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読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

能力主義をケアでほぐす

2025年04月19日 | 生き方・育て方・教え方
能力主義をケアでほぐす

竹端寛
晶文社

 ここでいう「能力主義」とは、稼げる奴が有能とか、給料が高い人が優秀とか、学力テストで高得点なのが優等生とか、偏差値の高い大学への進学率が高い塾や学校がすばらしいとか、そういうやつだ。特徴としては定量化できて順列が明らかになる、ということだろうか。

 本書の著者は大学に勤めている。その世界はご多聞にもれず「能力主義」だった。どれだけ論文を書いて、どれだけジャーナルに載って、どれだけ引用されたか。どれだけ講義や講演に声がかかって、どれだけギャラ単価が上がるか・・
 こういう能力主義の世界では、いかに高効率で高生産にまわしていくかというエンジニアリングのセンスが求められる。結果から逆算してプロセスを設計し、演繹的なモデルや帰納法的な経験値を駆使して幾多ものソリューションの手数を持ち、次々と仕事をマネジメントしてコントロールしていく。

 そんな職場にいた著者が、子どもが生まれたために長期育休をとることになった。
 そして、子育て24時間の毎日に直面した。能力主義の世界の横で見えていなかったもう一つの並行世界を初めて知ったのである。生産的か非生産的かという価値判断では成立しない「ケア」の世界を知ったのである。(あまりにも何度もこの話をするのでよっぽどカルチャーショックだったのであろう。)

 本書では、「ケア」とは「ままならぬものに巻き込まれること」と紹介している(提唱者は著者ではなくて別の人のようだ)。この言い方にはとても肌感がある。僕なりにニュアンスを開くと「解決するための一般的理論なんてものはなくてその場その時の個別具象を相手にあーでもないこーでもないと試行錯誤しながらつきあっていくこと」ではないかと思っている。
 これは、一方の「能力主義」の世界が、基本的に「ままなる」ものだということに対置している。「ままなる」ということは、「能動的にコントロールやマネジメントをしていくこと」ができるということであり、そこには解決のための一般的理論や模範解答がちゃんとあるということだ。そういうものを武器に最短距離で組み伏せた者が勝ちの世界ということでもある。

 しかし育児や看護や介護といった「ケア」の世界は、能力主義社会を逆撫でするようなVUCAに溢れている。企業社員の介護相談に乗っているコンサルタントに聞いた話だが、優秀なビジネスマンだった人ほど、育児や看護や介護の、予定の立てられなさ、想定外の連続、良かれと思ったことの裏目、つまりあまりのままならなさに愕然とするそうだ。ビジネス界で培った持前のソリューション能力を発揮してなんとか組み伏そうとしてそのままノイローゼになったり、無力感に苛まれたりするそうである。
 つまり「ケア」とは、「能力主義」のルールを最初から放棄した価値観で臨まなければならない。


 しかし、本書は「能力主義」と「ケア」を対峙させているだけでもない。タイトルが「能力主義をケアでほぐす」とあるように、「能力主義」そのものがケアされなきゃならないところに来ちゃってんじゃないの? と問題提起をしている。

 本書の著者によれば、資本主義経済社会は必然的に能力主義社会に行き着くとしている。要するに資本主義経済社会とは稼げれば稼ぐほどよいというインセンティブが働く社会であり、能力がある人とは稼げる人のことであり、稼げる人のことを指して能力がある人とみなす。稼げる人を多く輩出できる大学が偏差値の高い大学になっている。
 しかしこの能力主義社会でサバイブしていくことは本当にシンドイ。そこには必然的に優劣や勝敗が発生するし、世界システム論のように誰かの稼ぎは誰かの貢献や犠牲でもあることはしばしばだ。また、己れの力に酔って能力主義に没入しちゃっている人も実は危険な疾走状態であって、社会的孤立や健康損失のリスクがある。そんな能力主義に追い立てられて脳みそが回らなくなっちゃうことに警鐘を鳴らしていたのが「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」や「手段からの解放」だ。

 とは言っても現実として能力主義で動いている組織や社会は多い。だからこのような世界でスポイルされずにサバイブするには、実は「ケア」されておく必要があるのである。もし、ケアしてくれる人がいないならば、自分で自分をケアする意識を持たなければならない。
 誰か他人を「ケア」する場合でも誰かの「ケア」を受ける場合でも、あるいは自分で自分を「ケア」する場合でも、その本質は「ままならぬもの」であるから、コントロールしようとしてはいけない。本書の記述内容を応用すれば、ケアにおいては「具体個別の当事者事情をとにかく大事にし、一般解に流さないこと」「そこで起こっている不調や不遇は何か原因があっておこっているのであり、本人の性格や人間性とは切り離すということ」「自然に解決することはあっても、能動的に解決させていくことはできない、という無力の前提に立つこと」というのがある。答えなんてないんだしまあいつかはどこかに着地するだろう、というネガティブ・ケイパビリティの心構えがないといけないわけだ。能力主義の発想に慣れているともどかしくてしょうがないが、このマインドセットが実は資本主義社会のサバイブで大事なのである。


 僕が「ケア」という言葉に初めて注目したのは、聖路加看護大学学長だった故・日野原重明氏の最終講義の話を読んだときだ。医師の治療がサイエンスならば、看護師の看護がケアであると日野原氏は述べた。医療と看護はは異質ながら等価な関係であって、看護師を医師の助手か何かのように下にみるのはとんでもない勘違いなのである。むしろ医師がどうしても手が出せなくなった終末期の患者、つまりサイエンスが答えを出せなかったとき、それでも患者に希望を失わせないのはケアを行う看護の特権なのだ、という話にすごく感動した。
 本書になぞらえれば、医者という仕事や医療という行為も「能力主義」の世界である。能力では絶対に及ばない領域というのは必ずあって、そこは「ケア」の出番なのだ。


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海賊の日常生活 船上生活、戦闘術、ロールモデルまでの実践非公式マニュアル

2025年04月10日 | 歴史・考古学
海賊の日常生活 船上生活、戦闘術、ロールモデルまでの実践非公式マニュアル

著:スティーブン・ターンブル 訳:元村まゆ
原書房


 ここでは本書を全面的に信用することにして以下記述する。まぎれもない珍本奇本である。まだ本書を未読で興味を持たれた方のために言いたくてうずうずするいくつかの要素を避けながら以下記述していく。

 本書の著者は表題にあるスティーブン・ターンブルではない。彼は現代の編集者である。本職は大学教授のようだ。では本書を記したのは誰か。その正体は18世紀の海賊、どうやら船長をやったこともあるらしいその名もX(エックス)である。この手記は、海賊業を引退してロンドンに隠遁していたXの自宅で発見されたものだ。うわー怪しい! と思うだろう。しかし本書を編集者したスティーブン・ターンブルによると、この底本は大英博物館に所蔵された後、少部数の刊行がされたという。そのひとつがケンブリッジ大学図書館で発見され、それを底本に図版などを含めて編集したのが本書である。つまり、元・海賊キャプテンが記した海賊の経験談なのだ。

 パイレーツオブカリビアン、ワンピース、黒ひげ危機一髪、ピーターパンのフック船長など、我々が描く海賊イメージは、17ー18世紀にカリブ海を荒らしまわった連中だ。本質的には、善良な商船を襲うならず者の反社組織みたいな存在のはずだが、こうやってキャラクターやコンテンツとして愛されるということは現代人は海賊が好きなのである。大海と財宝への夢とロマンがそうさせるのだろうか。
 現代の我々が想像する海賊--縞模様のシャツをきて頭にバンダナを巻いて眼帯をした船員、赤いマントに黒ひげで、カトラスという特徴的な刀を持った船長、相棒のオウムといったステレオタイプは、本書を読むと本当にそうだったのだというのがわかる。あのひらひらした服装や銃や刀の武器は船内活動や戦闘時においてきわめて実用的だったのである。隻眼や義肢が多いのはそれだけ船上生活が過酷だったということでもある。

 一方で、現代の我々のイメージからすると異なる部分もある。それは当時の海賊というのは、一艘のドクロ船なんてちゃちいものではなく、ずっとずっと大規模な船団だったり、合従連衡のグループ組織だったということである。数千人単位で組織化され、海上だけでなく、海岸の港や都市を占領することも珍しくなかった。
 また、海賊というと、荒くれの無法者という印象があるが、その組織はかなり規則と階層の上で成り立っていた。さらに船長は選挙や他薦で選ばれることも多かったようで、船長には人望と人徳が求められた。冷静に考えると、変幻自在の大海原を舞台に数百人から数千人が動く海賊という組織をしっかり運営するためには、かなりしっかりした規則と秩序が必要だったはずである。

 そもそも、通行する商船を襲って金銀財宝を奪う強盗団、というところがあまりにも矮小な見立てなのである。当時は、現代とは倫理観も国家観も違う。公海上の所有権や支配権がどこに所属するかというのもひどくあいまいであるから、大海の中の商船が海賊に金品を奪われたとて、これが何の法律に抵触するかもあいまいだった。大船団の海賊はいわば独立した海上の自治国家みたいなものであり、大陸国から傭兵のような契約があった存在でもあった(国に雇われた海賊を私掠船というそうだ)。当時の大西洋は、スペインとイギリス、のちに独立後まもないアメリカが覇権を争っていたから、海賊行為はこれら宗主国の安全保障としての行為や代理戦争のようなところもあったようだ。商船の立場からしても大海を航海する上で海賊に遭うのは嵐に見舞われるのと同じ想定リスクとして、武装したり護衛がついたり、あるいは母国と結託して海賊狩りに打って出たりしたのだ。
 また、海賊になる人間というのは、一攫千金を夢見たロマンチスト野郎というわけではなく、やはり母国での貧困や戦争などで海賊業にならなければ生活が成り立たない人であったようだ。このあたりは現代の海賊も同様の事情がある。海賊と商船は、17-18世紀の海運経済時代において生存競争をしていたと言える。したがって海賊という商売、というか人生はその実かなり過酷であり、戦闘や遭難で命を落とす海賊はたいへん多かったそうだ。もちろんお尋ね者だから捕まれば絞首刑だし、海賊というコミュニティはその性質からいって仲間割れやクーデターといった内紛にも見舞われやすかった。

