読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

コンサルが「最初の3年間」で学ぶコト

2023年02月26日 | ビジネス本
コンサルが「最初の3年間」で学ぶコト
 
高松智史
ソシム
 
 もうすぐ社会人30年目にもなろうとしているロートルがいまさら何読んでるんじゃとセルフツッコミしつつ、自分自身の棚卸と水漏れチェックを兼ねて。
 
 ぼくの職場はコンサルではないが、本書指摘するところの“コンサルはなにをやっているのか?”で示された「インプット→考える→アウトプット」という意味ではまったく同じである。僕も、Google先生のお世話になり、パワーポイントをぐりぐりする仕事を何年も続けている。
 で、本書によれば、上記をスマートにやるプロセスが、「ロ→サ→T→ス→作→ア」だそうである。ろさてぃすさあ?
 論点→サブ論点→TASK→スケジュール→作業→アウトプット、ということだ。改めてこのように考えたことはないが、さすがに30年会社員やってると、確かになんとなくこのフローに収れんされてきたようには思う。個人的に肝だと思うのは、「サブ論点」と「スケジュール」なのではないか。
 
 「サブ論点」という本書の表現はちょっとピンときにくいが、「今回のアウトプットで真に求められている要素は何か」を書き出したようなものとでも言おうか。ここではクライアントが抱えている背景とか、「お題」に込められている裏の意味とか、あえてうちらが競合社には無い強みを出せるものは何か、という作戦方針みたいなものが如実に反映される。サブ論点どころか真・論点だ。これがないと、クライアントにフィットしたアウトプットが出せず、ただの情報提供で終わってしまう(それでは感謝されない=報酬が望めないのである)。
 
 スケジュールも重要だ。これをたてないと、アウトプット提出の瞬間そのときぎりぎりまでずっと手をいれなければならなくなる。人生は仕事だけではないのだ。
 
 しかし、言うはやすく行うは難し。しばしば計画通りにはならない。状況がかわる局面がやってくる。クライアントの事情がかわる。これは言えなくなった、こういうことにも触れてほしい、予算が減った、プレゼン日が変更になった、実は裏で別の会社にも依頼していた、役員の最終報告の前にいっかい現場で確認させてほしい、というのが途中にしばしば入ってくる。しかも敵はクライアントだけではない。上司や上長がコメントをいれてくる。「上司は思いつきでものを言う」のは宿命だ。本書では「Nice to have」という言葉が出てくるが、上司が無邪気に言ってくる「●●もあったほうが良くない?」というやつだ。「あったほうが良くない?」という問いの答えはそりゃ「あったほうが良い」のであって、その場合の論点は「なくても差し付かえないか」であり、作業時間や作業負荷とのトレードオフで図るべきものなのだが、作業するのはその上司ではなくてこちらなのでトレードオフにならず、単なる非対称性の暴力である。いかん、ボヤキになってきた。
 
 なので、30年近く会社員やっていると、むしろ提案内容の「正しさ」よりも人間模様の機敏をどう味方につけ、敵を抑制し、一粒で10美味しい効果を探り、徒労を回避するかに長じるようになる。まじめに書くとこの世の中は機械システムではなく生態系なのである
 
 本書は、そういったハックもきちんと紹介されている。「辻褄思考」「テンションを2℃上げる」なんてハックが示されていて、その代表例だ。
 「辻褄思考」というのは、矛盾や不条理にまみれたときに、これはこれで先方にも事情や立場というものがあってしょうがないなんだな、と思える「優しさ」のことであり、むしろこれをうまく先方への「貸し」にするという、「狡さ」の思考のことである。世の中は贈与と返礼でまわっているのは文化人類学的には自明だ。田中角栄は「贈与」と「貸し」を醸し出して人を惹きつける天才だったと言われている。血気盛んな若者は「それって何の意味があるんですか」と言ってくるが、自分にとってうまく意味にしたててみせるのがサバイバル技術であろう。
 
 「テンションを2℃上げる」は、要は「明るくいけ!」だ。処世術としてこれを身に付けているのはやはり女性たちだ。それだけサバイバルを強いられているのだと思うが、この効果はまったく馬鹿にできない。同じことを言うのでも、ビジネスライクなトーンで言うのと明るく元気に言うのでは、先方の信頼と好感を勝ち取る程度がまるで違う。これは会社生活30年で実感していることである。
 さらには「感情が王様、ロジックは家来」「ロジックの反意語はストーリー」など、本書ではハックともスタディともつかぬもなのが次々と紹介されていちいち膝をうつ。
 
 こういった相手の歓心に付け入るキーワードとして、本書では「チャーム」「セクシー」といったカタカナ語が用いられる。こういった感覚知を表す言葉がいちいち外来語というところが意味深だ。脱日本企業文化を黒船的態度で外部から持ち込むことこそがコンサルの真骨頂なのである。
 でも黒船語は、日本人の身体にまだ腹落ちしていないことでもあると看破したのが社会学者兼詩人の水無田気流だ。実際はこういう技術は古来から日本にも存在していたわけで、ここは意地であてはまる日本語を思い出してみる。
 「腹芸」という言葉がある。「忖度」という言葉に取って代わられて死語化したが、本当は忖度よりも戦闘意識のある言葉だ。
 それから「粋(いき)」。九鬼周造いわく「意気地」と「諦め」と「媚態」のブレンド。こういうノンバーバルなところて信頼を得るのは日本のお家芸。日本の企業の経営者にはこんな感じで接するとよい。いや何の話だっけ?

 というよりも、本書をして浮かび上がらせたのは、コンサルのやつら、やっぱりロジック積み立てのしたり顔の裏で、いかに合コンで落とすかのようなこんな作戦感たててたんだな、ということだ。うすうすそうじゃないかと彼らの顔を眺めながら思ってはいたわけだが、縦横2軸の図もフェルミ推定もすべては感動のクライマックスにむけたストーリー演出(それは4コマ起承転結ならぬ9コマのパーツで構成されている)の小道具なんである。

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悪いヤツほど出世する

2021年10月04日 | ビジネス本
悪いヤツほど出世する
 
ジェフリー・フェファー 訳:村井章子
日経ビジネス人文庫
 
 
 というわけでこちらからの続編。
 
 なんであんなズルいだけの奴が出世するのか、とは古今東西変わらないボヤキのようであるが、けっきょく企業組織や職場というものを「機械」と見るか「生態系」と見るかの違いなんだと思う。組織というのはひとつの最大利益にむかって機械のように全軍一致で歯車がまわるように、あるいはプログラムが走るかのように考えがちだ。組織が機械である限りは世界公正仮説は維持される。しかし実際は一人ひとりの思惑があるものだ。むしろ組織というのは各々のメンバーが生存をかけた生態系なのである。したがって組織の最大利益がリーダーの最大利益になるとは限らないし、リーダーの最大利益とスタッフの最大利益だって一致しない。CEOだってプロジェクトリーダーだって各々のスタッフだって、生活もかかっているしエゴだってあるのであって、いくら会社が業績上げていたって自分が冷や飯くらっていては当人たちには意味がない。また、会社の業績が悪くても自分にしかるべき給料や待遇が与えられればそれが本人にとって「勝ち」ではあろう。こうなってくると個々の振る舞いによる抜け駆け、裏切り、駆け引き、合従連衡がうまれ、世界は公正に閉じなくなる。うまくやり遂げる人もいれば、損を被る人もいる。
 
 したがって「権力」を得る人や「出世」する人というのは、少なからずサバイバル能力がある人であり、サバイバルをするということはこの生態系においては清濁併せのむ生き方をするということでもあろう。組織を「機械」のように順路的にロジック通りに動くと思うこと自体がおめでたいことになる。本書でも前書でも再三述べられている「世界公平仮説」の罠は、組織が「機械」つまり公平なしくみで動いているという錯覚ということである。
 
