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若者の「地域」志向とソーシャル・キャピタル 道内高校生1,755人の意識調査から

2017年03月23日 | 社会学・現代文化

若者の「地域」志向とソーシャル・キャピタル 道内高校生1,755人の意識調査から

梶井祥子
中西出版


 お堅い論文の集まりだから愛想はないが、言わんとすることは心情的にわかる。

 ソーシャル・キャピタルというのは、なかなか定義がむつかしく、ググったって簡明にわかるものは出てこないのだが、あえてざっくり言うと「人脈」である。それも金の切れ目が縁の切れ目にならないような「人脈」だ。本書では「人間関係資産」と表している。言い得て妙だ。

 本書は、北海道に住む高校生を調査して、それをもとにいろいろな角度から論じたものである。将来の進学や就職において地元を出るか出ないか、地元から出ようとする力学はなにか、地元にとどまる、あるいはいったんは出てもいずれ地元に帰ろうと思う力学は何か、などをアンケート結果やインタビュー結果をもとにアカデミックに調べている(統計学的に成立するか否かなども厳密に)。

 で、要はソーシャルキャピタルを確保している高校生ほど、地元志向が強いのである。地元の家族や親せき関係が良好で、友人知人との関係が強く築かれているほど、地元の進学や就職を希望する。その家の経済状況や、住む地域の規模や経済力も影響するが、そういった地元を出る出ない因子のひとつとして、「ソーシャルキャピタルの程度」が影響するのだ。

 まあ、そうだろうなとは思う。

 いつごろからか、同じ中学出身の仲間を「おなちゅう」、同じ高校出身の仲間を「おなこう」と称するようになったり、そういった所属するコミュニティごとにSNSのアカウントを使い分けたり、キャラを演じ分けたりーーつまり、「仲間メンテナンス」にいそしむ若者は増えてきている。
 こういった、ヒトとのつながりが当人にとって重要なのは、やはりリスクヘッジなんだろうと思う。将来は見えないし、職場は信用ならない。何かあったときに自分のためになってくれそうなのはやはり、地縁や血縁に根差した人間関係だ。ゲマインシャフトだ。地元こそがソーシャルキャピタルの母体だというのはたいへん納得する。

 その思いが強ければ、とうぜん進学や就職を意識するだろう。

 

 じゃあ、ソーシャルキャピタルが強ければ強いほど、地元から出なくなるのか、というとそういうわけでもないと思う。

 かつて、地方から都市部に人がどんどん出ていった。その理由はいろいろあるが、ひとつはキャピタルが強すぎたためでもあった。大家族主義、ムラ文化、濃すぎる人間関係、確保されないプライバシー。都市生活はこういったものから解放された。60年代に首都圏や阪神圏で続々と団地がつくられたが、そういうところに入居した核家族は、そのさばさばした住空間にすぐなじんでいった(たとえば男女のつきあいや性生活ひとつとっても地方でプライバシーを確保するのは大変であった。ここらへんは原武史の「団地の空間政治学」に詳しい)。

 では、地元から出たくなるほどの強烈なソーシャルキャピタル(資産というより負債というべきか)よりはマイルドで、地元に留まりたくなるちょうどよい程度のソーシャルキャピタルのありようと言うのは果たしてあるのだろうか。

 ぼくの直観としては、そういう「ちょうどいい水準」というのはないように思う。もちろん個人差もあるのだろうが、ソーシャルキャピタルの程度と、地元志向を生み出す力は、振り子のように強く効いたり、反対に作用したりを状況とともに繰り返すように思う。

 かつて息苦しくて、そこから出たいと思われた地元の人間関係が、今度はその場を引き留める力になった。かつてのほうが人間関係は濃かったというむきもあるが、いっぽうで昔は、SNSなんてなかった。LINE疲れなど存在しなかったのである。

 

 ソーシャル・キャピタルの充実は、地方の活性化だけでなく、ヒトととしての幸福量の増大、脱経済成長時代の中で何に生活価値をおくかという点でもたいへん注目されている。高校生がソーシャル・キャピタルの確保に乗り出しているのは、ヒトとしての成熟進化なのかもしれない。水無田気流によれば、いちばんソーシャル・キャピタルが弱いのは中年男性とのことだ。なんとかしなくてはと思う。


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