読書の記録

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はみだしの人類学 ともに生きる方法

2021年10月13日 | 民俗学・文化人類学
はみだしの人類学 ともに生きる方法
 
松村圭一郎
NHK出版
 
 なんとなく疲れたり、閉塞感にとらわれると僕は文化人類学や民俗学の本を読む。難解な専門書ではなくて一般的な本であることが多い。
 なんでそんな本を読むかというと、自分の心が洗われるからだ。溜まっていた澱が溶けて流れ出るような思いがある。
 
 つまり、文化人類学や民俗学で描かれる人々の文化や思考ーーこんな考え方、こんな立ち振る舞い方、こんな生き方があるんだと思うと、普段の日々に自分を拘泥しているモノゴトが、単なるひとつのパターンでしかないことに気が付くのである。こんな考え方をしてもいいんだ、と思えたり、これは自分たちのほうがやっぱりいいな、と思ったり。つまりボルネオの森の民や、香港のチョンキンマンションの住人や、エチオピアの人々や、昨日までの世界の人々の話に触れることで、実は自分自身を顧みているのである。
 
 なんてことを思ってたら、まさにそれを語っていたのが本書だ。入門書というよりは、文化人類学イントロ編とでも言ったほうがいいかもしれない。
 
 とくに大事なのは、文化人類学の世界を知ることで、自分自身が変容することの喜びを知ることだろう。普段の生活において「かくあらなければならない」ということにこだわりすぎていると、そこにむかって一直線の取捨選択しかできなくなって「変容」するだけの余地や余裕はなくなるだろう。でも、実はそんな硬直的な生き方はとてもリスクがある。自分が設定した「かくあらなければならない」ものがどれだけ正しいものかは保証の限りではない。「無知の知」であることはふまえたほうがいいだろう。
 
 そういう意味で、本書が上げた「いきあたりばったり」の生き方。これは慧眼だ。
 「いきあたりばったり」は最近聞かなくなった言葉だ。使われるとしてもネガティブな意味だろう。PDCAとかバックキャストとか、目標を決めて最短距離をつっぱしるのがエレガントであり、スマートであるとされる昨今だ。
 
 だけれども、「いきあたりばったり」にしないと「無知の知」に気が付き、自分が思いもしなかった新たな知見を得るチャンスはむしろなくなる。文化人類学でもよく出てくるブリコラージュもセレンディビティも、その根底にあるのは「いきあたりばったり」だ。
 
 というわけで「いきあたりばったり」という言葉を再発見してくれただけで本書はぼくにとって「買い」であった。本書自身が、たまたま入った地方の本屋で発見してゲットしたものである。まさに「いきあたりばったり」なのだった。

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