 
 ただ。昔はもう少し企業の最大利益と社員たちの最大利益は近かったような気がする。それは企業が成長すれば順当に働いた人たちに分配されていたからということだろう。会社の幸せは中間管理職の幸せであり、中間管理職の幸せは現場の幸せというストレートな関係はかつてもっと強かった。
 
 しかしそんな牧歌的な時代はもう後景に去った。内部留保をためて社員に還元されないブラック企業はもはや珍しくなくなってしまった。各々が求める利益がここまでバラバラになってしまったのはやはり余裕がなくなったということなのだろうか。限られたパイの奪い合いのようになって自分の出世と他人の冷遇がバーターになり、ひとつの失敗が致命的な傷になりやすく、常に他人の目線にさらされて一挙手一投足が見張られる。そうなると、組織の最大利益を目指すよりはひとりひとりの生存をかけた戦いのほうが強まり、「機械」よりも「生態系」のようになっていく。外敵という共通の目標がいなくなったあとの組織は内ゲバが始まるのは歴史がいくらでも証明している。
 
 というわけで、明日からは自分の職場を「海の世界」と思うようにしよう。そう。海の中は食物連鎖と弱肉強食であり、怖い鮫から弱っちいエビまでいろいろ存在する。しかし弱者には弱者の戦略がある。群れで大魚を寄せ付けないスイミーみたいなのもいる。イソギンチャクに隠れるニモみたいなのもいる。擬態に化けるのもいるし、大魚の腹にくっついているのもいるし、砂の中にもぐりこんでいるのもいる。大魚は大魚同士の壮絶な戦いがある。それどころか海の上からも敵はやってくるし、逆にそれをカモにするやつらもいる。チラチラ疑餌みたいなのをぶらさげておびき寄せるタイプもいれば、穴の中にひそんでいきなりがぶりというのもいる。まさに生存をかけた戦いこそが生態系。そりゃ悪い奴がサバイバルするに決まってるよね。
 

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「権力」を握る人の法則

2021年10月02日 | ビジネス本
「権力」を握る人の法則
 
ジェフリー・フェファー 訳:村井章子
日経ビジネス文庫
 
 
 世の中にある良きリーダーシップ論とか経営者論というのはきれいごとのうそっぱちで、本来的に組織の上に上り詰めるような人たちというのはこういうことなんだ、ということを看破した本。まあ、その通りな気がします。
 
 ①態度が堂々としていて自信にあふれている
   ②偉い人の前によく現れて目立っている
 ③人にものを頼むことにためらいがない
 ④人との関係構築に余念がない
 ⑤物事をきめるときの重要ファクターになる人や組織がどこかを見抜いてそこに居るか、そことの関係をよくする
 ⑥タフで打たれ強く粘り強い
 ⑦まわりからの評判をよくしておく
 
 
 本書に書いてあることをまとめるとこんなあたりに集約される。そりゃそうだろう、という気もする。
 
 要するに本書は「仕事ができる人」が必ずしも偉くなるとは限らない、ということを言っている。ということは反対に「仕事ができないのに偉くなっちゃう」ことだってあり得るということでもある。
 ただ改めて上記条件を思うに、③④⑤⑥ができない人はやっぱり仕事ができない人なんじゃないかと思うし、⑦な人というのはおおむね仕事ができる人だろう。仕事ができないのに愛される人物というのも稀にはいるが、昭和はともかく令和の今日では厳しい気がする。
 つまり③④⑤⑥⑦を持ち合わせずに「仕事ができる」、すなわち顧客の満足を得て会社の売り上げ業績に貢献する(まぐれの一発ではなく、ちゃんと継続的に)ことができる人というのはあまりいないような気がする。逆に③④⑤⑥⑦がないにもかかわらず「仕事ができる」ように見える人というのがむしろ曲者で、何らかの錯覚か不正の可能性があると思ってよいし、自分はこれらを持ち合わせてないけど仕事ができるぞと自認している人は、実は自分が思うほどには仕事ができる人ではない可能性がある。
 
 となると、実は権力を握ることにおいて「仕事ができる」というのは最低必要条件で、大きな差異を占めるのは①「態度が堂々としていて自信にあふれている」②「偉い人の前によく現れて目立っている」というここに行き着くようにも思う。
 
 これは臆面もなく自己主張できるか、それとも引っ込み思案かということでもある。どうも結局のところはここに尽きてしまうのではないか。本書では「権力があるやつは元気なやつである」と身も蓋もないことを言いのけていて、まあたしかに、覇気がない人間が権力をとれるわけがないのだよな。
 
 だけれど、「分別」とか「無知の知」とか「抑制心」、つまり自信がないのに、胸を張って堂々と元気よく他人をさしおいて偉い人の前にずんずん出ていく「胆力」を持てるかどうかというのは、これ自体がやはりひとつの才能なのかもしれない。この話はホントは自信なんかなくても自信がある態度をとることが大事であるというところに行き着くし、そうすればいつのまにか本当に自信がつく、”事実は態度のあとについてくる”と本書は述べている。いくら攻め込まれようが一切自信ある態度を崩さなかったドナルド・トランプとか安倍晋三とか、あれはやっぱ権力を握る人にとって必要な胆力なのだ。厚顔無恥でなくして権力などとれぬということなのだろう。
 
 やー、やっぱ無理だなあ。ちょっと斜め目線のリーダーシップ本でも読んでみようかと思って手にとったのだが、自分の何が足りないかは自分でもよくわかっているつもりであり、だからこそどこか自信をもって言い切れない。態度で表せない。単純なようでいてこの①と②の壁は大きいなあと思う。
 
 でも、そもそも自分は③④⑤⑥⑦は達成しているのか? お前は仕事が気出る人なのか? となるとそれもまったく自信がないわけだけれど。この本なんと続編があるっぽいのでそちらも読んでみるつもりだ。

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世界のビジネスリーダーがいまアートから学んでいること

2020年11月18日 | ビジネス本
世界のビジネスリーダーがいまアートから学んでいること
 
ニール・ヒンディ 訳:小巻靖子
CROSSMEDIA PUBLISHING
 
 
 なんとなく、今流行に乗ったようなタイトルだが、原タイトルは「Renaissance of Renaissance Thinking -A New Paradigm in Management」である。「ルネッサンス思考のルネッサンスー新しい時代のマネジメント」といったところか。翻訳本は邦題がかなり意訳されていることが多いので、かならず原タイトルを確認することにしている。原タイトルには著者の主張や本書の主題がしっかりと現れていることが多い。
 
 「ルネッサンス思考のルネッサンス」というのは謎めいたタイトルだが、愚直に訳すと「ルネッサンス時代の思考様式の復興」という意味合いになる。
 本書ではルネッサンス思考とはまさにルネッサンス時代の思考のことを指している。メディチ家とかレオナルド・ダ・ヴィンチのことだ。
 ルネッサンス時代は「進取の気鋭」に富んだ時代だった。一見逆説的だが、ルネッサンスとは古代の知恵や知識の復興を意味する。メディチ家は、かつてのギリシャ時代の知見を過去の遺物とみなさず、むしろここにこれから未来の世界を模索する手がかりがあるとして、そこに人材や予算を割いたのである。日本風にいうと「温故知新」という言葉に近いかもしれない。
 で、ルネッサンスが見出したギリシャ時代の知見こそが「アート」なのである。
 
 とはいえ、この「アート」はかなり広い範囲を指している。現在一般に言うところの「美術」とか「芸術」の範囲をゆうに超えている。文系と理系をカバーし、科学と思想をハイブリッドにする。あえていうと「統合」的なものの見方こそがアートなのである。
 
