読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

生命海流

2024年01月08日 | 旅行・紀行・探検

生命海流

福岡伸一
朝日出版社


 「動的平衡」でおなじみの生物学者、福岡伸一のガラパゴス諸島旅行記である。彼の文章は難解ではないが描写が大仰で、サイエンス畑の研究者のイメージを覆す文豪みたいな文体が特徴だ。しかも本書は開始後全体の3分の1に至ってもまだ旅行に出発していない、という不思議な構成の本である。その前半3分の1では、作家と編集者の関係の話とか、本の値段と本の中身の企画の関係の話とか、とにかく右に左にと迂回ないし脱線しながら語られていく。

 しかも、ガラパゴス旅行記とはいえ、そこは生物学者のそれ。通常のガラパゴス観光旅行ではない。なにしろガラパゴス諸島を観光で訪問するならほぼすべての人が拠点となるはずのサンタ・クルス島はほぼ無視である。彼らは小型クルーザーをチャーターし、かのチャールズ・ダーウィンがビーグル号にて訪れたのとなるべく同じ航路と上陸を追体験しようというコンセプトなのである。

 本書の前半3分の1は、この企画が実現するまでの長い長いエピローグとその他注釈なのである。

 では、残り3分の2がめくるめくガラパゴス諸島旅行記かというとどうもそれとも違う。ガラパゴス諸島の最大の特徴はその特異あまりある生物相にあるわけで、生物学者である著者だからそれらイグアナやアシカやカメや鳥たちとの邂逅に膨大な記述を割いているかというと必ずしもそうではなく、むしろ船における手狭で操作が難しいトイレの話とか、ゴムボートで島に接近しての浜辺やの上陸の困難な話とか、チャーターした船とともに雇ったシェフの料理の芸術的な手際の良さとその美味さとか、を変わらずの福岡節で書かれていく。そして島の人文地理や自然史由来に相当な説明を費やしている。それと比較すると島の生物たちとの邂逅の話は、かなりエキセントリックなエピソードいくつかしか語られない。むしろ、動物や植物の様子は同行したフォトグラファーによる挿絵写真にすべて委ねてしまったかのようだ。

 要するに見聞記ではなくて思索記なのである。

 本書のキーワードは「ロゴス」と「ピュシス」、すなわち理性的論理と自然的本能において、前者が勝る現代生活においてナチュラリストを曲がりなりにも自称する著者が、この旅行を通じて己れのピュシスに否が応でも向き合わなかざるを得なくなる話なのだ。若者のインド旅行みたいだなと思わなくもないが、それを特異な生物相であるガラパゴス諸島で体験する、というところが本書のミソであろう。本書はガラパゴス諸島およびその海域という特異な場所をモチーフにした生命とは何かを思考する本である。その思考の対象はダーウィンの進化論そのものである。ダーヴィニズムから考えるとガラパゴスのイグアナやカメやアシカや鳥たちの生物相は説明がつかないことが多々あるという。進化論はロゴスによって突き詰められたが、生命体そのものが持つピュシスの可能性を捨象しすぎたのではないか、と著者は考える。

 その最大が、ガラパゴスの生物たちが人間に恐れをいだかず、むしろ好奇心をもって絡んでくるということだ。「人間を脅威とする記憶がないからだ」という論はあてはまらないという。後天的に「人間は怖いもの」として得られた知識は簡単に遺伝しないからだ。ガラパゴスの生物たちは人間に恐れをいだかず、無関心でもなく、攻撃対象でもなく、むしろ積極的にちょっかいを出してくる。それはまるで「意思」があるようだと著者は表現する。遊んでいると描写する。なぜそんなふるまいをするのか。

 著者の仮説は、ガラパゴス諸島の生物たちは「ニッチがスカスカだからだ」というものである。本格的な検証を経ているわけでも実験をしているわけでもないから、仮説以前といったほうがいいかもしれないが、ガラパゴスに生息する諸生物たちは、餌や住処を奪い合う関係もなく、食物連鎖としてもつながっていない。ウミイグアナとリクイグアナは、食べるものも棲む場所も異なる。アシカもオットセイもペンギンもリクガメもウミガメもそれぞれ棲み分けられており、利害が衝突しない。そして彼らの生命を支える資源は、ふんだんにこの島と海域に存在するのだ。つまり彼らの生活には「余裕」がある。この「余裕」が異なものに対し、好奇心と利他の心をつくるのだという。それはロゴスではなくてピュシスがふるまうものなのだそうだ。

 何事も余裕が大事よねーとなると結論としてつまらなくなるが、ガラパゴスゆえにその閉じた世界相の中で余裕こいた生活ができたとなると、まるで一時の日本みたいである。そういやガラケーのガラはガラパゴスのガラであった。ガラパゴスがエクアドルの領土として保全され、アメリカからもイギリスからも植民地支配として逃れられたのは、20世紀の覇権主義の世の中にあって幸運であったと本書も指摘している。「ガラパゴス化」はまるで悪いことのように語られがちだが、食うか食われるかのあくなき競争に巻き込まれないという意味ではこれはこれで進化と生存の道ではあったんだなと思う。「余裕」と「ガラパゴス化」が実は表裏の関係だったとすると、「過当競争」と「デファクトスタンダード」がそれの対ということになる。プラットフォーム化とかトランスフォーメーションとかAIとか、均質化を志向する動きは相変わらず加速気味だが、どこかにガラパゴス的なものを残しておいたほうが「余裕」という資源を確保する意味では大事かもしれんなどと思った次第である。

 

 


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出雲世界紀行 生きているアジア、神々の祝祭

2023年02月22日 | 旅行・紀行・探検
出雲世界紀行 生きているアジア、神々の祝祭
 
野村進
新潮文庫
 
 出雲地方といえば神々のホットスポットだ。毎年10月は神在月。日本中の神様がここに集まってサミットを開く。
 その中心になるのは出雲大社。いまや出会いや恋愛成就祈願のパワースポットにもなっていて、東京駅からは今や希少な夜行列車が定期便として発着している。女子たちに大人気という。
 
 なんで島根県のこんなところ(と言ってしまっては失礼極まりないが)にそんなすごい聖地が出現したのか。

 古事記や日本書紀をひもとけばけっこう巻頭に近いところからこの地は文献として登場する。記紀によれば出雲の地は大国主命なるリーダーが治めていたが、天照大神ひきいるヤマト政権といろいろあってついには国譲りしたということになっている。初期ヤマト政権は順次領域拡大中だったはずで、出雲に限らず隼人だ熊襲だ蝦夷だとヤマト政権に対立する部族はたくさんいたわけだが、出雲の地だけがいろいろ気を使われた記述がされたり今だ聖地として特別視されているのはやはりそれ相応の理由があるはずだ。
 