 元・海賊のキャプテンでもあったXはかなり博学で古今東西の海賊やエピソードに通じている。西洋の海賊だけではなく、東シナ海や南シナ海で暴れまわった倭寇についてもよく知っている。そんな彼によると本当に強くて怖いのはカリブ海の海賊ではなく、倭寇であったという。倭寇というと日本史の教科書にしか出てこない印象があるが、16世紀ごろに東シナ海や南シナ海の海上や沿岸で大暴れした日本人・朝鮮人・中国人の自治的な大船団だ。この頃の東アジアの国々は海禁策や強い統制策を敷いていたところも多かったから、この地域の海上経済循環の一端を担っていたのは彼ら倭寇だった。単なる略奪・暴力行為だけではなく、密貿易や私貿易をも手掛けていたわけで、強行的な貿易商社だったとも言えるわけだが、彼らの活躍や暗躍がカリブの海賊にまで聞き及んでいたというのは大変に興味深いことである。
 もっとも、著者のXは18世紀の人物だから、倭寇と直接であったことはないはずである。海賊譚として耳にしたということだろう。18世紀の日本は江戸時代で鎖国をしている。長崎の出島に出入りしているオランダや清の商人からの情報筋だろうか。編集者であるスティーブン・ターンブルは、X自身が出島とのネットワークを持っている人間だったのではないかと推測している。

 この手記を書いたXが誰だったのかはけっきょく特定できていないらしい。これだけの情報ネットワークと博識の持ち主であるから、当時の名高い海賊キャプテンの誰かだと思われる。この手記には海賊キッド、モーガン船長、黒ひげ、村上水族など、古今東西の名海賊が列伝のように紹介されているが、ひょっとするとこの中のどれか本人なのかもしれない。繰り返すが、ここでは本書を全面的に信用して記述してある。

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異文化理解力 相手と自分の真意がわかる ビジネスパーソン必須の教養

2025年03月31日 | 民俗学・文化人類学・比較文化
異文化理解力 相手と自分の真意がわかる ビジネスパーソン必須の教養
エリン・メイヤー 訳:樋口武志 
英知出版

 この本は、刊行当時に一度このブログで取り上げている。したがって二度目の投稿ということになる。

 先日「論理的思考とは何か」を読んでみて内容に類似性を感じたので、改めてもう一度読みたくなったのである。この本はサブタイトルがやや扇情的なビジネス本を装っていてチープな感じがあるが、実はけっこうよくできているというかいろいろ目ウロコ腹落ちの本なのである。
 「論理的思考とは何か」では、アメリカ・フランス・イラン・日本における学校での作文指導から、その国ならではの「論理的思考」というものを各国比較しつつ分析していた。そこにはアメリカ的経済合理性、フランス的哲学の逡巡、イラン的アラーの思し召し、日本的道徳主義があって、これらが各国の「論理的思考」のベースとなっていた。

 本書「異文化理解力」はビジネスシーンに注目した各国のそれぞれの傾向と対策だ。グローバルビジネスが盛んな今日において、取引相手だったり社内のグループ内が多国籍になることはさほど珍しくはない。しかし、そうなってくると自国のやり方がいつも通用するとは限らない。ビジネスシーンにおける判断や解釈において、国ごとの違いがある。オランダ人としてよかれと思ってやったことがアメリカ人の相手には侮辱として受け止められたれたり、中国人が非常に気を使ってきたことが実はフランス人の相手になんの意味もないものだったり。 
 それらのビジネスコミュニケーションのすれ違いには、おおもとに国ごとの文化がある。その意味では「異文化理解力」と「論理的思考とは何か」は根拠を同一するものだと言ってよい。

 本書を読んでまずびっくりし、そしてやはりそうだったのかと思うのは、日本という国は諸外国の中でもかなりエキセントリックなのだということだ。会議での意思決定の仕方も、仕事のフィードバックを部下にするときでも、アポの時間の約束の守り方にしても、日本人が「これが良いやり方」と信じてやっていることは諸外国の中でもそうとう「程度」が振り切れている。たとえば会議で誰かが発言した際に、その反論がどのくらい活発に出るかという点でみると、オランダやフランスはかなり活発に反論が上がる。それよりはイギリスやアメリカのほうが大人しい。しかしもっと大人しいのは中国や韓国である。ただし、中国では司会進行役とか上役の人がその人に発言を促せば反論を言うことはやぶさかではない。インドもそうである。で、著者の見立てでは日本がもっとも反論が出ない。そして誰かが彼に発言を促しても、日本人は「その場で求められた発言をする」というのである。つまり予定調和なのである。
  我々の肌感覚からすれば、中国やインドのほうがエキセントリックに思えてしまうかもしれないが、さにあらず。本書のカルチャーマップによれば、かなりの項目において日本はほぼ最右翼ないし最左翼に位置づけられる。
  言葉で説明するより、グラフを見るのが一目瞭然なので、ここで「異文化理解力 カルチャーマップ 」のGoogle画像検索の結果をリンクしてみる。

 我々の先入観や偏見も手伝えば、中国やインドが日本よりもグローバルビジネスのマナーにおいて中庸に近いところにあるのは意外だが、これは2つ仮説が考えらえる。
  ひとつはグローバルビジネスに携わっている中国人やインド人は、言わば選抜されたエリート人材なので、同国の平均水準よりもずっとグローバルで渡り合うための教育と教養を身につけて洗練されているからという仮説。反対に言えば、日本のビジネスマンはグローバルでの立ち振る舞いについてナーチャリングが未熟な人でも、どんどん現場に放り込まれているということなのかもしれない。
  もうひとつの仮説は、グローバルビジネスチャンスがやはり日本よりもインドや中国のほうに多く訪れているのだ、ということである。現場機会が増えればそのぶんビジネスの実践知はついてくるだろう。グローバル各地に支店やスタッフを展開するような大資本企業は、やはり日本よりもインドや中国に投資するのだ(※この本の刊行は2015年である)。 

 どちらにせよ、ビジネスシーンにおいて日本の立ち振る舞いは辺境のそれなのだな(少なくともそう扱われちゃっているのは事実なんだな)ということは知っておいたほうがよさそうだ。敵を知り己を知れば百戦危うからず。
 もっとも、誤解してはいけないのはどちらかが優れていてどちらかが劣っている、というわけではないことである。日本のグローバルでのビジネスマナーは確かにエキセントリックだが、それが悪いというわけではない。そのことを踏まえた上でコミュニケーションをチューニングすればよい。相手も何国人であれ、日本とビジネスをしたいのならばそこは斟酌してくれるだろう。

 僕自身はあいもかわらずのまったくドメスティックであって、日本資本の会社に勤め、部下も全員日本人で、クライアントも日本の会社である。なので本書で得た知見を活用してグローバルバリバリでやるようなことはないのであるが、とはいえ本書の情報を文化人類学的にとらえれば、わが身のチューニングとしてたいへん役に立つ。

 たとえば、本書を読んでの最大の収穫は「大文字の決断・小文字の決断」というものであった。   「大文字の決断」というのは、決断をするまでに議論や検討で十分に時間がかかり、そして一度決断されたものはもう覆らない。というものである。「決断」とは重たいものなのだ。北欧やドイツやオランダといった北海に面したヨーロッパ国にこれは顕著だそうだ。
  一方で「小文字の決断」というのは充分な検討時間をとらずにどんどん決断してしまう。しかし、決断された内容はその後も簡単に覆ったり変更したりされる、というものだ、アメリカがその代表だがロシアや中国はアメリカ以上にその傾向が強いそうである。トランプ大統領とかプーチン大統領があんなにスパスパと大事なことを(しかもツッコミどころありまくりなのに)発表しちゃって大丈夫なのか、とか思っちゃうが彼らはその後に決断を変更することになんのためらいもないらしい。なんだか無責任だなあと思いたくなるが、この「小文字の決断」派の国々の言い分は、事態は時々刻々と変化していくのであり、決断のために延々と検討している間に、議論の前提自体が変化していって、ようやく決断したときはもうまったく違う状況になっちゃっていることはよくあるし、しかもその決断内容は変えられない、なんてのは馬鹿げているということなのである。だから、アメリカやロシアや中国の人は、えらい人が何か決断しても、どうせまたすぐ変わるよ、というところまでが織り込み済みになっている。ただどんどん決断して実行面に移していかないと話が先に進まないから「小文字の決断」でいいのだ。 

 「大文字の決断」がドイツやオランダなど北海に面した国に多いと書いたが、実はもっとも「大文字の決断」文化を持っている国は、著者の見立てだと日本だそうである(ここでもエキセントリックなのだ)。日本は、決断までに非常に長い時間を要し、そして一度決まった決断はもう覆らない、というところが特徴的なのだそうだ。リニア新幹線を含む全国整備新幹線計画とか見ていると本当にそうだなあと思うけれど、どこかに「一度決断した内容をひっくり返すのは美しくない」という美意識を持っているのは確かだ。朝令暮改という慣用句だってある。

  僕も立場上、何かの決断を迫られることがあって、うんうん考えてあーでもないこーでもないと逡巡したあげく、ようやくえいやと決めてしまうことがある。そして決めてしまったものはもう後戻りできない、と思ってしまう。
 が、本書を読んで、それは狭視野的であったことを知ったのである。どんどん即決で決断して、そして新しい情報が加わったり、状況が変われば、また新たな決断をしていけばいいのである。これは僕にとってはなはだ精神衛生的に良い効果を生んだ。

 また、この人はずいぶん無礼な物言いするなとか、あの人はずいぶん慎重だなと思うことがあっても、それが彼の人徳や品位とは関係がないのだということも本書で学べたことである。わざと無礼なのではなく、彼はフレンドリーさを示したかったのかもしれない。慎重なのは、ていねいさを大事にしていたからかもしれない。もし彼がこのやり方で、少なくとも今までのビジネス人生でなんの破綻も支障もなくやってこれたのだとすれば、それではそれでひとつのやり方だったのであり、彼からみれば僕はむしろよそよそしくて、しかも拙速な人に思われた可能性もあるということだ。
 本書を読んで、違う流儀の人がやってきても、ああこの人はこういう文化の人なんだなと一拍置けるようになったのは大きな収穫である。


