読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

Chat GPTで夏目漱石「坊っちゃん」の感想文を書いてもらう

2023年03月08日 | その他
ChatGPTで夏目漱石「坊っちゃん」の感想文を書いてもらう
 
 今回は久々の番外。話題の自動生成AI「ChatGPT」で夏目漱石の「坊っちゃん」の感想文を書いてもらってみた。夏休みの読書感想文をChatGPTに頼む子ども、今後は増えていきそうである。さてどんなものか。
 
 まずは、シンプルにこうオーダーしてみた。
 夏目漱石「坊っちゃん」の感想文を書きたい。
 
 その結果がこれである。とくとご覧あれたし。
 
夏目漱石の「坊っちゃん」は、明治時代の日本を舞台に、都会育ちの主人公・坊っちゃんが、田舎の小学校での生活を通じて成長していく物語です。
 
 うむ。江戸っ子の坊っちゃんが、愛媛県松山市の学校に赴任する話だ。でも、あれは小学校じゃないぞ。
 
私がこの作品で印象的だったのは、主人公・坊っちゃんの成長過程です。坊っちゃんは、田舎の小学校での生活を通じて、自分自身や周りの人々、社会のあり方について考え、自らの心を磨いていきます。特に、坊っちゃんが教育者としての責任を感じるようになり、子どもたちに対して真剣に向き合う姿勢には、感銘を受けました。
 
 いやいや。坊っちゃんは、教育者としての責任なんかなにも感じてないと思う。無断で教師辞めちゃってるし。子どもたちに対して真摯に向き合ってたか? イナゴ闘争を繰り広げ、生徒の罵詈雑言ばかり書かれているではないか。
 
また、坊っちゃんの父親や恩師、同級生たちとの関係性も、作品の魅力の一つだと思います。それぞれが抱える人間的な葛藤や問題、そして坊っちゃん自身が抱える家族の問題にも触れられており、読者は主人公の成長過程に密接に共感することができます。
 
 まてまて! 父親は序章で坊っちゃんをぶんなぐったあげく、早々に死んでいるんだぞ。恩師とか同級生と呼ばれるような人はそもそも登場してなかったと思うが。
 
また、夏目漱石の描く風景描写も美しく、自然の美しさや四季折々の変化を感じさせてくれます。特に、坊っちゃんが夏休みに訪れる山里の風景が、非常に印象的でした。
 
 坊っちゃん、夏休みにどこかの山里に出かけた事実は確認されてないです。赤シャツと釣りにいったのは海です。
 
総じて、「坊っちゃん」は、主人公の成長や人間関係の描写に加え、風景描写にも魅力がある、文学的価値の高い作品だと思います。私自身も、主人公・坊っちゃんの成長過程を通じて、自分自身や周りの人々、社会について深く考えるきっかけを与えてくれた作品であると感じています。
 
 うまく抽象的な言い方で結論づけてきたな。しかし坊っちゃんって、これなにか成長したのだろうか??
 
 お前読んでないだろ! という感想文はすぐにわかるとよくいわれるが、どうやらChatGPTさんは「坊っちゃん」を読んでいないようだ。ChatGPTはウェブ上のあらゆるテキストから目星をつけて生成していくそうなので、青空文庫とかのオリジナルもスキャンはできているはずだが、情報選択の重み付けアルゴリズムがまだ充分ではないのだろうか。
 
 ただ、ChatGPTは具体的に質問したほうが、答えの精度が増すという。そこでこんな聞き方をした。
 
 夏目漱石の「坊っちゃん」を、清との関係に注目した感想文を書きたい。
 
 「坊っちゃん」の妙は、実家に住み込んでいた下女であった「清」との関係性にある。「坊っちゃん」とは、清がこの主人公に名付けたあだ名であり、本名はついぞわからない仕掛けになっている。そのあたり、ChatGPTはどう返してくるか。
 
夏目漱石の「坊っちゃん」において、主人公である坊っちゃんが、清との関係に焦点を当てる場面が多く見られます。清は、坊っちゃんの初恋の相手であり、彼女の存在が坊っちゃんの成長や変化に大きな影響を与えることになります。
 
 うーん。清が、坊っちゃんの初恋の相手だったというのはずいぶん深読みだ。ただ、彼女の存在が坊っちゃんの精神形成になんらかの影響を与えてはいるのかもしれない。
 
まず、清との出会いの場面では、坊っちゃんは彼女の美しさに魅了され、彼女に対する思いが高まっていきます。彼女との交流を通じて、坊っちゃんは恋愛に対する憧れや、女性とのコミュニケーションの重要性を学び、自己成長に繋がっていくのです。
 
 いやいや。清はばあさんのはずである。美しいばあさんももちろんいるのだろうけど、この描写はちと違わないか。というより、出会いもなにも清は、坊っちゃんの小さいころからの住み込みである。なにを勘違いしたんだろ?
 