 たしかに、現代においてなお出雲の地はタダゴトではない。出雲大社だけでなく、いわくありげな神社や遺跡がたくさん存在する。風習や行事といった無形文化の面でも特筆すへきものがある。さらには妖怪の第一人者水木しげるを輩出したのもこの地だ(厳密には出雲とは中海を挟んで対岸にある米子地方の生まれだが)。
 その出雲の神社のたたずまいや舞踊様式のありようが、なんとバリ島に通じるというとんでもない観点で切り込んでいくのが本書である。
 読みながら思わずなんじゃそりゃとつっこんでしまったが、実は根拠があるそうな。出雲地方は風土的には日本海側の厳しい気候で冬場は激しく雪が降って冷え込むものの、一方では対馬海流の影響もあって海洋文化が栄えたそうである。出土品を調べると、環日本海域圏(岸を伝っていけば本州島北部、対岸は朝鮮半島)と相互流通があったことがわかるそうだ。さらに、遠く沖縄や南洋のほうからも交易があったことが判明している。出雲には大和政権とは完全に異なる世界相があったのかもしれない。一説によると人種としてのDNAも出雲と大和では異なるともされている。神々の島と称されるバリ島の独特なヒンズー教と一脈通じていてもおかしくはないわけだ。
 
 本書は、そんな聖地出雲地方の訪問記だ。とくに石見地方の神楽、水木しげるの妖怪観と境港市の水木しげるロード、そして出雲に縁を願う「神社女子」たちのインサイトにフォーカスし、出雲にまつわる人々の根底にある「多幸感」にせまっていく。
 神々が息づく地、妖怪が跋扈する地はなんと幸福の地なのである。
 
 ずいぶん以前に読んだ妖怪に関する本では、妖怪とは各アカデミズムそれぞれの中心地から遠く離れたものに形象を与えたものという理解を得てなるほどと納得した。人間や自然がおりなす事象や現象でありながら、社会学からも地理学からも心理学からも生物学からも化学からも周辺扱いされるものーーこれが妖怪の土壌になる。いわば学問の辺境地帯で境界線があいまいなところに跋扈する森羅万象、これが妖怪だ。したがって最近のように生理人類学とか発達社会心理学とか環境共生社会学みたいに学問も細分化されて開拓されてしまうと、妖怪の居場所もなくなってしまうだろう。
 しかし何もかもが分類されて因果や構造を明らかにされることと、果たしてそれが幸せなことかどうかというのはまったく別のことである。妖怪に関しての別の観点として、自分の力ではどうしようもないことに遭遇した際の心のセーフティネットとして妖怪は機能した、というのもある。今日ではなにか災害や事故があったとき、なにかとすぐに他人や行政の責任を求めようとする。しかしそれで被害者や遺族の心が救われるかというとそんなことはなく、むしろ永遠と恨みと呪いの澱に沈んでしまうことになる。かつて妖怪の仕業とされた時代、それはそれで人知の届かぬ「あきらめ」という心の作用もあったのではないか。分類の罠から逃れるために妖怪は存在したと言ってもよい。
 
 現代とは分類をかいくぐる生活でもある。あれは違う。これも違う。それとこれはここで区別する。あれは正しくこれはよくない。あちらにあってこちらにないもの。あの人にあってわたしにないもの。あちらが上でこちらが下。現代生活とは区別と分別と類別と識別と選別、そして差別の中を生き抜く生活ともいえる。あたかも最適な組み合わせは一通りしかないように、至上の組み合わせを求めて人は生きていく。それ以外の道に入り込んでしまうと、もう救いはなくなり、他人や社会を呪うだけになる。我々はいつのまにか一神教的なロジックの罠におちていく。
 
 「多様性」の重視が呼ばれて久しい。しかし最近の「多様性」と、出雲が持っていた八百万の神々の精神はまるで違う。最近キーワード化している「多様性」がダイバーシティの訳語としてあてられているように、そして水無田気流がそれを「黒船語」と称して日本人の心身にいまひとつしっくり腹オチしていないことを指摘するように、「ダイバーシティ」は心よりもまず頭を働かせなければならないものになっている。境界を超えるには努めがいる。克服すべきものとして覚悟や気合の精神がつきまとっている。
 だけど、世の中を森羅万象をあるがままに受け止めるという行為は、本来はもっとナチュラルなものではなかったか。分類とか境界というものはそもそも便宜的なものに過ぎなかったのではないか。老若男女がこだわりなく行き交う石見神楽の多幸感、水木しげるにとって自分、家族、仲間、故郷、世界すべてがエゴの枠だったとされるその「太古に通じるおおらかさ」の多幸感、170体以上の妖怪ブロンズ像にいつでも触れる無料の楽園水木しげるロードの多幸感、現代の類型とは超越したところに凛とたたずむ出雲の神社に見る多幸感、「なんでも大事にしようぜ」という八百万の多幸感には、ダイバーシティ論とは異なるもう一つの多様性の幸福のヒントがあるのかもしれない。

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宮脇俊三の紀行文学を読む

2021年11月29日 | 旅行・紀行・探検
宮脇俊三の紀行文学を読む
 
小牟田哲彦
中央公論新社
 
 
 鉄道紀行作家の宮脇俊三氏が亡くなったのが2003年。ということはもう18年が経っている。にもかかわらず未だ本書のようなものが出てくるのだから感慨深い。著者は中学生時代から宮脇俊三氏の作品を追いかけていたとのことである。本書だけではない。酒井順子氏や原武史氏も「宮脇本」を出している。若いころに現役で続々刊行される宮脇本を読んできた人がいまその思いをつづる局面に来ているのだ。日本国有鉄道も青函連絡船も遠い過去になったが宮脇俊三の世界はいまだ生き続けている。
 
 本ブログでもちょいちょい宮脇俊三は触れている。日本通史の旅殺意の風景時刻表昭和史最長片道切符の旅乗る旅・読む旅終着駅などとりあげてみたが、これに限らず彼の本は全部網羅している。ぼくも小学生時代から追いかけてきたのだ。本棚にはいまだに当時の単行本があり、携帯用に文庫本も買い揃え、しかもkindleの電子書籍もおとしてある。雑誌で彼の特集などあれば買うようにしていた。
 
 そんなわけで思い入れだけは人後に落ちないつもりでいたのだが、あらためていろいろな方の宮脇関連本を読むとみんなよく読み込んでいるなあと思う。特に本書の著者である小牟田哲彦氏は血肉のようにしみ込んでいるのがよくわかる。長編や連載ものだけでなく、あちこちの短文雑文まで目を通していて、そこからばっちり引用・参照してくるのだから恐れ入る。
 本書で著者が強調しているのが「彼の紀行文学には写真がない」ということだ。写真がないから、その風景描写は文章だけの勝負となる。紀行作家だけに風景をどう描くかは生命線であって、それこそが宮脇文学の特色と言えるわけで本書ではその点の引用や解説が豊富だ。
 本書では、その風景描写の巧みさと、それとバランスをとるように徹底的に主観的な感想や感情を控えているところに宮脇文学の特徴をみている。
 