 「ルネッサンス思考のルネッサンス」とは、このメディチ家の時代にあった統合されたものの見方を、現代に復興すべき、という意味合いである。
 
 これは裏を返すと、今日のものの見方が統合の反対―分断的ということである。文と理がわかれ、科学と創作行為がわかれる。平たく言えば左脳的領域と右脳的領域がわかれている。こと、ビジネス領域においては「左脳」が幅を効かせる時代が長かった。
 しかし、論理と科学だけでビジネスを企て、まわしていってもうまくいく時代はなくなった。むしろ、右脳的直観こそがこれからの不透明な時代に必要な資質である。左脳と右脳をいったりきたりしながら道を切り開くのである――というのが本書の主張である。
 このあたりの議論はここ数年かなり頻出している。内田和成の「右脳思考」とか、佐宗邦威の「直観と論理をつなぐ思考法 VISION DRIVEN」とかもその代表例だろう。本を待つまでもなく、スティーブ・ジョブズとApple社なんてのはその典型的な例だ。本書の邦題もこのあたりの潮流を意識したものだろう。
 
 統合されたものに「美」が宿る。これがアートである。
 
 
 「真・善・美」の中で、人を動かすのは「美」である、と語ったのは文芸評論家の福田和也である。これはまことに名言で、僕のココロにずいぶん深く刺さっている。「美」があれば、「真」や「善」については少々怪しくてもかまわないのだ。
 むしろ「美」は、科学的に語ろうとしたり論理的に語ろうとした途端、「美」ではなくなり、輝きを失う。理屈めいた衣をまとった「真」や「善」に堕ちる。かつてのソニーは「美」の企業だったがいつのまにやら「真」や「善」にとどまるようになってしまい、そのオーラを失った。
 「美」を「美」のままにしてコトを成し遂げるにはすさまじいエネルギーがいる。関係者の反対をふっきり、周囲の顰蹙をものともせず、完成するまでは身銭を犠牲にしなければならない。信じられるのは自分のセンスだけである。そして完成した暁には、それにしっかり「美」が宿っているものならば、人はどっとなだれをうって動く。
 
 したがって、「美」でもって事態を変えるにはすさまじいエネルギーがいる。本書ではそれを「執念」と呼ぶ。
 
 「グリッド(やりきる力)」という概念が注目されたのもここ最近のことだが、つきとつめると肝心なのはここなんじゃないかという気がする。「美」とはやりきることだとさえ言いたくなる。
 学生時代も仕事先でも、とりつかれたようにコトを進める人を何人か見た。彼らの、くらいついて没頭して障害を蹴散らして何が何でも実現させる執念は、損得勘定とかどこで手を抜いて楽するかという考えが一切なかった。努力も才能のうち、という人もいるが、ここまでがむしゃらにやることで、細部にも徹底にこだわることで、どこまでもどこまでも頭をかきむしってアイデアをひねり出すことで、彼らの仕事の成果物はたしかに「美」があった。もちろんうまくいったプロジェクトもいまくいかなかったプロジェクトもあったが、うまくいったほうの完成度の高さというか、他の追随の許さなさは間違いがなかった。ここまでの執念を自分は持てるかと問われると自信がない。
 
 であれば。執念に必要なものは、ただ自分を信じられるか、という一点につきる。アーティストとは自分を信じられる人だ。心の底から信じられなければ続けられないのである。
 じゃあ、アーティストには不安はないのか、と聞きたくなるが、どうもそんなことはないようだ
 むしろつねに不安と戦っているともいえる。それでも不安を押し殺して自分を信じなければらなない。こうなるともはやアスリートと同じである。そして本書でもあるように起業家とも同じである。
 
 「美」とは、やりきる力があってこそ体現し、そのためには不安に押しつぶされず、自分を信じるタフな心臓がいるのである。ルネッサンス時代のアーティストはみんなタフであった。左脳で計算ばかりしていてはノミの心臓になっていくばかりである。
 

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これからのテレワーク 新しい時代の働き方の教科書

2020年06月08日 | ビジネス本
これからのテレワーク 新しい時代の働き方の教科書
 
片桐あい
自由国民社
 
 
 けっきょく、このコロナによってどのくらいの会社がテレワークに移行したのだろうか。
 
 ①原則として自宅からテレワーク。出社は例外的措置。
 ②週に何日かがテレワーク、何日かが出社。
 ③テレワークなし。ただし、通勤時間に配慮。
 ④これまでの勤務形態とかわらない。
 
 また、いちおうコロナは収束はしたということになってはいるものの、予断を許さぬ状況なので、
 
 (1)これからも原則としてテレワーク
 (2)週に何日かがテレワーク、何日かが出社。
 (3)テレワークはおしまい。ただし、通勤時間に配慮。
 (4)コロナ前の勤務体制に戻る
 
 とバリエーションがある。それぞれの企業がこれらの掛け算でやっているのではないと思う。
 
 ところで、僕の勤務先は、②×(2)であった。
 主眼は、社員の通勤時のリスクを減らすというよりは、オフィス内の人口密度を減らすところにあったらしい。1週間ごとに半分ずついれかわるパターンである。
 
 
 このパターンは、自宅とオフィスのメリットデメリットを両方体感できるが、どちらかに環境整備を寄せられないのがネックだ。自宅勤務を完全にできるのであれば、自宅の仕事環境をもう少しなんとかするのだが、1週間おきというは中途半端である。かといって、会社に必要書類を置きっぱなしにするわけにもいかない。
 しかも、社内の他の人と打ち合わせしようとすると、その人は自宅にいたりして、けっきょくオンライン上の打ち合わせになったりする。「この社員の半分を交互に入れ替わりにする」というのは、オフィスの人口密度を半分にするという経営の観点ではいいのかもしれないが、現場の身としてはどうにも中途半端である。
 
 
 今後、このテレワークは拡大していくのか、それとも縮小していくのか。
 
 長い目でみると、テレワークは進むんだろうなあ、とは思う。それはテレワークの流れというよりは、いわゆるデジタル・トランスフォーメーションのもっと大きく確実な流れがあるからだ
 オフィス勤務が続いてきた理由は、ハンコ文化とか書類文化とか、足で稼いでナンボという営業価値観とか、直接会わなければコミュニケーションにならないだろ、という組織の価値観とか、そういう、かつては確かに有効かつ唯一無二に機能していたもののが慣性的に継続していただけで、それがそのまま既得権益とか抵抗勢力とかチェンジコストの高まりになっていただけであった。このコロナによって外出できなくなると一気にデジタル・トランスフォーメーションの流れに乗った。
 で、案外なんとかなったのである。もちろんそこにはオフィス勤務にはなかった制約がうまれたが、その反対にオフィス勤務がはらんだ問題からも解放されたのだった。通勤電車なんてのはその最たる例だ。
 
 つまり、コロナみたいな災厄はきっかけにすぎない。その前の時代に「無理して続けていたもの」が、カタストロフィーとして一気に解放されて、その後の時代の構造改革に進んでしまうのである。こういう歴史は繰り替えされている
 
 ただ、完全にテレワークが一般になるにはもう少し時間がかかるかなあというのが直観だ。あと10年くらいだろうか。いまの企業の経営を司る年代が世代交代するまではかかるかなあと思う。パラダイムシフトは世代交代しないとなかなか進まないものだ。
 一方で、下の世代は着々とテレワークでマルチコミュニケ―ションをとったり、成果を見える化するテクニックを身につけたり、セルフコントロールを会得していくだろう。テレワークする部下の人心掌握に長ける若いマネージャーも出てくるだろう。
 
 
 これからの「仕事ができる」ビジネスマンとは「テレワークで仕事ができる」ビジネスマンのこと、という論調を、本書をはじめとしてあちこちで目にした。ということは出社を強制させる経営者は「できない」ビジネスマンを囲い込む経営者ということになるだろう。
 先見の明がある経営者は、積極的に従業員をテレワークで仕事ができるように仕向ける、ということでもある。それは四半世紀前、インターネットが世の中に普及する前後の時代、積極的にWWWブラウザやEメールを導入した経営者と、電話で話し、ちょくせつ手と足で情報をとりにいくのが仕事だ、と信じてやまなかった経営者の違いでもある。

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1兆ドルコーチ シリコンバレーのレジェンド、ビル・キャンベルの成功の教え