一方で、清の存在が坊っちゃんにとって苦しい場面もありました。清との交流において、坊っちゃんは自分自身の未熟さや無力さを感じることがあり、自己肯定感を失うこともありました。また、清が他の男性との交流を持っていることを知り、嫉妬心や独占欲が芽生え、自分自身を見失ってしまうこともありました。
 
 なんと、清が他の男性と交流を持っている! 新事実の発覚である!! すごいぞChat GPT。断片的な情報からこれを突き止めたというのか! その結果坊っちゃんは「嫉妬心や独占欲が芽生え、自分自身を見失ってしまうこともありました。」これが坊っちゃんの生卵投げつけ暴走につながっているのか。なるほど。
 
しかし、坊っちゃんは清との別れを経て、自分自身を見つめ直し、成長していくことになります。清との関係を通じて、自分自身や周りの人々、社会について考えるきっかけを得たことが、坊っちゃんの成長に繋がっていったのです。
 
 さらに驚くべき新事実! 坊っちゃんは、清と別れてしまったのだ! どこにそんな手掛かりが? いやいや。「坊っちゃん」の最終章で清はもう亡くなっていることが明かされている。この「別れ」とは今生の別れのことを指しているに違いない。ということは、清との別れを経て自分自身を見詰めなおし、成長していくとは? これはエピソードでは書かれなかった「坊っちゃん」のその後である。「坊っちゃん」の最終のくだりでは清の墓が小日向にあることを記してさりげなく終わる。実は、清が既にもうこの世の人ではなく、本小説のメインと思われた松山のエピソードの数々は回顧録であったことが最後まで伏せれれているのが、この「坊っちゃん」なのだ。要するにこの小説は「清が亡くなったことを契機に、思うことのあったこの物語の書き手である『俺』の手記である」という夏目漱石の大仕掛けな時空間ミラクルこそがこの小説の真髄であり、それをChatGPTは読み取ったのだ。すごい。すごすぎる!
 
私は、坊っちゃんと清の関係を通じて、恋愛や人間関係について深く考えさせられました。自分自身が恋愛や人間関係において抱える問題や課題を見つめ直す機会になりました。また、清というキャラクターが、坊っちゃんの成長や変化に大きな影響を与えることを通じて、個人としての影響力や責任の重要性についても考えさせられました。
 
 清の「坊っちゃん」に対しての影響力や重要性。なるほど。この小説の主人公である「俺」は清によってアイデンティファイされている(だから小説のタイトルが「坊っちゃん」なのである)というのは、研究者からも指摘されている説だ。しかし、この小説を読んで坊っちゃんではなくて清に学ばせてもらった、というのはなかなか斬新な切り口である。この小節から清と坊っちゃんの恋愛関係を読み取るのはなかなかすさまじいが、ChatGPTさん、意外に芯を突いている気がしてきたぞ。僕も人に接するときには清のような姿勢を見習わなくてはならない気がしてきた。なんにせよ自分として得るものがあったのならばそれがなんであれ、おっしゃる通りその本は名著である。よかったね!!
 
 うーむ。だけどまあ、この読書感想文をそのまま提出したら、熟慮の末というよりは出鱈目の産物として落第するのは間違いなさそうだな。学校の先生は決して夏目漱石の研究者ではないし、江藤淳や吉本隆明や小森陽一がどんな探求をしてきたかまではカバーできていないだろう。(そもそも事実誤認が多すぎるので使い物にならないわけだが)
 全体的な印象としては、ChatGPTは読書感想文に必要な文脈とでもいうか、お約束ごとみたいなものは学習している感じがする。物語全体のテーマや特色を規定し、とくに、それが現れているところを指摘しつつそこに自分の関わりを入れ、最後に自分の学びとする。WEBにあふれる読書感想文の構造を読み取ったということだろうか。
 想像するに、ChatGPTの知識の源泉はWEBだとすると、日本語で記された情報はまだ蓄積が足りないのかも知れない。英語の文献が大量にある分野のほうが精度が高い可能性はある。聖書とかシェークスピアとか。このあたりは今後の検証ポイントとして覚えておこうかと思う。
 
 
 だいぶ以前だが、「ウェブは菩薩である」という本があった。
 2008年の刊行だから15年前の本である。当時、読書感想文や大学のレポートをネットで検索してそれっぽい文章を借用ないしまるパクリする行為が問題になっていたころだ。しかしウェブというのは本質的には情報を無限大に溜め、人々に対してひたすら提供してく装置であって、すなわちその本質は菩薩なのである、という内容の本だった。
 
 ChatGPTはまさに菩薩の具現化に至らしめたわけである。15年前はそのデータをたぐりよせる「検索のあり方」に技術的制約があったわけだが、おそるべきムーアの法則は、ついにこの領域に達したのだった。
 とはいえ、ChatGPTがデータベースにしているWEBの世界。そもそもここの情報がほんまに真実か、となるとこれはなかなか難しい。AI開発でも、いきなりネオナチな発言をしたとか、強固な人種差別ロジックに支配されてしまった、とかなかなか思い通りにはならないらしい。もちろん吐き出した解答の妙に対し、AIはなにも語らない。菩薩はただ微笑むのみだ。
 というわけで今のところ、読書感想文に利用される方は十分に気を付けられたしだ。読書感想文をChatGPTに書かせようという人は、たぶん本文を読まないだろうから、ChatGPTの吐き出した内容のどこが真っ赤な嘘でどこがちゃんと本文に基づいているかがわからないだろう。少なくとも本文は自力でしっかり読んだ上で、ChatGPTの出した答えの正誤を確認する作業が必要である。
 とはいえ、これは過渡期の現象だ。ChatGPTはOpenAI社のGPT-3.5というモデルを用いているが、ChatGPTのリリースからたった半年で、GPT-4がローンチされた。精度は飛躍的に向上した。指数関数的な成長を呼び起こす業界である。来年の今頃はGPT-7くらいになって感動的な名感想文を吐き出しているかもしれない。
 
 

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Kindle Paperwhite 防水モデル

2019年01月07日 | その他

Kindle Paperwhite 防水モデル

 

 なんだかんだでKindlePaperwhite愛用者となっている自分である。最初は3G回線つき2GBであった。電子書籍というものが未体験だったので半信半疑もありつつ勢いで買ってしまったものである。