 まったく同感だけど、あえてもうひとつつけるとすると、彼は風景描写にとどまらずとにかく文章が超絶技巧でそれが彼の作風の基盤になっているということだ。語彙力・構成力・緩急のつけ方が今風に言えばモンスター級で、しかもそれがまったくてらいなく、いやみなく、自然体に描かれているので、そのあまりの仕掛けぶりに気が付かないくらいなのである。
 中央公論社に入って編集者としてヒット作をいくつも出し、常務取締役にまで出世したのにそこから作家デビューで人気作家になったのだから、うらやましい人生というか天才ってこういうことかと思いたくもなるが、実は彼のその巧みな文章の世界は、壮絶な生みの苦しみに苛まされながら出てきたものだ。
 それがわかるのが晩年にまとめられた「乗る旅・読む旅」と、長女の宮脇灯子氏による「父・宮脇俊三への旅」だ。彼の執筆の姿勢と苦悩がここでは暴かれている。優雅な白鳥の舞の水面下、その執筆活動は一日にほんの2,3枚の原稿用紙しか進まず、家族にあたり散らかし(今で言うならDV一歩手前であった)、酒におぼれて最後はアル中になった。
 
 超絶技巧を頼りにするアーティストは作家に限らずこの傾向が強い。強力な体力と集中力を要求されるので長続きできないのである。本書でも「日本通史の旅」の途中から精彩を欠くようになったことを控えめに指摘している。宮脇俊三氏の作家人生は四半世紀に及んだが、今なお人口に膾炙される代表作はほとんどが初期から前期のころのものだ。廃線跡をたどったり架空の鉄道の旅をやってみるなど企画の妙を出して人気は維持していたが、彼の持ち味である文章の冴えはやはり前半に集中していた。本書ではとくに紹介されていないが初期のエッセイ集である「汽車旅12か月」と「終着駅は始発駅」も紹介しておきたい。
 

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エンデュアランス号漂流記

2017年09月25日 | 旅行・紀行・探検

エンデュアランス号漂流記

著:アーネスト・シャクルトン 訳:木村義信
中央公論社

 

 南極探検におけるスコット隊の悲劇は有名だ。アムンゼンとの南極点一番乗り競争に負けただけでなく、帰り道で遭難し、南極点アタック隊はスコットをふくめ全滅した。

 あえて酷な言い方をしてしまうと、スコット隊は結果的に「失敗」したわけである。それも二重に失敗している。「南極点一番乗り」に失敗し、「生還」に失敗している。

 なぜ、スコットは失敗したのか、は「世界最悪の旅」を読むとなんとなくわかってくる。後知恵だが、スコットは、アムンゼンに先を越されたことがわかった瞬間に南極点到達をあきらめて戻ればよかったのではないか、という解釈も成り立つ。そもそも「科学的観測」と「南極点到達一番乗り」という「二重目的」をたててしまったことが失敗の元だとも言える。(スコット本人というより、プレッシャーを与えたイギリス王国に原因を求めるべきか)


 さて、シャクルトンである。彼も失敗している。シャクルトンは史上初の「南極大陸横断」をたくらんだ。しかし大陸に上陸する手前で船が流氷に取り囲まれて閉ざされてしまい、前進も後退もできなくなる。
 このときシャクルトンは「南極大陸横断」という最終目標を下ろし、「全員生還」という新たな目標を掲げる。

 このことがシャクルトンをしてヒーローと讃えられ、リーダーシップの鏡と今なお尊敬されることになる。


 シャクルトンの漂流記は超ド級の困難の連続である。全員が生還したのは驚異的で、もちろん運も味方している。
 しかし、シャクルトンのやってきたことを改めてみるとそこには学びが多い。

 よくよく読んでみると、彼はかなり慎重な選択を繰り返していることがわかる。とくに隊が別々に行動するときの目くばせ、どのグループにどの隊員をいれていくかの判断などはかなり巧みである。つまり、できるだけリスクが少なくなるようにしている。
 スコット隊は、南極点到達にあたり4人仕様で道具や食糧や装備を整えたのだが土壇場で情にまけて5人でスタートしている。こういうのも失敗の一因であろう。

 リスクを少なくしようとしているのが偉いというのではなく、「全員生還」を目標にするということは、リスクを下げなければならない、ということである。ここでなんとしてでも南極大陸横断を、という目標を維持していればリスクは覚悟となる。


 シャクルトンはどの時点で「南極大陸横断」をあきらめて「全員生還」に切り替えたのか。
 
 これがけっこう早いタイミングなのだ。エンデュアランス号が氷に挟まれ、船体が破壊されたとき、ではないのである。

 エンデュアランス号が氷に閉ざされてもはや先に進めなくなって南極大陸の上陸の目途が立たなくなり、船の上での越冬が避けられなくなったときに「南極大陸横断」を諦めている。興味深いことにシャクルトン隊は越冬するだけの装備や食料を用意していた。ただし、それは南極大陸の上で行う予定だった。船の上で越冬するということは、たとえそのあと氷が緩んで南極大陸に上陸できたとしても、その先の食糧などは目途が立たないことになる。
 つまり、船が南極大陸にたどり着けない=このまま船で冬を越すことになる=どう計算しても南極大陸は横断できない=無事に帰ることを考える、という算段である。
 残りの食糧や持ち前の装備、隊員の状況(まだまだみんな元気旺盛)をみてこの時点から、隊員全員の安全な大陸へとの到達に目的を切り替えた。
 やがて船体が氷によって破壊されると氷上をつたっての帰還へと試み、しばらくは氷上生活を続けていく。やがてこのまま氷にの漂流に身を任せると行先も食糧事情も先がどうなるかわからない(リスクがある)と判断したとき、あえて困難な、小舟で島をめがけて大洋に漕ぎ出す。
 さらに到着した島での生存持続可能性がおぼつかないことを知ると、救助船が通りかかるのを待つのではなく、一部のメンバーだけでさらに有人島へと助けを求めに改めて小舟で荒れる海へと乗り出す。
 ここには、このままここに留まることの潜在的リスク、顕在的クライシス。あえて困難に出ることのリスクやクライシスをしっかり見定めてカードを切っている姿がみえる。


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世界最悪の鉄道旅行 ユーラシア横断2万キロ

2014年09月10日 | 旅行・紀行・探検

世界最悪の鉄道旅行 ユーラシア横断2万キロ

下川裕治

 ヒッチハイクでもないのに、「世界最悪」は大げさだろうと思ったのだが、なるほど。これはこれでひとつの極北ではある。白眉は中央アジアからコーカサス地方までのルートだろう。ユーラシア大陸横断の鉄道旅行となると普通はシベリア鉄道ルートになるし、それ以外はないように思っていたが、中国はウイグル自治区のほうから、カザフスタンやタジキスタンを通りながら最後はトルコに抜けるルートがあるのだ(ただし一部断線。詳しくは本篇を)。この区間こそが剣呑でやっかい極まるルート。途中で一度日本に帰ってしまっているのが興ざめではあるものの、こういうルートがあることを教えてくれたことは大きい。