2020年01月22日 | ビジネス本

1兆ドルコーチ シリコンバレーのレジェンド、ビル・キャンベルの成功の教え

ジョナサン・ローゼンバーグ アラン・イーグル 訳:櫻井祐子
ダイヤモンド社

 2016年に行われたビル・キャンベルの追悼式には、ティム・クック(AppleのCEO)とラリー・ペイジ(Google創業者)とジョフ・ベゾス(Amazon創業者)とマーク・ザッハーバーグ(FACEBOOK創業者)が参列したのだそうだ。彼こそはスティーブ・ジョブズ(Apple創業者)とエリック・シュミット(GoogleのCEO)のメンターであった。さらにはディック・コスト(TwitterのCEO)、ジョン・ドナホー(eBayのCEO)も指導を受けている。鼻血もんである。ここに上がっていない名前といえばビル・ゲイツくらいだ。

 この本は、これらシリコンバレーの超大物列伝と言いたくなるような成功者を「メンター」「コーチ」としてなんと無償で支えた人物ビル・キャンベルのことを書いた本である。といってもビル・キャンベル自身を直接取材しているわけではない。彼が亡くなった後に企画された本だ。したがって、いろいろな人の証言と編集で成り立っている。

 そういう経緯の本なので、生前のビル・キャンベルが実際に何を考え、どういうつもりでこれらの人々にリーダーシップやメンタリングやコーチングをしてきたのかはわからない。本書でとりあげられているのは彼の薫陶を受けた人々の証言や状況証拠といった断片の数々である。

 

 それらの行間から読みとれるのは、ビル・キャンベルは、ジョブズやペイジといった彼らの仕事の「中身」、ビジネスそのものについてはとくに頓着しなかったということだ。そりゃそうだろう。AppleとGoogleのトップに同時に関わるんだから。

 要するに、彼はどこまでも「人」を観ていたということだ。その人の仕事の中身を判断・判定しているのではなく、その人そのものをモチベートし、叱咤激励してきたということである。

 「人」をみる、というのは当たり前のようで、多くの管理職やマネージャーは案外にそうではないと思う。マネージャーは通常はその人の「仕事の中身」をみるのであって「人」そのものは二の次である。その本質は「赤い猫でも白い猫でもネズミをとるのがいい猫だ」というやつである。

 しかし、これは別の本で読んだものだが、とある外資企業の有能なボスが部下を「タスクベース」ではなくて「ヒューマンベース」でアサインし、指導し、評価していたという。そのことに部下になった日本人の社員がたいそう目ウロコだったというエピソードだ。これは普段の我々が「タスクベース」でアサインされ、評価されているということの裏返しである。

 「ヒューマンベース」というのは、実際のところはなかなか困難に思う。人事や査定というのは、どんな人が担当しても一定以上のクオリティが出ることを求めるし、そのように社員を教育し、人事異動の計画も立てていく。要するに「タスクベース」なのである。一般的なマネジメントにおいて、担当者が変わったからといってクオリティが変動したり、特徴が変容することを許容することはなかなか無い。

 

 したがって、ビル・キャンベルのようなメンターがいてくれること、あるいはビル・キャンベルのようにマネジメントすることというのは、理想であってもなかなか難しいなと思うわけだが、はたと気づいた。

 それは、ビル・キャンベルというのは、日本においては「新宿の母」なんかがそれに近いのかもしれないということである。これも別の本で読んだことだが、超優秀な占い師のところには有名な企業の社長や大物の政治家が通ってくるのだそうだ。常連もいるという。それはその占い師の言うことにはそれなりに彼らにとって有効であるということを意味する。占い師がいちいち彼らのビジネスの中身や政治の内容にコミットしているはずはないから、その占い師は目の前の「人」を見て、彼らの決断を支えたり、何かしら考えるヒントを与えているのだ。大物が集う銀座の高級クラブの「ママ」も同様なのであろう。

 本書によると、ビル・キャンベルも、彼自らがジョブズやシュミットに代わって何かを決断したわけではない。彼はコンサルタントでも参謀でもなく、コーチなのである。新宿の母であり、銀座のママなのだ。

 つまり、人の上にたつもの、中間管理職であれ、チームリーダーであれ、その組織を成功させるためには組織メンバーひとりひとりの「新宿の母」になれ、ということだ。なるほどなあ。


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Think CIVITY 「礼儀正しさ」こそ最強の生存戦略である

2019年07月06日 | ビジネス本

Think CIVITY 「礼儀正しさ」こそ最強の生存戦略である

 

著:クリスティーン・ボラス  訳:夏目大

東洋経済新報社

 

 

数年前に職場で管理職というものになった。数名の部下がつくことになる。

 

戸惑ったことはたくさんあったが、困ったことのひとつに「僕は叱責するのが下手」というのがあった。

怒鳴りつけたり、それは違うだろと否定したりするのが不得手なのである。相手が出してきたものはどんなものであれ、なんとなく理があると思ったり、筋が通っているように思ってしまう。要するに人が良いのである。自分でいうのもなんだけれど。

だから、へんな口車に乗せられやすかったり、頼まれごとを断れなかったりする。くれぐれも詐欺にだけはあわないように気を付けないといけない。

 

ぼくが勤めている会社はどちらかというと体育会系というか武骨なところがあって、先輩上司たちはわりと横柄に後輩や部下を怒鳴りつけていた。もちろんここに書いているのは「ブラック企業」とか「パワハラ」とかそんなコトバが登場する以前の話である。

つまり、上司というのは、部下をどやすものだ、という価値観が漫然とあったころだ。

 

 

その後、電通やワタミの事件が明るみとなって企業にはびこるいろいろな澱がいっきに明るみになった。長時間残業とかパワハラ上司とか過労死とか、職場の閉塞感とその打破がいっきに社会問題になった。僕のへんなプレッシャーはまったくお門違いだったということである。

やがて「わたし、定時に帰ります。」という小説やドラマが登場するに至った。

 

 

閑話休題。

僕はわりと本は読んできたが、そのなかでビジネス書の割合はさして多くない。「失敗の本質」や「粗にして野だが卑ではない」みたいにビジネス界でもよく読まれる本というのはもちろんあって、そういうのは僕も読んでいたわけだけれど、これらはジャンルとしては「ビジネス本」ではないだろう。

管理職になったときに、そのあまりの未知の世界にいくつか「ビジネス本」を手にとった。

 

その中で圧倒的に説得力をもって響いたのが古典中の古典、カーネギーの「人を動かす」だった。

というか、この1冊さえあればもういいんじゃないかと思った次第である。この1冊で、ぼくの「人を叱責できない」コンプレックスはだいぶ解消されたといってよい。

 

 

さて。本書「Think CIVITY 「礼儀正しさ」こそ最強の生存戦略である」も、本筋的には「人を動かす」から一歩も外に出ていない。カーネギーがあくまで個人経験と主観から語ったことを、もう少し客観的に記述したに過ぎない。

ただ、本書が慧眼なのはサブタイトルを「生存戦略」としたところだと思う。

原書のサブタイトルは"A Manifesto for the Workplace"とあって、直訳すると”職場への宣言”みたいなものになるから、この邦訳はわりと意訳しているわけだ。

 

だけど、この意訳がなかなかいいセンをついているのではないかと思うのである。

なんとなく周囲を眺めて思ったことは「優秀な人は優しい」ということだった。これは「思考の整理学」の外山滋比古も書いていたことだけれど、思うに優秀な人が結果として優しくなる、とのではなく、「優しい人が優秀になれる」ということなんだなと思ったのである。

つまり、「優しい」のは技術である。エーリッヒ・フロムの名著に「愛するということ」原書のタイトルは"The Art of Loving"、つまり「愛する技術」というのがあるように、「優しくする」のは技術だ。本心の赴くままの「優しさ」ではなく、意図して、努力して「優しくする」というのはけっこうなエネルギーを要する技術なのである。そしてそうやって「優しさ」という技術を取得することはかなりの「優秀な人間」をつくりだすことになる。周囲に支持され、その人のためにまわりも積極的に動くようになる。そういう人が「生存」する。