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毎日読みます

2025年03月25日 | 言語・文学論・作家論・読書論
毎日読みます

ファン・ボルム 訳:牧野美加
集英社


 著者は韓国の人。40代の女性である。2024年の本屋大賞翻訳部門を「ようこそ、ヒュナム洞書店へ」で受賞している。

 著者は本好きである。猛烈な学歴競争&就活競争を勝ち抜いて大手IT企業に就職したにもかかわらず、ハードワークな日々に見切りをつけて会社を辞めてしまい、本にまつわるエッセイや小説の文筆生活をしている。このあたりの事情は「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」の三宅香帆氏と同様の事情を感じさせる。

 著者のそのような背景から察するに、彼女の人生はなかなかにストレスフルで、内向的というか多感ゆえに苛まされることの多かった日々だったのではないかと思う。本書は読書にまつわるエッセイだけど、本があるから人生の荒波を切り抜けることができた、という思いが溢れている。
 世間の渦に巻き込まれないために本を読む。狭い視野に惑わされないために本を読む。登場人物とともに悲しみ、著者とともに喜ぶことで、冷めきった現実世界に心をほだされずに済むようにする。いろいろなテーマを浅く広く読み、とあるテーマを深く狭く読む(深く掘るにはまずは広く掘らなければならない)。読んだ本に私的なグレードをつける。トップグレードは人生の教科書となる。本まるごとから総じて感銘を受けることもあれば、衝撃的な一文に魂を揺さぶられることもあるが、それを記憶し、大事なところはメモに記録し、人生のお供にする。
 御多分に漏れず、ここでもスマホが邪魔をして一時期よりも本への集中が難しくなったことが告白されている。でも1冊読み切った時は代えがたい達成感があるから、がんばって読もうとする。

 「おまえは本に何を求めているのか?」の彼女の答えはこうである。

 本を読んで強くなりたい。より揺らがない、よりどっしりとした人間になりたい。傲慢でもなく、無邪気でもない人間になりたい。自分の感情に率直でありながらも、感情に振り回されないようになりたい。大げさに言えば知恵を得たい。日常生活では賢明になりたい。世の中を理解し、人間のことがわかるようになりたい。

 要するに、本を読むことで世の中がどうなろうと、自分のまわりに何があろうとぶれずに生きていけるレジリエンスみたいなものを求めている。リベラル・アーツすなわち自分を自由にするためのものという思想とも近い。自分を変えるために本を読むのではなく、世の中が変わっても自分を見失わない体力と知力をつけるための読書なのだ。

 実に、実にわかりみが深い。ここに書かれていることはおおむね僕もそうなのだ。国籍も性別も世代も違うのに、そして本書で紹介されている本を見るに僕が読んできたものとは毛色がいささか違うのだけれど、でも、本に対しての気持ちは実に一緒なのである。
 ということは、多くの本読みにとって、本書はたいへん共感できる内容なのであろう。翻訳者の解説によれば本書は本を読まない人への読書いざない本みたいな触れ込みのようではあるけれど、それだけでなく、読書は好きだったけどいささかマンネリ気味だったり、スマホの浸食に抗えなくなった人にとって、あらためて目を開かせてくれるものであった。

 思うに、こういう本の読み方をする人は、速読とか合理的な読書法としておススメされている飛ばし読み、要点読みがなかなかできないだろうという気がする(僕がそうなのである)。どこにどんなお宝が潜んでいるからかわからないからだ。いい一文に邂逅できたら、元は取れたくらいの勢いで、今日も本を読んでいるのである。


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セガ式 基礎線形代数講座

2025年03月19日 | 数学・統計学
セガ式 基礎線形代数講座

山中勇毅
日本評論社


 もう1冊数学。こちらはもう完全にネタであって、もちろん完読なんぞしていない。タイトルに釣られて買ってしまったのである(爆)。

 僕は文系なので、高校卒業以来はろくに数学も数式も縁がなかったのだが、大学生の講義カリキュラムでコンピュータグラフィックの原理みたいなものをC言語を使って書く機会があった。もちろんマニュアルもアンチョコも用意されていて、それと首っ引きで数式や数字を打ち込むだけなのだが、ポチポチと書いていったC言語のプログラムをいざ実行させると、ディスプレイ上に黒いウィンドウが開いてそこにドット絵が描画されるのが面白かった。
 そのときにプログラムに打ち込んでいたのが、実は行列や三角関数なのだった。
 まずは、モノリスみたいな物体をディスプレイ上に描く。これはモノリスを二次元ディスプレーで描くのにドットに色をつけて座標軸上に配置する、ということを意味する。それから光源の位置を決める。光源に向いている側は明るくなるし、光源から回り込む面は色が暗くなる。その色合いのグラデーションを計算するにはドットの位置と光源の位置の座標を使う。そして今度はそのモノリスを45度回転するとか、光源とモノリスの間にもう一つ球体を描くとか、球体にモノリスの影を投射するとか、オプションをひとつずつ増やすたびに、実は行列と三角関数でドットの位置と色を再計算していくのである。
 計算そのものはコンピュータがやってくれるのだが、自分が書いたプログラムのロジックが正しいかどうかは描画されるまでわからない。何かが間違っていると、その部分だけ色が出ずに真っ黒になったり、色はついてもグラデーションにならずにのっぺりになったりした。
 なるほどCGというのはこういう原理なのだなということを学んだ貴重な体験であった。1990年代の話である。

 現在、当たり前に目にするCGは、アニメでもゲームでも映画でももはやお馴染みすぎて、後ろで動いているはずの驚異的な計算のことは忘れがちだ。昔のアニメは、背景が固定されていて人物だけがセル画の上に手書きされ、それがパラパラ漫画の要領で動いていた(いわゆるセルアニメ)。しかし背景をCGで描けるようになると、これまでは禁じ手だった「背景を動かす」ことができるようになった。聞くところによると、1991年のディズニーアニメ映画「美女と野獣」の舞踏会のシーン、メジャーな商業映画ではあれが本格的にCGで背景が動いた最初の例だそうである。「美女と野獣」もそのシーンまでは通常のアニメと同様に、背景は固定されていて人物だけが動くセルアニメーションだったが、この舞踏会の場面になると、ベルと野獣が手を取り合って画面の中央に位置し、舞踏会会場となる大広間の背景が回転する。屈指の名シーンだ。
 先ごろ地上波で再放送されたのを観ていた。

 幾何面の座標や行列の回転や三角関数がわんさかでてくる本書を眺めながらひたすら思い出したのはアニメ版「美女と野獣」の舞踏会のシーンだった。アラン・メンケンの名曲に乗せてダイナミックに回転する黄金のアーチやカーテンには、ひとつひとつのドットに対して行列と三角関数の猛烈な計算が行われていたんだよなーと変なところに感慨した。


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数学思考のエッセンス 実装するための12講

2025年03月17日 | 数学・統計学
数学思考のエッセンス 実装するための12講

オリヴァー・ジョンソン 訳:水谷淳
みすず書房

 たまに数学や統計学の本を読む。もちろん入門編くらいのものばかりだ。専門知を学ぶというよりは世の中のとらえ方の一流儀をいちおう知っておくというくらいのつもりなのだが、それでも難解であることが多い。
 難解に思うのは、長ったらしい数式が出るとか馴染みのないギリシャ文字がいっぱい並ぶということではなく(いや、それももちろん難解さの一因なのだが)、その数学なり統計学が表さんとしている内容が、直観に反していたり人間の認知能力を超えるようなこととしてちょいちょい出てくるからだ。「偽陽性の罠」とか「1001日目の七面鳥」とか「蓮の花の増え方」とか、直観を超える数学的思考はたくさんある。

 しかし、この人間の直観や認知能力を超えることこそがまさに重要かつ教訓なのであって、人間の認知能力というのはしばしば正確性に乏しかったりバイアスで歪んでいたりするのである。したがって、世の中の現象や状況をちゃんと把握しようとする場合は、数学や統計学のセンスで物事を見る必要がある。これを怠るばっかりに、リスクしかないギャンブルに手を出したり、検討に値しない脅威に慄いたり、強引な結論誘導のための折れ線グラフに言いくるめられたりする。

 「環世界」という言葉がある。我々はしょせん自分が認知認識している世界の中で完結して生きているという世界観の仮説だ。井戸の中の蛙は言うに及ばず、水の中で一生を過ごす魚が水面より上の世界を認識しないのと同様に、人は認知している世界の中で生きていて、それがその人間にとって「この世の中だ」と思う。そのように脳みそは作動する。フィルターバブルやチェンバーエコーの中にいるのに世論の大筋はこうなんだろうと決めつけてしまうのも同様である。環世界では情勢を見極めるのも次の一手を決める判断材料もすべて自分の認知・認識している世界の情報で行う。

 しかし、自然現象や社会現象の中には、どういうわけか人間の直観や認識をあざ笑うようなものがある。

 リーマンショックのときは、100年に1回起こるか起こらないかの滅多に無いはずのことが起こったとされたが、冷静に統計を計算すると30年に1度くらいは起こっても不思議ではないことが判明した。東日本大震災の福島原発事故は1000年に一度の想定外と言われていたが、「1000年に1度」は、残りの999年は必ず来ないことを意味しないにも関わらず、その安全対策は反故にされた。
 本書はコロナのパンデミックが世界中で吹き荒れたときに執筆されており、この時期はウィルスの感染拡大予測、PCR検査の精度や陽性者の出現率、死亡者の推移の分析、はては行政施策と流行の相関(女性が首相のところは感染が抑えられている、なんてのも)みたいなことまでいろいろ狂騒的に言われていた。多くの予測や見立ては現実を前に翻弄されたわけだが、あれから数年たって今となっては、あの狂騒の心理状態はやむなきものだという気もする。

 つまり、人間の肌感的な認知能力はあてにならないのだが、そこを、直観とは反するんだけどでも計算の上ではやっぱりこうなんだよなあというものを教えてくれるのが数学や統計学だ。
 つまり、数学とか統計学のセンスは、専門的にそれを駆使する能力は無くてもかまわないが、自分がそれに騙されたり流されたりしないようにするくらいの防御力のためにも持っていたほうがよい。