 


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乗る旅・読む旅

2012年08月11日 | 旅行・紀行・探検

 乗る旅・読む旅

 宮脇俊三

 僕は鉄道旅行作家の宮脇俊三の著作が、もはや人生の教科書とでもいっていいほどの関わりと影響下にある。それは、ボキャブラリーや文体、あるいは旅行スタイルだけにとどまらず、さまざまな事象への考え方や、生きる上での指針といったものまで含むといってよい。なにしろ、デビュー作「時刻表20000キロ」に初めて接したのが小学生の高学年、それ以降、ほぼリアルタイムに彼の新作が発表されるたびに単行本でそれを読みながら、10代を過ごしたのである。
 なにしろ、いわゆる「大人向け」の本を読んだ最初が、宮脇俊三だったから、僕にとってこれが「文章」のスタンダードになってしまったといってもいいくらいなのである。

 だが、宮脇俊三のきわめて自然体に思えた飄々たるあの文章は、実は磨きに磨かれた乾坤一擲の超絶技巧の駆使だったのだ、ということを知ったのは、没後に出た「乗る旅・読む旅」(角川文庫)だった。この本は僕の宮脇観が根底からひっくり返ったといってよい。僕はそれこそデビュー作以来ほぼリアルタイムで氏の作品に接してきていたのに、実はいままで何もわかっちゃいなかったのだ、とノックアウトされたのだ。
 「乗る旅・読む旅」というタイトルごとく、鉄道乗車記が前半にあり、後半はこれまで他人の著作の文庫版などに乗せた解説文を集めている。この対比が編集部の企画意図をおそらく超えて、突き一発の破壊力を持つ天然理念流のごとくに衝撃的な読後感を僕に残した。

 晩年の彼の著作は、いずれも枯れた文章で、それがいいという評もあったが、個人的には物足りなかった。あけすけにいってしまえば、つまらなかった。それは「時刻表20000キロ」以降のそれまでの傑作群に酔いしれて10代を送ってきた者が、どうしても感じてしまう感情だった。僕はそれを単に、もう文章を書くモチベーションがなくなったのかな、と思っていたのだ。
 本書を読んで、まさに「乗る旅」は晩年のものを集めたもので「枯れた」文章だった。これまでは何行にもわたってかけていたに違いない描写も、一言二言で終わらせてしまう淡々とした旅行記だった。僕は期待薄のまま読み進め、そして「読む旅」の章に入った。

 「読む旅」は、ほとんどが、彼が油に乗っていたころの文章である。そして、彼の書評の矛先が、いずれも書評の対象となった著作の「文章」に関してむかうものだったのだ。つまり、言葉選びや文章作成、全体の構成の見通しにおける、これはもう字を「書く」というよりは一文字一文字刻んでいくかのような著者の生みの苦しみがあったであろうことを見抜き、そこに称賛を贈っている。そして、彼の書評そのものが、まるで文章読本かのような宮脇流文章術の見本帳なのである。
 このぎっちりと組み合わされた建造物のような「読む旅」と、隙間風だらけのような「乗る旅」の残酷なまでの対比に、僕は文章のプロとしての慟哭を見た思いがして、実をいうと、一回読んだだけでお腹いっぱいになってしまい、二度と再読していない。宮脇本はそれぞれ少なくとも3、4回、多いものだと30回以上は読み返している本もあるのだが、この「乗る旅・読む旅」だけは、その「重さ」で1回の読書だけであとは丁重に心の神棚にしまい、人生のお守りにさせていただきます、という心境である。

 で、実は、この「乗る旅・読む旅」の解説文を担当したのが、宮脇灯子氏だったのである。著作を通じて、2人の娘の父親であることは知っていたし、その長女の名前が灯子であることまで実は知っていたわけだが、(2人の娘あてに年賀状を出すというエッセイがあり、そこに娘の名前が登場する)ボーゼンと「読む旅」を読み終えた後、その解説の文章に宮脇灯子の名前が出てきて、まるでエンドロールの後の意外なエンディングを見たような思いにかられたのだった。

 その宮脇灯子氏が、父のことについて書いた本が「父・宮脇俊三への旅」である。宮脇俊三の舞台裏がいろいろと触れられている。飄々として軽妙洒脱な文章を読者として楽しんできたのだが、その創作の舞台裏はまこと壮絶で、最盛期でも1日原稿用紙3枚が限度という悪戦苦闘ぶりだったそうだ。あの一見即興とさえ思えるコトバの連なりは、推敲に推敲を重ねた乾坤一擲であったということは、ここでも触れられ、しかもそれは難行苦行の末にできあがったものなのであった。
 そして晩年は最早思うように書けず、アル中も手伝って休筆。名文家としての自覚と覚悟を持って著述業に臨み、文字通り精根使い果たしたようである。



 


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ミシュラン グリーンガイド ジャパン

2010年06月16日 | 旅行・紀行・探検
ミシュラン グリーンガイド ジャパン

最近やたらに言われる「○○の若者離れ」のなかの一つに、「海外旅行」というのがあるらしい。

僕らが学生の頃は、海外旅行は大学生時代是が非ともやらねばならぬ一大イベントであった。そのために必死にバイトをしたり、節約生活を送ったりして旅費を貯め、貯まった金額からむしろ逆算してこれなら何日間は海外に滞在できる、などと皮算用して、とにかく行きと帰りの飛行機だけ抑えて中間行程はまったく白紙のまま旅立っていた。ヨーロッパとかアメリカの場合は、着陸地と出発地が離れていても、容易に往復の格安チケットが買うことができたから、たとえば僕の場合は、イタリアはローマ国際空港に7月○日に着く飛行機と、ロンドンのヒースロー航空を8月○日に経つ飛行機を抑え、ユーレイルパスを購入して、喜び勇んで成田空港にむかった。僕のはまだ序の口で、某友人はヘルシンキにイン、リスボンでアウトと、東欧から南欧までめいっぱい距離を稼いでいたし、エジプトのカイロにイン、トルコのイスタンブールでアウトという、はてそんな買い方の格安航空券なんてあったのか、と思えるようなチケットを手配してきた者もいた。
まだインターネットというものが発達する前の話である。

で、旅行の際、僕らのバイブルになっていたのはダイヤモンド社の「地球の歩き方」だった。当時、これは画期的な旅行ガイドだったのである。「地球の歩き方」のヒットにより、同じ編集方針を持ったJTBの「自由自在」というのも刊行されたが、こちらはやはり二匹目のドジョウ感ありありでそのうち撤退してしまった。