たまたまの立場上あるいは職権上いばりちらしているような人はもはや生存できない。体育会な社風であったぼくの職場でもそうなりつつある。人に動いてもらうには、職権でも業務命令でもなく、人徳が問われるということになる。

つまり、戦略的に人徳を獲得しなければならない。そうしないと生存できない。そんな時代である。

もっとも人徳ある人こそが生存する、というのは悪い話ではない。ただ、後天的に技術として人徳を獲得するというのはこれはなかなかたいへんなことではある。

 


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知的生産の技術

2019年04月20日 | ビジネス本

知的生産の技術

 

梅棹忠夫

岩波新書

 

メモのノウハウ本はビジネス書の定番だ。最近だと「メモの魔術」とか「スマホメモ」とかある。

メモ本の歴史を紐解いたわけではないが、梅棹忠夫の「知的生産の技術」はパイオニアのひとつと言って間違いないと思う。昭和44年の刊行だからもはや古典文献だが、しかしこの本は岩波新書としていまだ現役である。大きな書店の新書コーナーにいけばあるはずだ。

そして驚くことに、現在の氾濫するメモ本のほとんどが本質的に「知的生産の技術」から一歩もはみ出ていないのである。

その極意は「とにかくなんでもメモっとけ」と「メモったものはすぐに探し出せるようにせよ」。そして「たまに見返せよ」なのである。これでレポート作成もビジネスもアカデミズムも人生もうまくいっちゃうのである。

昭和40年代はそのメモ台としてA6判の「京大式カード」というものが提案されていたが、その後の時代の流れや技術革新やさまざまなアイデアで派生種が広がり、現在みられるような書店に並ぶ各種メモ術本に至っているわけだ。その術はA4判ノートだったり、100均のメモ帳だったり、データベースソフトだったり、スマホのメモアプリだったり、Evernoteだったりする。また、メモ帳もロディアが良い、モレスキンが良いが良いと色々な派閥ができている。

つまり「知的生産の技術」はメモ術の開祖なのである。

 

というわけで今日、百人には百人のメモ術があり、我こそはというわけで百家争鳴のメモ術本がビジネス書コーナーで氾濫している。

しかし、このひとメモ魔だなー、と思う人は仕事の場でも意外に見かけない。もちろん会議の場とか取材の場ではみんなメモるが(最近はデスクの上にモバイルPCを開いてパチパチするパターンが多い)、いわゆる「なんでもメモる」ような人というのはこれだけメモ術本が溢れているわりに見かけない気がする。

手を変え品を変えてメモ術本が次々でてくるということはそれだけ買う人がいるのだろうけれど、けっきょく実践する人というのはほんの少しなんだろう。そして見果てぬ夢をみてまた新たなメモ術本に手を伸ばす。

実はメモ術本ビジネスというのは、ビジネスモデルなんだと思う。

 


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直観と論理をつなぐ思考法 VISION DRIVEN

2019年04月03日 | ビジネス本

直観と論理をつなぐ思考法 VISION DRIVEN

佐宗邦威
ダイヤモンド社

 

 会社の人間をぼんやりみていると、自分の中に何か美意識というか基準となる哲学みたいなものがあってまるで自分の作品を出すような気概で仕事をする人と、外部から言われたり、外部に何かきっかけがあって仕事をする人がいる。たとえばこれを内発⇔外発の軸とする。

 それから、基本的に能動的に仕事を作り出す人と、受動的に仕事を引き受ける人がいる。これを受動⇔能動の軸とする。

 この2つの軸を縦横に置くと、4つの象限ができる。

 たとえば第1象限は「内発」かつ「能動」というタイプである。本書のビジョナリーな人というのはここなんだろうなと思う。本書はこの象限で成功するための指南書だ。うまく機能すると「世の中を感動させるアートなもの」を出せる人だ。だけど、うまくいかないとエゴイズムが漏れ出た単なる「かまってちゃん」になりそうにも思う。

 第2象限は「外発」かつ「能動」というタイプである。外のなにかに触発されて自ら動き出す。うまくいけば「使命感」に支えられて完全燃焼ができる人だ。ヒーローになれる。しかし、これもうまくいかないと「おせっかい」な人になる。

 第3象限は「外発」かつ「受動」というタイプだ。これはいわゆる受注型タイプであろう。うまくいけば「最小エネルギーで最大の効果」という生産性向上ができるかもしれないが、メンタリティとしては「指示待ち」であり、もっといえば「やらされ感」が強い。楽しくはないと思う。

 第4象限は「内発」かつ「受動」というタイプ。「降りてくるのを待つ」とでもいうか、うまくいけば民話の「三年寝太郎」のような一発大逆転があるかもしれない。ただ、いつまでも芽が出ない「いつかおれはなにかやってやるぜ。何かを」と深夜のファミレスで息巻くフリーターのように見えなくもない。

 

 何が言いたいかというと、なんであってもポジネガ両側面があるかもなあ、ということだ。「ビジョナリー」であることも大事だが、どうポジティブサイドに転がるようにコントロールしていくかということがもっと大事だろう。もちろん本書はそのコントロール方法を詳細に述べている。

 いろいろなことが書いてあるが、そのココロは、試行錯誤と挫折(小さな失敗)を繰り返しながら、上昇カーブを少しずつ進めていってやがて偉大なる成功に至る、という道筋だと思う。ということはこれの核心は「やりぬく力(GRIT)」ということだろう。おのれを信じてとにかく続ける、というのは先ごろ紹介した「アーティストのためのハンドブック」と同じである。

 ちなみに僕は第2象限の「使命感」もバカにはできないと思っている。「OODAループ」でも出てくるが、「使命感」は人が自律的に行動する組織に無くてはならないものだ。自律的組織といえば「ティール組織」だ。

 なお、本書は「ティール組織」も、それから「センスメイキング」も取り入れられている。ジャーナルの習慣をつくるというところは「ゼロ秒思考」を連想する。「ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学」を彷彿させるところもある。「100年人生」も「サピエンス全史」も「SDGs」も出てくる。

 なんとなく最近のビジネス書まわりの言説を集大成させた構築物のようでもある。組み合わせの妙から新たなアイデアを生むというのは発想の常道だが、それを冒頭に掲げられている1枚のイラストにしてしまったのが本書の真骨頂だろう。このイラストと目次があれば、勘のいい人ならば本書の内容を十分につかむことができるはずだ。


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センスメイキング 本当に重要なものを見極める力

2018年12月26日 | ビジネス本

センスメイキング 本当に重要なものを見極める力

 

著:クリスチャン・マスビアウ 訳:斎藤栄一郎

プレジデント社

 

 

ビッグデータや、コンサルティング会社が良く使うような経営指標主義に反旗を翻す本。性格的には「世界のエリートはなぜ『美意識』を鍛えるのか」と似たようなところがある。アンチ「マネー・ボール」的とでも言えばよいか。

 

本書曰く、世の中を知るには、市場を知るには、人間を知るには、ビッグデータなどではなくてしっかり「センスメイキング」をしなければならない。センスメイキングというのは”鍛え上げられた直観”とでも言えばいいのか、いま目の前で起こっていることや、市場や人間や世の中が放つ有形無形の兆しを手掛かりに物事を判断する能力である。ビッグデータが定量的で抽象的な情報であることに対し、センスメイキングは定性的で具体的な情報を察知する能力が問われる。Wikipedia にも「センスメイキング」の項目があって、OODAとも関係してくるらしい。

 

で、そのセンスメイキングの能力はいかにして高めるか、というのが本書の主題である。本書いわく、必要とするのは「哲学」の素養であり、もっと具体的にいうと「現象学」の考え方である。

 