 本書を読むと、とくに人間の感知が苦手なものは、
 ・ランダム
 ・指数増減(対数増減)
 ・ベイズの定理
 のようである。ランダムな現象に対して、人はついついストーリーや説明をあてはめようとしする。1,2,4,8,16と指数的に増加するものを、1,2,3,4と等差で単調に増加するものののようにイメージする。一部の条件を満たしている者のみで現れている現象を全人類のものだと思ったりする。

 反対に言えば、
 ・これはただのランダムなのではないか?
 ・これはこのあと指数的に増加、あるいは指数的に減少するものなのではないか?
 ・これはある条件の中だけで適用する状態なのではないか?
 という疑いの目線を常に持っておくだけで、自分が持っている環世界はずいぶんに広がるということである。これらは経験と直観に逆らうので脳みその汗をかくこと必至だが、経験則に溺れすぎないことは大事なことだ。
 「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という格言があるが、ここで言う歴史とは法則性であり因果律であるとすれば、歴史とはまさに数学なのであり、愚者は経験に学び、賢者は数学に学ぶ、ということも言えそうだ。


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論理的思考とは何か

2025年03月12日 | 哲学・宗教・思想
論理的思考とは何か

渡邊雅子
中公新書


 「まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書 」を薦めてくれた会社の後輩のGくんが、これも関連して面白いっすよ、と言ったのがこの「論理的思考とは何か」だった。その後、この「論理的思考は何か」は、書評や書店の面陳コーナーに「売れてる新書」として取り上げられるのを見るようになった。まったくGくんの目利きはすばらしい。

 本書は、論理的思考なるものが、実はそのコミュニティが属する歴史や文化によって全く異なるのだ、ということを看破した本である。つまり、アメリカとフランスとイランと日本ではなにをもって「それは論理的」と見なすが異なる、というのだ。
 これを聞いて思い出すのは、エリン・メイヤーの「異文化理解力 」だ。物事の意思決定や、会議の進行、他人への配慮の仕方が各国で異なり、フランスでは最も通用するプロセスが、アメリカでは全然響かず、アメリカの決断方法は、ドイツではまったく相手にされない、ということを「異文化理解力」では事例や調査結果をもとに分析していて大変に興味深かった。また、その本では日本のありようは何につけ実はかなり特殊なのだ(アラブよりも中国よりも)ということを本書で知った。

 こちら「論理的思考とは何か」も同様の類書であるが、そういった各国の意思決定や意思疎通の相違を、学校の作文指導の違いから掘り起こしたというところが面白い。学校の作文指導こそは、その国のありたき思考回路を鍛錬するものであるはずであり、すなわちその国にとっての論理的思考とは何かを示す格好の素材であるからだ。

 確かにスヌーピーの漫画などではチャーリーブラウンやペパミントパティが作文と発表に悪戦苦闘するネタをよく見る。Show & Tellといって、リサーチとエッセーとプレゼンテーションで1セットになっており、アメリカではこれを子供のころから訓練するのだ。本書によればここにアメリカ特有の「結論を先にいってその理由を3つ述べる」最短時間の論理思考タイプを育てる因子があるという。TED型プレゼンテーションもこの延長上にある。

 本書でも再三述べているが、このアメリカ型のスタイルが、いまロジカルシンキングとかプレゼンテーションハックとか言って盛んに日本のビジネス界に導入されている。この話法は「これがわからないなんてあんたバカじゃないの?」という変な威力を聞き手ないし読み手にせまるのは確かで、これをもって「論理的思考」とついつい身構えてしまうことが多いのだが、もちろんこの「アメリカ型」はそんなに完全無欠なわけではない。帰納法で結論を得ているように装いながら、実は言いたいことが先にあってその根拠となるものを後から持ってきていることが多いので油断がならないのである。

 よくよく考えれば 「初めに結論を持ってきて、その根拠を3つ書く」で済んでしまう主張というのは、その話者が全知全能であることが前提となる。リサーチが完璧であり、解釈が完璧であることが大事だ。
 しかし何事もそうだが完璧なんてものはそうなかなか無いものだ。その3つの理由が十分に吟味されて本当に妥当なのかかどうか、実はその結論を支持できない理由も7つくらいあるのだがそれは開示されなかったりするのがこのスタイルである。
 その意味では、このアメリカ型スタイルは聞き手側が簡単には説得されない批判精神が必要となる。聞き手は初めに提示された結論を支持できない理由を急ぎ考えなければならない。そして、聞き手として見抜かなければならないのは、主張内容がbelieveかどうかというより、この話者はtrustであるかどうか、なのである。

 なお、アメリカの議論というとしばしば引き合いに出されるのがディベートだ。話者が主張Aとして結論をまず話し、その根拠を3つ述べる。それに対し、その主張はそもそもおかしい、あるいはその根拠は間違っているといって反論Bを出す。
 そうやって出た反論Bと、もともとの主張Aの妥当性を双方で出し合って、最後は審査員がどっちかを勝ちとして採用するわけだが、日本人はこれが苦手であることは本書だけでなく、よく言われることである。
 仮に、聞き手側の反論Bのほうが勝ったとして。ではBが正解、Aは全部捨てる! というのがゼロサム社会なわけだが、本当に現実の世の中はそんな単純なものか? とは誰しもが思う。Aの中にもいくばくかの真理はあったのではないか、とか、AでもBでもないCもあったんじゃないのか、と本能的な危惧が芽生えてくる。日本人がディベートが苦手というのは、戦うのが不慣れとか自分の意見が否定されることの人格否定感とかいろいろ言われているが、ひとつが正解、他はみんな間違い、という思考フレームそのものの違和感がぬぐえないことにあるのではないかという気がしている。こういった思考のクセを「森林の思考・砂漠の思考 」という形で整理するむきもある。


 そこへいくと、本書ではフランスの論理技法としてとりあげられている「弁証法」は、むしろ日本人好みではないかと思う。アウフヘーベンとか止揚とか呼ばれる思考フレームだが、Aという主張があってBという主張があってどちらもそれぞれの理屈で成立するのだとすると、両方を成り立たせるCがあるのではないかと探っていく熟慮の態度だ。これは短時間でシンプルな理屈で決められた事項はなにか決定的な欠陥が見逃されているはずだという蓋然性をふまえた人間の知恵である。ユダヤ人 の、全員一致した意見は棄却する(都市伝説とも言われているが)も同様だろう。「森林の思考」型の日本としては、むしろこの西洋哲学が生んだ弁証法のほうが、アメリカ型プレゼンテーションスタイルよりも、本当はしっくりくるのではないかと思う。

 ただ、興味深いことに、主張Aと反論Bがあったときに、弁証法では両方が成立するCを「アウフヘーベン」、つまり「高次の段階で統一」する、という上向きの志向性があるのに対し、日本だと「落としどころ」とか「妥協点」といった変に下向きの文脈で語られる傾向があるのはなぜだろう。言葉遊びのようだが、ヘーゲルが「高みへの超越」を込めたこの思考が、日本だと「落としどころ」という思考回路になることは何か無視できないものがあるような気がする。
 「弁証法」は、主張Aも反論Bもぜんぶ包含するCを探し当てるのだが、「落としどころ」はAとBの共通の利害の一致点を探し当てて、そうじゃないところは双方我慢する、というニュアンスがある。現実的には弁証法だって完全にABを抱合することは難しくてAもBも叶わぬ部分が生じることは多いと思うのだが、Cとは高みにある到達すべきところという見立てに、この思考法の価値に自信がある、ということだろう。「落としどころ」もやむなき妥協ではなく、よくぞこれを見つけた! という到達の感慨にもっと自信をもっていいのではないかと思う。
 

 ところで。本書にはそれぞれの国の論理的思考として、アメリカ型の結論から言うと思考、フランス型の弁証法思考、日本型の読書感想文的自己成長思考、イランのすべては神の摂理に従っている思考、が紹介されていて、本書の結論としては「論理とハサミは使いよう」なのだが、いずれにしてもそれぞれ論理を組み立てるにあたって、理由や事例を3つ用意することが各国の作文では指導されている。本書では特に指摘はないが、この「3」こそは国や文化を超えた論理のマジックナンバー であることは興味深い。


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個性を活かすリーダーのコミュニケーション・社会という「戦場」では意識低い系が生き残る・うちの父が運転をやめません・クララとお日さま•他

2025年02月27日 | 複数覚え書き
ちょっとここのところ公私ともにスランプ気味であり、なにか脱出の糸口探していろいろ読んでいた。下記にあげるのは、最近読んだものの整理がつかず、あるいは文章が伸びなかったものの複数覚書である。


行動傾向分析で磨く 個性を活かすリーダーのコミュニケーション
余語まりあ
同文館出版

「聞き手側が会話の主導権を握っている」というこの一文を得たことが最大の収穫だった。会議や1on1でやたらに話す人がいるが、その場の主導権をとっているようで実はとられやすいふるまいなのである。1on1指南本やリーダーシップ本では「傾聴」が薦められているが、ただ話を聴いているだけではなくて実は相手に話させながら全体の誘導はこちらがコントロールするのだ、となった瞬間に権謀術数本になる。「鬼谷子」とかそうだな。


社会という「戦場」では意識低い系が生き残る
ぱやぱやくん
朝日新聞出版

本書のテイストは、大学を卒業して社会に出たらいろいろ面食らったり疲れちゃったりした20代むけか、といったところだが「社会で起こるたいていのことは「茶番」である」という指摘は本当にそうだと思う。会社の上司や役員、取引先からカスタマーまで言っていることのほとんどはポジショントークなのであって、その閉ざされたコミュニティの中でだけで通用する理屈でしかない。こういう本の出版元が朝日新聞出版というのがちょっと面白い。


クララとお日さま(ネタバレ)
カズオ・イシグロ
早川書房

もはやAIの進展はチューリングテストを突破しそうな勢いであるが、真の意味でAIに人間への共感がプログラムされるとどうなるだろうか。この小説のAIアンドロイドであるクララは、HAL9000なんかと違って自分の生存よりクライアントである人間の生存を常に優先する。では人間にとってそういう安心なAIが仲間になったとき、果たして人間は何をどう考えるか。この思考実験も本書のテーマの一つだろう。人間とAIの友情ものというにはあまりにも切ない結末。この虚無感はベイマックスも及ばない。同じ読後感のものがあるとすればシェル・シルヴァスタインの絵本「大きな木」だろうか。