この「地球の歩き方」。モデルになっているのは、「ロンリー・プラネット」という主に欧米で絶大な支持を得ている旅行ガイドシリーズである。全体的に青い装丁の表紙が特徴で、日本を旅行している外国人バックパッカーがよく、これを手にしている。100以上のエリアを網羅し(「南極」まである)、とにかく情報のち密さに定評があって、その徹底ぶりは「地球の歩き方」をはるかにしのいでいる。日本語版もあるのだが、日本では「地球の歩き方」のほうがスタンダードな状態になっている。

で、この「ロンリー・プラネット」がなんとなく探究心と野心にあふれるバックパッカーを対象としていることに対抗して、もっとスノッブでインテリジェンスをねらった美学で編集しているのがミシュランのガイドである。


ミシュランガイドといえば権威あるレストランガイド、それも東京版でいきなり三ツ星がいくつも出現したことで知られるが、実は、これの旅行ガイド版があるのだ。レストランガイドは赤い表紙が特徴だが、旅行ガイドは緑色の表紙である。だから、俗にミシュランのグリーン・ガイドと呼ばれる。
このグリーンガイドは日本ではあまり知られた存在ではなかった。日本語版がないからである。

だが、去年、これの日本版が刊行された(フランス語版と英語版がある)。
ミシュランだから当然、星の採点表が日本の各観光地につけられる。それも「日本全国の90%以上を調査員が調べた末」の点数表だから、日本の観光地のほぼ全部をリサーチしての記録といってよい。逆にいえば、フランス人ってのは、こういうところを評価するんだ、とわかるわけである。

なんとなくミシュランのグリーンガイドに日本版が出たというのはどこかで聞いていたのだが実物を見る機会がなかった。
先日、近所の図書館のなぜか新入荷コーナーにこのグリーンガイド・ジャパンの英語版があって、これはこれは、と手にとり、パラパラと見てみて、ろくな英語力もないくせにこれはおもろそうだというので、その場で借りてみた。で、ビールなんぞ飲みながらぱらぱら見ていてなかなか面白い。自分の国がどう紹介されているか、というのは興味深いことで、ついでにネットで、このグリーンガイド・ジャパンについて調べてみた。

もちろん注目どころは、日本のどこに☆☆☆がついているかということである。

結論から言うと、日本人が「?」というところに☆☆☆がつき、逆に日本人にとって世界に誇れると思った観光資源が☆だったり、あるいは無印だったりするのだ。これこそがフランス人の感覚というやつだろう。

たとえば温泉。日本といえば温泉天国だが、なんとごまんとある温泉の中で、三ツ星がついたところは1か所しかない。その1か所というのが、草津でも箱根も白浜でも登別でもなく、大分は鉄輪温泉の、しかも日帰り入浴施設「ひょうたん温泉」というのだから、おそれいる。すぐ近くに別府温泉という湯量が豊富で猿までやってくる素晴らしいところがあるではないか! と言いたくなるし、「90%以上を調べた」調査員は当然、別府温泉も調査したに違いないが、☆☆☆は「ひょうたん温泉」、ただ一つなのであった。

同じ具合で、北海道なんかも、我々日本人としては、知床とか釧路湿原とか洞爺湖とか摩周湖とかいろいろ挙げられそうなものなのだが、☆☆☆はわずか2つだけ、ひとつは札幌の「雪まつり」、あともう一つはなぜか札幌の植物園で保管されている民俗学の映画フィルムなのである。

このことから思うに、フランス人は日本の旅行に、強烈なエキゾチズムを求めていることがわかるのだが、、どこか、珍妙なもの、うがった言い方をすれば「こんなヘンなことに凝っちゃうらしいぜ、ジャポネは」という物珍しさが期待されている気がする。良くいえば文化人類学的なものの見方だが、悪く言えば珍品博覧会のそれである。(ちなみにお台場のフジテレビ本社は☆☆である)

だが、このことは非難できない。それどころか、海外旅行の醍醐味そのものでもある。海外旅行は「自分の国と比べて」という視点が入る。これが雄大な大自然なんかの場合は、単純に自国には無いスケールそのものに感動すればいいのだが、人の営みが関わっているものは、どうしても自国との比較で物を見がちになる。我々も外国を旅行するときに楽しむエキゾチズムは、異文化に触れるという意味では殊勝な心がけだが、「あーあ、こんなことに真剣になっちゃって」という、自分の国の文化を基準として、そこにないものを「珍奇なもの」と位置付けて鑑賞することがどうしても多くなる。フランス人が「別府温泉」よりは「ひょうたん温泉」に星を多くつけるということは、フランス人って面白い物の見方するね、ということではなくて、日本旅行に期待する「物珍しさ」が「ひょうたん温泉」のほうにより顕著に出ている、ということなのである。

もちろん、海外旅行の醍醐味は、異質なものに触れることの強烈な新鮮がもたらす、本国内では得られない享楽と興奮と感動にある。だから、本国の文化と比較して「珍妙」であれば「珍妙」であるほど、その異質効果は高まる。その「珍妙」なものを物笑いの対象とするか、または畏敬に値する、と思うかは、どう紹介されてどう受容されてきたかにかかる。「ひょうたん温泉」が、日本で唯一三ツ星の温泉に輝いた理由というのは、少なくともグリーンガイドの本文を読んだ限りでは、ただの露天風呂に限らず、泥風呂、砂風呂から温泉料理まで、日本人と温泉とのかかわりを、ワンストップで体験できる、というところにあるらしいが、要するにテーマパーク的なノリなのであろう。


一方、最近の若者が「海外旅行離れ」している理由は、日本にいながらに海外の情報が手に入るようになったから、などとまことしやかに言われているが、本質的な理由は、この「珍妙」なものへの好奇心の低下、もっといえばなるべく珍妙なものには出会わず、平穏に生きていきたい、というところにあるのではないかとも思ったりする。「地球の歩き方」は異質の出会いの素晴らしさを至上主義として編集しているのだが、もしかすると今の若者にはややもすると荷が重いのかもしれない。


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オーパ!

2010年06月08日 | 旅行・紀行・探検
オーパ!

開高健

あれ? まだ読んでなかったの?
はい、まだ読んでませんでした。

西原理恵子の紀行ものマンガシリーズに、「鳥頭紀行」というのがある。その中でもっとも壮大にして無茶苦茶なのが「ジャングル編」というやつで、ブラジルはアマゾン河にくりだし、モーターボートをチャーターして何日間も河を上り、トクナレという魚を釣る、というものだった。

で、これは開高健の「オーパ!」のオマージュ、あるいはパクリ企画なのであるということはなんとなく聞いていた。これに限らず、随所で「オーパ!」は面白い、名作だ、と目にしていたのだが、何しろ自分自身がまったく釣りに興味も関心もない人間だったので今の今まで素通りしていたのである。