 2GBという容量は、文書だと問題ないが、マンガをいれようとすると一気に足りなくなってしまう。20巻ものくらいをいれてしまうと入りきらない。

 また、3G回線は、どこでも書籍がダウンロードできてよいかと思ったのだが、意外にも対応していない書籍が多かった。マンガもそうだが多少厚みのある本でも無理なのであった。それなら3G回線付は必要ないなと思っていたところ、日本限定として「漫画モデル」なるものが登場した。これだと32GB容量なのでシリーズものの漫画でも楽勝である。初代のKindle paperwhiteは操作反応が鈍くなってきたこともあり 僕はこの「漫画モデル」に買い替えた

 

 ところで、僕はKindleは出先でももちろん使っていたが、風呂場にもよく持ち込んでいた。そのためには防水のカバーをかけなければならない。止め口のしっかりした防水ケースを別途購入してそれにParperwihiteをいれていた。この防水ケースはなかなか役にたつものではあったが、弱点は止め口だった。プラスチック製なのだが、なまじ強固につくってあるためか、開閉時に力の入れ加減を間違えると止め口のツメがぱきっと折れてしまうのである。3か所止めなので2か所折れても風呂場で使うくらいなら大丈夫なのだが、やがて3か所のツメがすべて折れてしまい、なんと3回も買い替えるはめになった。

 ちっと思いながら3つ目の防水ケースを購入したところ、たちどころにまたツメが折れた。さすがに構造上の欠陥と腹が立ったところに、Paperwhite防水モデルが発売された。2代目の漫画モデルはまだまだ十分に使えるシロモノであったが買い替えることにした。2代目を下取りに出し、防水ケースを買わなくて済むとなれば、そんなに損な買い物ではないと判断したのである。

 

 したがって、現在僕が使用しているKindlePaperwhiteは3代目である。毎晩風呂場に持ち込んでいる。

 また、この買い替えを機にカバーをつけるのもやめてしまった。2代目までは純正カバーをつけていたのだがやはりどうしても重くなってしまうのが納得いかず、今はそのままカバンに放り込んだりしている。とくに瑕の心配もない。かつてカバーについて一席ぶったりしてみたが黒歴史である。

 

 というわけでようやく悠々自適‥と言えればよいのだが、最近また困った問題が出てきた。

 40代も後半になってくると老眼が進行してきてPaperwhiteの画面だと文字が小さくて読みにくくなってきたのである。文書のほうは文字の大きさを変えたりできるのでよいのだが、マンガはかなり読みにくくなってしまった。もう一回り大きいのが欲しいくらいだ。ここはやはりハズキルーペの出番だろうか。


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ブログ10周年とタイトル変更

2017年12月31日 | その他

ブログ10周年とタイトル変更


 このブログ、いつのまにか10周年だった。数か月更新をさぼったことが何度かあるが、まあ続いたほうと言えるだろうか。10年の間にリーマンショックとか、民主党政権とか、東日本大震災とかずいぶんいろいろあった。
 わりに僕自身はそんなに変化がない。乳幼児だった子どもは小学生になったり、家を引っ越したりはしたが、仕事先はかわらないし、仕事の内容もそんなにかわらない。

 だけれど、あらためて10年にここに挙げた本をみてみるとそれなりに変遷がある。

 最初のころは新書やコミックもそこそこあったのだが、最近は新書・コミックはめったに登場しない。また、ビジネス本は初期中期のころは皆無といってよかったが、後半あたりから登場するようになった。SF小説も登場するようになったのは後半からだ。
 自分の関心領域や本選びの基準が少しずつ変容していったのだろう。

 
 で、ブログのタイトルは「読めば京(新書でも小説でもコミックでも)」という、ケレン味があるのかわりきれないのかなんだかわからないおさまりの悪いものだった。当時はブログの全盛期でこんなタイトルがわりとあちこちにあり、そう不自然にも思わなかったのだが、この10年でだいぶブログは廃れた。Webの技術はまさに日進月歩で、SNSが登場し、みんなで読書感想を投稿しあうようなサイトもいくつか出てきて、当ブログのようなスタイルはずいぶん周回遅れになった気もする。

 とはいえ、多少なりともアウトプットを意識しながら読書をするのは、読書の習慣づけを維持させるためにもまあなっていたし、まとめてみることで自分の頭の整理にはなるし、備忘録にもなる。なので、もうしばらく続けてみようと思うが、タイトルは改めた。時代の空気的にはもっとそっけないもののほうが適合している気がする。

 というわけで、このブログのタイトルを「読めば京(新書でも小説でもコミックでも)」あらため「読書の記録」ということにした。もはやタイトル性を喪失しているともいえるが、今の僕にとってはわりとおさまりがよい感じがするのでこれでいくことにする。




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Kindle Paperwhite マンガモデル

2016年11月08日 | その他

Kindle Paperwhite マンガモデル

 

 
 使用にあたってはいろいろ試行錯誤したわけだが、けっきょくKindleで落とすのは、小説、ビジネス書、そしてコミックというあたりに落ち着いた。それ以外の分野に関しては、これまで同様、紙の本を購入している具合である。
 
 Kindleの最大の利点は、読後の本の置き場に困らない、ということにある。重さに関しては、僕は純正カバーをしていることもあって、ハードカバーの大書よりはもちろん軽いが、文庫や新書よりは重たく、あまり利点にはなっていない。
 
 純正カバーは、要不要論どちらもネットで散見されるが、僕にとっては片手でホールドと操作の両方ができるようになるのが最大の利点だ。カバー部分を折り返して人差し指と中指で挟み込みながら読むので親指がフリーになり、この親指で画面操作ができる。つまり片手でホールドと操作の両方ができる。カバーがないと本体を親指と他の指で挟むようにして持つようになるので、画面操作はもう一方の手でやらなければならない。
 