うちの父が運転をやめません
垣谷美雨
角川文庫

作者はいろいろな社会課題をユーモラスに小説にしているが、本書は高齢者の危険運転。物語自体は、なんとなく途中で先が読めるというかオチがわかってしまうほどの一直線だが、テーマであるところの高齢者による危険運転(と認知症の増大)は予定されている未来としてあまりにも深刻だ。これの根っこにあるのは地方での急激な少子高齢化と人口減少による社会基盤の弱体化であって、ユーモラスどころかかなりホラーな未来が待っているといってよい。公共交通機関は経営難で鉄道もバスも廃止になるし、スーパーマーケットや金融機関は利用者減で閉店するし、病院まで閉院する始末。移動力のある人はそこから逃げてなんとかなったが、高齢者や経済弱者は地方から離れられなかった。しかも都市部では行政も経済もサブスクリプションにキャッシュレスにモバイルオーダーにEコマースにAIにチャットポットに投資をシフトさせている有様で、これについてこれない地域や人間は加速度的に遅れをとる一方である。今思うとコロナ禍のロックダウンからすべてははじまったような気がする。


マルジナリアでつかまえて2 世界でひとつの本になるの巻
山本貴光
本の雑誌社

マルジナリアでつかまえて 書かずば読めぬの巻 」の続編。マルジナリアの技法と考察を開陳した前書に比べると、2のほうはエッセイ色強めか。このシリーズを読んで以来、僕も本に書き込むことにためらいがなくなった。しかし、今度は読書の際にペンが欠かせなくなってしまった。これまで風呂につかりながら本を読むこともあったのだが、風呂でペンは扱いにくい。なによりも電子書籍が遠のいてしまった。最新のkindleにはメモ機能がついているけれどやはりちょっと違うんだよな。本の書き込みは、書き込みの位置や文字の大きさ、文字列の角度まで自由自在で、図解もイラストもOKで、几帳面な字から殴り書きまで、つまり「なんでもアリ」ゆえにそのときに生じた脳みそのスパークをもっともそれらしい形で定着させられるのがミソなのだと思う。


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手段からの解放 シリーズ哲学講話

2025年02月22日 | 哲学・宗教・思想
手段からの解放 シリーズ哲学講話

國分功一郎
新潮新書


 前書「目的への抵抗」よりも難解度はぐっと増している。カントの「判断力批判」の紐解きがベースになっている。

 著者によるとカントの「判断力批判」には、人間の「快(die lust)」の四分類の話が出てくるそうである(僕は大学生時代に授業のレポートで「判断力批判」を読まされたのだがもうまったく内容を覚えていない)。
 この四分類というのは「美(das shuhöne)・善(das gute)・崇高(das erhabene)・快適(das angenehme)」と訳されているのだが、カントによるこの定義をビジネスコンサルティングのように縦軸横軸の四象限にすると、きれいに分配はせずに空白の象限がひとつできるそうだ(この手法は「暇と退屈の倫理学」でもやっていたから著者の得意技なのだろう)。
 この空白地帯をカントは「病的なもの(pathologisch)」と記述しているが、実はこの空白地帯こそがいま現代生活にはびこっているというのが本書「手段からの解放」の指摘である。


 難解ではあるけれど、なにしろ僕は前書「目的への抵抗」が直観的にわかってしまったので、自動的にこちらもほぼ見えてしまった。本書のタイトルが「手段からの解放」というのも極めて示唆的である。

 これは「なぜ働いていると本が読めなくなるのか 」を哲学的に紐解いているのである。

 カントの分類において、人間が本来もっていたであろう「快」の中で特殊解のように存在する「病的なもの」の正体は、僕なりに述べると“手段が目的化していることに気づかず、そこにどっぷりはまってドーパミンが出ている状態”なのである。

 「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」で著者の三宅香帆氏は、現代社会は日々の仕事(家事でも学業でも)に全身全霊で入れ込むことを要求し過ぎており、その結果われわれ現代人は、半ば洗脳のように脳みそ回路が改変されてしまい、純粋な読書のための読書、意味がありそうとか何かの役にたちそうとかそういう捕らわれから解放された単に楽しむための読書ができなくなっている、と説いている。

 三宅香帆氏のは仕事と読書の関係においてそこを指摘したわけだが、本書「手段からの解放」は、それを現代社会一般と現代人の生き方そのものに敷衍させたものなのだ。
 前書「目的への抵抗」において著者は、今日の社会は実は盤石性のあやしい目的設定が横行し、その目的達成ためのありとあらゆる手段で埋め尽くされていると看破した。しかし、それがあまりにも当たり前になってしまい、われわれ現代人はその手段をひたすらこなせられていることに対して疑問もわかず、むしろモチベーションとかフロー状態とか言って脳が快楽を味わうようになっちゃっている、というのが本書「手段からの解放」の指摘なのだ。
 ただし、それでは人間の脳みそはどこかで限界を超えてしまうから、として著者はガス抜きとしての「快適」が用意されていて、それがアルコール(ストロング系)とかカフェインであったりする。この脳みその解放の手段について「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」では、スマホとゲーム(パズドラならできる)を指摘している。

 というわけで、「手段からの解放」というのは、何かに入れ込んでいるときは「これは何かのためにやっている」のではなく「やりたいからやっている」ものであり、その「やりたい理由」は外部からの洗脳やお膳立てや水路付けによってできあがったものではなく、「なんだかよくわからないけど自分の中から沸き上がったもの」であれ、という話なのだ。
 もっとも著者は、目的と手段の逆転と手段の流布について現代社会はあまりにも狡猾であり、我々はよほど意識しないとその渦に巻き込まれると悲観的である。三宅香帆氏が「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」を上梓したのも、元朝日新聞記者の稲垣えみ子氏の退社劇も同じ感覚だろう。

 脳がバグる前に、三宅香帆氏は「全身全霊ではなく半身で」、稲垣えみ子氏は「会社依存度を下げよ」と説いていたが、「手段からの解放」という観点からみると、フレディみかこの「他者の靴を履く アナーキック・エンパシーのすすめ 」は生き方のヒントになる気がした。この本はたいへんな名著だと僕は思っているのだが、フレディみかこの主張こそは現代社会で生きていくために「目的に抵抗」して「手段から解放」する方法論であった。他者を理解して共感する「エンパシー」でいま自分が何をするべきかの目的を見極める審美眼を持ちながら、でも他者にほだされて闇落ちしない、つまり誰かの手段に成り下がらないアナーキーさを死守せよ、と説いている。


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散歩哲学 よく歩き、よく考える

2025年02月17日 | エッセイ・随筆・コラム
散歩哲学 よく歩き、よく考える

島田雅彦
早川書房


 本書の全体的印象としては、著者による散歩の効能論と実践記録を主観と客観の境目もあいまいに無秩序に無軌道に繰り延べられたエッセイで(たぶん散歩の妙を再現しているのだと思われる)、ちょいとばっかし自慢と傲慢さも感じちゃったりしたのだが、「はじめに」と「おわりに」がなかなか味わい深かった。このブログのひとつ前の投稿である國分功一郎の「目的への抵抗 シリーズ哲学講話」とシンクロする内容だったのである(巻末の参考文献一覧にしっかりと「目的への抵抗」が含まれていた)。

 本書の「はじめに」と「おわりに」では、散歩とは要するに「移動の自由の権利」の象徴であり、「国破れて山河あり」の幸福を享受できる行為なのであるということを宣言している。


 「移動の自由の権利」とは、近代社会における人類の権利の最も崇高なものである、というのが本書「散歩哲学」においても「目的への抵抗」においても語られている。「移動の自由」があれば、我々は暴力や圧政から逃れることができる。いじめやDVから身を守るのはもちろん、職業選択の自由や婚姻相手の自由もこの延長上にある。最大の人権侵害は移動を禁止することなのだ。江戸時代の庶民には引っ越しの自由がなかったというし、旧共産圏の国々の多くは、国民の国内旅行を制限していた。現代でも中国は、最新テクノロジーを用いた監視国家であり、防犯カメラや盗聴システムが随所に仕掛けられて作動している。真の意味で移動の自由とは言えない。
 この「移動の自由」が不要不急の名のもとに著しく制限されたのがコロナ禍であった。つい数年前のことなのに、現在の街にあふれるインバウンドや、混み合う都心の地下鉄や飲食店を見るに、あのゴーストタウン化した光景は記憶としてひどく朧気になりつつある。しかし、あれこそが「移動の自由の権利」をはく奪された状態だったのだ。あのとき実際に新天地での進学や転職が許されずに不遇を囲った人々は増えたし、DV問題も顕著化した。

 その「移動の権利」の究極は「不要不急」ではない移動の実践であり、その象徴が「散歩」なのであった。「散歩」こそはそもそも目的地も理由もない。ただ歩きたいから歩くものだ。

 そもそも、移動の自由を制限してくるのは、時の権力であり、行政である。企業も学校もその行政指導の名の元に行われている。我々の日々は行政基盤の上で営まれているのだ。散歩とは、その国の統制からの脱却行為であるともいえる。散歩をしているときはひと時とはいえ我々は我々を束縛するものから自由である。行政だけではない。勤務先や所属先からも自由である。諸々のしがらみと連結しているスマホなんぞは奥底にしまってぷらぷらと歩く散歩こそはアナーキーな行為と言えよう。そんな気分のときに目や耳から入ってくる光景、すべての支配が溶け去ったあとに残った光景、これを愛でるセンスこそが「国破れて山河あり」なのである。理由も意味も目的も捨てて、眼前に現れる大気と自然、街並み、店頭に並ぶ品々、行き交う人々、供される食。これらを虚心坦懐に眺め味わう。これが散歩の醍醐味である。

 しかも「散歩」は無為かと言えばそうでもない。過去の哲学者も科学者も芸術家もよく散歩をした。カントもベートーヴェンも夏目漱石もアインシュタインも散歩を愛した。その散歩から、文化文明史を変えるあれだけの閃きが生まれてきている。散歩という行為は、脳みそをいい感じに弛緩するようだ。頭の中でぐるぐるまわっていたパズルのピースがはまったり、悩んでいたことが案外そんなたいしたことではないと気付いたり、記憶の底に眠っていたことがよみがえったりする。散歩にそういう効能があることは昔から知られていたし、逆説的に言えば、普段の我々の生活は、いかに脳みそをコチコチにさせる時間を過ごしているのかということでもある。