「現象学」かあ。たいして勉強していないのでよくわかっていないが、「現象学」というとフッサールを思い出す。しかし、本書で強力に推しているのはハイデガーである。ハイデガーの「現象学」を説明してみろ、と言われてもモゴモゴしてしまう。ある現象が目の前にあるとして、その現象を解釈するにあたってはその現象自体が単体独立として意味を持つということはなく、その現象の背後にある「文脈」がその現象に意味を与える、というものという感じだろうか。たとえば「腹が減った」という現象は、それが飢餓で何日も食べていないことによるものか、ダイエットの最中で目標達成まであとわずかというものか、どこからか鰻のいい匂いが漂ってきて思わず感じたものかによって、まったく意味が異なる。こういう文脈を切り離して「腹が減った」という現象のみを解釈することはできない。

つまり、目の前で起こっていること、市場の現象、人間の行動、世の中の現象はすべてなんらかの文脈を背負っている。言い換えると、大きな文脈の一部の現れなのである。郵便ポストが赤いのも何かの文脈の現れなのである。

 

よって、ある事件があったとして、その事件の解決法をめぐっていくらレポートを聞いてもケーススタディを調べても、その事件特有の文脈がわからなければ解決はしない。そして事件特有の文脈は現場に行かないとわからない。即ち「事件は会議室で起きているんじゃない。現場で起きているんだ。」ということである。そうか。あれはハイデガーだったのか。

 

 

ところで、目の前の対象を、細かく腑分けしていくいわゆる「分析」という能力、これを素早く正確にできることがいわゆる「優秀な人」の素養と言える。偏見承知でいうと、優秀な東大の文系の人はこれに秀でている。エリート官僚なんかはこれがものすごく上手な気がする。複雑な問題をひとつひとつ解きほぐして手のひらサイズに解題していく。それを次から次へとこなす。これに必要な能力とは何がどうなっているのかの構造を見抜く「論理力」、分解しやすい単位に変換させる「定量化力」、特殊な現象を一般のものに敷衍させる「一般化力」だろう。

これに対して、目の前の対象は、実は何かもっと大きなものの一部である、というもうひとつ外側のレイヤーに思いを馳せようとするのが、梅棹忠夫や今西錦司などが所属した新京都学派の連中だ。これに必要な能力は、微細な情報も漏らさない「観察力」、どうすれば辻褄があう世界仮説がつくれるかという「物語力」、どんな特殊な案件でもそれを尊重する「個別適応力」である。

僕は勝手に「分析脳」と「統合脳」、あるいは「東大脳」と「京大脳」という風に読んでいる。どっちが良い悪いということはない。求められる時と場所がそれぞれ違うということなんだろう。

 

ただ、「思考の整理学」で有名な外山慈比古氏は、「分析はコンピュータの得意とすることであり、人間は統合力こそ求められる」ということを80年代に述べている。今年話題になった「AI VS 教科書が読めない子どもたち」の新井紀子氏は、なぜかAIが得意とする領域のほうに学校教育のカリキュラムが組まれる(つまり、AIの劣化版のことしかできず、AIができないことはできない「何の役にも立たない」人間が大量に発生する)という薄気味悪い指摘をしている。

 

目の前の現象から様々な兆しを読み取るのは、本来的には動物的な野生能力といってもよい。万事が定量化され、類型化され、管理化される「脱野生」的な今日だからこそ、その背後にある数字にならないもの、類型におさまらないもの、管理しようがないものを察知する能力が、これからの世の中における他人やAIとの競争力の源泉だろう。「分析脳」もけっこうだが、ここはひとつ「統合脳」を鍛えていかねばなどと思う。

 

そのための秘訣は本書によれば、「個人」より「文化」、「薄いデータ」より「厚いデータ」、「動物園」より「サバンナ」、「GPS」より「北極星」、「生産性」より「創造性」とのことである。詳細は本書を参照されたいが、僕が思うにこれはエスノグラフィ(民俗学)のセンスだ。

問題があるとすれば、これの欠点はひたすら風呂敷が広がっていって時間がかかってしょうがないことである。そもそもエスノグラフィというのはたいへん手間暇がかかる学問である。

したがってことの本質は「短時間でセンスメイキングができるようになるにはどうすればよいか」ということになる。これすなわち”鍛え上げられた直観力”ということになり、普段から筋トレよろしく「現象学」を身に着けるようになっていなければならない。

本ばかり読んでないで街に出なさい、ということだろうか。

 

 


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世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 経営における「アート」と「サイエンス」

2018年12月11日 | ビジネス本

世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 経営における「アート」と「サイエンス」

山口周
光文社新書

 本書でいうところの「アート」と「サイエンス」に近いのだけれど、「文系の感受性」と「理系の方法論」の両方を併せ持った人こそが最高だなと僕は常々思っていた。日本人でいうと夏目漱石の友人で知られる物理学者の寺田寅彦がそうだ。寺田寅彦の随筆集は岩波文庫から何冊か出ているがどれも小粋と論理が絶妙にブレンドされていて、平成の終わりの今となってもほれぼれする(路面電車の混雑に関する考察は、現代でもエレベーターや地下鉄で観られることがあり、僕はそれを応用している)。
 寺田寅彦の自己紹介短歌が素敵である。

 ”好きなもの  イチゴ珈琲花美人 懐手して宇宙見物”

 こういう句が書けるセンスの人になりたいと思う。

 

 というわけで、エリートはなぜ美意識を鍛えるのか。VUCAの現代、論理だけでは真の解決は見いだせず、アート的なセンスによる直覚型の判断ができるようにならなくてはならず、そのためには「美意識」を磨かないとならない。世界のエリートはそこにとっくに気が付いていて美意識磨きに余念がない。逆に「美意識」を持たないでエリートの座にいる人は社会にとって「危険」である、というのが本書の導入である。

 僕が周囲を見ている限りは、「美意識」のもともとある人(少なくとも「美意識」が育つ素養がある人)が真のエリートになるのであって、エリートになった人があとから「美意識」を磨こうとしても見てくれに終わるというか、そんな人はつかの間のエリートか、あるいは”担ぎ出された”エリートなのではないかとも思う。したがって本書が要求している「美意識」とは、セミナーや研修でビジネススキルのように身に着けられるものでもなさそうだ。もっと大学生とか高校生とか、もしくはもっと前から自覚的にならなければならない素養のように思う。

 本書の後半で、基礎として(古典の)哲学」を学びなさい、というところがある。古典の哲学からは

 ①コンテンツ
 ②プロセス
 ③モード

 を学ぶ力が鍛えられるからである、というのが本書の主旨だ。

 その通りではないかと思う、とともにこれこそが「美意識力」の正体なのではないか。

 少し言い方は違うが、「表側」と「中身」と「背景」、あるいは「現象」と「原因」と「環境」、でもよい。つまり、目の前にある①コンテンツ・表側・現象には、そこに至る②プロセス・中身・原因があり、そういう現象を起こす時代や地域という③モード・背景・環境がある、ということだ。

 で、古典哲学に限らず、アート鑑賞に限らず、すべての学問はつきつめるとこの3つを学ぶためにあるのではないかと思うのだ。つまり、手がかりからこの世界の正体を知る、という思考はこの3つを通じて行うのである。これが教養つまりリベラルアーツの正体であろう。世界の正体を知るということは、世界に対して自分を相対的に位置付けることができるということであり、自分を相対的に位置付けられれば、その世界の装置に自分は組み込まれていないと解釈できるようになり、その結果、自分は自由(リベラル)になれる。つまり自分を見失わない能力というのがリベラルアーツと言える。

 だから、哲学を学ぶと確かにコンテンツ・プロセス・モードを学ぶ力が鍛えられるけれど、畢竟すべての知識は、そのつもりで学ばないと”生きた知識”にならないと思う。逆にこれさえ会得できれば、散歩ひとつでも無限の知的体験に昇華させることができる(ブラタモリがそうである)。

 しかし、このような、コンテンツ・プロセス・モードを学ぶ力をつける、というのはかなりの鍛錬を必要とするよなあ。一朝一夕で身につくものではないし、よほど自覚的でなければならないし、そもそも日本の教育体系はそうなっていない。大学入試改革も検討されていて文理の垣根をとったり、思考力を鍛えるカリキュラムが考案されているが、つまりそれくらい教育の根っこからつくりあげていかないと、こういうセンスは育まれない。

 そういう意味では、本書も実はけっこう意地が悪い確信犯だよな、と思ったりもする。つまり、美意識なんてものは簡単に身につくものではありませんよ、場合によっては手遅れですよ、だからあなたがたは「エリート」ではないんですよ、という突き放したところがあちこちに感じられる。プラトンやカントやアーレントまで引き合いに出して、世界のエリートはこのレベルで議論をしているのだ、お前らついてこれるのか? とまあそういう態度の本と言えなくもない。

 そんな本が2018年のビジネス書大賞受賞とのことだ。ニッポンのサラリーマンのコンプレックスをぐっと突いたんだろうと思う。(「ビジネスマン」というとパリッとしているのに「サラリーマン」というと急に悲哀が漂いだすのはなぜなんだろうか?)