 しかし純正カバー、多く指摘されることだが、やはりちと重すぎるのは否めない。通常のハードカバー一冊くらいには相当する感じなので、これでもう少し軽ければ言うことないのだがな。
 

 このPaperwhiteを2年ほど使ってきたわけだが、なんだかバッテリーのもちと、画面の操作感度が鈍るようになってきた。
 
 そんなところでマンガモデルが出た。
 
 「マンガモデル」という露骨な名称が気恥ずかしい気もしたが、これに買いなおすことにした。Paperwhiteは数千冊の本を本体に記憶できるが、それは文字の本に限る話で、画像で記録するコミックの場合は数十冊もいれると満タンになる。つまり長期連載作品になるとそう何種類もいれられないのだ。
 だから、Amazonのサーバには残しておいて、本体のPaperwhiteはまめに消去し、読むときは改めてサーバからダウンロードするということを繰り返していた。
 しかし、必ずしもWiFiのある環境にいるわけでもないし、ライブラリの中から、どれを読もうかなと選ぶところが醍醐味だったりもするので、本体の保存容量が少ないというのは、だいぶ欠点ではあった。
 
 マンガモデルによってまずはその点は解消された。やたらに場所をとりやすいコミックこそは最もKindleの良さを発揮できるわけで、マンガモデルの登場はまさに画期的であった。
 そんなにマンガをストックさせるのは日本人くらいらしくて、日本法人からの発案でこのマンガモデルは商品化されたそうな。本当に日本はクール・ジャパンなのだな。
 
 マンガモデルは、容量が増加されたことと、パラパラモードがついたくらいで、それ以外はPaperwhiteとまったく同じである。液晶の大きさも本体の大きさも厚みも同じである。
 同じだから、これまで使っていた純正カバーがそのまま使えた。
 
 
 しかしKindleマンガモデルといい、iphone7のSuica対応といい、日本のありようって本当にグローバルの中では独特なんだなと思う。かつてそれはガラパゴスと言われていたわけだけれど、ヘッドクォーターからこういった日本独特のニーズがビジネスになることを認められ、それらが日本市場において商品化されたわけで、グローバルモデルをガラパゴス化させてしまうというか、スタンダードモデルにミトコンドリアのように入り込んでいくというか、日本の変なしぶとさが体現されているようで興味深い。Twitterの「話題のニュース」機能も、あれ日本発の、日本独自の仕様なんだそうである。
 そのうち、FacebookやInstargramにも日本仕様が出てくるんじゃないかと思うと、じゃっかん怖い気もしている。
 
 

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「シン・ゴジラ」と「君の名は。」

2016年09月22日 | その他
 「シン・ゴジラ」と「君の名は。」 (どちらも壮大にネタバレ)
 
 
 評判の邦画を両方ともみたので今回は番外。
 
 ところで、僕は自称「よきゴジラの理解者」である。伊福部昭の音楽には心酔しているし、1954年のゴジラ第1作はセルビデオで持っているし、平成ゴジラの最終回「ゴジラVSデストロイヤー」は映画館で鑑賞し、ゴジラがメルトダウンする最後のシーンで、スクリーンを見ながら泣いてしまったクチである。なにかと批判の多い1984年のゴジラについても、帰巣本能を刺激されて噴火する三原山に死の疾走をするゴジラの姿に、僕はどうしようもない哀れさを感じてしまった。
 そう。ゴジラにおける僕の解釈は「異形の悲しみ」であった。南海の海の底で静かに暮らしているはずだったのに、放射能汚染によって異形の姿にされ、巨大な図体を維持すべく餌を求めると、行く先々でゴジラ本人にとってはいわれのない集団攻撃をしかけられ、最後は罠にはめられて殺される運命にある、悲劇的な生き物だ。
 この話を会社の人間にすると「先輩はゴジラに感情移入するんですか!」と呆れられた。
 そういう変わった鑑賞ポイントを持つ僕にとって「シン・ゴジラ」はあまりにも過去の作品とは距離のあるシロモノであった。シン・ゴジラはあまりにも「ただの生物」だったのである。もちろん、形態はどんどん進化するし、すさまじい放射能光線を吐きまくるし、そのエネルギーの超越性は空前絶後のものではあるが、しかし、その姿は爬虫類的知性の無さというか、そこに「悲しみ」が宿る気配はなく、意思のありかさえ見えず、シンゴジラはただトカゲと同じように、動物的本能のままに動き回るだけで、むしろエメリッヒのゴジラと同じベクトルにあるとさえ思った。
 じゃあ、つまらなかったのかというと、そんなことはなくて、「シン・ゴジラ」はこれはこれでめちゃくちゃ面白かった。
 おそらくこの映画の主題であろう、官僚組織の体たらくや、彼らが一掃されたあとの若い人たちによるゴジラ対策チームの活躍も見ごたえ十分だったし、だいたい東京の街を焼き払うゴジラの大立ち回りのド迫力は、理屈抜きで見惚れるものだった。
  そんなわけだから、これが邦画としては異例の大ヒットと知って、オタクなオトナが増えたもんだ、とまことにご同慶の至りだったのである。

