を行ってもうまくいかないー最大かつ最適なパフォーマンスを発揮はできないだろうとは思う。

 

 「進化型組織」のキーワードは自律分散と全体性ということになるだろうか。全体は部分の乱れなきパフォーマンスの集合であり、部分は全体の維持と発展のためにふるまう。しかし全体をコントロールする人はいない。管理職というものも存在しない。各自が自律して自分の信じる道を判断し、行動している。それなのに全体としてのパフォーマンスはとれており、それどころか明確な全体像ができあがっている。

 これは、各人が「全体像」を共有し、自分が何をすればいいかが「全体像」につながるかを理解しているということだ。しかもその「全体像」はだれか一人が決めたものではなく、みんなの合意形成の中で浮上したものである。

 本当にそんなことができるのだろうか、と思うが、アメリカ海兵隊にまでこの本に書かれているようなことを試行しようとしているということは、ある種の確信がやはりそこにあるんだろうなと思う。

 

 また、本書の指摘としてそうなんだろうなあと思うのは、「順応型組織」にしろ「達成型組織」にしろ、その組織体を維持するために使うエネルギーやコストが、実は生産性の限界や、社員の消耗をいたずらにつくっている、ということだ。たしかに、上司という存在、ヒエラルキー型の意思決定、を機能させるためのシステム、それを維持させるための有形無形のエネルギーは途方もないだろう。浅田次郎の「蒼穹の昴」を読むと中国の科挙と官僚のシステムをみると、国家のGDPの多くがこの行政機構の「維持」のために消耗させられているのではないかと思ったりする。それでいて国家(この場合は清王朝の末期)はひたすら貧していくという大いなる矛盾の道をゆく。

 清王朝の例は大きすぎるとしても、たとえば上司と部下という関係、経営と中間管理職と現場という縦の関係を維持するための不文律、社内政治、ストレスによる社員の摩耗その他のネガティブエネルギーは、本来の生産性、あるいは環境適応性という点からみればマイナスの効果に働いているはず、という本書の指摘はうなづくものがある。

 

 僕の勤務している会社は「順応型」と「達成型」の間くらいかな、なんて思う。腰の重い典型的日本企業だけど、このままじゃいかんと不器用に社内改革に手をつけているといった具合だ。多くの、それなりに図体の大きい日本企業はそんなものなんじゃないかと思う。

 で、仮にこの「進化型組織」が正しいとしたとき、どうやってこれを導入できるのか。これが本書でも後半のテーマになってくるが、なかなか険しい道のりだ。まずその企業全体が仮に「達成型組織」だったとして、本書を読んだある中間管理職が、オレのところは進化型でいこう! と思ってもそれはまず無理である。そりゃそうだろうな。せいぜいが期間を区切った実証実験だろう。この進化型組織をテストすることの諸刃は、かりにこれが成功したとすると既存の組織体をひっぱってきた人達が全員否定されてしまうところにある。

 進化型組織を達成するには、CEOとオーナー(株主)が心替えをするしかない。しかしこれもまた難しい。達成型企業のCEOが、進化型企業のCEOになるには、自分が掌握している権利権限権力その他を手放さなければならないからである。なぜなら、経営層の権利権限権力こそが進化を阻む要素だからだ。これはそうとうの聖人でなければ難しい。オーナーにとっても、そのほうがリターンがよくなる、とあったとしても基本的に実験の領域であり、よほどの背に腹は代えられぬ状況下での抜本的刷新でなければ難しいだろう。

 だから本書でも、せっかく「進化型組織」になったにもかかわらず、CEOの交代やオーナーの横槍により、ふたたび旧来型に戻ってしまった企業の例が出てくる。

 

 それからもうひとつつくづく思うのは、社内政治に汲々としてきたり、人を指図することにカタルシスを感じるような上層部の人は、司馬遼太郎は読んでも、こんな分厚くて重たい本を読むわけないということだ。

 ここらへん企業経営のモチベーションとは何かというあたりも関係してくるけれど、人間本来の欲求が衝撃型組織、達成型組織というものへの誘惑にあるとすれば、進化型組織はそうとうに自制・自浄された倫理的規範の立った人間ということになる。が、そんな人が社内政治に勝って経営層に躍り出るのも稀だろう。その企業に、隕石衝突級かシンゴジラ来襲級のインパクトでもあればまた変わるのかもしれないが、ここで得た知見を実践で試してみるにはまだまだ越えなければならないハードルは多そうだ。

 

 とはいえ、僕も中間管理職。自分自身の戒めにはずいぶんなったような気がする。「あえて口出ししないことこそ上司にとってもっとも試練を要求する」という指摘にごもっとも。


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知的機動力の本質 アメリカ海兵隊の組織論的研究

2018年03月13日 | 経営・組織・企業

知的機動力の本質 アメリカ海兵隊の組織論的研究

 

野中郁次郎

中央公論新社

 

名著「失敗の本質」にはいくつか姉妹編がある。ダイヤモンド社の「失敗の本質ー戦場のリーダーシップ編」もそうだし、日経新聞社から出ている「戦略の本質」も続編としての性格を備えている。ただ、これらは「失敗の本質」に対しての「成功の本質」という性格を帯びている。

ただし、「失敗の本質」の副題が「日本軍の組織論的研究」であることから、失敗の本質を組織論から求めているということであれば、実は「失敗の本質」の対偶にあたるのは野中郁次郎の単書となった中公新書の「アメリカ海兵隊」ではないかと思う。すなわち、日本軍の特性に失敗の本質があったとするなら、アメリカ海兵隊の特性には成功の本質があったという見立てだ。

