読書の記録

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世界最高峰の経営教室

2020年11月29日 | 経営・組織・企業
世界最高峰の経営教室 17 Lesssons in Management from the World's Leading Business Professors
 
広野彩子(編・著)
日経BP
 
 インタビューや寄稿を再編集したものだが、顔ぶれがすごい。マイケル・ポーター、フィリップ・コトラー、デビッド・ティース・ヘンリー・ミンツバーグ、マイケル・オズボーン、コリン・メイヤーなどなど。マイケル・ポーターなんて、もはや神話時代の人のように錯覚してしまうが、まだご存命だったのね。
 編集方針的には最近の新書でよく見かける「有識者のインタビューを集めたもの」と同じではある。あいにく17人という人数の多さゆえか、ひとつひとつが概略のさらに概略みたいな限られたボリュームにとどまっており、彼らの論説の概略を垣間見る程度のものである。17人の経営学者のカタログ帳といってもよいかもしれない。
 ただ、コロナ後のこの世界について、彼ら17人から言質を預かっているのは意義として大きいとは思う。
 
 彼らの根幹にあるのは、VUCAなんて言葉自体が陳腐化するほど先が読めないこの時代においては「変化を察するに敏であれ」→「変化の対応にまずは取り組め」→「そしてそれを事業化しろ」というセオリーだ。デビッド・ティースの「ダイナミック・ケーパビリティ」も、チャールズ・オライリーの「両利きの経営」も、ヘンリー・チェスブロウの「オープンイノベーション」も、その精神はこれである。こうやってみると当たり前のセオリーのようだが、しかし、この当たり前のことがなかなかできない。
 これらに立ちふさがるのが「現状維持バイアス」だ。これこそが致死遺伝子の正体といってもよい。かくいう僕もとにかく腰が重い。なんかもういいよという気分になってしまう。
 個人がそうであるように「組織」にも現状維持バイアスがはたらく。社員の2割の人が改革派だとすると8割は保守派にまわろうとするだろう。(本書でもマイケル・ウェイドが「中間管理職が自分から変わることなどない」と断言している。僕も中間管理職である。)問題はこの8割の保守派をいかに動かすか、ということになる。保守派全員の首をきって入れ替えれば済むだろうが現実の世の中でそれをやるのはなかなか難しい。マネジメントの要諦とはむしろどうやって8割存在する腰の重たい人を動かすか、ということなんじゃないかとさえ思う。
 僕の勤務先でも、いちど超改革派の経営役員がヘリコプター式にやってきてすさまじい改革を断行したものの、ものの見事に誰もついてこれずに大混乱し、むしろ部門業績は悪化してしまい、故障者不調者が続出し、1年ちょっとで挫折した。くだんの役員はさっさと別のところにいってしまった(そしてそこでまた鉈をふるっている)。
 彼の描いた青図は必ずしも間違ってはいなかった。現状このままでは早晩よくないことになるという見立ても、デジタルトランスフォーメーションを予見していてその通りではあった。それこそポーターやコトラーの分析通りに描いた経営戦略だった。
 だけど問題は、そのゴールまでどうやってたどりつくかがまったく想定されておらず、完全に絵に書いた餅だったことである。現状の資源だけで掲げた戦略目標に到達しようとした。いわば、そこへの兵站も補給もいっさいないのだった。要は「目標」は掲げてあってもそこにたどり着くまでの「戦略」はなかったのである
 したがって、ゴールと示達予算だけ背負わされた各部門長は、部下に精神主義的な号令をかけ、ひたすら鞭を打つだけとなった。もはやインパール作戦と一緒である。
 
 もちろん、ゴール到達への手段がまったく画策されなかったわけではない。人事異動を頻繁に行うとか、情報共有をまめにするとか、独自のレポートラインをつくらせるとか、この役員はいろいろ環境整備をやろうとした。本人いわくそれらの試みはすべてに理論的根拠があった。
 だけれどうまくいかなかった。何度も異動をくりかえす社員は疲弊して何も蓄積されないし、取引先からも不信が募るし、情報共有は型どおりにフォーマットにもとづいたレポートが提出されるだけで実際のところ生きたナレッジシェアにはならなかった。そして何がおこったかというと、くだんの役員のとりまきはいい情報しか報告せず、顔色をうかがうだけになってしまった。
 頻繁な人事異動も情報共有も、本来的にはゴールに達するための「手段」なのだが、どうもそれ自体が「小目的」になっていたきらいがある。へんに理論派で頭のいい人が陥りがちの失敗としか言いようがない。
 この役員の視点に欠けていたのは「8割の人の動かし方」であった。人はコマンド&コントロール、つまり「命令」ではちゃんと動かないのである。
 