 そんなところに「君の名は。」が、シン・ゴジラの興行成績をあっさり抜いたというニュースを聞いて驚いた。
 「シンゴジラ」のほうはそうとう前から宣伝されていたし、もともとゴジラブランドというのがあるし、監督はあの庵野秀明だし、まあそれなりにヒットはするだろうと思っていた。しかし「君の名は。」は、何かの映画を劇場でみたときに初めてその予告編をみて、そのときはまさかここまで大化けするとは思いもしなかった。男女いれかえも、タイムスリップも、よくあるネタだと思ったのである。
 それなのにこの興行成績だ。中高生に人気があるらしい、とのことだが、職場の人間が、つまり大のオトナが、男女問わず何人も呆然とするくらいに感動したと言ってくるのである。
 これは行かねばならない。話題が話題を呼んでいるという具合で、連休に見に行こうと思ったら、近辺の映画館はみんな予約で満席。これにはびっくりした。先日、会社の帰りのレイトショーをようやく見た次第である。
 男女入れ替えもタイムスリップも並行世界も、モチーフとしては鉄板中の鉄板で、だからある程度は面白い話ができることは約束済で、それゆえに陳腐さから抜け出て傑作にすることは難題でもあるが、「君の名は。」がうまく軌道に乗せたのは「男女入れ替わったときの記憶がなくなる」というところだろう。僕は残念ながら「呆然とするほどの」感動とまではいかなかったのだが、どこかで運命的な人になるはずの人と出会いをしておきながら、何かのすれ違いで深くコミットしないまま、記憶からも忘れられてしまった誰かさんがいたのかもしれない、なんて切なさをちょっぴり感じたのも事実だ。
 この映画がこれだけ人を虜にするということは、「本当は大切な誰かと会っていたのかもしれない」とみんな思いたい、ということなのかしら。過去形型シンデレラコンプレックスとでも言おうか。
 
 

 それにしても、「シン・ゴジラ」にも「君の名は。」にも共通するのは、巨大災害だ。われわれ日本人は、3.11以降、「街がまるごとひとつ失われてしまう」ほどの災害があることをリアリティとして知っている。知っているからこそ、どちらの映画も、共感の接点ができる。
 かつて、ハリウッド映画で、都市や町が根こそぎ壊滅するシーンをみるとき、それはあくまで絵空事中の絵空事で、痛快エンターテイメント以外の何物でもなかった。しかし、ゴジラが東京の街を焼き払い、隕石が飛騨の村を一つ吹き飛ばすことの「悲しみ」に、我々は心の底から共感できる。この「悲しみ」の共感の上に、ゴジラと人間の戦いの行方を真剣な眼差しで見るし、この「悲しみ」を回避するために、互いを探し求めて彷徨する三葉と瀧に万感の思いを抱くのである。

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オバマ大統領 広島スピーチ

2016年05月28日 | その他

オバマ大統領 広島スピーチ


名演説だった。

初のアメリカ大統領現職の広島訪問ということで、事前からそのスピーチが注目されていた。謝罪するかしないかとか、どこまで具体的にふみこむかとか下馬評はいろいろ騒いでいたが、それに堕しないすばらしい内容であった。特に最後の締めくくりが圧巻。ハフィントンポストの訳文だと以下の通りである。


「世界はこの広島によって一変しました。しかし今日、広島の子供達は平和な日々を生きています。なんと貴重なことでしょうか。この生活は、守る価値があります。それを全ての子供達に広げていく必要があります。この未来こそ、私たちが選択する未来です。未来において広島と長崎は、核戦争の夜明けではなく、私たちの道義的な目覚めの地として知られることでしょう。」


17分に渡る演説は、日米どちらが悪いか、あるいはどちらに原因と事情を求めるかにせず、両者の対立しやすい概念をアウフヘーベンさせ、最後に「未来において広島と長崎は、核戦争の夜明けではなく、私たちの道義的な目覚めの地」と着地させた。そうとう練りこまれた内容である。草稿を書いたのがオバマ本人なのかその取り巻きなのかはどうでもよい。対立と止揚という西洋論理哲学の真髄をみた気がする。


オバマ大統領あるいはアメリカの今回の広島訪問にあたっての対応は、いろいろ批判もある。70年待たせてたったのこれだけかよ、とか、結局ごめんなさいはないのかよ、とか。むしろ批判どころを探すほうが易しいとさえ言えるだろう。

とは言え、一歩は進んだ。それをまずは評価したい。我々は、原爆投下というアメリカの行為を「許」せなくても、しかし「赦」せないと、我々は、なにも未来に進めない。



オバマ大統領は、就任当初の期待値が異常に高く、その後は下降線の一方だったというのが一般的な評価ではあるが、それでも彼は希望を与える人だった。大統領としてそれは大事な資質だろうと思う。彼の演説は、たしかに人を動かす力があった。そして、その演説には熟慮の跡がある。

この複雑な時代に、単刀直入にスパーンと言い切ることは、カタルシスも手伝って実に気持ちがよい。しかし、本当はこういう複雑な時代だからこそ熟慮が求められるはずだ。トランプ候補がこれからどうなるのかわからないが、熟慮ができる人が大統領とその参謀になってほしいと思う。


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Kindle Paperwhite

2013年12月18日 | その他

Kindle Paperwhite

 

 番外。迷った末、Kindle Paperwhiteを買ってみた。

 もともと、あんな電子書籍で、本読みの醍醐味が味わえるもんか、と思っていた。
 装丁とか手にした重みとかそういうの全部含めて、読書体験である。液晶画面越しに文字を追いかけるのと、印刷された文字を追いかけるのでは、情報処理される脳の場所が違うとかで、前者は頭に入らないのだ、とかそんな記事を読んだこともある。
 たとえこの類のものを買うにしても、所詮はヒマつぶしみたいなものだから、それならば電子書籍を買うのではなく、いっそiPadminiでも買って、WEBのコンテンツを読み、本は本でしっかり買っておけばよい、そんな風に思っていた。