が、最近まったく違うあちこちの場所で「オーパ!」のことが取り上げられ、刊行されて30年近く経つのにこの影響力は何なのか、とようやく手にしたのだった。



で、やられた。

一見、乱文である。同じようなことを何度もぐるぐる書いていたり、話があっちゃこっちゃいったりする。いったい自分は今どこに引き回されているのだろうかという感覚にもなる。
しかし、ひきこまれる。なんというか、極太楷書体で書かれているかのような、力強い前進感と、しびれるような熱気がある。
どうもすべて計算のうち、計画された野趣といった気がする。また、その全体が、まさしく壮大にして混沌でもあるアマゾンの空気そのものを感じさせる。凄まじい筆致である。
だいたい、アマゾンの奇奇怪怪な生態もさることながら、この「オーパ」での特筆すべきは、そこに生きる人々の描写だろうとも思う。意外にも多くの日本人、波乱万丈の末にアマゾンに住みついた日本人がいることに驚く。数奇な運命をたどった人間たちと、珍妙きわまる魚たち、それをちっともつまらんという感じでねっとりと覆い尽くすアマゾンの大自然。はっきりいって、美しくも気高くも爽やかさもない。美醜を越えている。今日も変わらず、太陽は照りつく。魚は跳ねる。人は生きる。アマゾンは流れる。


名作の誉れ高い作品なので、いまさらなにを言っているのか、という感じなんだろうけれど。




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脱出記-シベリアからインドまで歩いた男たち

2009年11月05日 | 旅行・紀行・探検

脱出記-シベリアからインドまで歩いた男たち

著:スラヴォミール・ラウイッツ  訳:海津正彦

 前回の「世界最悪の旅」に続いて、似たような(?)本。というのは「世界最悪の旅」の巻末に冒険・探検本のオススメリストが載っていて、そこに本書も紹介されていたから。

 タイトルでほぼ想像できるが、破天荒極まる脱出と逃亡の記録だ。第二次世界大戦勃発の頃の話だが、スパイ容疑をかけられて真冬のシベリアの強制収容所に収監されたポーランド人が、仲間とともにそこを脱出し、同盟国側のエリアに到達するために、シベリアを南下し、灼熱のゴビ砂漠を縦断し、冬のヒマラヤ山脈を超えてインド北部(つまりイギリス領)まで徒歩で到達する。その距離は6500キロ(日本列島2個分)。季節が一巡していて、シベリアで遭遇した冬将軍が、ヒマラヤ山脈でまた訪れる。

 原書の刊行が1956年で、だからずいぶんのロングセラーだが、そのあまりにも空前絶後な記録であることから、当初から「ネタでは??」という疑念があったそうだ。ろくな準備もせずにゴビ砂漠を縦断したなんて滅茶苦茶なホラ話ではないかと、穿ちたくなる気持ちもわかる。

 まあ、10年過ぎて後の回想録であり、しかも仲間とはその後一度も会っていないから確認作業もできず、もちろん逃避行の最中は地図はもちろん、道程中の記録なんてとってないから、本人の意識無意識にかかわらず、記憶のいい加減な部分や美化された部分もあるだろう。ただそれを差し引いても、すさまじい内容である。いや差し引く必要はない。本書によって活字化された部分というのは、この旅の特徴的なほんの一部分のエピソード、すなわち「点」の描写なのであり、活字化されない6500キロという「線」そのものが、地味でありかつ艱難辛苦のオンパレードであることは間違いないからだ。

 描写はむしろ淡々としている。ハリウッド映画のようなスペクタクルを期待すると、肩透かしを食う。だが、これは想像でしかないが(当たり前だ!)、実際に体験した人だからこそ、こう淡々となるのではないかと思う。むしろ、フィクションで書こうとするほうが、つい過剰な演出をしてしまうのではないか。ノンフィクションの探検行を読むと、実際にその身におこる数々の異常さとは別に、当人の事件を描く描写そのものや心情の筆致は、比較的あっさりしていることが多く、案外そういうものなのかもしれない(そもそも小説家としての手腕を持っているわけではないのだし)。

 目次を見ればある程度内容が見抜けるので、その程度のネタバレで書くと、脱出行を行ったのは7人。後にあと1人合流して8人。ただし、最終的にインドに到達して無事に生還したのは著者を含め4人である。生存率50%であり、試練と悲劇の連続である。特にあともう一歩というところでの最後の犠牲者は無念極まりない。
 だが、4人はインドに到達した。不謹慎な言い方ではあるが「上出来」ではあろう。この成功は、やはり解説で椎名誠が指摘しているように、全員が有能に機能してきたから、というのがあるだろう。7人の侍よろしく、それぞれが自分の有利なところを活かし、知恵と知識を持ち寄り、全体最適のために発揮していった。もちろん超人的な体力と不屈の精神があることは言うまでもない。
 それからもう一つ、強調しなければならないのは、このような暴挙に出たくなるほど、スターリン体制下の恐怖があったということだ。「脱出期」の前半は、彼がスパイ容疑でとらわれ、容赦ない拷問を受け、でっちあけ裁判で25年の強制労働の刑を宣告され、延々とすし詰めの貨物列車でシベリアに運ばれ、強制労働に借り出される。本書の日本での刊行が遅れに遅れたのは、ここらへんの描写が政治的に厄介だったから、という説もあるが、とにかくそこから逃れられるのだったら、ゴビ砂漠の縦断もヒマラヤ山脈の踏破も辞さないということである。

 本書がノンフィクション足るところは結末だ。ある意味「脱出」は成功したもの、彼は、ついに祖国ポーランドに戻ることはできなかった。戦中はナチスドイツが、戦後はロシアが蹂躙してしまったからだ。脱出の仲間たちは英軍キャンプで別れて以降、二度と再会していない。
 この壮大なストーリーが、切なくてあまりにミニマムな1行に収斂されて最後に終わるところに、著者ラウイッツが、この脱出行を成功体験でも英雄譚でもなんでもない、苦行の記憶でしかないことを見た。


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世界最悪の旅

2009年10月30日 | 旅行・紀行・探検
世界最悪の旅

著:アプスレイ チェリー・ガラード 訳:戸井十月

 スコット南極探検隊の非業の結末までを、生還した隊員が記述・考察している。
 あれ? スコット隊って全滅したんじゃなかったっけ? と思っていたが、全滅したのは極点到達隊であり、極点到達の手前で引き返した分隊がいくつかあったらしい。著者はこの引き返した部隊のほうに属していた。だから、スコット率いる極点到達隊と分かれてから後は、著者は直接にはその実態を知らない。ただ、よく知られるようにスコット隊は日記を克明に記録している。
 後にスコット隊の遺体が発見されたときに、日記もすべて回収された。スコット隊の命運の記述はこの日記に基づいている。

 さて、スコットといえばアムンゼン。この2人の南極点到達一番乗り競争はよく知られた話だ。一般的には、アムンゼンが犬ぞりを選んだのに対し、スコットは馬と雪上車に固執したのが明暗分かれた原因と信じられており、僕の理解もその域を出ていなかった。
 本書は、もちろんスコットのサイドに多分に寄って書かれたものではあるのだけれど、そう単純なものでもなかったらしい。もちろん、スコットが馬や雪上車(初期のものすごく壊れやすいもの)にこだわったのは確かだが、大事故の原因が、けっきょく偶然に積み重なった小さなエラーの累積であるように、馬や雪上車も、小さなエラーのひとつでしかない。異常な寒波というのも確かにあったかもしれない。4人ユニットというレギュレーションを、土壇場で5人にしてしまったというのもあるかもしれない。

