読書の記録

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成瀬は天下を取りにいく (ネタバレ)

2023年05月17日 | 小説・文芸
成瀬は天下を取りにいく (ネタバレ)
 
宮島未奈
新潮社
 
 
 あちこちで絶賛されていたので購入。すーっと読めてしまうが、わりと掘りがいもある面白い小説だった。
 
 6つの短編からなる連作小説である。もとより最初から連作を意識したわけではなさそうで、奥付によると第1話「ありがとう西武大津店」と、第3話「階段は走らない」がそれぞれ別個の小説として先行して雑誌にて発表された。
 
 ただ、後に第1話となるその「ありがとう西武大津店」にて登場する成瀬あかりという女子中学生の破天荒さがキャラとして秀逸だった。そこから次々と彼女の話が単行本用書下ろしとして生み出されて、連作小説「成瀬は天下を取りにいく」は出来上がる。
 この連作小説は最終話を除いて一人称小説である。成瀬と同じマンションに住むおさなじみの島崎みゆき、成瀬と同じ小中高の同級生となった大貫かえで、部活の大会で成瀬と出会った西浦航太郎の目線で語られる。他人の目で見られる成瀬あかりは、直情径行かつ快刀乱麻、大言壮語かつ勇猛果敢なキャラだ。これに比べると、第3話として収まることになった「階段は走らない」に出てくる大人たちの言動はおおむね常識的な予定調和におさまるものだろう。
 そう。この小説に出てくる登場人物は、成瀬以外はみんな予定調和の世界に生きている。空気を読み、バランスを勘案し、リスクヘッジしながら次の一手を考える。強いて例外をあげるならば第5話「レッツゴーミシガン」に登場する西浦航太郎の友人、理想の女性求めて猪突猛進の中橋結希人くらいだろうか。
 
 この、予定調和にコトを済まそうとする「凡人」ーーちなみに島崎みゆきは自分のことをそう自称しているーーからすれば、成瀬あかりの存在はまぶしいものであろう。本小説は、そのような成瀬による破竹の勢いを楽しんで元気をもらう、そんな読み方ができる小説である。本書の帯には各著名人の推薦コメントが書かれていて、それ自体は常套な販促手段ではあるもののその中の一つ、柚木麻子が寄せている「可能性に賭けなくていい。可能性を楽しむだけで人生はこんなにも豊かになるのか。」はけだし名言だと思った。
 
 一方で、この小説は滋賀県大津市を舞台とした地元小説としても成立している。
 この小説には、大津市にある難読地名として有名な膳所(ぜぜ)や、滋賀県が誇る一大観光資源である琵琶湖などに関する地元あるあるネタがふんだんに登場する。局所的に某地域を舞台とし、その地元ネタが次々出てくる小説は他にもたくさんあるが、単に地元を舞台としているにとどめるものでなくて本小説が「地元小説」として成立させているのは、この小説が西武百貨店大津店の閉店という地元住民に印象深い記憶を残した共通体験を題材にしていることだろう。この連作小説を貫いているのは、この大型百貨店閉店という喪失感を持つ地元のつながりである。成瀬あかりがおさなじみの島崎みゆきと組んだお笑いコンビの衣装が西武ライオンズのユニフォームなのも、成瀬と大貫かえでが大学受験対策として東大のオープンキャンパスまで遠征したついでに池袋にある西武百貨店本店を見にいくのも、西武大津店閉店の出来事から派生している。いや、成瀬の壮大な目標のひとつ「大津にデパートをつくる」もここから始まっている。地元小説が成立するには、地域の共通ネタだけでなく、「あの時あの空間にいた」という時空間上の共通体験が重要になのだ。
 
 
 さて、もう少し深読みしてみる。
 本小説は、成瀬あかりのキレッキレに元気をもらう小説としても、地域を想うとはこういうことだという地元愛小説としても読めるが、いわゆる友情小説としてみるとどうだろう。本小説のキーパーソンは成瀬のおさなじみである島崎みゆきである。
 
 まず、その無双ぶりがまぶしい成瀬だが、一方でアスペルガー症候群の気配を見るということはそんなに強引な読みではないはずだ。
 学校では抜群の成績(とくに数学)であり、朝はきっかり同時刻同秒で目覚め、ルーチンを大切にしているところも示唆的だし、成瀬の母がむしろ疲れた様子を見せているところも意味深である。学校での保健委員のミッションや大津市民憲章を律儀に守るところ、陸上の走り込みをひたすら一人黙々と続けるところ、緊張の概念がわからないところなど、それとなく彼女の特異性を示す描写はあちこちに散りばめられている。
 であれば、成瀬が空気を読まないのは、あえて空気を読まないという強気の姿勢なのではなく、単に読めないのだということになる。(逆に、成瀬が思わぬことを言ってしまって島崎の気分を害したと気づいたとき、彼女は非常に狼狽する)。小学校時代の成瀬はクラスの中では浮いていてハブや無視の対象になっているが、その待遇に対して無関心である。その様子は、島崎の観察からみれば、クラスメイトの悪意を振り切っているのではなく、むしろクラスメイトの行為にそもそも悪意を見出していない具合が強い(なので、自分がもらった表彰状をいたずらされそうになったところを目撃したときは怒りの形相を示す)。
 だからだろうか。成瀬は人間の機敏を察する能力が試される、お笑いコントの台本をつくらせると、意外に凡作だったりする。こちらはむしろ島崎のほうがセンスがあったくらいだ。
 