 それが心変わりしたのは、案外に勝手がいいよ、という会社の同僚のを借りて触ってみたらである。
 ユニバーサルなタブレット端末であるkindle FIREとかではなく、完全に読書専用端末のPaperwhiteならば、液晶といってもe-inkとかいう実に読みやすくて目に優しい表示技術なのであった。それにとても軽い。
 たしかに本というのは重たいし、かさばる。文庫ならともかく、ハードカバーともなると、持ち歩くのはやはりなかなかしんどい。勤め人の例にもれず、僕も読書時間はもっぱら会社の行き帰りとか、職場でのランチタイムとか休憩時間とか、あるいはエレベーターでの移動中とかそういうところをこまめに拾っていくので、本が大きくて重たいというのはけっこう致命傷なのである。
 自宅の本棚もいっぱいいっぱいだし、まあ本棚に常駐させておきたい本はちゃんと買うとして、そうでなければ電子書籍でもいいかと思い、購入することにしたのであった。 

 で、Kindle Paperwhiteがamazonから届いたので、何冊か落としてみようと試みる。

 ところが想像以上に書籍が少ない。読書好きには物足りないラインナップだよ、というのは前から聞いていたものの、本当に欲しい本はしっかり書籍で買えばよいので、まあ、せいぜい売れ筋の小説とか新書あたりをフォローする場合ぐらいかな、と想定はしていたのだが、それにしても少ない。たとえば酒井順子の「ユーミンの罪」もなかったし、百田尚樹の「海賊と呼ばれた男」もない。
 ちなみに僕は図書館でも検索端末のある本屋でも、蔵書の程度を調べるときには紀行作家の「宮脇俊三」の本がどれくらい入っているのかを調べることにしている。Kindle Storeにあったのは「時刻表の旅」「鉄道旅行の楽しみ」「私の途中下車人生」「終着駅」の4冊のみ。しかもなぜこの4冊? というチョイスである。(宮脇俊三ファンならばわかるだろう不思議なラインナップ。「時刻表二〇〇〇〇キロ」も「最長片道切符の旅」も「時刻表昭和史」も「シベリア鉄道9400キロもない)。

 まあ、蔵書は日に日に増えていくのを期待するしかない。まだ、このサービスは過渡期であることは十分にわかっている。


 逆に建設的なところに目をむけよう。

 まず、たしかに手軽である。
 B6判程度の大きさになるのだが、なんとこれ、スーツの裏ポケットに入ってしまう。これで手持無沙汰とは完全におさらばだ(夏場はどうしまおうかまだわからないが)。そして、スマホのように頻繁に充電する必要がない。だから、本当に思いついたときやちょっとした手すきにさっと出せてぱっと読みかけのところからスタートできる。

 また、ぼくはけっこう読書中にアンダーラインを引いたり、ページを折ったりするのだけれど、そういうマーキング機能がとても優れている。アンダーラインをひいたところだけ、テキストがピックアップされてあとで見返すことができるから、いってみれば見どころのダイジェストみたいなものがすぐにつくれることになる。
 なお、マーキングするときは前後の文章も含めて長めにとったほうがよさそうだ。というのは、あとで見返すとき、マーキングされた部分だけ文章が抽出されて見れるのだが、前後の文章がないと、はて、この文言はどういう文脈で注目したんだっけかな、とわからなくなってしまうからである。

 それから、「液晶画面の文字は、紙に印刷された活字に比べて頭に残りにくい」という点についてだが、液晶のほうが黙読のスキャンが早いのか、読みが浅いのか、うっかり咀嚼しないまま進んでしまうことがしばしば起こった。あれ、この人はだれだっけ、とか、いまこの人は何を言ってたんだっけ、というおマヌケな状況が発生するのである。
 どうも表示文字を大きくしすぎることが原因のような気がして、字を小さくして1画面内の文章量を多くした。そうしたらかなりましになった。

 文字を大きくすると、とうぜん読みやすくはなるが、1画面内の文章量は少なくなって、しょっちゅう切り替えなければならなくなる。
 ところがそうするとどうも流れが頭に入りにくいのである。
 さっきのマーキングの話と同様、脳みそというのは、この瞬間に目で追って読んでいる文章だけでなく、前後の文章のつながり、つまり文脈を無自覚のうちに視覚から情報処理しているようで、この前後の文章が遮断されるとどうも頭に入りにくいらしい。
 僕はべつに速読術を身につけているわけでもないが、黙読というのはそういう情報処理なのか、とあらためて発見したところである。


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いじめと君

2012年07月31日 | その他

いじめと君

朝日新聞

大津市のいじめ事件は、とにかく燎原の火の勢いであちこちに影響が及び凄まじいことになってきた。

そんな中、朝日新聞では「いじめと君」という連載をしている。

数年前にあった連載だが、この大津の事件を機に再開されたもので、各界著名人が「いじめられている君へ」「いじめている君へ」「いじめを見ている君へ」などと題して短いエッセーを載せている。過去では、さかなクンの「いじめられている君へ」が秀逸だったとしてネット上でも話題になった。

 

御多分にもれず(?)、僕も小学校時代に数年間いじめられた経験がある。幸か不幸か当時のいじめは今ほど陰湿というか苛烈を極めるものではなかったのだが、それでも子どもというのは残酷なものであるし、学校や教師というものが基本的には事なかれ主義であることも肌身を通じて知った。上履きや教科書が無くなる、机が廊下の外に放り出ている、下校の間中小突かれる、担任の先生が労組の関係で出張かなんかにいってしまえばもうやりたい放題となる。そしてこれは絶対に公式の見解では言われないが、いじめられる人というのは、いじめたくなるだけの要因を確かに潜めていた。僕自身をかえりみてそう思う。逆に言えば、子どもというのは、いじめたくなるすきをそこに見つけてしまえば、いじめることに躊躇しない、そこまでの分別や自制心を持たない面もある。蝶の羽をむしったり、バッタの手足をもぎ取ったりする行為の延長上にある。