 このへんはいわゆる「失敗学」の範疇になってくるが、あえて大きな理由をひとつつくるとすると、この大事業に踏み出すにあたって、先人の「小さな」成功を信じたことにある。
 その「小さな」成功とは、シャクルトンが1909年に南緯88度23分まで到達した南極探検行だ。このとき、シャクルトンはロス湾はロス島付近から上陸し、馬を機動のメインとし、南極点まであと150キロというところまで到達したが、食料不足に陥り、そこで引き返した。これは当時の最高到達地点だったから、スコットはこれと同じ上陸地点をとり、同じルートをたどり、同じ機動力を用い、ただし、食料を入念に準備したのだった。ここだけ見れば、順当な判断だったと言える。

 だが、結果論ではあるものの、このシャクルトンの先例が、スコットにとって他の選択肢を狭めてしまったというのは深読みし過ぎだろうか。
 このことをまったく知らなかったのだが、実は、シャクルトンの南極探検の前に、スコットはまさしくシャクルトンと一緒に南極点到達を試みているのだ。このときはなんと犬ぞりをメインにしており、そしてずいぶん手前で頓挫してしまった。これが彼に「犬ぞり」無用の経験知をつくってしまったのかもしれない。
 逆に言えば、アムンゼンの成功の原因が犬ぞり「だけ」ではなかったとも言える。犬ぞりは「必要条件」ではあっても「十分条件」ではなかった。

 アムンゼンの南極行きだが、まずアムンゼンは、スコットやシャクルトンとは違う地点から上陸した。当時、この地点から上陸して極点到達を試みた先例はなかった。結果的に、アムンゼンのこの選択は正しかったことになり、しかもその後の南極探検・開発史において、南極点到達の最も合理的ルートとして、その後長い間採用された。もちろんアムンゼンはあてずっぽうでそこに上陸したわけではない。念入りな調査と推理を行い、最も適した上陸ポイントとしてそこを選んだ。だが、どんなに推論を重ねてそこが最適な解答だと導き出せたとしても、前人未踏の行為であることには変わりなく、人間は「他人の体験」と「机上の計算」のどちらをどこまで信じることができるか、という問題を突きつけている。

 アムンゼン成功の理由はもちろんそれだけではない。しかし、スコットの場合、前例シャクルトンの影響が思考の幅を狭めたという想像はやはり難くない。

 日本での最悪山岳遭難事故として名高い八甲田山の雪中行軍事故(新田次郎の「八甲田山死の彷徨のモデルとなった事件」も、遭難した青森第五連隊は、たまたま足慣らしで前日に雪山に入ったときが、晴天で妙に陽気が良く、容易に歩が進んで、意外と簡単なんだ、という先入観をつくってしまったことが、装備の不備や、指揮系統をあいまいなまま放置させたこととなって現れた。

 が、人間というのは目先の小さな成功を過信しがちだ。その成功は、何の要素が足りていて、何の要素が無かったのか。、これを冷静に見極めるにはよほどの覚悟と熟練を要するのもまた確かだ。特に人から聞いた成功談は要注意だ。

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誰も国境を知らない -揺れ動いた「日本のかたち」をたどる旅

2008年11月04日 | 旅行・紀行・探検
誰も国境を知らない-揺れ動いた「日本のかたち」をたどる旅---西牟田靖

 本書の旅の性格は大きくわけると3つある。
 1つ目は、北方領土や竹島や尖閣諸島など、国境問題が解決していない地に上陸(あるいは接近)するルポで、北方領土へは、ロシアビザを使ってサハリンから。竹島は韓国側から韓国人に紛れて観光船で訪れる。尖閣諸島はどういう手段なら上陸できるかを模索することが主題である。
 2つ目は、沖ノ鳥島や硫黄島など、確固たる日本領土内でありながら、民間人の訪問が極めて困難な場所への訪島であり、前者は東京都知事の視察船に、後者は元島民のための遺骨収集の船に乗り合わせた(沖ノ鳥島は残念ながら上陸はせず、沖合いから見つめるだけ)。
 この2つだけでもう充分にすごい。というか、北方領土と竹島と尖閣諸島と沖ノ鳥島と硫黄島のすべてに行った人間というのは、国会議員や自衛隊員や海上保安庁員であっても1人いるかいないかではなかろうとかと思うのである。

 だが、上記2つまでならば、空前絶後ではあっても珍しい旅行記というインパクトに終始する。渡航先の稀有性が際立ちすぎてしまうからだろう。だが、本書の真髄は3つ目の特徴、父島、対馬、そして与那国島の取材にある。

 この3つの島は、上記2つに比べれば格段に訪れやすい。ビザも許可証もいらない。

 にもかかわらず、この3つの島は日本と海外の狭間に揺れ動いた歴史と文化を持つ。本書はそこに光をあてる。ほとんどの人が知らない、日本と隣の国の狭間に翻弄された歴史がそこにある。詳しくは本書を是非お読みいただきたいが、大多数の日本人にとって鈍感な「よその国と隣接してきたことの苦悩と希望」を描き出し、なかなか類のないノンフィクションとなっている。南洋や西洋に先祖の起源を持つ「欧米系」と呼ばれる島民の数奇な歴史や、韓国への門戸開放に活路を見出す対馬の話など、非常に興味深いが、与那国島についてちょっと触れてみる。

 与那国島は、ドラマ「Dr.コトー診療所」の舞台になったり、海底遺跡などで最近名が知られるようになったが、従来は「日本で一番西にある島」と社会の教科書で紹介されるだけの孤島だ(世界最大の蛾の生息地としてもその筋には知られる)。今年の春に僕は宿願かなってこの与那国島を訪れた。そのあまりの日本経済からの隔絶っぷりに唖然とした。

 現在の与那国島は石垣島経済圏に属するのだが、実際のところ与那国島にとって石垣島は遠すぎてしまい(飛行機は1日に1~2便。石垣島から「離島扱い」されるそうな)、普段の人々の生活はほとんど島内で完結しているそうである。島の人に言わせると、たまに石垣島に行くことは大きなイベントなのだそうだ。島内には中学校までしかないので、高校に進学した子供たちは、石垣島や沖縄本島で寄宿舎生活をする。
 逆に言えば、本土から夏のバカンスなどで石垣島に行く人も、近隣の武富島や西表島に足を伸ばすことはあっても(島巡りツアーが頻繁に出ている)、与那国島までは足を延ばさない。そもそも与那国島は、ほとんど砂浜もなく、多くは断崖絶壁で、ゴルフ場も大きなホテルもなく、要するにリゾート観光地化されていない。名の通った名物や名産があるわけでもない。(だから「海底遺跡」は与那国島にとって宝の発見に近かった)。物資は船で石垣や沖縄本島から運ばれてくるが、運送コストなどが嵩んでその価格は実に高い。