 というわけで、たかが散歩されど散歩。本書にあてられてしまったかついつい僕も語ってしまった。


 ところで、散歩には大きくわけて2つのスタイルがあるらしい。一方は毎回知らない道や町を歩くスタイル、他方は同じルートをたどるルーチンのスタイルである。もちろん両方を塩梅よくやっているのだろうけど、どちらかが主になっていることが多いんじゃないかという気がする。本書の著者は後者のようだ。馴染みの町とか行きつけの店を滔々と語っているのでルーチン型だろう。

 僕自身は、知らないところを行く2、同じところにいく8くらいの割合だろうか。どうしても勝手知ったる本屋やカフェに偏重してしまい、新たな発掘を怠ってしまっている。実は本書を読んでいちばん気が付いたのはこのことだった。
 ルーチンみたいな散歩でも十分にリラックスして脳みその弛緩に効果的なのは自覚しているのだけれど、せっかくの「移動の自由」の権利を自分で狭めていることに気が付いた。しかも、歳をとるごとにそうなってきている。だんだん知らない道や知らない店が億劫になってきているのだ。これはたいへんよろしくない傾向である。もうすこしランダムに歩いてみようと思う。


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目的への抵抗 シリーズ哲学講話

2025年02月13日 | 哲学・宗教・思想
目的への抵抗 シリーズ哲学講話

國分功一朗
新潮新書


 今回の話は難解かもしれない。自分の頭では明晰なのだが、言語化が追いつかない感じがする。

 まず、タイトルをみて、僕はピンときた。むしろタイトルだけで全部わかっちゃった、くらいの感じである。本書の「はじめに」で著者は、今回のテーマである「目的」の意義を疑うなんてどう考えても意味不明なすごくわかりにくいことだとあらかじめ述べている。しかし、僕はもうタイトルだけでそうだその通りだ、と思ってしまったのである(橋本治の「上司は思いつきでものを言う」のタイトルを見たときに感じた稲妻に匹敵する)。2023年4月に刊行されたというから僕が完全に見落としていたのだ。


 「目的」と「手段」はいとも簡単に逆転するんだよな、というのは僕が社会人になってすぐに気づいたこの世の真実のひとつであった。目的手段逆転の話やボヤキは、このブログでも何度かしている。(「手段と目的」で検索をかけたらいくつも出てきて我ながら呆れた)

 しかし、どうもコトはそう単純ではないなと気付いたのはここ数年だ。「目的」と「手段」は簡単に逆転するけれど、それは浅慮や怠慢という単純な話ではなく、もっとずっと奥が深くて厄介なものなのだ。

 ・よほど強力な意志を持たないと、手段は目的化してしまう抗い難い力学がある
 ・設定された目的そのものが、何かの上位目的のための手段であることがよくある
 ・その目的の概要は、「手段」で説明しなければ輪郭を持ちえないことがよくある
 ・「その手段を使いたい」というのがそもそもの目的であることは、この世の中によくある
 ・当初設定された「目的」そのものが、その後の環境変化で意味を失っているのに開始された「手段」だけが残ることがこの世の中にはよくある

 もはや「目的」と「手段」を分離するという二元論の設定自体が無理筋なのではないかと思うことさえある。


 しかし、本書で指摘されているように、「目的」を設定することに対しての疑問は、今日の社会においてほぼ無いに等しい。そして、その目的から逆算して今なにをすべきか、すなわち目的から逆算して手段を決める、という思考回路について、今日これに疑問を挟むことはまず無いように思える。エンジニアリングという発想も、料理の段取りも、イシューからはじめることも、KPIもPDCAもムーンショットもみんなそうである。就活も受験対策もそうだ。それどころか人生設計もいまやそれが推奨されている。タイパもコスパもみんな目標達成への合理的物差しである。
 シゴデキな優秀な人とは、目的から手段を逆算できて、ゴールにむかって最短距離を導き出せる人のことである。


 閑話休題。職場でとある中堅女性社員が若手にむかって指導していた。目的をもって逆算だよ、私はずっとそうやってきた、と彼女は話していた。僕は黙って横で聞いていたのだが、一方でこんなことを思っていた。
 「目的をもって逆算する」を成功させるには、2つのことに無謬である必要があるな、と。

 そのふたつの無謬とは以下である。

 ・設定されたその「目的」は本当に適切なものなのか?
 ・その目的が正しいとして、逆算されたその「手段」は本当に適切なものなのか?

 で、さらに踏み込むと、

 あなたはそれを「正しい」と断じきれるほど全知全能なのか?

 ということなのだ。ひょっとしたら自分は間違うかもしれない、と思えるかどうかの能力である。ソクラテスは「無知の無知」「無知の知」という術を我々は生きていく上で知っておかなければならないと述べた。つまり、この中堅女性社員の若手への指導を観察したときに「この人に、その目的は正しいのかとか、逆算して講じたその手段は正しいのか判別できる能力はあるんかな」と僕はおもってしまったのである。


 自分で自分の目的を設定することでさえ脆弱性があるのに、まして示達とか指示とか指導とか、他人様から設定された目的を背負わされるのだとしたらそれはもっと気をつけたほうがいい。繰り返すがその目的設定はかなり脆い根拠の上にあるおそれが高い。ご都合主義で定められた目的にむかってレールを引かされているようなものである。

 なので目的志向というのは賢げに見えて実はリスクが高いというのが僕の結論なのだが、この世は当たり前の顔して目的志向があふれており、その手段なるものがあの手この手の姿で社会を席捲している。


 やはり意識すべきは「目的」と「無目的」は対等の関係であるということだ。世の中がこれだけ「目的」を我々に切迫させてくるのだから、我々は意識して、すなわち抵抗して「無目的」な行動をしなければならない。いや、「無目的」という言い方は「目的」に対して卑している。「目的」と対等にして対立する概念と言い表すならばということで本書は「自由」という言葉を導き出している。「目的」に対等した対立概念は「自由」である。

 というわけで、「目的への抵抗」とはものすごい含蓄が内包されたタイトルなのだ。よくぞ言語化してくれたものだと思う。続編として「手段論」もあるらしいのでこれはもう絶対に読むつもりである。

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イラク水滸伝

2025年02月06日 | 旅行・紀行・探検
イラク水滸伝

高野秀行
文芸春秋


 人類はどうやって狩猟生活から農耕生活に移行していったか?
 ジェームズ・C・スコットの「反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー」によれば、そう簡単にはシフトしなかった。数千年にわたって狩猟と農耕のどっちつかずのグレーゾーンがあったのである。それは半農半猟という割り切れたものではない。農耕は必然的に定住を伴うが、定住というのははなはだリスクが大きかった。天災・感染症・外部からの攻撃や侵略などに晒され、農耕生活は容易に破綻した。農耕を放棄して荒野に離散する人間は多かった。また、農耕を試みたものの結局はうまく定着せずに狩猟を続け、農耕が成功した部族との交易という形で穀物に依存した場合もある。さらには、狩猟者の一部が強制的に奴隷として農耕者になった場合もあるし、その反対もある。定住者からみて、さすらいの狩猟者は「野蛮人」であっただろう、とスコットは述べている。
 そのようなグレーゾーンの時代こそが、人類の文明史の初期であった。そういうことが可能な地は、都市部と狩猟地帯がほどよく接する地帯であり、それはすなわち湿地帯、就中チグリス・ユーフラテス川流域であっただろうと「反穀物の人類史」では述べている。「猟」は陸の動物を狩るに限らず、漁猟や牧畜も含んでのことだった。

 「反穀物の人類史」は豊富な文献と先行研究をもとにした大胆な仮説であったが、いずれにせよ紀元前9000年も過去の時代に思いを馳せた内容であった。


 しかし、チグリス・ユーフラテス川流域はいまでも広大な湿地帯がある。そして、そこにいまだに10000年前から地続きの湿地生活をしている民族や部族がいる。湿地の資源で住居をつくり、食材を確保し、船で移動する。マンダ教という古いグノーシス主義の宗教もそこでは現存している。
 この湿地民の情報はそう多くない。なにしろ、かの地は現在、あのイラクの国内にある。


 「反穀物の人類史」が10000年前のチグリス・ユーフラテス川流域に住んだであろう民を思索によって論考したものならば、こちら「イラク水滸伝」は現在のチグリス・ユーフラテス川流域の民を直接その巨大湿地帯である「アフワール」に乗り込んで見聞したものだ。ぶっとんでいるといったらない。著者は辺境の探検家として有名で、アフリカの奥地やアジアの密林に入り込んで現地の住民と現地語でコミュニケーションをとる強者だが、フセイン政権崩壊後のイラクに何度も乗り込み、湿地帯を探る。本書は確信犯的な分厚さでその内容も多彩だが、そこには本書が単なる旅行見聞記ではなく、イラクという国家および巨大湿地帯という2重のバリゲードに囲まれて謎に包まれていた湿地民の生態を少しでも記録して共有する文化人類学的使命感も大いにあったものと察する。

 最終的な狙いは、この地に古代から存在した木船「タラーデ」を地元の船大工を探してつくってもらい、湿地帯を探検するというものであってその顛末は本書に譲るとして、ここで紹介されるイラク国民の生き様は本当に面白い。彼らがどのような衣食住をしているかの観察もたいへんに興味深いのだが、やはり人間関係のつくりかた、つまり社会のつくりかたが本当に独特なのだ。

 それは簡単に言うと、friendとenemyの区別がしっかりしていて、その中間体であるanother manが存在しない、ということである。部族や血族のつながりがとにかく強い。
 したがって、知らない人に会うとき、知らない人が誰かに紹介されるときは、まずはfriendになることを重視する。食事のおもてなしをするのだ。おもてなしをされる側もそれに徹底的につきあう。著者の一行は行く先々で食事攻めにあう。しかしこれは単なる歓待のセレモニーではなく、仲間になるための儀式なのである。裏を返すと、これをやらない限り彼らとはenemyの関係になってしまう。