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決断の本質 プロセス志向の意思決定マネジメント

2018年12月08日 | ビジネス本

決断の本質 プロセス志向の意思決定マネジメント

 

マイケル・A・ロベルト

英治出版

 

「失敗の本質」以来、「〇〇の本質」というタイトルのビジネス本が次々と出て、本書もその一環のように見えるが、原書のタイトルは「WHY GREAT LEADERS DON'T TAKE YES FOR AN ANSWER」。「なぜ優れたリーダーは正解を言わないのか?」といったところか。

 

本書はそれなりに厚みのある本だが、主旨はけっこうシンプルである。チームが正しい決断を得るには、リーダーは「正解」を言うのではなく、「正解が出るプロセス」を整えることである、というものだ。

つまり、チームが間違った意思決定をした場合、間違いの原因は、それを導き出したチームの意思決定プロセスにあるというものである。したがって、そのプロセスが改善されない限り、同じ間違いを繰り返す。アメリカのスペースシャトル「コロンビア号」の事故は、その17年前に起こった「チャレンジャー号」の事故と、表面上の現象は違う技術的事故だが、その事故を許してしまったのはNASAという組織の意思決定プロセスにあり、それは両事故とも同じものであった。

「失敗の本質」も、言うならば日本軍特有の意思決定プロセスに失敗の因果が潜んでいたことを看破した本である。

 

僕の勤めている会社で、お得意先に採用されなかったりライバル会社に競り負けてしまったプレゼンの企画書を集めて、失敗分析をしようというプロジェクトチームが発足した。僕も採用されなかったプレゼンの企画書を提出させられた。しかし、はっきりいって企画書を集めて眺めたところで失敗の真の原因はわからないだろうとひがみ半分で思ったりする。焦点をあてるべきは、なぜそんな企画書に至ってしまったのかのチームの意思決定プロセスで、そこを検証しないことには、また同じような提案をして失敗を繰り返すだろう。

で、組織の意思決定プロセスというのはかなりその会社の社風というか、組織文化に左右される。フラットな雰囲気の組織と、ピラミッド的な官僚型の組織と、体育会的な組織ではモノゴトの決まり方はだいぶ違うだろう。その文化は時によってプラスにもマイナスにも作用するはずだ。

簡単に言ってしまう、「それって間違っているんじゃないかなあ」とチームの誰かが思っても、それを言わせない雰囲気のある組織は、けっきょく間違った意思決定を出し続けるリスクがある、ということだ。こういう組織は多かれ少なかれあるだろう。

とくに日本の場合は、年功序列的なものがなんだかんだいってあるから、先輩の間違いを指摘しにくい。これだけ変化の激しい今日の世の中では、先輩のほうが後輩より正しい答えを導く確率というのは必ずしも高いものではないし、むしろ過去の成功体験が今となってはミスリードになることもしばしばであるが、それでも先輩に異を問いにくいという組織は多いだろう。上を通して許可をもらわないと行動に持っていけない、というところは多いはずだが、このとき「上」が基本的に間違っていたりすると悲劇が繰り返されることになる。(新橋のサラリーマンのぼやきみたいになってきたぞ)

 

 

本書では、意思決定「プロセス」をコントロールすることこそが有能なリーダーであるとする。そして、非建設的な対立に陥るチーム議論の原因や、それを回避するためのファシリテーション方法などがいろいろ挙げられているが、その要諦は、誰もが畏れも警戒もなく自由に意見が言えること、意見を言われた相手が機嫌を損なわせないようにすることということなのである。簡単そうで難しい。そこには面子や立場といったなかなか厄介なものがあるし、「立場」というものがかなり言動を制限することはスタンフォード監獄実験などの心理学実験でもよく指摘されている。

まずはリーダーそのものが、リーダーという「立場」なのだけれど、その「立場」が醸し出すネガティブ効果を抑えるように配慮する必要がある。配慮しながら、しかしファシリテーションを繰り広げなければならない。感情的になりすぎるところを先回りして制し、なあなあで妥協しそうになるところをもうひと踏ん張りさせる。チームがあたかも自発的にそれを意思決定したかのように、実はリーダーの差配でその結論にもっていくようなコントロールを行う。まさに離れ業である。

 

第2次世界大戦時に最高司令官となり、戦後に第34代アメリカ大統領になったアイゼンハワーはこれの名人だったそうだ。

アメリカの大統領というのは、キューバ危機のケネディにしろ、剛腕ニクソンにしろ、冷戦終結のレーガンにしろ、9.11後に最高支持率を獲ったブッシュにしろ、Yes We canで全世界を感動させたオバマにしろ、そのリーダーシップのありかたはそれぞれで賛否もあるけれどなんだかんだで人をよく惹きつけるものだ。出てくる政策や最終的な成果だけみれば疑問も多い歴代アメリカ大統領だが、それこそ「プロセス」のコントロールに関しては相当に鍛えられているように感じる。ほぼ1年にわたる大統領選を勝ち抜くことがそれのスクリーニングになっているのかもしれない。トンデモなのか実は凄いのかよくわからないトランプ大統領も、なんだかんだで国民の支持は下がっていないし、人をいかにまとめあげるかというDNAが移民と開拓の歴史の中で培われたのであろうか。このへんは日本の歴代首相にはなかなか見られないものである。

 


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1440分の使い方 成功者たちの時間管理15の秘訣

2018年11月09日 | ビジネス本

1440分の使い方 成功者たちの時間管理15の秘訣

ケビン・クルーズ 訳:木村千里
パンローリング


 人生は100年時代なのに、1440分(24時間)を合理的に生産的に使わなくてはならないとはなんとも難儀な時代になったものである。情報テクノロジーの生産性はムーアの法則として累積的に加速していくが、人間自身もまた、ムーアの法則のように生産性を加速度的に高めていかなければならないのである。つまり10年前は1週間かけてやってよいこどが、いまや数時間で完成させないと人材として認められなくなってしまった。とほほ。

 したがって、「仕事ができる人」=「時間使いの名人」ということである。熟慮に熟慮を重ね、みっちり時間をとってこつこつしあげる職人肌の人は「仕事ができない人」なのである。これがここ数年にあったパラダイムシフトだ。24時間かけて100の完成度を誇るより、12時間で60の完成度を仕上げてしまい、それを1日間で2つ作れてしまう人のほうが「仕事ができる」のである。

 本書にはテクニカルなことがいくつもかかれている。スケジュールは15分単位でいれろとか、ToDoリストではなくスケジュール表にしろとか、朝起きたらたくさん水を飲めとか、運動しろとか、何も予定がない時間をあえて確保してスケジュール帳でブロックしておけとか、手書きでメモれとか、常にメモ帳を携帯しろとか、後回ししたいものこそ先に片付けろとか。

