読書の記録

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NHKにようこそ! 聞く力 わかりあえないことから ひきこもりはなぜ「治る」のか?

2013年01月30日 | 複数覚え書き

NHKにようこそ!
滝本竜彦

聞く力
阿川佐和子

わかりあえないことから コミュニケーション力とは何か
平田オリザ

ひきこもりはなぜ「治る」のか? 精神分析的アプローチ
斎藤環

 

 上記4冊を立て続けに読んだので、この4題噺をこころみてみる。
 キーワードは「コミュ障」。

 まず滝本竜彦の「NHKにようこそ!」。
 大学中退したまま4年間「ひきこもり」をしている主人公男と、謎の美少女(実は自己否定感たっぷりの不登校女子高生)の実にネガティブいっぱいなエンターテイメント小説である。10年以上前に出た小説で、コミック化やアニメ化もされた。
 実は僕は今にして初めて読んだのだが、SNSが登場しないくらいで、あとはまんま今でも通用しそうだ。それどころか「ひきこもり」は完全に定着した社会問題となっているだけでなく、いわゆる彼らが繰り広げるコミュニケーション不全な状況は、この作品が登場した頃より今現在のほうがさらに注目されていると思う。

 ちなみに「ひきこもり」と「ニート」は何が違うのか、ということだが、斎藤環によれば、「ニート」は勤労も職業訓練もしていないが対人関係がまだできている人のことである。「ひきこもり」は、対人関係の構築ができなくなっている。
 つまり、「ひきこもり」の本質とは、人の相手ができない、ということなのである。

 もっとも、 「NHKにようこそ!」の主人公はまったく対人関係が築けないほどには至っていないからむしろ「ニート」のほうが正しいかもしれないが、しかし、自分から切り出して人の輪に入っていくのがどうにも苦手、他人の目線が怖いというあり様はよく描写されている。

 
 この「人の輪に入っていくのが苦手」という人こそが今まさに受難の時代になっているのである。

 なるほど、むかしから口下手という人はいた。でもそれはそれで受容されていた。ところが、口下手はいまや大きなハンデとなってしまった。
 もちろんこれは一方で「コミュニケーション力」というものがもてはやされていることと関係している。就活で求められる人材とは「コミュニケーション力」がある人材である。モテる男性とは「トーク力」がある男性である。人見知りのリア充というのはなかなか想像しにくい。プレゼンテーションという行いもやたらに注目されている。
 こういう世相のプレッシャーも手伝って、かつては口下手だった人はさらにハンデとなり、最近はこれを「コミュニケーション障害」とか「コミュ障」とか表現したりする。

 いったい全体、なぜ人の相手をするということが、他人と会話するということが、こんなにプレッシャーになってしまったのか。
 阿川佐和子の「聞く力」が2012年もっとも売れた新書、というこの現代はいったい何を意味するのか?

 「聞く力」というタイトルがまず秀逸である。
 つまり「話す力」ではない。いまや「他人に話す」という行為は大事業となっている。なぜかものすごい高いスキルを必要とするかのようになってしまった。
 でも「聞く力」ならば自分でもなんとかなりそうだ。「話す力」ならばいろいろ訓練や度胸がいりそうだが、「聞く力」ならば心掛けだけでなんとかなりそうな気がする。
 そんな期待と希望が「聞く力」の100万部をつくりあげたような気がする。

 もっとも、コミュニケーションというのは一方通行ではないわけで、本書を読めば、実は「聞く力」とは、「相手に話をさせる力」にほぼ等しいということがわかる。阿川佐和子はインタビューについて語っているのだから、本書が触れているのは実際は「相手に話をさせるにはどうすればいいのか」なのである。
 まさにここがポイントで、「相手に話をさせる力」に現代人は悩んでいるといってよい。
 ニコニコだまっていれば相手は勝手に話し出すわけではない。相手の話を聞くには、話をさせるための口火を切らなければならない。うまく会話の加速がつくまではひっぱっていかなければならない。実にここの部分がいまや最大のネックになっているのである。(京極夏彦の近未来小説「ルー・ガルー」もこれがテーマだったなあ。)


 このことを実にうまく説明しているのが平田オリザの「わかりあえないことから コミュニケーション力とは何か」である。
 「わかりあえないことから」では、なぜ「コミュ障」がうまれてしまうのかについて、子どもの時代に他人と接する機会が減っていることをあげている。