 この、friendとenemyの区別をしっかりさせるということは、まだ理解しようと思えば理解できるが、another manが存在しない、というのは想像を超える。日本で生活する我々の普段の経済生活はanother man同士であって、そこに契約とか交換経済とかが発生する。簡単にいうと雇用と被雇用の関係が発生する。しかし、このアフワールの地では「金で人を動かせない」。何かを便宜してもらうににしても、作業をお願いするにしても、お金で依頼することができないのである。彼らが便宜をはかるのはその人がfriendだからだ。

 したがって、誰かにものを頼むときはまず、その人と仲良くなってfriendの関係にならなくてはならない。そこでようやくものを頼める(もちろん無料である)。
 そういうわけだから、現地のガイドに湿地や部落の案内を頼んでも、そのガイドが普段からつながりの強い場所やよく知った人のところにしか行けない。行ってもさっと観光しておしまいというわけにはいかず、行く先々で食事をし延々と世間話を続ける。また、ガイドなしで第三者がその地に入るときは、自分は誰々の友人である、ということを常にアピールしなければならない(さもないと銃で撃たれるリスクまである)。

 効率性より関係性を重視しているから、何か作業するときも役割分担なんかするのではなく、みんなで一緒にわーわー言いながらやる。段取りとスケジュールなのではなく、みんなが集まってその気になったらやる。

 こういうのは何かと非効率に思うのは自分が現代日本に住むからだろうか。しかし、その人間の信頼性と関係性の強度だけでほぼ形成される社会というのは、たしかに10000年前そうだったのだろうなと想像させるに充分だ。「昨日までの世界」がここにはある。


 ところで、本書ではしばしば湿地民のブリコラージュ性が言及されている。著者はブリコラージュとエンジニアリングを対比させる。結果から逆算して最適かつ最短のプロセスをたどるエンジニアリングが幅を利かせる今日だが、たしかにこれは近代合理化の申し子的な発想なのだろう。しかし、いま集まっている人やモノで何ができるか考えるブリコラージュ的な生活が、10000年近い風雪に耐えてきたのもまた事実なのである。

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世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学

2025年02月03日 | 哲学・宗教・思想
世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学

近内悠太
NewsPicksパブリッシング


 コロナ騒ぎが起こった頃に刊行された本なのでもう5年前になるのか。

 文体としては読みやすいし、タイトルもズバリだし、腰巻には有名人の推奨コピーが並んで、Amazonにもいっぱい星が付いているけれど、実はけっこう難解な本だと感じた。

 一般的に、この手のもので「贈与」という場合は「贈与経済」のことを指す。モースの贈与論や、ボールティングの贈与経済学は、「贈与」という行為すなわちモノやサービスを無償で人に与えるという行為は、実はそこに目に見えない取引が潜んでいるというものだ。それは「自分を優遇してもらうこと」だったり「二人の間の人間関係の維持」だったり「自分の地位を誇示して認めてもらうこと」だったりする。また、時間軸的にも「いま現在のバランス関係をキープさせる目的」の贈与だったり「遠い後先を見据えた保険的な目的」の贈与だったりする。
 で、この人間社会は貨幣経済や唯物的交換経済ではなく、贈与経済で古今東西成立してきたのだ、という論説は、人文学の世界ではメジャーなものであると言ってよい。

 しかし、本書で言うところの「贈与」はそれではない。ピュアに、見返りが期待されていない一方通行の贈与だ。この世界は「ピュアな」贈与でできている、のである。

 じゃあ本書は、実はこの世界は「ピュアな贈与」でできているのだ! ということを証明しているのかというとそういうわけでもなさそうだ。あえて言えば「そんな考え方が持てたら素敵じゃない?」といったところか。


 本書にはヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」や、トマス・クーンの「パラダイム・シフト」や、小松左京のSF論などが次々と、それも脱線に継ぐ脱線のように出てくる。伏線になっているような回収できているようなごまかされたようなという気がしながら、僕も傍線をひいたり、余白にメモったり、見取り図をつくってみたりしていったいこの本は何が言いたいのかを一生懸命追いかけてみる。


 本書の読解で個人的に手がかりにしたのは、トマス・クーンの「逸脱的思考」「求心的思考」だ。

 「逸脱的思考」とは、要は「常識を疑う能力」である。「まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書 」でも、人文学の価値は常識をひっくり返すことにある、と指摘されていたように、常識とは、偏見や不当な因襲や既得権益が張り付いていることが多いものだ。クーンの「パラダイムシフト」とは、恒常的常態、すなわちすっかり空気のような常識としか思っていなかった世の中のシステムやレジームが不連続変化することであった。

 「常識を覆す」のは爽快だしカッコいいがそう簡単なことではない。その常識が社会に根付いていれば根付いてるものであるほど、それが「覆す余地のある常識」であることは感知しにくい。相応の力量が問われる。

 では常識を覆す能力すなわち「逸脱的思考」はどのようにして身に付けられるのだろうか。クーンによればそれは「求心的思考」能力を磨かなければならないということになる。「求心的思考」とは、伝統の尊重と継続を意識する思考である。つまり常識を否定的態度ではなく、あるべきものとして考える思考だ。え? どういうこと? と一瞬混乱するが、この「求心的思考」とは保守的態度をとる、という意味ではなく、このような常識があるということはそれを常識足らしめようとする仕組み、意識、価値が存在するのだ、ということを探求する態度である。だから、否定的態度ではなくて哲学者カント的な批判的態度を持つ必要がある。批判的態度とは「否定しようとする態度」ということではなく「本質を見極めようとする態度」のことである。

 要するに、「求心的思考」ができなければ、どこが「逸脱的思考」になりえるかのポイントを発見できない、ということなのだ。そのことの実例を本書は小松左京のSFや、ヤマザキ・マリのお風呂タイムスリップまんが「テルマエ・ロマエ」を用いて説明している。

 この「求心的思考」「逸脱的思考」は、本書の著者というよりはトマス・クーンの思想だが、ここを足掛かりにこの世の中を改めて「求心的思考」で見渡すと、我々の世界は「言語ゲーム」によって成立している、と本書は説く。今度はヴィトゲンシュタインである。
 ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」論は簡単に要約できないものだ。乱暴に片付けると「この世には絶対的正解というものはなく、関係者間で『このようなことにしておこう』という納得解ですべて占められている」という世の中の見立てとでも言えばよいだろうか。

 つまり、「常識」とは正解ではなく、関係者間における「納得解」でしかない。

 だから関係者でない人の目からみれば、その「常識」は「非常識」になる。「●●の常識は××の非常識」というのはよく見かけるフォーマットだ。会社内組織とかローカル社会の中の話であれば「関係者でない自分」を想像するのは難しくない。


 ところが日本人としての「常識」、人間としての「常識」、まして地球生命体としての「常識」などのスケールになると、「関係者でない自分」を想像するのは相当に脳みそを必要とする。本書が小松左京のSFや、「テルマエ・ロマエ」を引用しているのはまさにそこに迫っているわけだが、「言語ゲーム」に支配されたこの社会の常識がいかに不自然(アノマニー)に満ちているかに気付くためには「求心的思考」「逸脱的思考」を持たなければならないとしているのが本書なのだ。地球の常識を批判的に求心的思考し、そこから逸脱的思考によって常識をひっくり返す。その思考能力を持て、と本書は主張しているのである。


 なんで、そこまでの思考能力を持ったほうがよいのか。

 そうすれば、我々は誰かからの「ピュアな贈与」の存在に気づくことができるからである。交換経済に支配されているようなこの脆弱な世の中において、実は私は誰かからのピュアな贈与に助けられ、私は気づかぬ間に誰かにピュアな贈与をしてその人を助けていたのだ。そして気付くのだ。世界は贈与でできていた、と。

 これは、目の前の地平が逆転するような全く新しい世界像を手に入れることに等しい。「求心的思考」「逸脱的思考」を鍛える理由は、世界のありようを学びなおすためなのだ。


 しかし、この世の中を「逸脱的思考」するためには、この世の中そのものの「求心的思考」をしなければならない。つまり、この世の中がどういう仕組みで成立しているのかを批判的に勉強しなおさなければならない。そうすることで人の気遣い(贈与)に気づき、自分も人に気遣うことができる人間になれるのである。なんと本書は大人になっても勉強するって大事ということが書いてあった難解本なのだ(文部科学省の指導要綱に従った学校の勉強だけではそれはなかなかわからないのだ)。

 これを言うためにクーンやヴィトゲンシュタインや小松左京まで引っ張り出したというよりも、クーンとヴィトゲンシュタインと小松左京の三題噺をやってみたら「贈与」になったというべきだろうか。一応僕なりに本書を一生懸命「求心的思考」で追いかけてみたつもりである。 ふう。


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マネジメントは嫌いですけど

2025年01月20日 | ビジネス本
マネジメントは嫌いですけど

関谷雅宏
技術評論社


 というわけでビジネス本である。と言っても関谷雅宏って誰やねん? 奥付の著者紹介をみても、ソフトウェアやミドルウェアの開発会社の管理職や役員を歴任してきてきた技術職畑の人くらいしかわからない。著者のXのアカウントが掲載されていたので覗いてみたが個人的趣味爆裂のアカウントでもっとよくわからない(笑)
 ビジネス書は日々新刊が発表される。これもありがちな量産本のひとつかと思ったけれど、書店でパラパラしてみたら

 ・表紙を開いて1ページ目の本扉を見ると、左下にサブタイトルのように、『「人を動かす」では得られない答えがある』と書いてあった。カーネギーの古典三部作にケンカを売っているところに興味を持った。
 ・めずらしく横書き右開きのレイアウトであった。最近では「まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書 」がこのタイプだったので、それを彷彿させた。
 ・出版元が技術評論社。この出版社はたまにエッジの効いた変に面白い本を出す。

 という点が気に入ったので買ってみることにした。前回の投稿でも言ったように、僕もちょっとスランプ気味で、いろいろな観点にあたってみたいという気持ちもあった。


 さて。読んでみての感想としては、まあそんなところかなという順目な感じも多かったが、とは言えしっかり言語化してくれてもやもやしていたものが明確になったのも事実だ。本書は技術職やIT業界を踏まえての書き方が主なのでそうでない業界の自分としては隔靴掻痒なところもあったが、だからこその『 「マネジメント」とは「仮説」と「計測」を繰り返す「技術(あるいは機能)」でしかない』と突き放した姿勢はなんか心が洗われたような気がする。