 まあそういうことなのかもしれないが本書で目玉のは「80対20の法則」の敷衍だろう。実際に僕の周囲などをみても「時間使いの名人」すなわち「仕事ができる人」は、この法則を自覚的経験的にかかわらずわかっているように思う。
 「80対20の法則」とは、その仕事の価値の8割を占める重要ポイントは、実は全体の2割に満たない、という逆説的な法則のことである。つまり残りの8割は価値としては2割ほどでしかない。
 これが何を意味するかというと、その仕事のコアバリューを決める大事なところは、仕事全体にかける時間の2割で済むということだ。残りの時間8割はそのコアバリューをフォローするための資料集めなどに費やす時間に過ぎない。
 たとえば企画書をまとめるとしたとき。100ページの企画書があるとして、大事なところは20ページ程度である。残りの80ページは演出や規定演技であるに過ぎない。

 そうすると「時間使いのうまい人」は、その大事なコアバリューの「8割」のところだけをさっと見抜き、先に「2割」の時間でやってしまうのである。残りの8割時間のほうは誰かに任せたり、隙間時間でちまちまとうめたり、あるいは未完成のまま押し通してしまう。一番大事なところが抑えられているからなんとかなるのだ。
 反対に「時間使いの下手な人」は、時間がかかる8割ーー実際にその価値は「2割」しかないのにーーから着手してそこに延々に時間をかけてしまい、いつまでたっても一番大事なところに行き着かないので「あいつは仕事が遅い」「何が大事かわかってない」となって、「仕事ができない人」になってしまう。

 この「80対20」の法則はいろいろ応用がある。たとえば会議。だらだら続くもいっぱいあるが、本当に大事な意思決定や討論は会議全体時間の中の2割程度だったりする。「時間使いの名人」すなわち「仕事ができる人」は、その2割のところだけ積極的に参加して、あとは退出したり手元のノートパソコンで他の仕事をしている(隙間時間でちまちまうめたい「8割」のほうの仕事をしていたりする)。

 人間関係や人脈もそうで、フェイスブックに登録されている友達などソーシャルネットワークのなかで本当に大事なのはその中の2割である。あとの8割はたいして作用していない。(クレジットカードなんかでも、アクティブなのは2割でのこり8割は幽霊会員というのはよく聞く話である)


 つまりこういうことが言える。1440分のうち、本当に大事なのは2割にあたる288分つまり4時間48分だ。ざっくりいうと5時間である。
 5時間を上手にねん出して、ベストのコンディションをつくり、自己裁量を確保して価値あることに使えると「時間使いのうまい人」すなわち「仕事ができる人」になる。
 5時間のうち、1時間を読書などのインプットに費やし、1時間をジョギングなどの健康増進に費やし、1時間を「大事な人(ソーシャルネットワークの2割!)」と話すのに費やし、そして2時間を仕事の本当の大事なところのアウトプットに費やす、でもよい。それを毎日続ければあなたは1440分の使い方の名人、「超・仕事ができる人」になる。
 秘訣はこうだ。朝起きてから通勤時間中などの時間もふくめて午前中いっぱい、ランチタイムが終わるまでをその「大事な5時間」にしてしまうのである。まずは早起きから始めてみることだ。




 ・・・・うーん。みごとに自己啓発書的なストーリーの完成である。そうはうまくいかないのが世の常だ。
 8割のムダの中に実は破壊的イノベーションのアイデアがあるという説もある。本当に本当に大事なのは、8割のムダの中に「よくわからないけれどこれはなにか後々使えるかもしれない」という直観的なアンテナを働かす能力なのではないかとも思う。これが鍛えられないと、しょせんは本物のAIのムーアの法則の前には叶わないのではないかと思うのである。


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戦略的に出世する技術

2018年06月06日 | ビジネス本
戦略的に出世する技術
 
加谷珪一
かんき出版
 
 
 すげえタイトルの本だが、要は自分自身をひとつの商品とみなし、会社を市場とみなしたうえで経営学の手法を使って出世しようという内容である。
 平社員時代は成長戦略を、係長時代はマイケル・ポーターの競争戦略を、課長時代は組織論を、部長時代はマーケティング理論を、そして役員時代はロジカルシンキングを用いる、という具合じ、出世の階段ごとに経営学の様々な分野をあてはめていく。タイトル通りに出世ノウハウ本ともいえるが、わかりやすい経営学の教科書みたいな側面もある。
 
 経済学と経営学は何が違うのかという素朴かつ深淵な質問がある。いろんな人がいろんな答え方をしているが、むかし読んだ本で「経済学は最終的には全員が富を分配される方法を見つけ出すのに対し、経営学は最終的には富を独占する方法を見つけ探す学問である」という主旨のことが書いてあって膝をうった。
 
 そこから連想すれば、すなわち「出世」というのは「会社が成果とみなすもの」をいかに独占するかということになる。最近は360度評価みたいな人事評価もはじまっているし、従来型のピラミッド型組織構造ではない組織体も増えてきたから、効果的な独占と戦略的な分配にはますます頭を使うことになるだろう(本書に出てくる、会社のボスがピラミッド構造をやめて社員のフラット化をはかろうとしているとしたらそれはボスが独裁をねらっている、という話は目ウロコだった)。こうなってくるとマキャベリの君主論みたいな世界になってきそうだが、一方でこういうことに汲々していると、結局は「世界一孤独」と揶揄される、会社の外ではまるで居場所のない典型的な日本のおじさんになっていくようにも思う。成果の独占と引き換えにその人が排他したものはなんだったのか、という問いかけは悪魔の取引のようだ。
 要はなんであれ、自分の幸福につながっているかを気にしたいものである。
 

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“社風”の正体

2018年05月28日 | ビジネス本
“社風”の正体
 
植村修一
日本経済新聞出版社
 
 
 日本人論として展開していくあたりが面白い。日本人は諸外国にくらべて“低リスク志向”なのだそうである。で、低リスクはこの場合どういう形になってあらわれるかというと、変化を嫌う、前例を踏襲する、ということだそうだ。そうすると、当初は、ある目的を達するためにとってきた「手段」が、自己目的化してくる。組織構造としてのありようや意思決定の手続き、顧客獲得の在り方、商品開発の優先順位などが、当初は事業目的に即したものとして採択されてきたが、いつのまにかそういった諸々のメソッドが初期目的を達成した後もなお温存されていく。これが社風となるのである。
 つまり、「社風」とは成功体験の残滓と言える。
 
 だから、事業目的を維持するのにその社風が未だ有効であればまだそれはいいのだが、世の中が変化しているのに、顧客のニーズはとっくにかわっているのに、自己目的化した社風だけがずっと残っているといたら、その企業は大問題である。
 「社風」というのは、社員のアイデンティティや自信の根拠に直結しやすいし、免罪符にもなりやすい。だから「社風」というのは世の中の変化に対し、抵抗勢力として機能しやすいとも言える。「大企業病」なんてのはその端的な例だろう。「社風」を誇る企業ほど、実は危ないのかもしれない。
  逆に、世の中の変化につねに呼応し、世の中に価値を提供し続けることができる「社風」というのは、そもそもその企業が「変化する社風」をもっているという逆説的なことにならざるを得ない。日本人のメンタリティとしてはこれはそうとう難しいぞ、ということになる。
 
 
 ただ、一方でこういう概念、つまり「生存し続けるために変化していく」、文学的に表現するならば「変わらないために変わっていく」というのも組織戦略論としてはポピュラーである。「失敗の本質」で日本軍の体質をここにみた野中郁次郎は、その対極としてアメリカ海兵隊を「変わらないために変わっていく」自己学習組織と看破した。また、生物学としては動的平衡という言葉が福岡伸一の「生物と無生物のあいだ」以降ポピュラーな用語となり、生物学にととどまらない広く敷衍できる概念としてあちこちで使われている。
 
 つまり「変わらないために変わる」は生き延びていく上での真理なんだろうと思う。問題は、そうはいっても「変わりたくないなあ」というおっくうな精神もまた生命が持つバイアスであることだ。
 「変わる」もリスク、「変わらない」もリスク。どちらもリスクだが、より破壊力が強いのは「変わらない」ことによるリスクということで、人生とはままならぬものよ。
 

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