 たしかにかつてに比べ、いまの子どもたちや学生は社会に出るまで、知らない人とちょくせつ会話する、という機会は少なくなっているように思う。電車の中で乗り合わせた見ず知らぬの人と世間話をするなんてこともなくなったし、携帯電話やメールがあるから、友達の親と会話するという場数も減っているように思う。
 等身大の「気のあう人」以外の人と話をする機会がないのである。

 だいたい子どもの数だって少ない。僕が小学生のとき、クラスの数は同学年で45人のクラスが全部で6クラスもあったのだが、いまの小学校は35人で2クラスとか3クラスしかない。
 そうなってくるとたしかに他人と接する機会は減ってくるだろう。もちろん高校時代からアルバイトに精を出して社会性を身につける人も出てくるだろうが、一方で、他人との会話や対話を十分に果たさないまま受験勉強を終えたり、就活を迎える人だっているに違いない。

 対話や会話というのはやはりメールとは違うものだ。たしかにメールのほうが楽だと思う場合もある。だが、その面倒の回避は確実にコミュニケーション力の成長を阻害していく。その末に「コミュニケーション力」こそが大事、と言われる世界にいきなり放り込まれ、コミュ障になってしまう。

 

 いったい口下手な人はどうすればいいのか。

 「わかりあえないことから」では、口下手は自分の語りの矯正を意識する前に、まず話し相手の立場、話し相手の文脈に乗ることを指摘している。実は「聞く力」も同じことを言っている。
 畢竟、コミュニケーション力とは何か、というと、「相手の文脈にのる力」なのである。相手の文脈にのった発言をすれば、相手はどんどん話をする。これが「話させる力」である。
 つまり、口下手というのは、話すのが下手なのではなく、「話し相手の状況を推しはかるのが苦手」ということになる。

 

 では、「話し相手の状況を押しはかれるようになれる」にはどうすればいいのか。

 それが斎藤環の「ひきこもりはなぜ「治る」のか?」に出てくる。
 結論からいうと、「話し相手の状況を押しはかれるようになれる」にはダメ元で「話す」しかない。ダメ元というのは、ダメでいいのである。黙って察してもらおうという態度こそがNGなのである。これは上記4冊すべてに共通していたのだが「察してほしい」コミュニケーションは、もう今の日本に通用しない。

 「話す」のである。相手に「声」を届けなければならない。外しても滑っても声が上ずってもいい(ただし声が小さくて聞きとれないのはよろしくない)。
 うまくテンポにのれなかったり、間が悪かったりして、うまく会話が続かなかったり、へんな空気になってもそこで自信喪失をする必要はない。
 何を話せばいいのか、きりだせばいいのかわからない。という。なんでもいいのである。

 なぜならば、「話す」ことは、少なくとも「私はあなたを好ましく思ってますよ」という態度を表明しているからである(もちろんケンカ腰は困る)。
 人は「自分のことを好ましく思ってくれる人」には話をしてくる。難解で知られるラカンも要はこういうことを言っているのだ。(ラカンはわからん、とはNHKにようこそ!で出てくるセリフ)。
 ということは、話を切り出さないと、会話は始まらない。というきわめて当然のことに帰結する。だがこれはとても大事な視点である。
 気の効いたことや面白いことをあえて言おうとしなくてよいのである。気の効いたコメントをしようという気持ちは、相手にウケよう、という利己的な動機が働いており、会話をつづけようという双方向を意図した動機になっていない。会話は大喜利大会ではないのである。

 その会話の応酬の中で、なんとなく相手の状況がぼんやりと見えてくる。
 会話が上手な人、コミュニケーション力がある人というのは、面白いことが言える人、なのではなく、実はずっと大事なことは、たとえ「間が悪かったりして、うまく会話が続かなかったり、へんな空気になっても」たいして気にしない人、なのである。数うちゃ当たるの精神であり、羹に懲りて鱠を吹いてなどいないのである。これが大きい。

 それでも、口下手な人、なれない人にとって、会話を切り出すというのは骨のおれることである。
 でも、それは本当に骨の折れることなのである。事実なのである。本人のせいではない。時代が、コミュニケーション力を求めるようになってしまったのだから。「わかりあえないことから」の表現でいえば、日本は成熟化し、協調性より社交性のほうが重要な時代になってしまったから。
 それなのに、社交を訓練する機会はむかしより減ってしまっているのだから。 

 でも、とにかく話せばよい。気の効いたことや面白いことをあえて言おうとしなくてよい。この会話を続かせるぞ、とだけ決めて話せばよい。相手が何かいったら、その何かを無骨でもいいから引き延ばしていく、たとえ失敗しても気にせず次もそうせよ、というのがなんと4冊の本を貫く堂々たる答えなのであった。

 

 

 

 

 


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