 平成の今日、日本有数のリゾートである沖縄・八重島諸島圏内からも完全に外れた感のある与那国島は、なぜこんな爪弾きみたいなことになっているのか僕は不思議だったのだが、本書を読んで実に納得した。要するに、与那国島は台湾経済圏だったのである。与那国島は石垣島よりも台湾本島のほうが近いわけで、人やモノの交流は台湾とがむしろ主流だった。
 つまりこれは幸か不幸か政治と経済の分離を示していたわけで、首里を拠点とした琉球王国が統治の手を拡げる際に背伸びするカタチでむりやり与那国島までハバを効かせてみたわけで、誤解を恐れずに言えば経済圏を基準としたならば与那国島と石垣島の間で国境がひかれていても不思議ではなかったくらいなのだ。

 だから、与那国島が一番栄えたのは、戦後の混乱の数年間、台湾との闇貿易が盛んだった頃で、沖縄本島どころか本土よりも活気溢れていたらしい。与那国島は、遊郭を含む繁華街までが形成され、山っ気のある人たちで溢れかえった。
 世の中が落ち着きを取り戻し、闇貿易の取り締まりが厳しくなると、与那国島の熱狂もまたなくなり、人々は与那国島を去った。繁華街も霧散した。

 僕も、かつてその盛り場があったとされる場所に行ってみた(というか本書を読んで、ああ、あそこがここだったのかと思い出したわけだけど)。兵どもが夢の跡。名残はまったくなく、道行く人もほとんどないまっすぐなすかんぴんとした道に、薄暗いよろず屋や、看板をあげているのかもよくわからない居酒屋が散見されるだけだった。

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父・宮脇俊三が愛したレールの響きを追って

2008年07月31日 | 旅行・紀行・探検

 父・宮脇俊三が愛したレールの響きを追って---宮脇灯子

 とにかくなんだか最近は「鉄道」が人気で、宮脇俊三氏が生存していた頃とはまたずいぶん様相が違う。一言で言うと、趣味の対象にされた「鉄道」の側でも、観光資源の自分に目覚めたというか、色気づいてきているのである。

 氏の生前の時代にも、鉄道マニアとか鉄道ファンとか呼ばれるヒトは存在していて、各地で出没していたけれど、鉄道自身のほうは、泰然と日常のインフラを務めていた。
 鉄道というのは、都市物流のひとつの手段であり、機関であって、徹頭徹尾その任務にのみ応えていた。SL列車を走らせたり、縁起のいい駅名の切符を販売するなど部分的な例外はあっても、全体としては日本の鉄道は機能一辺倒であり、黙して語らずのハードビジネスだった。北から南まで同じような外装内装の車両であり、特急列車の発車メロディも全国見渡して数種類程度であり、近くに温泉があろうが名山があろうが駅名はそっけなかった。
 この無骨な公共機関が、さまざまな日本の文化・風土・気候・地勢・歴史と接したところに湧き上がる風情に、宮脇俊三の関心の先はあった。だから多くの氏の旅行記は、いわゆる「乗ることそのものを目的としたような列車」の乗車記や「乗ることそのものを目的としたようなヒトとのふれあい」は短編の類を除けばほとんどないと言ってよい。

 が、最近は鉄道会社自身、あるいは旅行業者も趣味の対象としての鉄道に目覚め、まさに「乗ることそのものを目的としたような列車」や、「乗ることそのものを目的としたようなツアー」が続々登場した。景勝地で徐行運転する列車。雄大な景色を眺めるために設計された車両。一区間だけ鉄道に乗車するバスツアー。

 要はひとつの観光資源のあり方を発見したのである。それが肝心の鉄道の利用率ひいては収益の向上に役立つのであれば、新しいビジネスモデルの発見といってよいが、この動きはこの10年間で特に顕著になった。

 で、亡き宮脇俊三氏の長女である灯子氏による父と父の著作をしのびながらの旅行記が本書であるが、こういった「観光資源であることに自ら目覚めた鉄道」の旅行記が多いことに隔世を感じたのであった。ぬれ煎餅の銚子電鉄、流氷を眺めるための列車と展望台の駅を持つ釧網本線、徹底的に乗車中の滞在を楽しむよう工夫された肥薩線、「名物化」された餘部鉄橋。

 父・宮脇俊三氏の頃には「無骨」だった鉄道が、娘・宮脇灯子氏の頃にはなんだか「色気」が出て、ますます老若男女の鉄道ファンを引き寄せているのだなあと思った。


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「最長片道切符の旅」取材ノート

2008年05月09日 | 旅行・紀行・探検

「最長片道切符の旅」取材ノート---宮脇俊三---ノンフィクション

 果たして誰が買うんだろうか、とも思うが、勝算があるからこそ新潮社も出版したのだろうな。

 僕が、初めて「最長片道切符の旅」を読んでみたのは、小学5年か6年生の頃だったと思う。既に何冊か彼の本は読んでいて、文芸春秋から出た「時刻表おくのほそみち」なんかは編集者との掛け合いなんかも楽しくてかなり気にいっていたのだが、一方で「最長片道切符の旅」はさすがに長大で、しかも一人旅という渋いところもあり、一回目は途中で挫折してしまった。始めて完読したのは中学生になってからだったと思う。
 それからは彼の他の本と同じく、この「最長片道切符の旅」も何度か読み返していて、去年も一度読んでいる。だから、たいていの文章やシーンは、正確とまではいかなくても、なんとなく思い出すことができる。

 で、何が言いたいかというと、それくらい宮脇俊三氏の著作、ならびに「最長片道切符の旅」を読み込んだ人でなければ、この「『最長片道切符の旅』取材ノート」は面白くないだろうな、ということである。だって、これは「最長片道切符の旅」を執筆するために旅行中にひたすら綴っていたメモ書きの集大成なのである。

 つまり「取材ノート」には記録されていて、本編には採用されなかったエピソード、あるいは本編に用いられたエピソードなどが知れたり、走り書きで冗長なメモ文が、本編では精錬されて一級の文章に変貌していることが対比できたりとか、個人的にはなるほど、へーそうか、と非常に面白かったわけだが、しかしどうにもマニアックであることは否めない。また、宮脇俊三氏自身が、自分が鉄道マニアであることを充分自認してながらも、世の中へのアウトプットとして、マニアとしての内輪受けに堕さないことに腐心しており(彼の文章に「同じ井戸の中の蛙同士で万歳三唱したってつまらない」といった文章があり、なんてうまいこというんだと感心した覚えがある)、しかも文章の仕上げにかなり神経を使っていた作家だけに、こういう本が出てしまうことは、決して本意ではなかったようにも、ちょっぴり思う。


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