 で、よくよく読むと、島崎みゆきによる成瀬あかりへの付き合い方には一定の間合いがある。
 
 まず進学した高校が違う。そのことについては本小説は多くを語ってはいない。
 また、この二人、圧倒的に成瀬が島崎の部屋に訪れることのほうが多い。島崎が成瀬のところを訪問するのは本小説の中ではたったの1回だけであり、それも島崎としては玄関先の立ち話で済ませるつもりだったとか、島崎が成瀬の母とはそれほど親しくないことが示唆されたりしている。むしろ島崎の母のほうがしばしば家に訪れる成瀬に対して心理的距離感が近い。
 つまり、成瀬と島崎の関係は、ここを見る限りではかなり成瀬からの一方通行なのである。
 
 クラスメイトの多くは成瀬を敬遠した。島崎みゆきはなぜ成瀬あかりにいちいち付き合っていたのか。
 島崎は決して無難を貫いたわけではない。彼女は確かに成瀬のことにちゃんと好意があった。そのことは人間観察に余念がない大貫かえでが見抜いている。
 
 成瀬が成瀬らしくなくなったら島崎は成瀬を見捨てるのだろうか。いや、島崎は新しい成瀬も受け入れるに違いない。
 
 さりげなく重要な指摘をしている。島崎あっての成瀬なのだ。大貫の観察では、成瀬は島崎の包容力によって保護されている。
 
 島崎による一人称小説である第1章・第2章では、あたかも成瀬の暴走に巻き込まれるように島崎は描写している。島崎は、第1章ではそんな自分のことを「律儀」と評し、第2章では「わたしは成瀬あかり史をみとどけたいのであって、成瀬あかり史に名を刻みたいわけではないのだ」と言っている。
 だけど、実際のところ、島崎は成瀬を受け入れていた。これが他のクラスメイトと違ったところだ。西武大津店閉店にともなう毎日のテレビ中継に映り込むプロジェクトも何度も付き合ったし、Мー1グランプリに出場するために漫才コンビ「ゼゼカラ」も組んだ。ネタづくりではむしろ島崎のほうが精度を練り上げた。小学校時代、島崎はハブにされる成瀬に対し「我が身かわいさにわたしは成瀬を守ることをしなかった」と独白しているが、大貫の観察では「女子が成瀬の悪口を言っていると、島崎はさりげなく姿を消す」と看過している。
 
 成瀬自身は、そんな島崎の付き合いの間合いの取り方に気づかず、ただそんなものだと思って幼稚園時代から小中高時代と過ごした。高校は別になっても「ゼゼカラ」の活動は続いていた。成瀬はいつも島崎に声をかけ続けた。
 その成瀬が狼狽したのは、最終章「ときめき江州音頭」だ。この最終章だけが他の章と異なり、三人称で描かれる。誰も見ていない成瀬の様子が描かれるのだ。
 島崎は両親の転勤のために東京へ引っ越すことを、成瀬に打ち明ける。
 このとき、成瀬はルーチンが保てなくなる。寝坊し、料理に焦げ目をつくり、数学の問題が解けなくなる。それどころか島崎の機嫌の変化を必要以上に汲み取ろうとするし、島崎が成瀬以外のコミュニティも当然持っていることにもようやく気が付く。成瀬は「ゼゼカラ」解散を予見する。
 たしかに、島崎あっての成瀬だったのだ。最終章で成瀬はこのことに気づく。
 
 では、島崎はそんな成瀬にちゃんと好意を持っていた。なぜだろう。
 
 答えはシンプルである。島崎は成瀬に言っている。
 
 わたしはずっと、楽しかったよ。
 
 この小説を読み返すと、島崎の予定調和な毎日にあって、物心ついたときから成瀬は破格なエンターテイメントをいつも持ち込む存在だった。それは他のクラスメイトや部活の仲間や高校の友人たちの目線とトレードしても楽しいものだった。成瀬のいない毎日は、無難ではあっても平凡なものだったろう。島崎は本当に楽しかったのだ。だから成瀬の誘いに断ることはいつでもできたのに断らなかった。東京に引っ越しても「ゼゼカラ」を解散するつもりは毛頭なかった。成瀬と一緒ならできる、と思ったのだ。
 島崎の9割の平凡な予定調和に、1割の破格なエンターテイメントが投入され、島崎の人生は楽しいものとなった。島崎の楽しい人生は、成瀬あってのものだった。この奇蹟的な幸福の関係を見ることが本小説のもう一つの読み方である。
 
 もしあなたの周囲に、この人変わってるなーと思ったら、その人とは受け止めて仲良くしたほうがよい。遠巻きにするのは簡単だし無難だが、でも自分の人生に楽しさを運び込んでくれるのはそういう人である。成瀬のようにはなかなかなれなくても、島崎のようにはなれるはずだ。
 

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