アメリカ海兵隊の成功の本質のひとつは、手段と目的が冷静に明確に分かれているといってよい。戦争、あるいは外交戦略というものは、大戦略ー戦略ー作戦ー戦術ー戦闘というように階層がわかれているが、大戦略を「目的」とした場合、「戦略」以下はすべて手段である。また、「戦闘」は「戦術」のための手段であり、「戦術」は「作戦」のための手段である。そして「手段」は選ばなければならないし、選ぶことができる。

 

日本軍の場合は、そもそも「大戦略」がなく、そこ以下の本来は「手段」であるべきところが「目的」化した。戦術や戦闘が目的化したのである。その代表が海軍の大艦砲主義と陸軍の白兵戦主義であった。これは日露戦争時のドクトリンであった。もちろん日露戦争と太平洋戦争では状況も環境も異なるのだが、日本軍は日露戦争の成功体験が呪縛となったのだった。

 

アメリカ海兵隊が日本軍と異なったのは、常にその存在必要性を脅かされたことだ。アメリカ軍にはすでに海軍と陸軍と空軍が存在する。陸海空でMECEになっているのだから、したがって「海兵隊」というのはなくてもよさそうである。

海兵隊は、海軍と陸軍と空軍の境目に存在する。それゆえに重要なポジションでもあるが、ニッチにもなりやすい。したがって海兵隊は常に存在意義を問われたし、存在意義を探したのである。海上から兵器と兵士を輸送しての上陸がメインだった時代はそれをドクトリンとして「水陸両用作戦」というコンセプトを開発した。時代がかわって空路輸送がメインになったら機動力をそちらにシフトした。これは用いる武器も、戦術も異なっていく。艦砲や白兵にこだわっているわけにはいかない。

 

そこらへんのことが「アメリカ海兵隊」には書かれているが、それの続編かつ最新版ともいえるのが本書「知的機動力の本質」だ。

基本的には「アメリカ海兵隊」に描かれた最上レイヤーにある「目的」と、それ以下がすべて手段であって柔軟性を担保していることがアメリカ海兵隊の本質であることを本書も踏襲している。そして、それを維持するための組織としての仕組みをSECIスパイラル(暗黙知と形式知・集団知と個人知)を援用して説いている。ここらへんは野中郁次郎の真骨頂であろう。

 

「艦上勤務」にはじまった海兵隊は「水陸両用作戦」というポジションを獲得し、時代環境の変化、科学技術の変化にともなって「水陸空併用作戦」になり、そして「機動戦」となった。

本書は「機動戦とは何か」についても触れられ、本書の後半は海兵隊のテキストである「ウォーファイティング」の翻訳である。

 

機動戦の何たるかもまた、興味深いが、海兵隊で一貫しているのが、その柔軟な組織構造だろう。大戦略という目的以外はすべて取り換え可能な手段である。したがってそのための人事も「手段」だし、統帥のありかたも「手段」であえる。どんな道具や兵器を使うかも「手段」、どのような人材を育成するかも「手段」である。だから戦略がかわれば、作戦がかわれば、これら「手段」はすべて変わる。

肝心なのは、目的と手段の明確な分離であり、目的を完遂するためにいま手元にある「手段」が通用しないとわかったら即、他の手段を講じなければならない、ということだ。この臨機応援さ自由自在さを担保するには、「現場裁量」というものが大きい。現場に裁量をゆだねるならば、そもそもどのような指揮系統が必要かという話になる

平たくいうと、目標だけ伝え、あとは自由にやらせる。ただし、現場前線は自力に目標に到達するだけの技量が求められる。したがって平時にそういう訓練をする。またヘッドクォーターは現場が適切に判断してすぐに実行できるように、情報とツールを供給し続ける仕組みを作らなければならない。

 

つまり、最新の軍隊の組織構造は、ピラミッド式上位下達でも右に倣えでもない。なぜならばそんな硬直した構造では「負ける」からだ。組織構造もまた「手段」なのである。現在の戦争に勝つには硬直した組織ではダメなのである。

 

で、ことは「戦争」に限らない。本書はあくまで海兵隊の研究であるけれど、ひろくビジネスや企業組織のありかたとしても敷衍できると思う(というか本書はそういう普遍に耐える組織論をねらった本であって、戦争や軍隊の教科書ではないことは言うまでもない)。さいきん「ティール組織」という本も注目されているが、多様性と成熟の現代社会の中での組織のありようとしてはなかなか参考になる。

 

また、面白いことにこれがかならずしも現代特有の組織論かというと必ずしもそうではないように思う。読んでいて思い出したのが司馬遷の史記で、列伝のひとつ「汲黯・鄭当時列伝」に汲黯(きゅうあん)という人物についてこんな話が出てくる

 「彼は「清静」を治世の方針とし、それにふさわしい役人を選んで仕事をまかせた。大きな方針は指示したが、こまかいことについては口をさしはさまなかった。汲黯自身は官邸の奥の間で寝てばかりいた。しかし、一年余で東海郡の治績は上がり、彼の評判は高まった。

「史記のつまみぐい」を書いた宮脇俊三氏は「『人選と権限移譲』の要諦」と看破している。

むしろ史記や孫子にある人間的な要素があらためて組織論として顧みられたというべきだろう。本書でも「どのような技術的発展や科学的計算も、戦争における人間的側面を小さくすることはできない。したがって、戦争を武力、兵器、装備の比率に還元し、戦争遂行への人間意志の影響力を無視するドクトリンには、本質的な欠陥がある。」と指摘している。そういう意味で僕は「マネー・ボール」の世界はやっぱり持続可能性がないんじゃないかなんて思うのである。

ブラック企業がことさら話題になっているが、ブラックのブラックたる最大は目的の非開示と権限移譲のされなさにあるのではないかと思う。この点を無視してただ残業時間を制限する「働き方改革」もないんじゃないかななんて思う。

 


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