 8割の保守な人をどう動かすか。
 本書におけるそのヒントは、第3章「経営の目的はなにか」にあるように思う。ここでは「社会的インパクト投資」のジャズジッド・シン、「ステークホルダー理論」のロバート・ボーゼン、「パーパスデザイン」のコリン・メイヤーが出てくる。
 これらに共通するのは、現代社会では「金が儲かる」だけを経営目的にしても持続可能な体制は組めないという批判である。その企業のステークホルダー、つまり株主、消費者、取引先、調達先、社員、地域が、その企業のビジネスについて賛同し、共感し、協力し、率先して動くようになる経営をつきとめない限り、その企業は存続し得ない。社会に絶対善となる影響を与える「社会的インパクト投資」にしろ、環境と社会と健全な統治を掲げる「ESG」にしろ、社会全体からみてその企業があってよかったと思えるようなその企業の存在意義を探る「パーパスデザイン」にしろ、ここに共通するのは、カネが儲かる、株主が潤う、ためだけの経営目的では、それがたとえ法律は守ってのことだとしても、現代社会では人はついてこない。従業員も取引先も調達先も消費者も地域社会も支持しない。ステークホルダーが支持しなくなった企業は、一時的には利益や配当を確保できても、長期的には市場から退場させられるメカニズムが働くようになった。例のSDGsもこれと近隣の思想である。
 
 かつては企業とステークホルダーの関係は「契約」の関係だった。商品と代金の交換という契約、給料と勤労という契約、投資と還元という契約の世界だった。要は「カネ」が全てだった。経営とは本書でいうところの「契約の束」であった。カネの切れ目は縁の切れ目であった。
 しかし、それでは外部経済の負担や棄損がはなはだしくなる一方になるというのが20世紀の終わりごろから言われるようになった。実はこの指摘は1968年には芽生えていたのだが、環境問題などで顕著になったのは冷戦以後、無視できないほどになったのはリーマンショック以降だろう。ステークホルダーが賛同し、共感し、協力し、率先して動く経営になるには、「契約の束」ではなくて「信頼の束」が必要になったのである。
 つまり、ビジネスとはステークホルダーをめぐる「契約の獲得」から「信頼の獲得」のための競争になったといってよい。ポーターのファイブフォースも、コトラーの4Pも、「契約」すなわちカネをめぐるカテゴライズの枠だけで分析するのではなく、「信頼」をめぐるカテゴライズで分析しなければならない。信頼こそが「クレジット」の本性である
 
 あらためて考えるに、企業が経営において社会的インパクト投資やESGやパーパスデザインを取り入れる必要があるならば、企業内部の働きかけ方も同じように社会的インパクト投資やESGやパーパスデザインをとりいれなければならないのではないかと思う。これこそが「8割の人」を動かすカギなのではないか。分権化と自己組織化を進めることが変化に対応できる企業組織の在り方であるとすればなおのことそうだ。
 たとえば、ESG。環境(environment)と社会(society)とガバナンス(governance)。
 先のヘリコプター式役員の例でいえば、彼のやり方は従業員に対してのESGがまったくなかった。組織の存続をそもそも持続可能にするための「環境」整備がなかったし(むしろ破壊と創造に酔っていた節がある)、企業内という「社会」に格差と競争を生んでしまったし、従業員やその家族まで巻き込んで健康や希望をまったく蔑ろにした「統治」であった。要するに一斉の「信頼」がそこにはなかったのである。当然、各部門長は、部下にパーパスデザインを示すことはできず、コマンド&コントロールを繰り出すことしかできなかった。
 
 8割の人が動かないまま、破壊的なDX化が進み、8割どころかその企業ふくめて10割共倒れになるのが最悪のシナリオである。日本企業にはそのリスクが高い、とは本書の随所で指摘される。
 とまれ、コロナでますます不透明なこの時代、アジャイルな経営判断が重要なことはもちろんだが、そこに人をついてこさせる力、とくに8割の人をなんとかして動かさないことには話にならない。社会的インパクト投資型、ESG型、パーパスデザイン型のリーダーシップが求められるんじゃないかと思う次第である。

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