 「人を動かす」では得られない答えがある、というのは、単なる挑戦的な惹句なのではなかった。著者の主張によれば「人を動かすことに長けるマネジメント」とは「交渉力で問題を解決するマネジメント」であり、それすなわち「現在起こっている問題を現在用意できそうなリソースでなんとか解決しようとするマネジメント」ということになる、というロジックなのだ。これはけっきょく「全体的に短期的な目的を、手元にある資源を使いこなして達成するマネジメント」になってしまい、「未来に向かうマネジメントを行う余裕がなくなる」と主張するのである。

 著者にとってマネジメントは「未来から逆算して考える」ものであり、マネジメントとは「現実に変化を起こす」ことであり、その判断は「仮説と計測」に尽きるもので「正解はない」ということであった。つまり、常になにかトライ&エラーをしながら、組織の体質改善を図り続けることがマネジメントであり、コトが勃発するたびにその交渉力でなんとかリソースを確保して解決していくのはマネジメントではない、ということになる。この両者は何がちがうかというと、前者が「成長」と「持続可能性」をマネジメントの目的に内包させているのに対し、後者はあくまで都度都度の対症療法でしかない、ということである。その違いは組織構成員(要は部下)の成長やモチベーションとか、その組織が出すアウトプットの向上というものに違いとなって現れてくる。

 そうかー カーネギーの「人を動かす」は僕も一目置いていたのだが、本書の指摘もなるほど、という気がする。人が自分の意図どおりに動いてくれたりするとマネジメント冥利の感慨もあってついついそこに腐心してしまうが、それはやがて「短期的な目標に対しての問題解決型」マネジメントに終始してしまい、組織の成長や持続可能性といった観点が後背に追いやられてしまう。対症療法的な綱渡りを続けているうちに致命的なクライシスを迎えつつあることに気づかなったりするのだ。このあたり「世界はシステムで動く」の第1のフィードバックと第2のフィードバックの話にもちょっと通じる。

 とはいっても、日々の業務の中で、人を動かさなければならないのはマネジメントとして避けられないことなので、ここは極論に振るのではなく、「人を動かして目の前の問題の解決をはかる」ことと「未来のために現在の仕組みを変え続ける」ことの両方をアウフヘーベンさせなければならないのだろう。


 一方で、本書はかようなマネジメントは、所詮は「技術」であって「機能」である、とする。こと中間管理職の立場としては、それは経営など上層部から任命と指名において「させられている」ものであって、要は仕事としてわりきっていいのだ、とする。具体的には

 ・うまくいくうまくいかないは大雑把に50%の確率
 ・仕事は頼んだほうにも責任がある
 ・今現在ないものをつくるのだから、失敗しても今より悪くはならない
 ・誰かがやらなければならないから任命されたのであって、実績があるから任されたのではない
 ・結局、後から振り返れば「できることはできている」し、「できないことはできてない」

 と吹っ切れている。見事なものだ。ついでに言うと我々がいつも苦しむ示達予算というものについても、「予算」というのは「押し付けられた不快なもの」だが「会社全体が生き残るための金なのだ」として、誰しも「今は採算がとれなくても、いずれ莫大な利益を生む」という言い草は会社の日常なのだから、「予算」がふってくるのは仕方がないのだ、というのは変に浪花節の説得力がある。本書ではむしろ「財務や経理がどんな理屈や力関係で予算をつくっているかを知っておくほうがいい」と諭している。


 というわけでそれなりに面白い本であった。著者の矜持が垣間見えたところとしては「私はマネージャーの責任の中には会社が潰れたときにも食べていけるようにしてあげること」というくだりである。こういう上司に恵まれた部下は幸いであろう。

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「こつ」と「スランプ」の研究 身体知の認知科学

2025年01月17日 | サイエンス
「こつ」と「スランプ」の研究 身体知の認知科学

諏訪正樹
講談社


 僕はどちらかというと「頭でっかち」の性分で、それゆえに考えすぎというか脳みそが煮詰まってくるとたまに身体論の本を読む、という結局「頭でっかち」なことをしてしまっているのだが、本書もその類である。

 本書によれば「スランプ」は次の成長のための必要悪な存在らしい。つまり「スランプ」なき成長はありえないのである。「スランプ」というと主にスポーツを想像するし、本書も野球やゴルフやボーリングを代表例にして説明をしているが、もちろんスポーツに限らない。受験勉強や楽器の演奏なんかにもスランプはあるし、飲み会でうまく会話の流れに乗れなくなったとか、料理の仕上げが思うようにいかなくなった、というようなことだってスランプの一種である。

 スランプの対義語に「こつ」という言葉を持ってきたのは本書の慧眼だ。確かにうまく軌道に乗っているというのは「こつ」をつかんでいる、ということだろう。
 この「こつ」がくせ者で、これすなわち「身体知」に他ならないのだが、「こつ」は大概において言語化さられない。つまり暗黙知である。しかし本書はこの「身体知」を暗黙知のままにしておかないでなんとかして自分の言葉で言語化することを強く勧めている。というのは、この「言語化」こそが暗黙知化している身体知を、外部からの観察と検証を可能にしてPDCAさせる秘訣であり、この言語化されたものをモニタリングすることによって「こつ」と「スランプ」と上手につきあって、つまりは「成長」できる、とするのだ。

 どういうことかというと、人はボーリングでもピアノでも、ものを習得するとき最初はぎこちない。姿勢や規則的な動作、動きを他人からコーチされたり、見様見真似したり、本や動画と首っ引きになりながらやっていく。このとき自分の口でつぶやきながらやればそれは言語化である。このとき言語化されるものは「身体の詳細部位」に関するものが多いそうだ。ボーリングならば「ここで顔の位置は変えずに後ろ側に肘をあげる」とかピアノならば「卵を持つようにやさしく指を丸める」とかそういうやつだ。
 もちろん言語化されたものがすぐには自分の筋肉を理想通り動かすに至らない。最初は七転八倒であり、ちっともうまくいかない。うまくいったと思ってももう一度試すとやっぱり失敗したりする。つまりまだ身体知を体得できていないのだ。だけどそうやって日々鍛錬していると次第に「こつ」をつかむ。
 そのときに多くの場合は言語化によるモニタリングをやめてしまう。いわゆる「体が覚える」というやつだ。ところがここでも頑張って意識的に言語化を続けると、実は言語化される内容が変わっていくという。身体の詳細部位に関するコメントよりも、より大きな視点での言語化がなされるそうだ。ボーリングならば「体が振り子のようにいく」とか、ピアノならば「腕から弾いていく」とか曖昧な言い方になっていく。こういう大まかな言語化になっているときは「コツ」をつかんでいるときらしい。この粒度になったときの言語化を「包括的シンボル」と本書では表現している。

 ところが、そうやって「こつ」をつかんでボーリングなりピアノなりの研鑽にさらに励んでくると、やがて成長がとまって踊り場となる。場合によっては下手になったりする。これはいろいろな原因がある。
 たとえば、ここまで習得することによって、逆に今まで見えていなかった広い世界が眼前に現れ、それはこれまでの習得技術では太刀打ちできない、なんてのがある。そのやり方だと70点までは上達するけど、それ以上うまくなるにはそのルートではダメなんだよ、というやつだ。ピアノの世界では国内の音大で優秀な成績を収めていた学生が海外の有名音大に留学したらその弾き方では上達しないと言われて基礎からやり直しをさせられたなんて話がざらにある。
 長い期間をかけて習得するものの場合は、自身の身体の変化が影響する場合がある。オリンピックのアスリートでローティーンのときはすごい記録を出すのにその後伸び悩むなんてのは、体がさらに成長して重くなったり大きくなったりしたのが原因だったりする。
 また、対戦相手があるような分野だと、相手自身も強くなってこれまでのようには勝てなくなった、なんてことは多いにある。

 つまり、成長は必ずどこかで壁にあたる。これがスランプである。

 で、そうなるとどうやってスランプから脱するのか。本書によれば、ここで再び言語化しながらおのれの試行錯誤と向き合って再構築していくのが結果的にスランプの克服になっていくそうだ。実験によると、スランプになるとその言語化は、例の「包括的シンボル」から、また再び身体の細かいところの話になっていくそうだ。ボーリングならば「ここで親指を5時の方角に1センチ引く」とか、ピアノならば「右手薬指を自分の気持ちよりプラス1センチ右に動かす」とか。そうやって試行錯誤していくと(場合によっては長い時間を要するが)やがてスランプを抜け出し、ふたたび「こつ」を取り戻す。
 そのとき、あなたのボーリングなりピアノなりの技術は、スランプ前よりも一段高いレベルになっている。

 なるほど。「スランプ」は成長前のシグナルなのだ。これはとても勇気のある指摘である。スランプのときは「詳細部位」のところが気になり、こつをつかんでいるときは「全体」を語って詳細のところが暗黙知になる。


 ところで、僕はここのところ会社の仕事がスランプ状態である。このブログでも何度か吐露している。なんか思うように提案書が書けないとか、説得力をもって人に説明ができないとか、新たなサービスが覚えられないとか。歳のせいかとすっかり自信喪失なのだが、一方でここのところビジネス関係の本を手にすることが多い。ゆえにこのブログもビジネス本の登場が増えているが、これこそが「詳細部位」なのではないか。
 なんか調子がいいときは、ビジネス本なんか目にもくれず、どちらかというと歴史本とか哲学本みたいなものから仕事のヒントや方針みたいなのを導き出してなんとなくひょうひょうとやってきていた。それは一種の「包括的シンボル」に基づいた「こつ」だったのだろう。しかし、ここのころ内外さまざまな要因で思うようにいかない。つまり「スランプ」だ。そこでなにがしか助けにでもならんもんかと何冊かビジネス本を読んではおのれにあてはめて反芻していたのだが、本書を信じればまさにこれはスランプ期の効果的な過ごし方である。

 というわけで、自分の仕事が本調子を取り戻したとき、それはさらなる高みに上っているはずだ。ということを励みに今日も悪戦苦闘は続く。もうしばらくビジネス本は続きそうである。

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