で、そういう経験から思うに、この「いじめと君」も玉石混交というか、適当にきれいごといって済ませたものと、本当にソリューションを考えているものと両極だな、と思う。

一番いけないのが、「悪いのは大人たちです、この社会です」というタイプである。このタイプは意外に多いのだが、これは実に罪深いと思う。つまり、いじめている人は悪くない、という免罪符をつくっている。

細野不二彦の「ジョーカー」というマンガに、中学生の万引き被害にあった町の本屋さんが、この中学生を訴えるような張り紙をしたら、教育委員会やらPTAやらが「悪いのは社会だ」と筋違いの批判を逆に浴びてしまい、かえって本屋に嫌がらせが増して休業を余儀なくされる、という話があった。これはひどく心をうったのだが、それと同じ危険性を潜んでいる。

「悪いのは社会である」というのは、ひどくおさまりがいいフレーズであって、その実、責任の所在を完全に霧散させる。目の前の具体的事象を解決していない。

 

次に多いのが、「思い切って大人に言おう」というタイプである。

が、大津の事件に限らず、いっちゃあなんだが、オトナというのはホントにあてにならない。あてになる場合もあるに違いないが、6、7割であてにならないと思ったほうがよい。いじめにおいても、たいていは一度や二度、オトナへの相談を試みている場合がほとんどだとも思う。

なぜあてなにならないのか。これは、学校の先生というのは、ことに公立の小学校とか中学校の先生になりたがるというヒトというのはどういうヒトかというのを考えてみるとわかる。

べつにロリコンであると言うつもりもないが(というか最近の事件の多さをみると潜在者はいったいどれだけいるのかとも思って背筋が寒くなるのだが)、先生になりたいというヒトの多くは、自分の学校時代がそれなりに楽しかった人たちなのである。中には、自分の学校時代は問題だらけで苦渋の道だったから、自分はそれを直したいと思って先生になったという人もいるとは思う。だが、それはやはり少数派だ。多くは、子どもが好きで、自分の小学校時代もなんか楽しくて、なんとなくそこに成功イメージがある人が、学校の先生になる。学校時代にイヤな思いをした人が学校の先生になりたい、とはなかなか思いにくい。

だから、そういう先生は、おちこぼれの人の気持ちとか、いじめられる人の気持ちが、本当の意味ではわからないのである。シンクロするだけの背景を持っていないといってよい。むしろ学校が好き、勉強が好き、ということで優等生的な尺度を持ち出しやすい。本当は良い人なんだ、とか、本当はさびしいのだ、とか、あなたもがんばればいいのだ、とか、追い詰める言葉を放ちがちである。

 

だから、僕が、この「いじめと君」を読むとき、ふうんなるほど、と思う人の特徴は、まずいじめの発生とは不可避である、というスタンスにたつ人である。いじめは発生するものとして、さてどうするか、という見解で語る人は一聴に値する。最近では、生協の白石さんや、声に出して読みたい日本語の齋藤孝や、志茂田影樹がこのスタンスにたっていた。先のさかなクンが評判だったのも、いじめは起きるもの、という前提で話をしたからである。

いじめはなくせる、とか、悪いのは君たちに絶望させたオトナのせいです、という見解のは、正直いって当事者になにも届いていないだろう。

 

教育委員会としては、「いじめは起きるもの」という見解は絶対にとれないだろう。教育委員会とししては「教育でいじめはなくせる」という理念を無くすわけにはいかないだろう。

だが、「いじめが発生しない」社会モデルというのは、たぶんだが確立していない。むしろ格差や悪所、いわば「いじめられる人」を必要悪として、社会形成には必要である、とする見解のほうが、社会学や生態学では一般である。だから、「いじめは撲滅できる」というここに固執している限り、教育委員会は、ぜったいにいじめを解決できない。そして未来永劫、教育委員会はこの見解を捨てることはできないだろう。

 

だから、いじめられたのなら、これはもう徹底的にその機会を根本から喪失させるしかない。「いじめる気を喪失させる」から「逃げる」までやり方はいろいろある。どれでもよい。その場にとどまってしまうのが一番まずく、しかも案外に先生を含むオトナは、その場にとどまることを指南してしまうのである。

 

 


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梅棹忠夫氏逝去

2010年07月07日 | その他

梅棹忠夫氏逝去

番外である。
梅棹忠夫氏が90歳で天寿を全うした。
十分な長生きだということはわかっていても、自分で意外なほどに喪失感がある。

僕はそんなに梅棹忠夫の著作を読んできたわけでない。「知的生産の技術」「文明の生態史観」「狩猟と遊牧の世界」「情報文明論」。あと何かあったかな。それくらいだろうか。それに民俗学も文化人類学も特にかじってきたわけではない。だが、斬新かつ明快なこの論旨。対角線を一本引いたような、いままで硬直化してまったく見えなかったものが急速に明白な空の下の地平となるような独創的な切り口は、はっきりいって魔術といってもよかった。

「文明の生態史観」なんて、例の「銃・病原菌・鉄」の50年先駆といってよい業績だと思うわけだが、新聞の訃報記事を読んで、これが36歳のときの発表だと聞いて、心底たまげた。絶望的気分さえ味わったとさえ言える。もうすぐ40になる僕はどうして「文明の生態史観」にあたるようなコペルニクス転回とでもいうような切り口を見つけられなかったのか、という絶望感である。


