能力主義をケアでほぐす
竹端寛
晶文社
ここでいう「能力主義」とは、稼げる奴が有能とか、給料が高い人が優秀とか、学力テストで高得点なのが優等生とか、偏差値の高い大学への進学率が高い塾や学校がすばらしいとか、そういうやつだ。特徴としては定量化できて順列が明らかになる、ということだろうか。
本書の著者は大学に勤めている。その世界はご多聞にもれず「能力主義」だった。どれだけ論文を書いて、どれだけジャーナルに載って、どれだけ引用されたか。どれだけ講義や講演に声がかかって、どれだけギャラ単価が上がるか・・
こういう能力主義の世界では、いかに高効率で高生産にまわしていくかというエンジニアリングのセンスが求められる。結果から逆算してプロセスを設計し、演繹的なモデルや帰納法的な経験値を駆使して幾多ものソリューションの手数を持ち、次々と仕事をマネジメントしてコントロールしていく。
そんな職場にいた著者が、子どもが生まれたために長期育休をとることになった。
そして、子育て24時間の毎日に直面した。能力主義の世界の横で見えていなかったもう一つの並行世界を初めて知ったのである。生産的か非生産的かという価値判断では成立しない「ケア」の世界を知ったのである。(あまりにも何度もこの話をするのでよっぽどカルチャーショックだったのであろう。)
本書では、「ケア」とは「ままならぬものに巻き込まれること」と紹介している(提唱者は著者ではなくて別の人のようだ)。この言い方にはとても肌感がある。僕なりにニュアンスを開くと「解決するための一般的理論なんてものはなくてその場その時の個別具象を相手にあーでもないこーでもないと試行錯誤しながらつきあっていくこと」ではないかと思っている。
これは、一方の「能力主義」の世界が、基本的に「ままなる」ものだということに対置している。「ままなる」ということは、「能動的にコントロールやマネジメントをしていくこと」ができるということであり、そこには解決のための一般的理論や模範解答がちゃんとあるということだ。そういうものを武器に最短距離で組み伏せた者が勝ちの世界ということでもある。
しかし育児や看護や介護といった「ケア」の世界は、能力主義社会を逆撫でするようなVUCAに溢れている。企業社員の介護相談に乗っているコンサルタントに聞いた話だが、優秀なビジネスマンだった人ほど、育児や看護や介護の、予定の立てられなさ、想定外の連続、良かれと思ったことの裏目、つまりあまりのままならなさに愕然とするそうだ。ビジネス界で培った持前のソリューション能力を発揮してなんとか組み伏そうとしてそのままノイローゼになったり、無力感に苛まれたりするそうである。
つまり「ケア」とは、「能力主義」のルールを最初から放棄した価値観で臨まなければならない。
しかし、本書は「能力主義」と「ケア」を対峙させているだけでもない。タイトルが「能力主義をケアでほぐす」とあるように、「能力主義」そのものがケアされなきゃならないところに来ちゃってんじゃないの? と問題提起をしている。
本書の著者によれば、資本主義経済社会は必然的に能力主義社会に行き着くとしている。要するに資本主義経済社会とは稼げれば稼ぐほどよいというインセンティブが働く社会であり、能力がある人とは稼げる人のことであり、稼げる人のことを指して能力がある人とみなす。稼げる人を多く輩出できる大学が偏差値の高い大学になっている。
しかしこの能力主義社会でサバイブしていくことは本当にシンドイ。そこには必然的に優劣や勝敗が発生するし、世界システム論のように誰かの稼ぎは誰かの貢献や犠牲でもあることはしばしばだ。また、己れの力に酔って能力主義に没入しちゃっている人も実は危険な疾走状態であって、社会的孤立や健康損失のリスクがある。そんな能力主義に追い立てられて脳みそが回らなくなっちゃうことに警鐘を鳴らしていたのが「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」や「手段からの解放」だ。
とは言っても現実として能力主義で動いている組織や社会は多い。だからこのような世界でスポイルされずにサバイブするには、実は「ケア」されておく必要があるのである。もし、ケアしてくれる人がいないならば、自分で自分をケアする意識を持たなければならない。
誰か他人を「ケア」する場合でも誰かの「ケア」を受ける場合でも、あるいは自分で自分を「ケア」する場合でも、その本質は「ままならぬもの」であるから、コントロールしようとしてはいけない。本書の記述内容を応用すれば、ケアにおいては「具体個別の当事者事情をとにかく大事にし、一般解に流さないこと」「そこで起こっている不調や不遇は何か原因があっておこっているのであり、本人の性格や人間性とは切り離すということ」「自然に解決することはあっても、能動的に解決させていくことはできない、という無力の前提に立つこと」というのがある。答えなんてないんだしまあいつかはどこかに着地するだろう、というネガティブ・ケイパビリティの心構えがないといけないわけだ。能力主義の発想に慣れているともどかしくてしょうがないが、このマインドセットが実は資本主義社会のサバイブで大事なのである。
僕が「ケア」という言葉に初めて注目したのは、聖路加看護大学学長だった故・日野原重明氏の最終講義の話を読んだときだ。医師の治療がサイエンスならば、看護師の看護がケアであると日野原氏は述べた。医療と看護はは異質ながら等価な関係であって、看護師を医師の助手か何かのように下にみるのはとんでもない勘違いなのである。むしろ医師がどうしても手が出せなくなった終末期の患者、つまりサイエンスが答えを出せなかったとき、それでも患者に希望を失わせないのはケアを行う看護の特権なのだ、という話にすごく感動した。
本書になぞらえれば、医者という仕事や医療という行為も「能力主義」の世界である。能力では絶対に及ばない領域というのは必ずあって、そこは「ケア」の出番なのだ。