僕の好きな言葉に「際」とか「境」とかいうのがあって、好きな言葉とか漢字を問われると、これらを答えることが多く、「愛」とか「楽」とか「寝」とかの答えを期待していた先方からは奇妙な顔をされることが多いのだが、こういったハイブリッドなところに新しい地平を見るダイナミズムを最初に知ったのが梅棹忠夫の著作だったような気がする。

ちなみに僕は右目が白内障で失明に近い状態で、左目のみの生活なのだが、梅棹忠夫は60歳を過ぎて、完全失明した。こういう観察学者にとって視力を失うというのはそれこそ生命線を断たれたに等しいと思うのだが、氏は「雑用が減って良い」とプラス思考だったという。この一点だけで心底感服する。

100才まで生きるつもりだったらしい。謹んで冥福を祈る。


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読書感想文雑感(番外)

2008年09月02日 | その他
 読書感想文雑感---番外

 8月最終週、突然妙にアクセスが増え、今週になってまたいつもの状態に戻った。特に心あたりがないのだが、時期的に考えると、読書感想文のネタを探していたのではないかと思う。

 「読書感想文の書き方」というタイトルで検索するとけっこうな数が出る。やはり「読書感想文」に難渋する人が多いのであろう。
 しかし「読書感想文の書き方」なんてサイトをつくる人は基本的に本を読むことが好きだし、文章を書くのも苦ではないだろうから、どうしたってその内容は「正統派」に近くなる。メモをとり、骨子をつくり、自分の生活や感情と登場人物との相違を比較し… 

 自分が知りたいのはこういうことじゃないんだよなあ~という人、多いと思う。学校の指導と変わらんじゃんって感じた人だっているはずである。オレが知りたいのは、楽して、できれば本も読まずして、読書感想文なるものが出来てしまい、それで少なくとも「よくできました」以上の評価くらいにはならないかなあ、というのが本音ではないだろうか。

 だいたい、選出される優秀作品というのがまたくせものである。優秀作品ってのは要は諸君もこんなの書きたまえ、ということだ。その中身は必ずや主人公の生き様に感動し、「僕もそのようにならなければならない、と思った」という類である。

 それホントかおまえ! ホントにお前は心に誓ったのか? ホントにお前は明日から勇気を持って生きていくのか? 偏見を持たずに物事に接することができるか? タバコのポイ捨て注意できるか? 

 そう。書き手は、こう書けば先生が喜ぶと思ってるから書くのである。乱暴に言えば、読書感想文とは学校の先生と優秀な生徒の間で交わす既定演技なのである。ごくまれに「つまんなかった」で押しきる勇ましい例もあるが、これとて「感動しました」のアンチテーゼなのだ。つまり、「感想文=感動しました」という黄金の公式が根っこにあるからこそ、このような反動も出る。

 「感想文は思ったことを書けばよい」。必ず言われる。断言するがウソである。感動しなければいけないのである。生徒はその不条理を充分に肌に感じ取っているのだ。
 
 だから、器用な生徒は感動のそぶりができる。ところが大半の人にとってウソの感動を文章にするのはやはり苦行なのだ。だからついだらだらとあらすじを書いてしまったりするのである。
 もちろんホントに感動した人だっているだろう。それは非常に幸せな例だ。その感動はぜひ生涯の宝としてほしい。しかしあえて言わせてもらえば、本当に感動する本というのはそう滅多には出ないはずなのだ。だからこそ、本は「出会い」に例えられるのだし、また、本当に感動したならば、感想文なんてするする書けるのである。だいたい、休みのたびに決められた課題図書で次々と感動するやつがいたら、そいつの感受性のほうが問題である。あっという間にヘンな宗教や悪しきオンナ(もしくはオトコ)に騙されるに決まっているではないか。
 
 ありがたいことに、最近は頼みもしないのに感想文を載せているHPがわんさかあるから、課題図書はもはや読まずにそこからおいしいところをかいつまんではい完成、なんてやっている生徒も少なからずいて、教育サイドで問題になっている。誉められた行為ではないものの、短時間で要素を随所からかき集め、一つのカタチに編集し直す、というスキルはこれからますます重要になってくると思うのである。世にあるレバレッジとか超時間術とかハックとか称すビジネスメソッド本なんかはみんな要するにこの方法を説いているのであって。

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タモリによる赤塚不二夫への弔辞

2008年08月08日 | その他
 番外:タモリによる赤塚不二夫への弔辞

 ネットで全文が紹介されており、しばらく評判になりそうだ。

 名文の誉れ高い弔辞として、文学界では川端康成が横光利一の葬儀の際に読み上げたものが知られている。また、司馬遼太郎の「開高健への弔辞」も。普段は作家論をやらない司馬遼太郎が空前絶後の作家論を展開させたことで有名だ。
 最近の芸能界では、上岡龍太郎が、横山ノックにあてたものが一時期評判を呼んでいた。

 一流と呼ばれる表現を生業とする人はこういうときに超絶的な力を出す。創作の神が降臨するとはこういうことをいうのだろう。

 タモリの弔辞も名作のひとつに並べたい。「四ヶ国語麻雀」に始まるタモリのパフォーマンス史のひとつとして数えたいくらいの芸術的完成度だと思う(しかもアドリブだったなんて説もある)。
 「これでいいのだ」にまつわる箇所なんかは、優れた赤塚不二夫論のみならず、今の閉塞化した社会にむけた福音でもあるのではないか。

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